「さぁついた。」
ケンスケがそう言ってクレイディトの研究所にある駐車場に車をとめた。
あまりこの時間にこの研究所に来ることはなかった。ワシが村の代表としてデータを直接持ってきたり、綾波の面会のために訪れるときは、それなりにこの駐車場も埋まっているのだが、職員用駐車場が別にあるとはいえ、必要性がなくなってきてるのかなんなのか、広すぎる駐車場に自分たちの車一台だけだった。コンクリートの灰色のせいで圧迫感があるのに、一人ぼっちにされたバンが少しかわいそうだった。
「お疲れ様です。第3村の鈴原です。赤木博士に用件があってまいりました。」
守衛さんが形式的な身体チェックをした後、中に入ると、待合室と言うか休憩所のような場所に赤木博士が白衣を着て現れた。
ここに来る前に事前に連絡を入れていた。メールを送ったのだが、すぐに返信があって、式波の事をかいつまんで話した。
赤木博士は、最後の決戦で親友を失った後、残務処理や非コア化復興のための活動をしつつ、この研究所にとどまって、第3村の管理や、これまで関わってきた子供たちのケアをするという立場になった。これまでの縁が途切れることなく、今もワシは博士にデータを持ってきたり、必要性の出た復興等のプロジェクトにかかわらせてもらったりしている。
「すいません。博士。こんな時間に。」
「気にしなくていいわ。それほど忙しくもないし。」
淡々と話すが、この人が優しい性格だということがわかるまで、わりと警戒していた。ミサトさんとは違ってほとんど話したこともなかったし、重要な役職の真面目な科学者という印象が強かったからだ。ミサトさんが帰らぬ人になって、話を今まで以上にするようになって、ワシはこの人に信頼を置くようになった。きっとこの人は多くの修羅場をミサトさんとともにくぐってきて、立派に戦って帰ってきた。それだけでも尊敬すべきことだが、今でも第3村や子供たちの面倒を見てくれていることにとても感謝している。
「たまには若い恋人同士のトラブルを聞くのも楽しいわ」
たまにきつい。
ケンスケが苦笑しながら、一応何が起こったのか話し始めた時、後ろから声をかけられた。
「鈴原君」
声がする方を見ると、入院着にカーディガンを羽織った女性が壁の向こうから顔をのぞかせていた。
綾波レイだ。
首回りが涼しそうだが、空調管理が万全の研究所内ではこのくらいでちょうどよいのかもしれない。
式波の事はケンスケに説明を任せて、ワシは綾波と話をすることにした。
「順調なんか?」
「えぇ。安定期はまだだけど、順調にいったら、あと7カ月ね。今日も赤木博士の診察があって、体も順調って言われたわ。」
「それはなによりや。」
「エコー写真持ってるの。見る?」
「見る見る見る見る」
見せてもらったエコー写真には、黒い袋と赤ちゃんの姿がはっきりとうつっていた。初めて見る人には赤ちゃんの形とはわからないだろうが、確実にここに命が宿っている。赤ちゃんの心拍を確認できるようになる時期だ。もうしばらくすれば、動いている姿が見られるようになる。
「あかん。もう泣きそうや。」
半ば本気でそう言ったら、フフッと嬉しそうに綾波が笑った。
ベンチで並んで話をしながら、綾波の体を自然とみてしまう。少しやせすぎではないだろうか。もともと大人になってからの綾波は、中学の時以上に細くなった印象がある。健康的に問題があるんじゃないだろうか。出産まで本当に順調にいけるのだろうか。まだ安定期ではない、ということが不安に拍車をかけている。
中学の時に理想の女性像について男子の中でもりあがることがある。美人、かわいい、スタイルがいい、自分にぞっこん、ツンデレ等々、世界中のどこの男子を持ってきても、同じ14歳ならすべての垣根を越えて親友になれるものだ。自分も、男のあとをついてきてうまい飯を作ってくれる女、とかなんとか言っていた気がする。
大人になれば現実を知り、何かの縁で知り合った現実の女性と愛をはぐくむ。元々の理想とかけ離れた女性と手をとっていたりする。自分と言えば、理想に近い女性と、理想以上の生活をさせてもらっている。最初は、ヒカリが理想の女性と気づいてもいなかったわけだが。
結局のところ、男子も女子も、最終的にひっつくかどうかは縁で、最終的に必要な物は、単純なものだったりする。
愛情と健康。これに尽きる。
今の綾波からは、中学の時とは想像がしがたいが、今は自身から発せられる愛情のが見受けられて、自分自身もうれしい気持ちになる。健康はどうなのだろう。村にいる人たちと違い、綾波の体のことを本当に把握しているのは、赤木博士くらいのものではないのか。
