ダモクレス   作:柳川裕一

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最果て(6)

 木島穂希が初めて伊藤朝香と出会ったのは、忘れもしない小学二年生の夏だった。

 概して物覚えがよくない穂希がその時の情景を色濃く覚えているのは何故なのか。適当な理由を何度探しても、出てくるのは「痛かったから」というひどく安直な答えだけだった。穂希は中学に入る以前の記憶が軒並みあいまいという鳥頭を自認していただけに、その時の痛みというのがどれほどのものだったか想像する助けになるだろう。

 穂希は、その日が島に来て数日という時期だったことも覚えている(離島に引っ越す、という一大イベントの日付すら曖昧なのだから先が思いやられるが)。陽炎が島全体を溶かしてしまうような日差しの強い夏の日で、まだ引っ越して早々だったせいか学校にも入っていなかった幼い穂希は、ぶらぶらと町中を当てもなく歩いていた。

 桟敷川の橋を渡ろうとしたところで、穂希はふと、橋の欄干で遊ぶ子供たちの姿に気づく。それは自分よりも年上の、おそらく小学校五年六年、かかあるいは中学生くらいの少年たちであり、幼い少女にとっては何よりも出会いたくない生き物のひとつだった(この少年たちが学校をさぼっていたのか、あるいはすでに夏休みに入っていたのか、はたまた祝日だったのかはわからない)。

「おい、お前どっから来た」

 そんな意味のない問いかけで自分の優位性を示そうとする少年たちに対し、穂希はもじもじと下を向くのが精いっぱいで、その様子を見た少年たちはますます興奮したように喚きながら、穂希を小突き回した。

「おまえ、ヨソモンだな」

 少年たちはそう叫んで少女の背を押すと、そのまま小さな体を欄干に押し上げた。

「いいか、この島の人間になりたければここから飛び降りるんだぞ」

 中でもリーダー格の少年がそう胸を張った。恐る恐る下をのぞき込んだ穂希の視界ははるか下を流れる川面にくぎ付けとなり、途端にぶるぶると体が震えだした。

「何やってんだ、はやく飛び込め!」

 少年たちは口々にそういって穂希を押しやったが、穂希は頑として欄干を離そうとしなかった。離したらお落ちちゃう、離したら落ちちゃう。穂希は今でも緊張した時にその時の恐怖心を思い出す。へそを体の内側にぎゅうと押されるような、胃袋をそのまま押し上げられたような圧迫感。

「おい、何やってんだ!」

 その時、橋の向こうから一人の少年がやってきた。少年たちよりも頭一つ高い身長と、しなやかな体に整った顔立ち。それはまるで白馬に乗った王子様そのままで、穂希はそのまま何事もなければ、その少年に一目ぼれしていただろう。

 しかし、現実はそう甘くない。

「何やってんだ!」

 こちらに駆け寄ってきた少年は、走ってきた勢いのまま穂希の体を抱き上げた。助かった…。そう思ったのもつかの間、穂希の体はなぜか宙へと投げ出され、気が付いた次の瞬間には全身を一度に叩かれたような痛みが走り、どおと冷たい水が体を包み込んだ。

 川に落とされたのだ、気づいた瞬間に穂希はパニックになった。いったいなぜ。あの少年がやったのか? 視界を覆う泡と、青緑色に濁った水の流れ。時折手足の指が砂利に触れるのが分かったけれど、どちらが上なのかもわからず、穂希は無茶苦茶にもがいた。それからすぐに強い力で引っ張り上げられる感覚がして、再び青い空が見えた。

「ほら、サイコーだろ?」

 目の前では、穂希を抱きかかえた姿勢の少年が屈託のない笑顔で笑っていた。

「背伸びしてみ。足、つくから」

言われてみれば、頭一つ水面から出した姿勢でも足の指先が砂利を触るのが分かった。騒がしさに視線をあげれば、橋の上の少年たちがもろ手を挙げて快哉を叫んでいる。

「内地から来たんでしょ? わたし朝香。よろしく」

 そこではじめて穂希は、目の前にいるのが少年ではなく少女だということに気づいた。短く刈った髪とすらりと伸びた背丈のせいで、少年のように見えただけだったのだ。栗色の瞳の奥には、好奇心がぎらぎらと輝いていて、穂希はまぶしさに目を伏せた。外見にもまして、少女が自分と同じ二年生ということにも驚いた。だから、穂希が思わず口走った「なんで?」という言葉には、いくつものなぜが含まれていたのだけれども、その中で最も大きかったのは、言わずもがな、

