ダモクレス   作:柳川裕一

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最果て(5)

「ふわぁ、なるほどねえ」

 放課後の保健室。簡易ベッドに腰かけてスポーツドリンクのボトルを弄びながら、朝香はあくびまじりにそう言った。

「あくび、あくび」

「ごめん、でもほら、放課後って眠くなる時間じゃん。穂希は寝てたからいいけどさ」

「あんたもずっと寝転がってたやん」

「わたしだめなのよ、保健室のベッドって」

 廊下で意識を失った穂希はすぐに目を覚ましたが、大事を取ったほうがいい、という朝香の言葉に従って保健室に担ぎ込まれた。結局、朝香は付き添いと称してベッド一つを占領し最後の授業をさぼっていたわけなので、今思えばそれが目的だったのではと疑いたくなるが、助けられたのは事実なので強くも言えない。

「でも、正直それが何?ってカンジだけどね」

 朝香はペットボトルのラベルをきれいな桃色の爪ではがしながら言った。

「尾崎センセが怪獣マニアだったから倒れるって、どんだけ怪獣嫌いなのよ。いや、むしろどんだけ尾崎センセ好きなのよ」

「だーかーら、そうじゃないって」

 朝香の勧め通りひと眠りすることにして横たわった穂希は、結局授業が終わるまでぐっすりと眠り、目を覚ますや暇を持て余した朝香からことの顛末を根掘り葉掘り聞かれたところだった。穂希としてはあくまで起きたことを順繰りに話しただけなのだが、どうやら朝香のフィルターを通すと、「片想いする尾崎先生が怪獣好きだと聞いたせいで、ショックで倒れた」ということになっているらしい。

「倒れたのは、たぶん貧血」

「あんた貧血もちだっけ? 別に生理ってわけでもないのに」

 ばさり、と何かが落ちる音がして、二人はカーテンで仕切られた保健室の入口側を見た。職員会議だといっていた養護教諭が戻ってきたとばかり思っていた穂希だったが、カーテンの向こうからかけられた声は意外なものだった。

「あの、遠村だけど、大丈夫?」

 朝香がカーテンを開けると、遠村が所在なさげに佇んでいた。手には先ほど拾い集めたらしい課題のプリントがばらばらと握られている。

「うん、大丈夫。ありがとう」

 穂希はなけなしの社交精神をかき集め、精一杯の笑顔でそう答えた。

遠村からしてみれば目の前でよく知りもしない女子に倒れられてしまったわけで、男子としては非常に気まずい思いをしているだろうし、だからこそプリントを渡すという体で見舞いに来てくれたのだということは流石の穂希にもわかった。そう思ったゆえのフォローだったが、朝香はわざとやっているかのように冷淡な声音でその気遣いをぶち壊す。

「遠村―。やっぱあんたが変なこと言ったんじゃないの?」

「ち、ちちがうよ。そんな、何も」

「うん違う、大丈夫だよ。朝香、もうやめなさいて」

 不服げな氷の女王の視線から逃れるように、遠村は視線を落とすと手元のプリントを整えて穂希に渡した。「おい、それ落としたやつだろ」「やめろって」などと朝香をいさめつつ、ありがたくプリントを受け取る。荷物はすでに朝香が持ってきてくれたし、いずれにせよ教室に戻るのは気恥ずかしいところがあったから、素直にありがたい。

「ありがとう」

「いや、でもほんと、ごめん」

 反射的に謝る遠村に、「やっぱりあんたか」などと朝香がつっかかる。過保護にもほどがあるのだが、朝香がこうなるのは久々で、それはむず痒くも、どこか温かいものが湧き上がるのを感じた。

「遠村くんは、怪獣好きなんだね。えっと、ゴジラ、だっけ」

 場を和ませるためにそう言ってから、また倒れたらどうしよう、などと頭をよぎったが、そんなことはなく遠村は遠慮がちにうなずいた。

「まあ、ね。でもゴジラくらいは、結構知ってる人いるよ。映画とかにもなってたし」

「知らないよ。それいつの話?」朝香は相変わらず喧嘩腰だ。

「一九八〇年代とかだから、三〇年位前かな」

「生まれてねーじゃん。それじゃ尾崎センセだってリアルタイムじゃ見てないでしょ」

「そう、だから不思議なんだよ。しかも、マニアでも日折浜のことを知っている人はほとんどいない。図鑑やノンフィクションにも書かれてないし、おれも爺ちゃんからきいただけで嘘か本当かも知らなかったから。――少なくとも、尾崎センセの話を聞くまで」