少しぼうっと彼女の体全体を見ていたが、うっすらと笑顔を浮かべてこちらの反応を待っている綾波の表情に気づいて、あわてて話し始めた。
「何度見ても不思議やなぁ。14年ぶりにおうたんが綾波やのうてそっくりさんで、ことが終わって帰ってきたらそっくりさんとそっくりの綾波で、みんな14年ぶりなのに若いまんまかと思ったら大きくなってて、それでもわいらほどには年をとってないっちゅうのは、やっぱ不思議やでぇ。」
「鈴原君、会うたびに同じこと言ってるね。」
バカにしてる風でもなく、目を細めて幸せそうに綾波が言った。確かに何度も言っているが、そのことをニコニコと聞いてくれる綾波にも驚いた。ましてや中学生の時の記憶では、こんな笑い方を見たこともなかった。
「いやほんまに。何度見てもピンとこうへんわぁ。しかもそっくりさんと別人かって思ったら、ツバメのこと覚えてたやろ?」
「うん。また会えて嬉しかった。」
近くのベンチに座って話をすることにしたが、優しい笑顔をするようになった綾波から目を離せなかった。
ネオンジェネシスという大きな変化が起きてからしばらくして、クレイディトを通じてうちの家族に綾波が会いたがっていると通達があった。いかつい男二人に連れられて、大きな黒塗りのバンに乗って、綾波が村にやってきた。全ての戦いにケリがついたはずなのに、警護だか監視だかの目があるのを見て、気の毒に思った。
家の前の広い場所で、家族3人で待っていた。
綾波は背も大きくなり、髪も長くて大人の雰囲気があった。シンジや式波と同じように、成長したということだったが、中学の時よりもさらに細くなっているようにも見えた。白色のワンピースにカーディガンを羽織っていたけど、色が薄いせいで余計に薄命に見えた。
前に会ったそっくりさんとは体の大きさなどが少し違うから、別の人だと認識出来た。複雑な事情があるようだったし、そっくりさんはもういないから、あまり話題にも出さない方が良いのだと思っていた。
綾波は中学の時と同じように、赤い目と薄い表情のまままっすぐこちらを見ていた。自分とヒカリがいて、ヒカリがツバメを抱っこしていた。
だが、ツバメが綾波の方を見ると、突然火がついたように泣き出して、手を綾波の方に向けた。体を伸ばして抱っこから落ちそうになった。話をする間もなく綾波が駆け寄ってきて、両手を突き出してツバメを抱きしめた。ツバメが綾波の肩付近を一生懸命につかんでいた。
それから綾波は、目から大粒の涙を流して笑った。
「かわいいねぇ。」
ほおずりしてツバメに会えたことを喜んでくれた。
その時に、そっくりさんと彼女は同じ人なんだと唐突に理解した。細かいことはわからないままだったが、そう思わないと、消えてしまったあの少女にも悪いような、不思議な感覚があった。
感謝の気持ちがあふれ出して、自分も泣くのをこらえることができなかった。感謝の気持ちは、そっくりさんに向けてなのか、目の前の、戦い続けたあと娘に涙を流してくれる女性に向けてなのか、わからなかった。
「ツバメちゃん元気?」
「あぁもうおかげさんで。よう喋るようになったしなぁ」
「ほんとに?かわいいねぇ。また会いたいなぁ。」
「いつでも来てや。あいつも喜ぶからな」
「ありがとう」
本当に会うたびに表情が増えている気がする。
「最近仕事が終わってから本を読んだり、映画をよく見るの。」
何度か面会をして、ある時に楽しそうに話していた。
生き残ったヴィレクルーは、世界が変化した後も似たような職場へ異動した者も多いが、全く違う分野に進んだ者もいる。戦略自衛隊にいったやつもいれば、民間企業に入ったものもいる。地元の畑を耕したいと言ったやつもいた。シンジをはじめエヴァパイロットは、14歳の少年少女だった人たちは、多くの使命や運命や希望を背負って戦っていた。戦いがなくなって、乗らなければいけないエヴァンゲリオンが無くなった新しい世界で生きていくため、居場所を探して今も懸命に生きている。
綾波は、赤木博士をはじめとした人たちに今も支えられながら、人としての生を模索しているのか、施設でまわしてもらった仕事を生きがいにしつつ、本や映画から人の心を知ろうとしているように見える。知るだけじゃなく、それを血肉として生きていこうとしているのかもしれない。人と積極的にかかわろうとして、昔と比べて本当に感情が豊かになった。
昔と比べすぎるのも良くないのかもしれない。
