忙しさというのは心を亡くすと書くが、「心」には多分に「記憶」も含まれていると思って良い。だから翌日登校した時点での穂希の頭からは、すでに昨日の放課後に遭遇した怪しい男の記憶は薄れかけていた。
「きょう、新任の教師が来るらしいよ」
朝香からあいさつ代わりにそう声をかけられ、穂希は真っ先に「機嫌が直っていてよかった」と胸をなでおろした。昨日の朝香は明らかに遅刻以上に別の何かに苛立っており、氷の女王は一度機嫌を損ねると尾を引くのが通例なのだ。
「おい、聞いてる?」
肩をつつかれ我に返った穂希は、プレハブ小屋で出会った男のことを思い出した。
「無人直売所の男」
「男がいるなら、無人じゃないじゃん?」
かみ合わないやり取りをするうち予鈴が鳴り、担任の原が一人の男を伴って教室に現れる。原はざわつく教室をいつも通りのだみ声で静かにさせると、若い男が新任の理科教諭であり、このクラスの副担任を務める、というようなことを紹介した。
「尾崎秋朗です。東京から来ました。物理学が専門です」
身なりを整えた尾崎はやはり端正な、というよりも可愛らしい顔立ちで、ニキビ跡が残るクラスの男子たちよりも幼くさえ見えた。女子が黄色い声援で歓迎を意を示す中、穂希は不自然ではない程度に目線をそらす。「あ、昨日の」などと言われた日には、原から不審な目を向けられるのは間違いがなく、あるいは何かにつけ嫉妬の対象を探している同級生たちに根も葉もない噂を立てられかねない。
尾崎は三十三という年齢を告げ、くだけた口調でひとしきり童顔をネタにしてから、
「自然が好きなので、島での生活が楽しみです。楽しみなんですが、虫だけは苦手で……」
と切り出して、アパートに巨大なカメムシが出た小咄で笑いを取った。そうして穏やかにクラスを見回しながら、お手本のような挨拶をこう締めくくった。
「早く皆さんの顔と名前を覚えられるよう頑張りますので、ぜひ仲良くしてください」
尾崎の視線が近づいてくるのを感じ、穂希は我知らず緊張を感じた。果たしてそのやわらかな笑みは穂希の上を通過していき、ひとしきりクラスの興奮が収まった後で、原はホームルームの終わりを告げた。
一限の準備でクラスがざわめく中、穂希は拍子抜け半分、胸をなでおろした。あの薄暗さでは、もしかすると尾崎も穂希のことを覚えていなかったのかもしれない。それならバイトの件も安心だ。それにしても生徒に「仲良くしてください」といってしまうあたり、あのイケメンはやはりちょっと変わっている。
昼休みになっても、クラスの話題はやはり尾崎のことに集中した。
「アッキー、ほんとイケメン」
「ちょっと童顔過ぎじゃない?」
「それにしても、何で副担? 誰か問題起こした?」
「お前だろ。昨日警察に怒られてたじゃん」
「彼女、いるのかなあ。遠距離かなあ」
「警察? なんで?」
「日折浜で。イルカに近づこうとして」
「彼氏ほしいなあ」
学校というのは不思議な場所で、声の大きい人間の意見が我知らずクラスの総意として刷り込まれる傾向がある。それが何となく気に食わず、いや、そんな高尚な理由ではなく単なる野次馬精神から、穂希は昨日の出来事を改めて説明した。
「昨日はそんなこと言ってなかったのに」
朝香は釈然としない様子でサンドイッチを口に運ぶ。
「忘れてた。とにかく焦ってたから」
「ふつう忘れるか?」
正直なことを言えば、朝顔荘に遅刻した時点では、穂希の頭の中はあの奇妙な時間のことでいっぱいだった。バイトの多忙さと朝香の不機嫌で記憶が薄れていたのは本当にせよ、その時その場で朝香に告げなかったのは、何か引っかかるものを感じていたからだった。
それは尾崎が自分の名前を知っていたことでもあるし、あるいはもっと根本的な、不信感、のようなものだったかもしれない。
「下手したら拉致されてたかもしれないのに」
朝香はさらりと怖いことを呟きながら、
「まあ、ちょっと面白いけど」と面白くもなさそうな声で付け足した。
「私も昨日会ったよ。尾崎センセ」
「へ? 直売所で?」
「なんでそうなる」
クラス委員の仕事してたら、職員室で原センと話してたんだよね。それを聞いた穂希は、なるほどと心中で頷いた。それであれば穂希の名前を知っていたことにも納得がいく。しかしそれを聞いた朝霞は、いまいち納得がいかないように首を傾げた。
「さっきの挨拶じゃ、皆さんの顔と名前はこれから覚える、みたいだったけど」