 次第に遠村の言葉に熱がこもっていくのが分かり、穂希は内心苦笑した。

 遠村は朝香と同じ島生まれで、島生まれの子どもは基本的に同じ小中で学校生活を送り、高校で島外に出ない限りはさらに三年間、計十二年間を同じ学校で過ごす。いわば全員が幼馴染なのだが、小中まではクラスも複数あり、また住む地域も違うため必ずしも顔見知りばかり、というわけでもない。

 一方で、穂希は七歳のころに島にやってきた移住者だが、それゆえ早く馴染めるように同級生のことはなるべく観察をしており、場合によっては島生まれの子どもたちより、同級生の事は知っている自信があった。だが、まさか遠村にこんな趣味があるとは。いや、趣味というよりも。

「図鑑とノンフィクション読破してんなら、十分オタクだけどね」

 穂希の思いを代弁するように朝香がつっこみ、穂希も思わずうなずいた。朝香の言葉にも先ほどまでの棘はなく、どこか面白がっているような含みがある。

遠村は頬を染めながら目を背けると、「とにかく」と早口に言った。

「あの先生、どっか変なんだよ。だから、気を付けろよって、それだけ」

「何であんたに心配されにゃならんのだ」

 そうおちょくる朝香の言葉には答えず、遠村は踵を返してドアを開けた。それから、思い出したように体をひねると、「忘れてた」とぼそぼそとした声で付け足した。

「木島のお父さん来てたぞ。麻倉先生と話してたから、もうすぐ来るかも」

 

 養護教諭である麻倉に連れられて保健室を訪れた穂希の父の春人は、柔和な笑みを浮かべたまま「大丈夫か」とだけ声をかけると、ベッド脇に置かれた穂希の鞄を手に取った。

「朝香も一緒でいいでしょ」

春人がやってくるのと入れ違いに、遠慮した朝香が部屋を出ようとする。それを引き留めるように、穂希は第一声でそう尋ねた。春人はさも当然というように頷いてみせる。

「もちろん。穂希の命の恩人だ」

「命って」と言葉に詰まった朝香は、しかし春人の駘蕩とした様子に根負けしたように、小さくうなずいた。「じゃあ、お言葉に甘えて。ありがとうございます」

 担任には私から伝えておきますので、という麻倉先生の言葉に甘え、三人は人気のない廊下に出る。グラウンドの声を遠くに聞きながら裏手の駐車場へ向かう道すがら、春人はのんびりと事情を説明した。

「今日はツイてたなあ。ちょうど役所を出たところで母さんから電話をもらってね」

「仕事、ダイジョブなの」

「昨日、遅くまで付き合わされたからなあ。今日はゆっくりさせてもらうよ」

 大げさに肩をぐるぐると回しながら、春人はふうとため息をついた。高校生の娘を持つ四十を幾ばくか過ぎたばかりの父親、というのは標準的かむしろ若い部類に入る父親のはずだが、春人は白髪が多い体質もあってか、こうしたジジ臭い気質がある。

「昨日って、やっぱりイルカの事ですか」

 ふと、黙っていた朝香がそう尋ねたことに驚き穂希は思わず友人の方を見た。遠慮しいの朝香が自分から春人に話しかけるのは珍しい。しかし春人の方はといえば、そんなことを意外だとも思わないようにうなずいて、駐車場側の裏口の取っ手を引いた。

「そう、日折浜でね。結局、最後まで清掃を任されてしまって。二人も行ってみた?」

「昨日はバイトだったでしょ」

「ああ、そうだった。芳子さんによろしく言っておいてくれ」

 昨夜、父が家に帰ったのは確かに十時も過ぎたころで、二言三言言葉を交わしただけで部屋にこもってしまった穂希との間に会話らしい会話はなかったのだが、さすがに一年以上続けているバイトの曜日くらいは覚えておいてほしい。