体の細胞変化というのは常に起こっている。今見ている綾波は、明日には別人になっている
のだ。ツバメを見てそのことを実感することが増えた。
諸行無常
今今と今という間に今ぞ無く 今という間に今ぞ過ぎ行く
道歌、というのだったか。
「やっぱりすごい変化や思うで。」
「ツバメちゃん?」
「いや綾波」
「そう?」
「うん。お母さんの顔になってきたで。」
一瞬驚いた表情になったが、青白いといってもいいほどの頬が少し赤くなって、また笑った。ヒカリと姿が重なった気がした。
「ありがとう。」
ワシが笑いながら顔を正面に戻すと、赤木博士がこちらを微笑んで見ているのがわかった。これまで見たことがある表情とは違う、こちらも母親のような優しい笑顔だったので、意外だった。
「はい。もういいわよ。」
基本的な心音や、呼吸、脈拍等を確認する診察を終えて、この時だけ使う聴診器を首に巻き、私はそう言った。レイは病院内できる服の前のボタンをとめる。
「順調ね。血液検査等にも異常は見られない。」
「ありがとうございます。」
ボタンをとめながらレイがそう言う。
研究所といいながら、ありとあらゆる症例にも対応できるように出来ているこの場所はやはりかなり特殊な場所だ。街の人がたくさん入ってくるわけではないわけだから、大きな待合室や、システマティックな採血室が必要ないとはいえ、敷地面積だけで言えば町の中心部にある大病院以上の大きさがある。移動に電動のカートを利用したりもする。スタッフは最小限だから、必要があって人を呼ばない限り、広い世界に自分と患者として座る彼女の二人しかいないのではないかと錯覚するほどだ。
レイの妊娠が分かった時に、その特殊な肉体構造を考慮して、二人はこの研究所に住まいを移すことになった。異常があった場合に即座に対応できるようにしていたのだが、それだけでは足りない。新しい命が無事生まれるように配慮しなければならなかった。二人の特殊な身体構造を研究材料にしようという人物が、今の新しくなった時代にも表れないとも限らない。多くの新しい身分を設定してそれをもとに生活させたとしても、やはり極秘裏にすべきことはまだ残されていた。
今日の診察は定期的な物だった。エコー写真に新しい命の存在が影としてううっすらと見えた時に、これまで仕事で感じていたあらゆる感情とは別のものが、親代わりとは言え当事者でもない自分に生まれるとは思ってもみなかった。
今日の結果は、順調そのもの。
その事実を彼女に伝えると、優しい笑顔で感謝の意を返してきた。
彼女も随分と変わった。前はこのように柔らかい女性的な笑顔をする印象はなかった。十何年も前に取り込まれ消えてしまったと思われていたが、最後の戦いでシンジ君が下した決断と行動によって、今目の前にいる薄水色の髪をした少女が戻り、大人へと変わり、自分の人生を歩きだして居場所を見つけようとするようになるとは、全く想像だにしていなかった。
月日の流れでは片付けられない重要な変化が間違いなくもたらされたはずだ。だがまた以前と同じように、自分が彼女の体を確認し、監督するようにもなった。運命的なのか皮肉的なのか、縁というのか、よくわからない。とはいえ、喜ばしいことであるはずだ。女性が子供をみごもり、その経過が順調であることは。
自分自身で経験したことはないから、実感はわかないが。
「このまま順調にいけば、あと数週間でエコーにもはっきりと姿が見えるようになるわよ。」
「わぁ、楽しみです。」
やはり穏やかな笑顔で返す。跳ねるような声ではなく、彼女の特徴として静かな声の出し方だが、温かさが伝わる。街行く人が振り返るほど、ハッとする美しさを携えるようにもなった。パートナーも同じ特徴だから、二人が並んで歩くと、そこだけフィクションの世界から抜け出てきたかのような感覚になる。
目の前に座る女性をほほえましく見ながら、自分の中でなぜかそれとはまったく違う感情が少しずつ循環していく感覚を覚えていた。温度は低いが、毒性のある液体が、自分の中の無数に分布する毛細血管を確認するように循環していく感覚とでも言えば良いのか。動物が自分に危害を加えてくる相手を見つけた時の血が冷えていく感覚、と表現すべきだろうか。
目の前の、美しくはかなく、それでも暖かく人に安心感を与える笑顔で、お腹の子をいつくしんでいるのに、自分が抱える感情が全く場違いであることを確認しつつそれを抑えることができなかった。
なぜだろう。
自分が子供を産むという人生を選択しなかったからだろうか?