「うーん、じゃあ、知らないうちに会ってたのかも。昨日とか」
そう言葉にすると、穂希の中にわだかまっていた違和感がストンと音を立てて腹に落ちた。そうなのだ、確かに尾崎の顔には見覚えがある。それも昨日というよりはもっとずっと昔のような。
「あの先生、島出身じゃないよね」
「うーん、そうだったら自己紹介で言うでしょ」
眉間にこれでもかと皺を寄せる穂希を見ていた朝香は、ふと蠱惑的な笑みを浮かべた。それだけでも周囲に艶気が漂うのだから美人というのは恐ろしい。恐ろしいついでに、朝香がこの表情をする時は、大体がろくでもないことを考えているときだ。
「あるいは」
「あるいは?」
「尾崎センセ、穂希に気があるのかも」
すぐには朝香が何を言っているか分からず、それから冗談とわかりつつも、穂希は不覚にも赤面するのを自覚した。何を言ってるのやら。何を言っているのやらこの小娘は。
朝香はそんな様子を面白がって眺めながら、いずれにせよ、と弁当箱をしまう。
「次、何かわかるかもね」
「何かって」
「さっそく、尾崎センセの授業でしょ」
なるほど時間割には、「物理」の2字が躍っている。
「ふん、興味ないね」
朝香のまねをしてクールを気取るが、似合わない自分に嫌気がさすだけだった。
強がってはみるものの確かに気になるのは本当のところで、違和感の正体が何かわかるかも、と穂希はいつになく授業を真剣に聞いていた。しかし尾崎は新任らしからぬスムーズさで授業を進めるばかりで、穂希にわかったのはクラスメイトの何人かがすでに熱狂的なファンになりかけている、という一点だった。
やりかけになっていた単元を手早く終えると、尾崎は授業を早々に切り上げ、新任の教師にありがちなお喋りタイムに突入した。
「先生は恋人いるんですか――それか、結婚とか?」
鼻息荒く問いかけたのは、いつもインスタを見て騒いでいる鳩原だ。
「プライベートなことは答えられないな」
ゆったりと教卓に腰をもたせかけた尾崎は、フランクな口調になって笑った。
「でも結婚はしてないですよ。結婚したら、指輪は付けていたいタイプです」
いかにも答え慣れたという態度に、穂希はひとりで鼻白む。三十前半となればすでに教師生活も中堅というわけで、この手のやり取りも慣れたもの、ということなのだろう。気になっている自分がバカバカしい、そんなことを思いかけた時、クラスの隅から思いがけない声が上がった。
「先生、昨日日折浜にいましたよね?」
穂希は思わず声の主を見る。クラスメイト達も同じような心境らしく、どの顔にも「意外」の2文字が浮かんでいた。相変わらず能面なのは朝香だけで、ひとり静かに爪を気にしている。
「先生は何で島に来たんですか?」
繰返しそう問いかけたのは、遠村という生徒だった。教師に指されたとき以外に授業中に喋っているのを見たことが無い。というより、少なくとも穂希は、遠村が三言以上喋っている姿が想像できなかった。普段は読書か昼寝か、クラスに一人はいるタイプの無気力な少年である。
尾崎は一瞬驚いたように目を見開いてから、ええ、はい、と頷いた。
「先週、島に来たばかりだったから、あちこち見て回ってたんだ。ほら、イルカが打ち上げられた、なんていうニュースもあったから」
それから二つ目の質問を考える。「何で、と言われると難しいな」と呟きつつ、
「ひとつは、さっきも言ったけれど自然が好きだから」と遠村に笑いかけた。
「高校大学と登山部だったんです。だから、山歩きなんかは好きかな。ふたつ目は、ちょっと難しいかもしれないけれど、小規模教育の現場に興味があったからなんです」
少子高齢化、へき地教育の難しさ、しかしそれは逆に、今後の世界の教育現場を先取りできることでもある。廃校寸前の学校であればしばしば耳にする威勢のいいお題目は、当事者である高校生からすれば「勉強しろ」という大人の理屈を正当化する有象無象の理由の一つに過ぎなかったが、尾崎が語る言葉には、校長や教頭、島出身の教師が語るそれよりも信念が宿っているように思えた。
「島の学校だからこそ、他では見えない未来が見えるんじゃないか、それを見せてあげられるんじゃないか、と思ってます。ちょうど、隅からのほうが教室全体を見回せるように」
尾崎は、まさに遠村の席を指し示すように言った。それから反対側の隅、穂希の2つ後ろの座席を見遣る。ふと視線がぶつかり、尾崎が小さく頷くのがわかった。