 とはいうものの、そこまで思い至って穂希はしまった、と内心で舌打ちを打った。芳子さんに借りた原付を返すのを忘れていた。そんな穂希を放って、朝香は春人に重ねて質問をした。

「やっぱり人、多かったですか」

「そうだねえ。生徒さんたちも結構来ていたし。普段は人気がないだけに新鮮ではあったけど」駐車場に止まっていたシルバーのフィットにキーを向けながら、春人はうなずいた。ガジャっと音を立てて車のライトが明滅し、三人は車に乗り込む。

「観光のお客さんも結構いたかな。外国人のカップルさんもいたし」

「ちなみに、三十代くらいの眼鏡の男の人って」

「いやあ、さすがにそこまでは分からないなあ」

 エンジンをかけながら、春人は苦笑いする。それはそうだろう。いくらなんでも、十人や二十人という人数ではないのだから、いちいち顔を覚えているはずがない。すでに朝香の魂胆に気が付いた穂希は、そうはさせるか、と言葉を引き継いだ。

「それで、浜はきれいになったの?」

「なんとかね。それじゃ、出発―」

 車が動き始めるとともに社内にはラジオが流れはじめ、後部座席に座った朝香も流石に諦めたように口を閉ざした。

春人がイルカの大量死事件で駆り出されたのは、ひとえに彼が島の役所勤め・しかも観光課という特殊な部署に勤めているがゆえであった。観光が主要な産業である島にとっては、観光課とは総務課であり住民課であり、文化振興課であり防災課でもある。つまるところ島のありとあらゆる事件のしりぬぐいに駆り出される便利屋さんであり。春人はその人の好さもあってか、常に島中の厄介ごとを押し付けられているのだった。

イルカの大量死、というと見出しは確かにセンセーショナルだが、イルカ自体はこの島ではさほど珍しいものではない。捕鯨も行われてる島では唯一のスーパーマーケットにイルカの肉が並ぶほどで、むしろ漁業を生業とする以外の住人にとっては、パック詰めされた赤身肉の方が馴染みがある。穂希もその一人だった。

そして、「大量死」という部分についても。島ではこの半年ほどの間に、すでに幾度か魚の大量死が確認されていた。初めは島で一番大きな中町の漁港、次は海水浴場にもなっている扇ヶ浜、そして大磯海岸。当初は漁港や役所を中心にちょっとした騒ぎになったものの、

「漁協にとってはありがたくないことに、こういうのは同じシーズンに何度か起こるみたいなんだ。海水温や海流の影響の可能性が高いそうだから」

二度目の大量死が確認された折、穂希は春人がそう説明したのを覚えていた。漁協の古老たちも、春人が内地の専門家から聞き及んだその説明には体感として納得しているようであり、いつしか人々は「静観」という最も穏当な対応を選ぶようになっていた。

かくいう穂希も扇ヶ浜の事件では朝香と自転車をこいで見物に出かけたものだったが、白い浜辺にべっとりと流れ着いたアジの腐臭にやられ、すぐに引き返してきてしまった苦い記憶があり、それ以来「大量死」と聞いても静観を決め込むことにしていた。

 だというのに、今回もやはり野次馬が多いというのは、よほどみなイルカが好きなのだろうか。あるいは、とそこまで考えて、ふと穂希は遠村の話していた逸話を思い出した。そうだ、父はこの話を知っているのだろうか。気が付くと穂希は、ねえ、と運転席に声をかけていた。

「お父さん、ゴジラって知ってる」

「もちろん。怪獣だろ? この島で最初に発見された」

「じゃあさ――」

 それが日折浜だったって、本当かな。そう言いかけた穂希の言葉は、ラジオから流れてきた単語に遮られた。

〈――さて、本日はゲストとして、美浜将暉町長にお越しいただいております――〉

 すっと車内の体温が下がり、気が付いた時にはラジオのスイッチをオフにしていた。春人が怪訝そうな顔をしたのが分かり、慌ててスマホをいじると、プレイリストの音楽を鳴らし始める。