そんなことで制御できないほどの感情を抱えることになるの?
若いときに、古い理想の女性像を押し付ける男性は多くいた。自分自身も、同世代の女性の中で結婚できない最後の一人にはなりたくないと公言していたこともある。ミサトや加持君と同級生の結婚式に出た時に、自分にもそういった未来が来ることを想像しなかったわけではない。
それでも時代も変わり、多様性について寛容になると同時に、古い理念に対しての過剰なアンチテーゼが生まれて不要な争いが増えた時期がある。そんな時にも自分は、そうした論争自体をくだらないと相手にしなかった時期がある。
「どうかしましたか?」
レイにうながされ、はっとした。しばらくぼうっとしていたらしい。
「いえ、なんでもないわ。ちょっと疲れているのかも」
「大丈夫ですか?」
自分が監督すべき立場にもかかわらず、身重の女性に気をつかわれてしまった。大丈夫と笑顔を返しつつ、全く別の感情がまたうごめくのを感じた。矛盾した気持ちを抱えている。その正体をわからないでいた。
前世でこの子に恨みを抱えていたのではないか、と荒唐無稽な考えをもってしまう。
「どういう気持ち?」
「え?」
「お腹に命がやどる、っていうのはどういう気持ちになるの?」
私の突然の質問に、レイが固まった。質問のしかたが冷たいことから、いつもとは違う雰囲気を感じているのかもしれない。
「私は、子供を今後生むことはもうないと思うの。」
そういうと、レイの温かい笑顔は徐々にひいていった。質問の意図を探ろうとしているのか、私が自分でもわからない不満と感じている理由を探ろうとしているのかもしれない。昔見た、一見すると冷たいという印象を与える表情に、だんだんと近くなっている。視線はまっすぐにし、いかなる評価も批判も自分は興味がないと思っているのではないか、と想像させる表情だ。それが余計に自分の心をざわつかせた。毒性のある液体は体中を回り、アレルギー反応を起こして炎症を生んでいた。体温が上がっていると実感した。
「あなたの監督者として、あなた方の特殊な身体構造を一番理解している者として、参考に聞いておきたいと思っただけよ。」
そこまで言ったところで、黙った。ここが外なら普通の人は、知性的な人物に対して緊張して何かを慌てて答えるか答えようと慌てるところだろうが、レイは黙っていたままだった。
冷たく皮肉った言い方をしてしまった。ミサトなら、物おじせず言い返してくれるか、自分の心の変化を感じ取って何か言ってくれたかもしれない。そんなことを思ったりもした。
レイは以前の冷たい表情になってから、何も話さない。
「ごめんなさい。やはり私が疲れているのかもね。今日はここまでにしましょう。」
レイに向き合っていた体を横に向け、モニターをチェックして見せる。チェックする項目などない。先ほど全部見て全て理解したのだから。マウスを動かしてポインターを目で追いかけるふりをして、ただ自分の中のむなしさと申し訳なさを表に出さないようにしていただけだ。
レイが口を開いた。
「わからないんです。何か心の中に新しい感情が生まれている気もするんですが、それを説明することができなくて」
「そう。」
顔も戻さず、そっけなくそういう。自分で質問をしておいて。
せわしなくポインタと視線を動かしているが、何も見れなくなっていた。良いころ合いを見て、話を終わらせて一人にならなければならない。彼女は今重要な時期に入っていて、ストレスが母体だけでなく胎児に悪影響を与えるかもしれない時期に、自分のつまらない感情で皮肉った冷たい質問をしてしまった。
私は、大バカ者だ。
「わたしは」
「なに」
もうこれ以上何も話さないでほしい。許してほしい。そう思いながらマウスを持つ手に力が入った。
「赤木博士に見てもらえて幸せです。」
ポインタが止まり、視線がとまった。少し間をおいて、もう一度レイの方をみた。
レイは同じようにまっすぐこちらを見ていた。美しい髪はこの前切って肩ぐらいだが、赤ちゃんへ栄養を与えているためなのか、髪質が悪くなっていた。体重も減っていた。目の力は以前のままだった。
「どうして?」
「私たちのことを一番理解してくれて、助けるためにそばにいてくれています。」
「それがミサトの遺言だからよ。貴方たちのことは好きだけど、あまりありがたがらないで。
