あたしが廊下で待ってると、バカシンジが素直に外に出てきた。玄関扉が閉まる。中の二人はリビングにいるのを確認した。
さて。
バカシンジは、うろたえるでもなく、ただ黙ってあたしが話し出すのを待っている。
なんかそれも面白くない。でもここまできて、あたしも子供みたいにモジモジしてもいられない。とにかく何か話し始めなければ。
「ケンケンが浮気したのよ」
「う。えぇっ!」
シンジが驚いた表情がようやく見れた。
「ひどいでしょ!?相手は村の若い女よ。仕事の合間に、あたしがいないうちに、あの家におんな連れ込んでたのよ」
驚いた表情のまま固まってるシンジを見て、あたしはわざとらしくシンジに向き合って話をつづけた。
「だからあたし泣きながらあの村飛び出したの。走ってバス停まで行って、バスに乗ってから、電車乗り継いで、気が付いたらここの駅についてたのよ。涙をぬぐって、あんたとコネメガネを待ったの。助けてほしくて。だってそうでしょ?あたしほかに頼る人いなくて、あんただってもう大人なんだから助けてくれると思って、それで・・・・・・何その顔。」
バカシンジの顔を見ると、同じ姿勢のまま固まっていた。目だけ死んでる。
両指を組ませて胸の前でブンブンするのがわざとらしすぎたか。
「うそでしょ。」
「チッ。」
「そういういうこと言っちゃダメだよ。」
「うるさいな。つまんない反応すんじゃないわよ。」
「乗っかった方が良かった?」
「そんなことできるの。あんたが。」
「会社ではそういうことできると場が和むよ。」
「社畜リーマン。」
「ケンスケはいいやつだよね。」
「はっ?」
「トウジと一緒で、すごい大人で、立派だよね。村でみんなのために仕事してさ。」
「そうね。あんたなんかより立派よね。言われなくても知ってるわよ。」
「何が不満だったの?」
「グッ。大人には大人の事情があんのよ。」
「僕だって大人だよ。」
「あんたおこちゃまよ。」
「アスカが知らないだけだよ。」
「コネメガネなら知ってるとでも言う気。」
「うん。」
「このっ、いばるんじゃないわよ。ケンケンだって、私の大人の魅力をいっぱい知ってるんだから!」
「のろけ?」
「違うわ!」
「何があったのさ」
「・・・・・・」
いざ、言われると、切り出せない。本音を言わないといけない。そうしないと村で生きていけない。両腕を組んで、何を話せば良いか考えていた。
気づくとシンジが目の前まで近づいていた。表情を見ると紫色の瞳がまっすぐこちらを見ていた。手を伸ばしたら触れる距離まで。
「いきなり距離詰めないでよ。」
腕も、気づくとあたしの方へ伸びていた。
「何があったか教えてよ。」
何かを言おうとしたんだけど、犬みたいにのどがなるだけで言葉にならなかった。
「アスカのためなら、なんでも言うこと聞くよ。」
真面目な顔して言った。
顔の中心が熱くなる感覚がした。
「できることなら。」
真面目な顔して言った。
顔の中心に皺が集まる感覚がした。
こいつは昔からこうだ。いつももう一歩足りない。
腹が立ったからこっちから一歩踏み出した。服がくっつくくらいの距離まで。
少し高くなったアホな顔が、少し後ろに下がってた。
「あんたほんとにあたしのいうことなんでも聞くの?」
「うん。」
表情も変えずにそういった。嘘をついてない。知ってた。
「じゃあさっ。」
ガタッ。
あたしとシンジは、閉まってる玄関ドアを見た。そのドアスコープも。
ガン!!
バタバタバタバタバタ
あたしが足刀でドアにケリを入れると、中にいた二人が慌ててリビングの方へ走っていくのが聞こえた。油断も隙もありゃしない。息を吸い込んでまた吐いて、気を取り直して言いかけたことを続けて話そうと思った。
「じゃあさ。」
シンジはドアの方を心配そうに見ている。ドアの向こうにいる女のことを気にしているようだった。あたしがしていることで、あの女がどう思うか、気にしてる。あたしは途端に、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
アスカのためなら、なんでも言うこと聞くよ。
落ち着いた声でそう言った。子供の時にはそういうことを言われると腹がたった。子供の気をひこうと適当な言葉。
でもシンジの存在が、心の奥底では正直なそういうところが、自分の大事な部分に入り込んでいた過去があって、それを否定することもないって、あの最後の戦いの時に、そして第3村で目を覚ました時に理解した。
あんたのそういうところ、ホントだいっきらい!