「なんでわたし、落とされたの?」

 という問いだった。現代なら、いや十年前でも、状況次第では酷いいじめともとれる行為だ、と穂希は今でもそのことを苦々しく思い出す。しかし朝香にとってそこは川面までわずか三メートルばかりの背の低い橋にすぎず、少年たちは毎日のように飛び込み遊びをして遊ぶお決まりのスポットで、実際に一種の通過儀礼的な飛び込みは毎年の風物詩だった。だから、少女の視線に込められた怒りや困惑は、遂に幼い日の朝香には届くことはなかった。

「サイコーだろ? ホントは海の方が気持ちいいんだけど、今日は風が強いから」

 当時の朝香がどんな思惑だったかはわからないが、十年たって当時のことを述懐する時、朝香はきまってこう言う。結局プラスだったでしょ、あたしと友達になれたんだし。少なくとも、本当の意味でのいじめに出会うことは無くなったんだから。

 しかし穂希は今に至るまでその意見には賛同できない。飛び込んだ時に水が入ったせいか鼻の奥からは灰の臭いがしたし、体はじんじん痛むし、服は濡れて体が重い。耳の中にも水が入っている。幼い穂希は朝香の腕を振り切ると、人生で初めて覚えた軽蔑という感情を最大限に込めてこう呟いた。

「サイテーだよ」

 これが穂希と朝香の最初の出会いだった。穂希と朝香の「事件」に対する認識は今でも平行線のままで、決して交わることはない。穂希からすればもっと穏健な出会いもあったろうに、と思うし、これからもずっと、そう言い続ける自信があった。

 

 当時の穂希にとっては疎ましいことに二人の少女はともに角崎住まいで(引っ越したばかりのころ、穂希は両親と中町にある公務員用の仮住まいにいたので、二人が出会ったのは中町だった)、海という抜け道のない壁に囲まれた世界で、二人は必然ともに多くの時間を過ごすことになった。

ひとりでぼうっとしていることの多い穂希と、快活で容姿端麗、時ならず教師たちを翻弄する朝香は、はた目からは対照的ですらあり、穂希の母の葉子は一度ならずも穂希がいじめられているのではと疑うほどだった。小学五年生の時、学校の二階から穂希が落ちかけた際には葉子は朝香の家に押し掛けたほどだったが、帰ってきた葉子の第一声は

「朝香ちゃんのこと、助けてあげるんだよ」

 というものだった。今となっては、朝香の祖父母から家庭の事情を――シングルマザーが長患いで入院中であることを聞かされたのだとわかるが、べそべそと涙をふきながら帰ってきた母の姿に、穂希は朝香という人間の底知れぬ影響力を感じ取り戦慄した。その眼には朝香はトラブルメイカーでもあったが、同時に(少なくとも穂希の知る範囲での)島の人々、みなから愛される奇怪な存在に映った。

穂希はますます朝香から距離を取ろうとしたものの、二階から落ちた時の真相は、手すりで遊んでいて落ちかけた朝香を穂希が助けようとした、というもので、それ以来朝香はますます穂希に近づくようになった。

「あたし、彼氏できたわ」

 必然、距離が近ければ話す内容も踏み込んだものとなり、中学生になった朝香は通学に使っていたバスの待合室でそう穂希に打ち明けた。穂希は「で?」と返したいのを必死にこらえ、せいぜい興味があるふうを装ったが、そんな内心は読んでいる、とばかりに朝香はくすくすと笑うのだった。

「穂希、本当に男子とか興味ないよね」

「興味はあるよ。なぜああもやつらはバカなのか、とか」

 中学校に上がった穂希は少しばかりの社交性を手にし、一方の朝香は思春期を過ぎたころから一気に大人の魅力を身に着けていった。それは主に外見的なことだったけれども、驚く周囲の反応に反して、穂希はさもありなんと思うばかりだった。初対面の数十秒は、確かに朝香は白馬に乗った王子様だったのだから。

初めての彼氏と手ひどい別れ方をしてからというもの、朝香は徐々に口数が減っていったし、それに反比例するように穂希は思いついたことを何でも口にするようになっていったけれど、いつでも肝心なことを打ち明けるのは朝香の方で、穂希は往々にしてそれを静かに受け入れるのだった。

「父親、見つかった」

「父親って、朝香の?」

 それ以外に何があんだよ、と朝香がくすくすと笑う。それは中学三年の秋、角崎のバス停でのことで、夕陽に照らされた朝香の顔が酷くきれいだったことを覚えている。

「それは、おめでとう、でいいのかな」

「どうなんだろ」

 本気でそれを考えこむように、しばし遠くを見てから、朝香は言った。

「美浜将暉」

 ミハママサキ、という言葉が穂希の頭の中で正しく変換され、それがさらに海馬(あるいは大脳皮質)に伝達されるまでにしばらく時間を要した。美浜将暉、町長。ぐるぐると頭の中をニュース映像が駆け巡るのが分かった。島の旧家出身。東大卒。もと与党政治家の秘書。父の跡を継いで、離島の首長となった孝行息子。世襲政治家の鏡。そして妻は東京で出会った元アナウンサー。そこまで思い出して、

