ダモクレス   作:柳川裕一

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最果て(3)

 中町は島で最も大きい集落であり、内地からの観光フェリーが発着する港や、役場や警察などの行政機関、ホテルや土産物店といった観光客向けの施設が集中している、島の中心だった。

 レンタルビデオ店や携帯ショップなどここにしかない専門店も多くあるため、島の学生たちも週に一度は何らかの形で中町を訪れるのだが、物欲も、内地への憧れも薄い穂希にとっては、そこは純粋にアルバイトのための町、という印象だった。

 バイト先にたどり着いた時にはすでに雨は上がり、雲の切れ目からはところどころから青空も覗いていた。運悪くというべきか案の定というべきか、裏手の駐車場にはすでに見慣れた朝香の原付が止まっていて、穂希はしっとりと濡れた鞄を持ち変えながらため息をつくと、民宿・朝顔荘の勝手口をくぐった。

「おい、間抜け」

 から始まった朝香の面罵は、穂希が更衣室のドアを開けた瞬間から、湯船の清掃、ゴミ出し、リネンの洗濯乾燥、そして一七時と一八時の二回の夕食の配膳が終わった後の賄いの時間に至るまで、コンスタントに続いた。

「朝ちゃん、そういうこと言わないの。穂希ちゃん、今日はあったかくして寝るのよ」

 賄いの海鮮丼を前にくどくどと説教を食らう穂希を見かねたように、壮年の女性が姿を現した。朝顔荘を仕切る、女将の芳子である。穂希はわが意を得たとばかりに大きくうなずくと、「いただきます」と説教を中断して賄いに食らいついた。

「大丈夫ですよ。ほら、馬鹿は風邪ひかないっていうし」

 朝香はほとんど表情を変えずそうこぼしながらも、さりとて今日という今日は空腹に耐えかねたのか、しぶしぶ箸を取った。

団体客が二組に、家族づれが三組。カップル二組に、個人の素泊まりが一組。ほとんど満室に近いこの日の夕食の配膳は、まさに戦場の有様だった。配膳の指示と調理の指示が飛び交い、次から次へとビール瓶が消えていく。家族連れや個人客が使う食堂へ向かう導線と、団体客用の広間への向かうそれ、二本の導線が絡み合い、穂希は何度となく朝香と衝突事故を起こしかけたほどだ。

 会社のグループらしい団体客は酔った勢いで襖を倒し、朝香が外国人のカップル客に質問攻めにあっている間に、穂希は例のごとく食器を割った。もう一人のパートで、普段はミスなどしない大先輩の赤塚が配膳を間違えるトラブルも重なり、ついに普段は事務仕事をしている芳子までが助っ人に入り、なんとか乗り切ったのがつい数十分前の事である。

「雨だし、車でも出してあげればよかったねえ」

「いやいや芳子さん、私はほら、ただのバイトですから」

「何言ってんの、身内のお友達だもの、バイトだって身内みたいなものでしょ」

「いいや、穂希も私も、働いてる時間はただのバイト」

「かーっ、相変わらず堅いね、朝ちゃんは」

 ひとしきりしゃべった後で、芳子はふと思い出したように「そういえば」と呟いた。

「今日、お給料渡そうと思ってたの、持ってくるから待ってて」

 嵐のように表情をころころと変える芳子が朝香の伯母に当たることを知った時、穂希は朝香の複雑な家庭環境を疑ったものだった。しかし確かに芳子は朝香の母親の姉であり、むしろだからこそ、こうして密かにバイトを許してくれている。

「百歩譲って遅刻は良いとしても、あれは何」

朝香は表情が変わらず分かりにくいが、その実密かにイライラを募らせる厄介な性格であることを誰よりも知っているのは穂希である。しかも疲れた時にはそれが顕著であり、つまるところバイトが終わった後の賄いの時間は、朝香の説教タイムとなりがちなのだ。

「あれって?」

「怪獣盛りの時のやつ」

 香り高いアオサの味噌汁に口を付けたところで言わんとすることに気づき、穂希はああ、とうなずいた。

怪獣盛りとは、島の数少ない観光資源である魚介と怪獣を融合させた、朝顔荘の名物料理である。というのは芳子の弁で、季節の魚を使った船盛りの上に、サザエやアワビ、カメノテなどの貝殻を組み合わせてごつごつとした怪獣を象った、船盛のオプションサービスである。