子供の時に、他の誰かによく言っていた気がする。ほんとは自分が一番嫌いなのに。
あたしはケンスケが嫌いなんだろうか。そんなことはないのに、そう言ってしまった。
あたしはシンジが好きなんだろうか。昔そうだったと言った。今はどうだろう。
上書き式。
大人になってもわかってないことが山ほどあった。
それでも、決めた。
あたしが腹を決めると、向き直したシンジは少しとまどった表情になった。
「ちょっと静かにしてて。」
それだけ言うとあたしは反転して、サクラの家のドアから廊下を歩いて、自分たちが乗ってきたエレベーターを正面から確認した。右を向きなおしてちょっと歩くと、すぐ先にある階段ホールを確認した。1階までつながっている、作りが大きな階段ホール。
戻ってエレベーターを確認すると、エレベーターの籠は7階で止まっていて、誰も利用していない。
シンジの方を見た。心配そうに見ているその顔を通り越して、その先、廊下の突き当りの方を見ると、また別の階段ホールが見えた。あたしはエレベーターの開放ボタンを押して、籠の中にある1階のスイッチを押すと、乗らずにシンジの方へ歩き出した。
「こっちきて。」
「え、なに。」
シンジの手をつかむと同時に、玄関ドアのノブをちょっとだけ触った。それからシンジの手を引いて、その先の階段ホールに向かって歩いた。ちょっとだけ歩いて、だんだんと小走りに、スピードを上げていった。
階段を下がる頃には、自分の心臓が大きく高鳴っていることを自覚した。
「ちょっとサクラちゃんどう思う?聞いた?」
「聞きました。」
「なんでも言うこと聞くよ、だって。聞いた?」
「聞きました。」
「どう思う?」
「いやちょっと問題ですよね。」
「そうでしょ!?」
「しかも彼女の前で、ですよ。」
「そうでしょ?!」
「いくら気持ちがまだあるからって、ひどいですよね。」
「そうで!・・・えっ?」
「えっ?」
「・・・気持ちまだあるのかな?」
「・・・いや、ないんじゃないですか。」
「えっ」
「えっ」
「どういうこと?」
「いやぁ・・・あの。」
「まだシンジ君は姫のこと好きだと思う?」
「いや、あの。想像ですけど。」
「でしょうね。」
「あくまで想像ですけど。」
「うん。」
「碇さんも、若い男はみんな昔の女が好きなんですよ。」
「うそん!」
「いや、そうですよ。若い男はみんな獣ですよ。」
「あのワンコ君が?」
「ワンコ君?」
「いやシンジ君が?」
「そうですよ、きっと。」
「やっぱりそうなのかな!?」
「そうですよ、結局。男はみんな獣です。」
「わたしどうしたら」
ガチャッ・・・
私とサクラちゃんは一度離れたドアの方を向いた。何か音がしたと思う。よく聞こえなかったけど。姫がケリを入れたから、一応紳士協定として離れておいた。へそまげてまた解決から遠ざかったらいけないと思ったからだ。一応ゲーム負けたし。
「なに?」
「なんでしょうね?」
ドアが開く様子はない。話はまだ終わってなかったようだけど、何か動きがあったんだろうか。
またドアを蹴られても嫌だな、と思ったけど、少しずつ忍び足でドアに近づいて、ドアスコープを覗き込んだ。誰もいない。二人もいない。
体中の血液が沸点までいった気がした。扉を開ける。誰もいない。
廊下に出てエレベーターの方を見た。誰もいない。
慌ててパンプスを履いて、エレベーターの前まで行くと、ちょうど籠が5階にいるのを知らせるランプが点灯したところだった。
「はかられた!!」
ハアハアハアハアハア・・・
タンタンタンタンタン・・・