「どうりで、朝香もイケメンなわけだ」

 と穂希は思わず口走った。自分でも何を言っているのか、と自嘲したくなる。確かに、自治体の広報誌で見る美浜はこんがりと日焼けをした伊達な中年男というイメージで、おばさま方からの評判も上々だった。思い返してみれば、幼き日の朝香のボーイッシュな魅力にも通じるものがあったかも、そこまで考えてようやく、穂希は何の疑いもなくその告白を受け入れている自分に気づいた。

「そうか、やっぱ似てるのかあ」

「いや、今は全然」

「どっちだよ」

 くすくすとわざとらしく笑う朝香の姿が痛々しくて、穂希はほとんど薄闇に沈む町を見つめたまま、尋ねた。

「どこで?」

「高校行く準備でさ、役所とか行くじゃん。そしたらそこで」

「そっか」

「けっこう、ビビった」

「町長だもんね」

「どうせなら、総理大臣がよかった」

「確かに、町長だもんね」

 美浜町長は就任当初こそ「イケメン過ぎる町長」やら「地方知事の未来を憂う若きリーダー」といった(穂希からすれば)ナナメ上の注目を集めたものの、あくまで離島の首長にすぎず、そもそも美浜家が代々影響力を持つ島においては対立候補すらなかったから、その政治力も多分に先行き怪しいものだった。

それでも島においては「美浜家」の名が持つ力というのは偉大で、例えば不動産、医療、漁業といったあらゆる分野でそのトップが美浜家の血縁であることもまた事実であり、実際、穂希たちの学校で美浜家の分家筋の娘が教育実習に来た際の教師たちの遠慮の仕方と言ったら、およそ滑稽なほどだったのだ。

「あーあ。何か失敗したかな」

 朝香がそう言って立ち上がったのを見て、穂希はわれながら驚くほど狼狽した。失敗、というのが島に残ること、を意味するのが、なぜか反射的にわかった。

「でも、あれ、美浜さんが島に帰ってきたのって最近じゃない?」

 なぜか一度受け入れてしまった事実を否定したくてそんなことを呟いてみたけれど、それが無駄なことは火を見るより明らかだった。

「わたし、生まれたのは東京だもん。あの人は東京で母さんと出会って、きっと同郷だからとかいう理由でヤッちゃって、そんで私が生まれて。母さんはまさかあの人が戻ってくるなんて思わなかったから出戻ってきて。そんなとこなんじゃない」

 まるで暗記した教科書みたいにそうすらすらと想像のエピソードを語る朝香の姿が痛々しくて、穂希は思わず目を伏せた。そして、そのエピソードがおそらくほとんど真実であることが恨めしくて、穂希は思わず「なんだよ、それ」と呟いた。

「島、狭いなあ」

 すでにバス停を出て帰路を歩きはじめた朝香を追って夕陽の中に踏み出しながら、数日前の三者面談の事を思い出した。多くの同級生が島外の学校へ進学する中、穂希が島に残ることを決めたのはつい先日のことだった。決めた、と言っても何かを決断したわけではなく、穂希はほとんど何の迷いもなくそれを選んでいた。同級生たちが語る都会のイメージには何ら憧れるものがなく、かといって目指すべき将来の姿も曖昧模糊として、それなら現状維持で構わない。そう、思っていた。誤解していた。

穂希は自分が島に残ることを選んだ理由をその時になって悟ったのだった。朝香がいたからだ。それ以上でも、以下でもない。

「高校卒業したらさ、一緒に内地いこう」

 せめてこの惨めな自分を慰めてやりたくて、気づけば穂希はそう言っていた。

「一緒に東京行って、シェハウス借りて、アップルストアで働く」

「いいね」

 朝香の瞳に、あの蠱惑的な光が戻ったような気がした。茜色に染まった寂れた商店街を、二つの影が伸びていく。

「いくらかかるんだろ。東京で暮らすのって」

「んー、百万くらいじゃない」

「てきとうだな」

「なんかで読んだ。いや、映画かな。そういうお話があるんだよ。百万円貯めて、貯まったら次の町へ」

「いいじゃん。やろう、やろう」

 ああ、そうだ、約束したのはこの時だった。原付で通学するようになって以来、めっきり通ることが少なくなった商店街を、それでも何かの用事で通るたび、穂希はこの時の情景を思い出す。そしてそのたびに、またいつか朝香と一緒に歩きたいな、と考える。

 それは高校二年生の夏を迎えようとする今のところ、叶ってはいないのだけれど。

 


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