「――このように、えー、皆さんも本日の訓練を教訓として、災害の発生時に適切な対応をとれるよう、心がけてください。以上です」
体育館に満ちる雨音にマイクの残響が折り重なり、それを合図に生徒たちがどっと弛緩するのが分かった。校長と入れ替わるように教頭が壇上に登り、避難訓練の終了を告げる。
校長が自分で締めればいいのに、と、穂希の隣に立つ中等部の生徒が囁くのが聞こえた。そのまま、中等部全体にさざ波のような囁きが広がっていく。
各学年1クラスの高等部に比べ、学年によって2クラスを数える中等部は、普段こそ行き来は無いものの、こうしたイベントごとで顔を合わせるたびにその無邪気さと横柄さで穂希を(そして、おそらくはその他のクラスメイトたちを)圧倒する。たかが2,3年なれど、彼らとの間に隔たる年月は「島に残るか否か」という判断が人生におけるいかに大きな分かれ道であるかを認識するのに十分だった。
さらに教頭からバトンタッチされた学年主任の指示に従って、生徒たちは教室への帰路につく。穂希はゆるゆると人並みを抜け、列の最後尾にいた朝香の横に並んだ。
「最後、って言わなかったね」
「そりゃ言わないよ。訓練なんだから」
「来年からは、地震とか、津波とか、そういう訓練になるのかも」
「かもね」
中高生が入り混じって渡り廊下を抜けていく。かしましいのはやはり中等部たちの生徒たちで、その中でもひときわ賑やかな男子たちの一団が、つと穂希の方を向くのが分かった。否、正確にはその視線は明らかに朝香の方を向いている。
「あら、伊藤さん。少年たちがお話があるみたいですわよ」
「っぽいね。めんどくさい」
穂希がニヤつくと、朝霞は盛大に顔を顰めた。
「先行ってて」
「え、待つよ。そんなにかからないしょ」
「原センに呼ばれてんの。委員の仕事」
えー。穂希は唇を尖らせつつも頷いた。
「あと、おかみさんが今日は団体客がいるから早めに来て、って」
「それを早くいえ」
この狭い社会では、高校生のアルバイトを受け入れてくれる雇用主は数少ない。その数少ない雇用主が早く来いというのだから、是も否もなかった。穂希は足早に朝香と別れて階段へ向かった。踊り場で一度だけ振り向くと、仁王立の朝香の前でツンツンと髪を立てた男子がしゃべっているのが見えた。遠目にわかるほど上気した顔。後ろでは、友人らしき数名が顔に好奇心剥き出しの笑みを貼り付けている。
先生に叱られる生徒みたい、という言葉を飲み込んで、穂希は教室へと戻った。だらだらと喋る同級生たちにおざなりに挨拶し、そそくさと荷物をまとめる。昇降口で靴を履いたところで、合羽を忘れたことに気が付いた。
「まじか」
しゃあしゃあ、と校門脇のシイの巨木が雨に打たれて音を鳴らす。下足箱の脇に目をやれば、誰が置いていったかもわからない置き傘の山。ここから失敬する分には問題ない。過去にも何度かお借りしたことがある。しかし。
「傘さしで原付はマズいよなあ」
ひときわ大きな笑い声が昇降口に近づいてくるのが聞こえて、穂希は置き傘の中からひときわ小汚い一本を引き抜いた。しかたない、歩こう。
正門を出ることはせず、人目を避けて裏門側の道路から坂道を下り、笹藪や虎杖の茂みを避けて、アスファルトのひび割れに溜まった水溜りを躱す。バイト先の中町までは正門側の坂を下るのが早いが、穂希の普段の帰路は逆方向の角崎方向だ。校則ではアルバイトは禁止ということになっているから、怪しまれないためにも、いつも少々遠回りをする。
道路脇に飛び出した道祖神の祠が立つエンジュの木をぐるりと遠回りして、おそらく農業用の私道を下る。ぽたり、と肩に水滴が当たり、傘に雨漏りがあることに気が付く。流石にぼろを選びすぎたかな、一抹の不安を覆えた瞬間にはもう手遅れということはよくあるもので、ごうと強い風が吹き上げた次の瞬間には傘は見るも無残に裏返っていた。
まずい。途端に雨が安物の制服と通学鞄を濡らす。傘は骨が折れてしまい、治りそうにもない。しとやかに、しかし確実に吹き付ける雨を呪いながら、穂希は周囲を見回した。農道を下れば住宅街に入る。雨宿りできる場所があるかもしれない。