シンジを引っ張って、あたしは階段を駆け下りていた。1階につくのは、無人のエレベーターとそれほど差がないはずだ。コネメガネが、降りていくエレベーターを確認した後に、追いかけるため1階から戻ってくるそれを待ってくれれば、それが一番いい。時間差ができる。あたしたちは先に1階に降りているから、そのあと走って逃げるための時間が稼げる。
問題を瞬時に判断して目の前の階段を駆け下りてきたら、エントランスのある1階でかち合ってしまう。そうなりそうなら、姿を隠そう。エレベーターに人がいないことを確認したコネメガネは、あたしたちがエントランスから出たと判断して、気づかず道路に出るだろう。
だが、階段を下りて3階を過ぎて、2階に差し掛かったあたりで、嫌な予感がして急ブレーキをかけた。
「グフッ」
うしろを走っていたシンジがあたしの背中に激突して、胸をおさえる。
廊下から、反対サイドに設置された階段の方をのぞき込むと、地上から空に向かって伸びる階段外壁に設置された小窓に、一瞬だがコネメガネの姿が見えた。コネメガネはあたしの狙い通りこちらとは逆の、エレベーターに近い方の階段を選択したものの、思っていた以上に早く下の階へ降りてきているようだ。頭の回転の速さが腹立たしい。
シンジを連れていることで遅くなることは予想していたが、万が一コネメガネが選ぶ階段が自分たちの使っている階段だった場合に、降りるのをやめて廊下に逃げ込もうと考えながら様子を見ながら走っていたせいで、思った以上に差が縮まってしまった。
いや、それにしても早すぎる。
あたしはコネメガネが、目を吊り上げ、髪を振り乱し、パンプスを脱いで階段の最上段から最下段の踊り場まで飛び降りながら下ってくるイメージを想像した。ありうる話だ。
このまま1階に下りたらエントランスホールにつく前に鉢合わせてしまう。最初の狙いのとおりやり過ごすか。コネメガネの判断の早さと、行動力の機敏さが、思い起こされた。昔は味方だったから心強かったが、今は厄介極まりない。
やり過ごすしかない。でもどこかであのビーストに捕まるんじゃないか。
マンションからは出られない。
どうする。
上がってしまった息を整えようと荒い呼吸をして考え込んでいると、後ろにいたシンジが両手であたしの肩に乗せてきた。
「アスカ」
息を整えたシンジが、あたしを落ち着かせようと言葉をかけてきた。質問するわけでもなく、止めるでも咎めるでもなく。
どうしよう。
ダメだ。
やはり外には逃げられない。
捕まる。
シンジの手の中で肩をすぼめて内側で体を反転させて、頭を前にぶつける勢いで胸の中に飛び込んだ。
ゴン
後頭部を軽くぶつけたようだった。
「ア、アスカ」
「うるさい」
あたしの畳んだ腕と鼻先の前には、シンジの胸があった。大人が着るようなスーツの襟があって、その内側にビジネスシャツとネクタイがあって、大人のにおいがした。コットンと化学繊維と汗や体のにおいが。はじめてのことなのに、その中の一部は、昔、かいだことがある気がする。懐かしい香りが、懐かしい気持ちを思い起こさせた。
目の前で乱れるネクタイを持つと、乱れたワイシャツのボタンがよれて、中の下着も見えた。
視線をあげると、頬を赤らめて困った顔の男が、唇を少し開けてあたしを見ていた。昔は目の位置はあたしと同じ高さだった。髪は昔より多くなった。肩の幅だってあたしとそこまで違わなかったはずなのに。
ほんの少し憎らしくなって、つかんでいるネクタイを握る力が強くなった。
シンジの顔は少しおびえているようにも見えた。ネクタイが引っ張られ、首えりのスペースが広がると、のどぼとけの形が際立った。