「ラジオつまんないから、音楽かけるね」

 誰にともなく呟きながら、いやな汗が生え際に滲むのが分かった。春人はさして気にする様子もなく、良く知りもしないjポップに合わせて鼻歌を歌いはじめた。

 奇妙な沈黙。その間にフィットは短いトンネルを何本か抜け、海沿いの道を走るようになる。曇った窓の向こうには、吹き付ける雨の軌跡と、ざばざばと泡を吹く海だけが見える。いやに潮騒が近くに聞こえ、穂希は音楽のボリュームを上げる。

 そっ、とミラーで後部座席を確認すると、朝香は礼儀正しく足をそろえ、窓側を見つめたままの姿勢で座っていた。その眼には取り立てて感情は読み取れず、穂希は細く息を吐いて、目の前を通り過ぎていく道路標識を見送った。

 

 角崎は島に四つある集落のうち最も小さな漁村で、高校の生徒は穂希と朝香だけ、小中学生もせいぜい両手に収まる程度という、限界集落中の限界集落だった。ビーチも観光地もないこの集落には、最近増えているという内地からの移住者も寄り付かなず、角崎という地名からもわかるように島の突端に位置する集落は、まさに島のコミュニティの周辺でもあった。

 名ばかりのわびしい商店街を抜けると、真新しい公民館の前で春人は車を止めた。朝香は丁寧に礼を告げ車を降りると、今にも振り出しそうな曇天に一度目をやった。

「朝ちゃん、おじいさんとおばあさんにもよろしく伝えて。今度お店に行くから」

「ありがとうございます」

 春人がそう暢気な声をかけ、朝香が愛想よく頭を下げた。母親が入院中の朝香は、祖父母との三人暮らしだ。祖父は漁師を引退した後に食堂を開き、角崎の数少ない社交の場となっている。

「じゃ、また来週学校で」

「うん。日曜バイト、忘れずに」

 穂希は原付の事を思い出しながらうなずいた。朝顔荘のアルバイトは、木・日・月の週三日だ。木曜と月曜が内地からのフェリーの到着日、日曜日が父島からのフェリーの到着日で、お客が入れ替わることが多いため人手が足りなくなりがち、というのがシフトの理由だ。「それと」と、朝香は例の艶っぽい笑みを浮かべると、窓越しに穂希の耳元に口を寄せた。息遣いが耳たぶにふれ、ぞくっと鳥肌が立つ。

「尾崎センセのために、しっかり怪獣のこと勉強しないとね」

「何でそうなる」

「だって」一瞬、朝香の顔が真面目になり穂希は緊張する。それから再びいたずらっ子のような笑みを浮かべると、「わたしが島を出たら、穂希さびしいでしょ」

「出るって」

「百万円、貯まっちゃうぞ」

昨日の帰り道を思い出して憮然とした表情を浮かべた穂希を残し、朝香は港の方向へ去っていく。ちょうど古びた街灯が一斉に点灯し、頭上の一基からジジ、と虫の羽音が響いた。

フィットは山側に向かって、滑るように走り出す。

「あした、一応病院いっておこうか。そのまま母さんを迎えに行けるし」

 八幡社の隣に立つ、住宅展示場からそのまま運んできたような鉄筋の我が家に帰ると、車庫に車を収めながら春人はそう提案した。穂希はほとんど上の空で、「うん」とも「ううん」とも聞こえる返事を返す。

頭の中にあるのは、やはりゴジラという言葉の意味で、気を逸した今となってはなぜか父に聞く気にもならず、自宅に帰るや穂希はリビングのソファに飛び込んだ。病院で看護師として働く母は夜勤のため、部屋は真っ暗だ。どっと疲労が押し寄せ、すぐに睡魔が忍び寄る。

父の足音が聞こえ、部屋の電気が点く。

「寝るなら部屋で寝なさい。夕飯には起こすから」

 うるさいなあ、穂希はそうは思いつつも声には出さず、のそりと起き上がると部屋へ向かう。わが父ながら相変わらず間が悪い。さっきだって。

「あのさ、お父さん――」

 そう言いかけてから口をつぐむ。システムキッチンで手を洗う姿勢のままきょとんとした春人をおいて、穂希は慌てて二階へ上がった。ベッドへ寝転がると、一度は距離を置いた睡魔が再び歩み寄ってくる。気が緩んでいるのは、この疲れのせいだと思いたかった。

 朝香の父が現・町長の男であることは、二人だけが知る秘密なのだから。

 


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