すっかり怪獣が過去の遺物となった今日でも、島にやってくる観光客の三~四割はいわゆる怪獣目当てで、とりわけ怪獣映画や怪獣アニメが流行っていた時期に幼少期を過ごした少年少女が大人になり婚期・出産期を迎えてからというもの、親子連れにその傾向が現れていた。当然、島からすればありがたい限りで、中町の商店街を歩けば「怪獣」と名のつくグッズは数知れず、朝顔荘の「怪獣盛り」もそれを当て込んで芳子が開発した新メニューであった。

今日の客もそうした家族連れで、穂希がその重さに腕を振るわせながら船盛を食卓に並べると、途端に父親から声が上がり、待ってましたとばかりに母親がスマホで激写しはじめた。問題だったのはこの後で、興奮する両親に反応してきゃあきゃあと目を輝かせる子ども二人のうち、まだ四歳ほどの次男らしき少年がふと、穂希を見上げてこう尋ねたのだ。

「かいじゅう、どこにいるの?」

 補足すればそれは「この島のどこに怪獣がいるのか」ということであり、夢溢れる少年は町中に張り付けられた怪獣のポスターのせいで、島に怪獣がいるものと誤解していたようだった。しかし穂希は、ほとんど無意識にこう返していた。

「怪獣は、もういません」

 穂希の態度を釈明するならば、濡れた体に鞭を売ってこの大所帯をさばき切った時点ですでに疲労はピークに達していた。そこに鞭打つように、慎重に運ばなければ崩れてしまう怪獣盛りという厄介な仕事を任されたせいで、そのピークが振り切れてしまった可能性は否めない。

さらに言うならば、実際のところ芳子も板長も七十余年前に世界で最初にこの島に現れたという怪獣を直で見てはいない。だから「怪獣盛り」の怪獣も、中町にあふれる怪獣のイメージもすべて根拠のない観光資源にすぎず、それをありがたがる島民も観光客も、穂希にとっては何となく胡散臭い存在だった。

「だからって、子ども泣かすってあんた。しかもお客を」

 賄いを食べ終え、食器を洗い、芳子の持ってきたお給料を受け取って帰路についてようやく思いの丈を伝え切った穂希だったが、戻ってきたのはごくごくまっとうな正論で、それに関してはもはや、うなだれる以外の選択肢はなかった。

 結局、息子氏は眼前で夢を打ち砕かれてべそをかき始め、クレームを唱える母親をなだめたのは芳子だった。その上今日は、ほかにもいろいろとバイト先の善意に甘えている。いま手元にある古びた原付も、芳子の夫である板長から貸してもらったものだ。

「ごめん、芳子さんに迷惑かけちゃったよね」

「――それは、まあいいんだけどさ」

 二十時を前に真っ暗な商店街を抜けながら、穂希は尋ねる。

「今日もおばさんの所、寄ってくの?」

 朝香はうなずく。

「そっか、気を付けてね」

「うん」

 何となく、言葉に詰まり、穂希は思わずおどけた声を出す。

「でもこれで、三十万円は貯まったよ、わたし」

「少なくない? 月三から四万、もう一年以上バイトしてるんだから、五十万くらい貯まってるべきでしょ」

「そういう伊藤さんはいくらなんですか」

「貯金? 八十万くらいかな。お年玉も溜めてるし」

 なんて理不尽だ! 穂希は自分のお年玉は父親の懐に入っているのでは、と邪推したが、そもそも内地に住む祖父母とはこれまでにも片手で数えられる程度しか会っていなかった。

「でも、あと二十万か」

「あんたは七十万だけど」

「せちがらっ」

 百万円溜まったら内地に行こう。そんな約束をしたのがいつだったか、もはや穂希は覚えていない。何の具体もない、島で暮らす子どもならだれもが抱く感傷に満ちた夢。しかしそれだけが、この単調な日々がわずかにでも進んでいることを示す唯一の方便のような気がして、口にするたび安心するのだった。

「じゃあ、あたしこっちだから」

 朝香が十字路で指をさす。その先には、赤十字がぼんやりと赤く灯り、宙に浮かんでいるように見える。影になった本丸は、朝香の母親が入院する島唯一の総合病院だ。

「じゃ、また明日学校で」

 そう言って穂希は原付にまたがると、アクセルを回転させる。すぐに背後からもエンジン音がして、道はあっという間に山際の上り坂になる。

 朝香はバイト中、決して芳子さんのことを名前で呼ばない。

 朝香は百万円が貯まった後、入院している母親をどうするつもりか口にしない。

 街灯もない山道を、原付のライトだけが照らす。

 

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