両手を伸ばして、両掌の中にその首を包みたい衝動に駆られていた。
力を込めた時に、素直に絞め殺されてくれないだろうか。あたしの肩を抱いている両腕を抵抗もせず下げ、あたしにすべてをゆだねてはくれないだろうか。
あたしなら最後までしてあげる。先に逝くあなたを追いかけて、放ったりしない。
ネクタイを握る力にさらに強い力が入った。
「アスカ」
さっきから同じことしか言わない。唇の形もさっきから変わっていなかった。
「うるさい、いうこときけ。」
口惜しい気持ちが胸の中に広がった。シンジの唇の形が、自分の視界が潤むせいでゆがんでいくことを自覚したから、あたしは今つかんでいるネクタイを自分の方へ引き寄せた。顎を上げて、首を伸ばした。
今は何も見たくなかったから、両目は閉じた。暗い世界で何かを期待した。
「・・・・・・」
数秒たっても、何も変わらなかった。
目を開けると、シンジは顔をそらして目を閉じて、眉毛を上げたアホな表情のまま固まっていた。頬が赤くなっているように見えたが、顔の脇にはおかれた両掌が、こちらを向いていた。
「ヨクナイトオモイマス」
目を閉じてピヨピヨという唇の動きで片言の言葉を発した。よく見ると、後頭部を壁に押し付けているが、足までの体はアーチ状になっていて、あたしの体はシンジの胸から腹にかけて乗っている形になっていた。
ネクタイはピンと強く張られていた。
散歩から帰りたくない飼い犬を引っ張っているみたいだ。
誰が見てもアホっぽい
沸点を超えていた感情が、安定値になっていく気がした。
「むかし」
あたしの失望をおしとどめようとしたのか、このアホシンジが話し始めたので、アホな姿勢をそのままで聞いてやることにした。
「むかし同じような状況で、アスカをがっかりさせた気がして、もうアスカを傷つけたくないんだけど・・・」
いつのことだろう。
そんなことがあれば、確実に覚えているはずだけど。
でも、なかったこととも言いきれなくて、混乱した。
「あんたとキスしたことない」
「あれ?そうだっけ。ごめん、そうだったかな。」
「誰と間違えてんのよ」
「い、いや。そんな人いないよ。ただ勘違いしただけだよ。」
「どうだか」
ネクタイをつかむ手の力をゆるめると、シンジの姿勢は地面からまっすぐになった。乱れたネクタイとシャツが気になったので戻してやった。アホシンジはまたあたしの肩に手を優しく置いた。
拒絶されたことでシンジの体を突き放して逃げ出せばよかったのかもしれないけど、アホっぽいやり取りのせいで、自分が輪をかけてバカにうつる気がしてやめた。
スーツのラペルと呼ばれる横襟も整えると、一度抑え込んだ感情が湧いてくるのを感じた。
「あんたは」
「え?」
自分の声が少し上ずってしまったけど、何かを言わないと、子供のように思えたから、言うことにした。下がった目線を上げて、もう一度シンジの目を見た。目が合った。紫色。
「あの浜辺でしか、あたしを見て受け止めてくれなかったね」
また視界がゆがんだ。
こんな弱いことを言わなきゃいけないのかな。強くいたいのに、悔しいな。弱いことを武器にするなんて、格好悪いじゃない。
シンジの目をもう一度見ると、アホシンジの顔から真面目になってた。まっすぐこっちを見ていた。両肩においてあった手に力が入って、あたしの体が小さくなって、動けなくなった。
「アスカ」
さっきから同じことばかり言っている。
あたしの名前。
顔が近づいてきた。
今度こそと思って、もう一度目を閉じた。
・・・カッカッカッカッカッ!