「なんて難しいことを言ってみたけれど、まずか楽しくやるのが一番だと思ってますけどね。これでいいかな、遠村くん」
その答えを待っていたかのようにチャイムが鳴った。遠村は名前を呼ばれたことに驚いた様子だったが、クラスの空気を察して渋々首肯する。
次回からはちゃんとやりますから、宿題忘れないよう。そう尾崎がおどけると、お調子者の生徒たちがうめき声をあげた。日直の号令と共に数名の女生徒が教卓に駆け寄り、先生、もう名前覚えたの?自分のクラスくらいはね。え、じゃあ、わたしは?そんなやりとりを教室中に宣伝する。
穂希がふと横を見ると、爪を整え終えた朝香が気の毒そうな表情を浮かべていた。
「失恋?」
「なんでやねん!」
結局のところ尾崎センセは「良い先生」で、わたしのざわざわも何かの思い過ごしか、あるいは記憶違いだったんだろう。穂希はむしろスッキリした思いで席を立った。
「どこいくの」
「トイレ。言わせるでないよ」
廊下へ出ると、掲示板の夏期講習のチラシが目に止まり、さっきの尾崎の言葉が頭に浮かぶ。教室の隅から見た未来、世界の端からみた未来。
学校に行って、バイトして、貯金して。高校を卒業したら内地へ行って、事務職でもして。それでたまに朝香と会ってお酒を飲む。そんな未来しか想像できず、尾崎の理想には貢献できそうにない、と自嘲する。
「あ、ごめん!」
トイレを出たところで誰かとぶつかりそうになり、穂希は反射的に謝った。見上げれば、天然パーマに丸眼鏡の遠村が立っている。
そのまますれ違いそうになったところで、
「あ、ねえ」と声をかけていた。
「さっき、なんか言いかけてたよね。先生が答えた時」
さっきの遠村は、もう少し時間があれば話したい、そんな様子だった。何かを期待していたわけではない。ただ、いつもはむっつりと押し黙っている遠村が、わざわざクラスの面前で話そうとしていたことが気になったのだ。
「あれ、何だったの?」
遠村はほとんど縁もゆかりもない女子生徒からの問いかけにたじろいだ様子だったが、別に、と何やらもごもごと呟いてから言った。
「あいつ、怪獣好きなのかと思って」
「怪獣?」
「そう。日折浜って、最初に怪獣が出てきたとこだろ?」
だろ、と言われても困る。穂希は怪獣になど興味はないし、そもそも島で10年近く過ごしてきて、そんな言われは聞いたことがない。
「そうなの? でもほら、先生はあれでしょ。イルカ」
なるほど、遠村は怪獣マニアなのか。これは見当違いのことを聞いてしまったかな、穂希はそう思い始めていたが、遠村は首を振った。
「ちがうよ。あいつ、イルカとか、ほかの島のひとには興味ないって感じで、浜の奥の方を見てたし、それに、誰かと電話しながら言ってたんだ。たぶん、聞き間違いじゃない。おれ、あいつからは見えないけど、すぐ近く居たんだ。岩の裏っかわに」
「何て?」勿体つけるな!と言いたいのを堪え、穂希は待った。遠村はちょっと声を潜めるようにして、言った。
「ゴジラ」
途端に何かで後頭部を殴られたような衝撃を感じ、穂希は思わず壁に手をついた。耳鳴り、遠村の慌てたような声。ゴジラ。聞き覚えがある。確か。
「ゴジラって…」
「最初の怪獣の名前。非公式だけど、70年前はマスコミも使ってた。おい、大丈夫か?保健室いくか?」
そうだ、何で私、知ってるんだろう? いや、怪獣を売りにした観光地なんだから、おかしくはないだろう。バイト先か何かで耳にしただけだ。
次第に耳鳴りが収まり、しかし入れ替わるように頭痛が走る。もう一つ気になることが浮かび、穂希は先生を呼びに行こうとする遠村の手を取った。
「あのさ、それ、何時ごろだった?」
怪訝そうな遠村は、記憶を呼び起こすように額を指でこすると、たぶん、と切り出す。
「16時、30分、とかかな。おれが学校出てすぐ浜に行って、それからちょっと経ってたから」
「そう、ありがとう」
言ったところで、教室から出てくる朝香が見えた。
「穂希?どうした?」
何となく安心したのか、穂希は腰が抜けたようにその場に座り込んだ。へなへなと目の前が暗転していく中で、プレハブ小屋の情景が蘇る。尾崎が小屋を出て行ったのは、たぶん16時15分過ぎ。原付か、自転車でも、16時30分には日折浜に着く。
あの時尾崎は電話を受けて、学校へ戻る、そう言っていた。