開け放した窓から、死臭が流れ込んでくる。
生暖かい風が運ぶそれは、幾千幾万もの微小な、あるいな巨大な生き物が腐敗し分解される臭いだ。これを潮の香りなどと有り難がる観光客たちの気持ちが、穂希には理解できなかった。
「臭うね」
鈍色の海から教室に視線を戻せば、声の主が隣の机に腰掛けている。
友人の朝香はいつも通りに滑らかな美脚をモデルのように組み、いつも通りにパックのいちごミルクに刺さったストローを弄びながら続けた。
「また打ち上げられたらしいよ。日折浜のほう」
「またイワシ?」
「兄貴がいうには、ゴンドウだって」
「ゴンドウって?」
「イルカ。臭い、する?」
ふうん、イルカか。穂希は頬杖をついて再び窓の外に目をやった。幼いころから刻々と色あせていくばかりの町の向こうに広がる、のっぺりとした水平線。梅雨空の下ではさざめく波頭も息をひそめ、時が止まったかのような感覚がして、そんな妄想をへらへらと自嘲する。イルカの臭い、わかんないや。いつも通り生臭いだけ。
「じゃあ、閉めていい?エアコン無駄だし」
朝香はそう言うと、返事を待たずに白魚のような腕を伸ばし、ぱたりと窓を閉めた。
途端に、昼休みの教室の雑踏がどっと穂希の耳に流れ込む。そのほとんどは意味をなさない喧騒だ、なんて言い切れてしまえばいいのだろうけど、同じ共同体の人間が発する声というのは、否応なしに耳にこびりつくものだ。曰く、3年の花澤はクラスメイトの佐伯と付き合っている。曰く、今年は本土からの観光客が多い。曰く、今期のアニメは豊作だ。
「うう。まだ閉めていいって言ってないのに…」
とりわけ興味のある話題もなく、穂希は恨みがましく朝香を睨みつけた。朝香は塩顔のまま、完璧な眉のラインは微動だにしない。ほら、そういうとこだよ、氷の女王とか呼ばれるんだから。悪態の一つでもつこうかと思うが、一拍遅れて薄い唇が開く。
「別にいいよ、って言うじゃん。いつも」
「そういうことじゃないんだよ、伊藤クン」
穂希がおどけて指を向けると、朝香は色っぽい笑みを浮かべて机から飛び降りた。それから空になった紙パックを器用に折り畳み、
「辛気臭い面してないで、ほら、次あれでしょ。ーーおら、そこどけ、どけ!」
そうたむろしていた男子たちを一喝すると、見事なサイドスローで紙パックを「燃えるゴミ」箱にシュートインした。
「あれって?」
「避難訓練」
午後は避難訓練ののち、一斉下校。ホームルームで担任が言っていた話を思い出し、穂希は「ああ」と呟いた。何故だかひどく遠い昔のような気がして、我ながら薄気味が悪くなる。
「あんた、ホント大丈夫?最近ボーッとしてるけど」
なるほど、さっきの朝香の能面のような表情は、自分を心配してくれていたのか。そう思うと申し訳ないやら、有難いやらで、穂希は精一杯の笑みを浮かべて立ち上がった。
「大丈夫、大丈夫」
「そ。なら、原セン戻ってくる前に便所行きますか」
「お花を摘みに、だろ伊藤クン」
けたけたと笑いあいながら教室を出たところで、予鈴が鳴った。5限目、というか避難訓練まで、あと5分。穂希と朝香は急いで用を足すと、いちおう髪型なんかを気にして見せてから、教室に引き返す。
「そういえば」
ふと便座に座っている特に思い出したことがあり、穂希は朝香を見上げた。
「避難訓練、これが最後みたいなこと言ってなかったっけ?原セン」
「言ってた。もう意味無いから、みたいなね」
「やっぱり。つか意味無い、って…」
教師が言ってはいけないワードランキング、トップファイブでしょ。言った矢先に廊下の向こうから歩いてくる原センと目が合って、ちょっと気まずい思いをする。早く教室入れよ。すいませーん、連れションしてましたー。そんな原センと朝香の会話を聞き流しながら、穂希はそらした目線を廊下の窓の外に向ける。いつの間にか、風が吹き始めている。
「まあ、意味ないよね、実際」
教室に戻って席に着くと、朝香がそうこぼすのが聞こえた。
「だってもう40年以上出てきて無いわけじゃん、怪獣」
40年。17歳の自分たちには、その年月を実感するのは難しい。けれど40年前、日本が確かに怪獣という脅威にさらされていた。その矛盾が穂希にはどうしても受け入れられない。そう、70年前の日本が、アメリカや中国と戦争をしていた、という事実と同じように。
「怪獣、観たかったなあ」
そんなことを呟きながらガラス越しにみた海は、やはり時間が止まっているようだった。