ヒールが近づく音が聞こえた。蹄かもしれない。足音で怒りが伝わってくる。
サッと体を離してシンジとは逆方向を向いた。一瞬顔を拭いて、手をポケットに入れて呼吸をととのえた。視線を1階に通じる階段の踊り場に向けた瞬間、コネメガネが現れた。
エレベーターを確認して、エントランスは見たのだろう。そのまま道路に出てしまえばあたしの狙い通りだったが、第六感が働いたのか、外には出ず、あたしたちのいる階段ホールに気づいて確認しに来た。
階段を上がって体をこちらに向ける勢いが強くて、腕が若干外に広がっていたせいで、猛禽類が威嚇しているようにも見える。眼鏡が白く反射して目は見えない分、余計に興奮していることが伝わってくる。ビーストモードよろしくだ。補足された。
獲物の姿をテリトリーにとらえた獣が、足音を響かせ上ってくる。手すりを利用してるんだか、攻撃態勢の腕がたまたま手すりを持っているのかわからない姿勢で段々と近づいてきた。
カッ、カッ、カッ、カッ
シンジはあたしと離れた時と同じように、壁に背を付けていたけど、足音が並んでいくのと比例して気を付けの姿勢が強くなった。
コネメガネは顔を前に出し、背中を丸めて近づいてきた。腕に力が入って、荒く呼吸しているのがわかる。たぶん毛は逆立って、しっぽはピンと立っているんだろう。
一言もしゃべっていない。
「マ、マリさん。あのね。」
シンジはたぶん普段は「さん」付けしていないのだろうが、弁解しようと弱弱しい声を出している。
アホシンジ
コネメガネはシンジの前に正対して顔を睨みつけていたが、シンジが続けて話そうとするのにも構わず、レッドカード級ラフプレーをするサッカー選手の頭突き攻撃みたいに、シンジの胸におでこを近づけた。
ビクッとなって両掌を顔の間にしたシンジだが、コネメガネは頭突きではなく、鼻先をネクタイ付近に近づけて一瞬止まっていた。
匂いをかいでいたのだ。
やっぱり獣だな。
吊り上がった目でシンジの表情を確認すると、シンジはまた背筋をのばして顔だけ横に逃がした。
コネメガネはそれから首だけをこちらに一瞬で向けた。口に食いちぎった肉があってもおかしくない迫力だった。
無視してやろうかと思ったけど、横目でもばっちり目が合ってしまった。
何も言わず口の端で笑ってみせた。コネメガネの吊り上がった目がさらに大きくなる。
声にならないうなり声をあげながら再度シンジに向き直った。
「ナニモシテマセン」
両掌を前に出してピヨピヨと言ったシンジに向けて、コネメガネの右腕が振りかぶられた。
「なにか音がしたわね」
「え、ほんまでっか?どんな?」
「ビンタね。」
「そんなんわかります?」
「経験則よ。間違いないわ」
年の功だ。思ったが言わないことにした。
閉まるエレベーター扉を停めて、赤木博士が身を乗り出して廊下を覗き込んだ。
「こっちね。」
俺とケンスケは博士のあとにつづいてエレベーターから出た。
ケンスケはしばらく気の抜けた動きをしていた。彼女に会ってから何を話すべきか考えているんだろう。たくさんの困難に対しても力強く立ち向かっていたケンスケだが、色恋沙汰となると全くの無力のように見えた。武器がない、防具がない。戦意喪失にも見えた。
軍曹殿、兵站もなく、勝ち目がありません。
大人になって、世間の男だったら放っておかないほどの美人になった式波が、昔同様獣のような性格をしているから、正直これまでよくけんかもせずに一緒にいたなぁと思う。小さなけんかや、式波の不満が爆発していることはままあったが、大人の男女となると、絶対に引けない部分でお互いの存在が嫌になることは、絶対にあるんじゃないかと思う。
自分自身は子供のころ、女性にもちろん興味があったが、好きになった女性には誠実に考えなければならないと思っていたから、世間にあるような軟派な考えがあまり理解できず、女心の機微みたいなものを理解するのはあまり得意ではなかった。それどころではない時期にも、人によっては己の生命を確認するためなのか、恋人同士の関係が生まれたり、比例して痴話げんかやら横恋慕やらのいさかいが生まれて、その間に入ってとりもったこともある。それでも自分にとってはそういうことは、他人事というか、創作物というか、ドラマのような存在だと思っていた。
自分自身が大した経験もないまま、大人になって、気が付くといつも一緒にいた女性が妻になってくれていて、子供を授かって、気が付いたら幸せに包まれていた。