舗装された道路に出ると、すぐ傍らにプレハブ小屋があるのに気がついた。普段は野菜の直売所に利用されていたはずだ。周囲を見回して人がいないことを確認してから、穂希は小屋の中に飛び込んだ。トタン屋根は雨に叩かれてバタバタと騒ぐが、雨漏りなどは無さそうだった。しばし屋根を借りることとし、小さなハンカチで鞄と制服をぬぐう。ぽたぽたと髪からも雨が滴っているのに気づき、ひとつため息をついた。
折れ曲がった傘を何とか畳みながら、いったい何をやっているのか、情けなさに身が縮んだ。時給に目がくらんだ罰だとでもいうのだろうか。そんな殺生な。風が吹きこむと濡れた体から熱を奪い、もう6月だというのにぶるりと体が震える。
小屋の奥から声が聞こえたのは、そんな時だった。
「大丈夫ですか?」
穂希は、人は本当に驚いた時、体が動かなくなるものなのだと知った。たっぷり10秒ほど時間をかけてから、ブリキ人形のように首を巡らせて小屋の奥を見る。常であれば直売所の商品が並ぶ棚の裏側に、数脚のパイプ椅子がある。普段は商品の下処理でもするのであろうその椅子に、誰かが座っているのがわかった。タイムラグを経て、バクバクと心臓が鳴り始める。
「すみません、雨宿りをしていたんですが……」
声で、それが若い男だと分かった。男は立ち上がると、小屋の表に姿を見せた。
30前後の、こざっぱりとしたワイシャツ姿の男。穂希より頭一つ背が高い。朝香と同じくらいだから、175センチ前後だろうか。手にはサラリーマンのような革鞄とスーツのジャケット。
「あの、本当にすみません。驚かせるつもりはなくて」
男は不自然なぐらい距離を開けて、軽く頭を下げた。目元にかかるくらいの髪の間から、愛嬌のある眼差しが覗く。まなじりが下がった、困ったような表情は意外にも愛嬌があり、学生時代は人気があったのではないかと思わせた。少なくとも、変質者の類ではなさそうだ。
「あ、いえ。すみません」
穂希が頭を下げると、男の表情が柔らいだ。そのまま、視線が制服に移る。おい、エロいこと考えないだろうな。再び身を硬くしようとしたところで、男は思いがけない正体を明かした。
「高校生、だよね?大戸高校の」
「え、あ、はい」
「良かった。あの、ぼく教師です。新任の」
「へ?」
穂希の理解が追いつく前にスマホのバイブ音が響き、尾崎と名乗る男は目礼してから電話に出た。新任の教師。やばい、バイトがバレる。いやいや落ち着け大丈夫。新任ということは、わたしの家も知らないはずだ。何か聞かれたら、白を切ればいいではないか。
「学校に戻らなくちゃいけないらしい。大変だよね、先生って」
電話を切った尾崎は、ふたたび警戒感を露わにした穂希の視線に気づくと、言い訳のように笑いかけた。笑うと、その顔はますます幼くみえる。いかんいかん、油断するな。
「ところで」
と、尾崎が真剣な表情になり、穂希は慌てて身構えた。
「君は下校中?さっき、畑の方から出てきたように見えたけど」
「はい。近道、なので」
そんなところから見られていたのか、まずい。消すしかないか…?
しかし、続く尾崎の問いかけは意外なものだった。
「近道。それはありがたい。良ければ、教えてもらえないかな」
「へ」
拍子抜けしつつ、穂希は道案内を教えた。この道が使えなくなるのは惜しいが、どうせ普段は原付なのだ。尾崎はうんうんと頷きながら、見えるはずのない農道を目で追うような仕草をする。それから礼を言うと、ジャケットを小脇に挟み、穂希と同じように鞄を傘がわりにした。傘無いんですか、と言いかけて、あまりに馬鹿馬鹿しい言葉だなと思い直す。
「雨、弱くなってきたね」
「でも海風は強いので、気をつけてください」
言ってから、穂希は自分からそんな言葉が出てきたことに驚く、尾崎を見ていると、なんとはなし後輩の男子を見ているような気分になるからだろうか。尾崎はありがとう、と再び頭を下げて、あの笑顔を見せた。
「木島さんも気を付けて」
尾崎は颯爽と雨の中に駆け出していき、農道の手前でもう一度頭を下げた。身軽にガードレールを飛び越える姿からして、運動神経も高いらしい。おどおどとした表情の時には気が付かなったが、存外に整った顔立ちもしている。新たなアイドル誕生かしら。ちょっと変わってはいるけれど。下世話なことを考える穂希をよそに、尾崎の姿が農道に消えた。
「やば、バイト」
気が付いて小屋を出たところで、ふと、肌が粟立った。
あの先生、何で、私の名前を知っていたんだろう。