恥ずかしいわ。」
軽口で返して場をおさめるつもりだったが、レイは表情を変えずこちらを見据えている。
「優しいです」
返事をした方が自然だったが、笑顔を張り付けたまま何も言うことができなかった。
あなたになにがわかるの
「ごめんなさい。まだどういう風に伝えたらいいかわからなくて。でも感謝しています。」
きっとこの子は本当に優しい子なのだ。ただ感情を知らない時期があり、今はそれを少しずつ覚えていって生きている。自分のためでもあり、出会う人のために。それはとても優しい心だと思う。
私とは違う。
「昔碇君と出撃した作戦。覚えていますか。陽電子砲で、彼が射撃手で、私が守りに入った。」
「えぇ。本当にあったのかと思ってしまうほど、時代が変わったわね。」
「あの作戦で私気絶をしてしまって、碇君がエントリープラグのハッチを開けてくれたんです。私が目を覚ましたら、彼が泣いて嬉しがってくれて。」
「記録を読んだわ」
「私彼を見て心の中に温かい感情が湧いたのに、どんな顔すればいいかわからなくって、そういったんです。そうしたら碇君、涙をとめてからこういったんです。笑えば良いと思うよ、って。」
「そう。」
よく話すようになった、と冷めた気持ちで聞いていた。何を伝えようとしているまだわからないが、彼女自身のためにも、口数は多い方がよいだろう。
「その後、何度か碇君と握手をすることがあって、記憶がおぼろげなところもあるけど、彼と手を触れる機会が何回かあって、感情や、喜びや安心を、少しずつ教わっていったんです。」
私は黙っていた。何を言わんとしているのか、まだつかめなかった。自分を非難することを探しているわけではなかった。いっそのことそれでも良い気もした。
「ツバメちゃんを、鈴原君のお子さんを抱っこさせてもらった記憶もあって、そして今私のお腹に赤ちゃんがいる。」
傍目にはまだ腹部が大きくなったと感じるほどではないが、体の変化に気づく当人は母性と言うものをこの時期に芽生えさせているのだろうか。
レイは続けた。
「手でお腹をさすると、まだ直接じゃないけど、あの時の握手や抱っこと同じ気持ちになるんです。早く姿を見て、抱っこしてあげたいと思っています。」
一生懸命、心境の変化を伝えようとしてくれていた。やはり、優しい子だ。精神的に乱れることなく、健康を保っている。
「そうなの。きっとお母さんになる準備ができてきているのね。良い傾向だと思うわ。」
ようやくいつもの調子が戻りそうな気がして、笑顔で返した。科学者として、医者として、親代わりとして彼女のサポートをしなければならない。個人的に感じた感情は、何か原因があったかもしれないが、喜ばしい彼女に意味も分からずぶつけるのは不適切だ。きっと疲れているだけだろう。
やっと落ち着きを取り戻しつつあった。
「赤木博士」
「なに?」
「ハグ、してくれますか」
言われたことが、一瞬理解できなかった。それから、レイがした突然の提案に動揺した。彼女のことを嫌っているわけでもないのに、なぜかとても動揺していた。すぐに返事ができず、ほんの少しだけ口を開けたまま固まっていた。
もしかしたら、彼女も妊婦特有の精神の不安定さを感じているのかもしれない。
そう思って、自分の感情をまた隠し、平静を装って、医者としてしっかりと対応しようと考えた。
「いいわよ」
机に手をついて椅子から立ち上がった。座ったままではお腹に負荷をかけてしまうと言ったが、本当は自分が深呼吸するのを悟られないためだ。
レイは最小の動きで立ち上がっていた。真面目な顔でまっすぐこちらを見つめてくる。
脈拍が上がっていた。
軽くせき込みをしてから、
「はいどうぞ。」
と両手を前に出して準備をした。レイは音もなく近づいて、私の両腕の下から自分の両腕を通し、優しく抱いた。
体重が軽いからか、迫力がなく、花弁が落ちる姿を連想させた。
息が荒くなりそうなのを、必死で抑えていた。心臓の鼓動が上がっていることを自覚していた。一回り背の低いレイの頭が、私の胸に耳を当てている。心臓の鼓動は隠しようがないほど密着しているのに、それでもまだ悟られるくらいなら止まってしまえばいいのにと思っていた。