ヒカリから好意をもってもらっていることは早くに気づいた。自分自身もヒカリが好きだったが、今はそれどころじゃない、今はお前を幸せにできん、と彼女を待たせた時期があった。意を決してプロポーズをした。泣いて喜んでくれた。自分自身もうれしかった。
自分にとって出来すぎた奥さんだと思う。お堅い委員長とからかっていた女性は、誠実に自分に向き合ってくれ、支えてくれ、かけがいのない子供をさずかってくれて、最高の母親でいてくれている。
自分がこんなにも幸せで良いのかと何度も自問したことがある。
それでも夫婦喧嘩というものはあるし、お互い聖人君主でもないのだから、ちょっとしたいさかいはある。小さなことが積み重なって、相手の一挙手一投足が腹立たしい時期と言うのもある のだと思う。ヒカリにしてみれば、自分のような男に対して抱える不満と言うのはもっとあるんじゃないかと思うが、いつも優しく見守ってくれる奥さんには頭があがらない。
世の中の人たちは、それ相応に欲求や執着心を持っていると思う。自分にもそれはあるが、あまり相手にこうしてほしいと願うことが、他の人に比べて少ない気がしている。愛する妻について言えば、はっきり言うと不満という不満がうかばない。感謝ばかりしている。だから、自分みたいな人間に対しては、奥さんはもっと不満やしてほしいことがあるんじゃないかと不安になって、相手の希望を聞いたこともあるが、いつも笑顔で否定されてしまう。
「いつもありがとう、あなた。」
「気にしないで、頑張ってらっしゃい」
最近は子供の世話も大変だろうに、いつも優しく送り出してくれる。本当に、ありがたい存在だ。
だから、世の中の恋人がどういうことでモメるのか、どういうことを望んで、それが叶えられなくてけんかになるのか、ということがピンとこない。憎しみあっているわけでもない恋人同士がうまくいかない、というのも見たが、そういうこともあるんだと思うだけで、実感としてこうだと理解するのは得意ではない。
結局のところ、どちらかが折れなければならないときがあるし、どうしてもお互いが折れるのが嫌だということもあるんだろう。普段ならケンスケが折れて、それで関係が続いていた。絆は深かったように見えたけど、それでも譲れない何かがお互いを傷つけるようになったのかもしれない。
ある日の夕方仕事を終えて、村の丘を歩いていた時に、式波の姿を見たことがある。シンジが村にかつぎこまれてふさぎこんでいたけど、だんだんと元気になっていた時に、夕焼けを見ていた丘のすぐ近くだった。同じように膝を抱いて夕焼けを見ていた。シンジがそうしていたことを知っていたのかはわからないし、とても景色のいい場所だったから偶然だったのかもしれないが、同じ光景だな、と笑った。あの時、式波はシンジのことを考えていたんじゃないだろうか。
ケンスケから今回の家出話を聞いた時に、その時の光景を思い出した。
以前ヒカリが、村の人の色恋沙汰で楽しく話していたときに言っていた
「昔の恋人が今も自分のことを好きでいてくれていないか、っていう願望は、男だけがもっているものよね。」
というセリフが、思い起こされる。その時は両耳をふさいで声をあげておどけて見せたが、そういうものなのかもしれないと得心もしていた。全てがそうではないはずだが、言いえて妙だと思う。
シンジは、今は真希波という女性と恋人同士の仲だが、中学の時に見た式波との関係や、戦いが終わってからの二人を見ると、今でも絆が深いように思えた。つまり、シンジの中には、いまでも式波がいる、というかもしれない、ということだ。真希波には悪いけど。
ケンスケは感じていたんじゃないだろうか。式波の中で一番大事に思っている人は、自分ではないんじゃないか、ということが。ヒカリと似ていて、相手の不満を受け止め、強く相手に何かを求めたり、変化をせまるというところがないから、表面的には良好的に見える関係性も、結局のところお互いがお互いを尊重し思いあっている上で成り立つ関係性だ。自分の本当に大切な心の部分をさらけるのが家族だと自分は思っているが、世の中には本音と建前と言うのがあり、パートナーにも秘密を抱えて成り立つ関係性もあるとも思う。ただ、秘密が秘密ではなくなったら、ケンスケのように我慢ができなくなるのではないか。
結局のところ、今回の家出騒動だってそういったきっかけがあっただけで、二人が関係を続けるのは無理だったんじゃないか、と思う。式波の本心がわからないから断定もできないが、もし今日のやり取りがうまくいかなかったら、二人が別れることも、お互いのために決断すべきことだと思う。
エレベーターから降りてマンションの端のほうに歩いていくと、階段ホールの方で女性の大きな声が聞こえてきた。近づくと声はだんだんとはっきりとしてきて、それが真希波と式波の声だとわかった。
「キーーーーーッ!この泥棒猫!」
「なにそれ!どういう意味よ!」
「そういう意味よ!」
「猫はあんたでしょ!」
何の話をしてるんだかよくわからなかったが、モメている。1階にはいなくて上階から聞こえていたので上っていくと、シンジの背中が見えて、その向こうで真希波が式波に襲い掛かろうとドタバタしていた。シンジが真希波の腕を持って、静止している。
「なにしとんねん。シンジ。」
「あぁっ、トウジ!助けて。」
振り返ったシンジの左頬は、赤く腫れているように見えた。
「なんやセンセ。モッテモテやなぁ。」
こちらの存在に気付いて、真希波がゆっくりと暴れるのをやめた。軽口をたたいた方が場がおさまるものだと思ったのだが、ゆっくりとこちらを向くと、目は吊り上がって息は荒く、歯がむき出しだった。
獣だ。
トウジたちが来た。リツコさんの姿も見えた。
助かった。
マリを落ち着かせて、アスカを見ると、僕とマリを通り越して、後ろに向けて視線を送っていた。ケンスケを見つけたんだろう。
人が集まり、ひとまず落ち着いてきた空気に安堵していたが、1階から上がってくるケンスケの姿からは暗い、切羽つまったような雰囲気があって、反対にアスカは、体から拒絶のオーラを出している。二人を見て、ことの深刻さにまた不安の影が広がった。
「久しぶりやなぁ。シンジ。」
「うん。久しぶり。トウジ。」
「あはは。やっぱ、違和感あるわ。けったいな体や。」
「ははは。」
「ここにくるまでに綾波におうたで。」
「ホントに?元気だった?」
「おう!めっちゃ元気や。おなかの子もな。」
トウジが明るく話しかけてくれたおかげで、なんとか場の雰囲気が明るくなりかけている。トウジの心遣いがありがたかった。
それでもアスカはケンスケをにらみつけていて、ケンスケはアスカを見ているけど、何か申し訳なさそうにしているのがいたたまれなくて、どう声をかけたらよいかわからなかった。
どうしたらいいんだ。
突然アスカが踵を返して、2階の廊下側へ歩き出そうとしていた。
「アスカっ。」
僕は慌ててアスカの手をつかんだ。
「シンジ君っ。」
マリが慌てて僕の手をつかんだ。
「ん真希波さ、痛っ!」
トウジがふざけてマリの手を握って、脛にヒールキックを受けた。
「ふざけてないで。場所をうつしましょう。」
リツコさんがそう提案をした。確かに広いとはいえ階段ホールに6人も大人がおさまるのは難しい。
「お兄ちゃん。」
「お!サクラ!きたで。」
7人だ。
「うち、入ります?」
サクラさんが周囲の雰囲気を感じながら、恐る恐る質問した。
「いえ、家の中だと、あまり込み入った話をしづらいかもしれないわね。相田君の車で、どこかに移動しましょう。」
リツコさんの提案で、マンションの駐車場に移動することになった。
ケンスケの車と聞いたけど、前に見たジムニーじゃないんだろうか?
ケンスケは何も話さず、黙って1階へ向けて歩き出した。何も言わず。
アスカの方を見ると、怒りを抑えたような表情でケンスケの方を見据えていた。
「行こう」
それ以上多くは言わなかったけど、一瞬間をあけてからアスカは黙って駐車場の方へ歩き出した。
アスカの表情、昔に見た気がする。僕の中で緊張が増した。
ぼうっとしていると、マリも同じ表情で僕を見ていた。目が合った。両の掌を前に出したけど、何も言えなくて、視線を逃がした。
サクラさんが口に手をあてて、目をキラキラさせてた。
シンジとアスカのロマンスというか、対話と言うか、そういうの書きたかったんです。LASではなかったですね。すみません。
TVシリーズ、旧劇、新劇見てからの、個人的願望作品です。
暗い階段ホール、シンジとアスカ、2人きり。真面目な対話。シチュエーションから話が広げた気がしますが、シンジ君とマリさんの関係性というか、尻の敷かれ具合とか、自然と考えたらこんな感じでした。僕の中ではね、もちろん。