レイの頭のにおいがした。昔は彼女に薬品のにおいを連想させていたことを思い出した。彼女の境遇と自分の立場を考えれば、それも致し方ないことだったかもしれない。今は安心感をあたえるような、不思議な感覚になる。頭皮の匂いなのだから、人体の油やシャンプーがにおいのもとになる はずなのに、なぜだろう、とても幸せな気持ちになっていた。
幸せな気持ちと同時に、急速に悲しみが襲ってきた。寂しさなのかもしれない。体の内側から重要な柱を子供が揺さぶっているような、さみしさだった。自分の存在を知ってほしいと言葉を発せない子供が柱を揺さぶっている。
このまま動揺していると、まともに対応できなくなる。体を離さないといけないと考えた。
「は、はい。これで落ち着いた?」
レイの両肩を持って距離をとった。
「妊娠時期には心の高ぶりがあるようだから、カウンセラーを付けた方が良いかもしれないわね。」
言葉の最後のほうで、ほんの少しだけ言葉が上ずった。自分の心を乱すものの正体がわからなかったが、レイに体を抱かれると、どういうわけかいつもの冷静な自分でなくなってしまっていた。
顔だけまたPCのモニターを見てごまかしていた。もう限界だ。自分は何か心の琴線に異常があるのかもしれない。彼女の前でさらけだすのではなく、あとで対策を考えないと・・・
そこまで考えて視線だけをレイの方に戻すと、レイは音もなく一歩だけ近づいて、もう一度私の背中に両腕を回していた。
レイが私のことを抱いていた。
彼女は何も言わなかった。
ただ私の胸に耳を当てていた。
驚いたのに言葉を発することができなかった。私の手は抵抗するように一瞬レイの肩に置かれたが、力の弱い彼女すら押し返せないと悟って、そのまま彼女の背中側に回した。
レイが着ている服は院内着で薄く、今日は診察と言うことでブラジャーもつけていなかった。自分の胸の下あたりに彼女の乳房を感じ、私のまわした腕は彼女の細い肩と腰を感じていた。頭のにおいが自分の鼻を通る。自分の背中に回してくれている手が、優しく背中を包んでくれていた。心臓の音が聞こえるが、それが自分の物か彼女の物かもわからなくなっていた。
不謹慎かもしれないが、私はレイの裸体を連想していた。薄い院内着の内側にある彼女の裸体を、頭から離すことができなかった。何度か昔に見たことがあるはずなのに、今自分の頭の中にいる彼女は、全く別の、温かい血の通った温度のある裸体だった。以前みた彼女は、もちろん同じように体温があったはずだが、実験材料を見るときのように、血液や体温を連想してはいなかった。
私を抱いてくれている彼女は、温かく、柔らかく、美しかった。
思わず落涙していた。眼鏡と頬に落ちる自分の涙が温かった。自分が何を求めているのか、わかったような気がした。
先に私の胸に耳をあてていたレイは、私の中心にあった何かの答えを聞いたのだろうか。
一度鼻をすすって、レイの頭を手で抱いて言った。
「レイ」
「はい」
「ありがとう」
自分の人生を歩いていくうえで、自分は他の人より秀でているという自覚があった。自分の力を理解し、何をすべきか理解していた。自分より弱い存在を気に掛けることもあったが、頼りにすべきは自分だといつも思っていた。そのうちに自分自身の声には耳を傾けなくなり、孤独を感じるようになった気がする。
弱くなったのかもしれない。それでも自分より弱い存在のために強く生き、死んでいった人を見てきたことで、自分自身が何を今求めているのか、頭で理解しようとはせず、ただ心の中に留めてきたのだと思う。世界が変わり、自分が何を求めてよいのか、どうあるべきかを考えた時に、自分の本当の希望が、自分の中心にある柱を揺らし続けていたことを、レイに見抜かれたのかもしれない。そして枯れかけた麦畑のような私の心に、音もなく、少しも汚すこともなく、強い風を吹かせた。畑の真ん中で折れかかった案山子が、涙を流していた。そんな想像をした。
久しぶりに彼女に連絡を取ってみようと思う。弱くなった自分に幻滅しないでほしい。もしそれでお互いの距離が近づかなくても、私は私の気持ちに耳を傾けて生きていこうと思う。
新しい世界で、私には彼女が必要だ。
そっくりさんが、本人じゃないけど、ツバメに再会する、っていうシーンが見たかった、がかなり強い原動力でした。トウジが、狂言回しというか、語り部っぽいスタンスに。あとは薄い本関連。あと、リツコさんとマヤさん。どうしてか、そうしたかった。そんな思い出。