彼女たちの対ヒュージ戦争   作:Hakaristi

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私にできること

 

 

 心情的に受け入れることができないからといって抗命は許されない。私たちの肩には多くの人の命が乗っているのだから。

 

 

 私が防衛軍に志願したのは空を飛びたかったからです。幼い頃に読んだピーターパンのお話。自由に空を飛ぶことに憧れました。子供特有の全能感でジャングルジムの上から飛び降りて、現実を知った私は生身以外の手段で空を目指しました。それが空軍です。

 空を駆けることができて、おまけに誰かの役に立つことができる。お見舞いに来た小学校の担任教諭に、空を飛ぶ方法について聞いたときに返ってきた答えです。

 

 テレビをつければヒュージの被害に遭ったニュース。井戸端会議では近くのなんとかさんの息子が戦死しただの、隣町の誰それさんの娘がリリィになるために親元を離れてガーデンへ行ったなんて話題ばかり。小学校で教わるのは基礎的な知識と戦争のためのプロパガンダ。皆でやる遊びはいつだってリリィごっこ。男の子はヒュージの役ばかりやらされてかわいそうだったけど、リリィ役は女の子の特権でした。

 

 そんな時代です。私にも、空への憧れに負けないくらいのリリィになりたい気持ちがありました。その二つを一度に満たせる進路があると知ったとき、私の道は決まりました。

 中等航空学生は受験資格も厳しい物がありますが、私はなんとか基準を満たしていました。試験自体は建前のような物ですが、入隊後の訓練について行くことができるように体力学力を鍛えておく必要がありました。小学生の子供が遊びもせずに勉強と体力作りばかりをやっていたのは、今思うと異常かもしれませんが、当時の私は夢に近づいていることが嬉しくてまったく苦ではありませんでした。もちろんたまには仲のよい友人たちと公園で遊んだり、少し都会までお出かけしたりもしていました。

 

 

 航空リリィは後席要員であって、実戦で操縦を行うことはごく希ですが、戦闘機に搭乗する以上、操縦の教育を受けることは必須でした。今でも覚えています。初めての単独飛行で空に出た日。決められた経路を周回して飛行場まで戻ってくるだけの飛行ですら、感極まる物がありました。

 基礎教育、初級課程、基本過課程、戦闘機操縦課程と、高密度の訓練と試験、試験、また試験。航空リリィは時たま「マギ電池」などと揶揄されたりすることもありますが、言われているようなお茶をたしなみながら固定武装にマギを供給するだけの気楽な仕事ではありません。

 レーダー操作、兵装管制、前席の代わりに交信を行うことも日常茶飯事ですし、戦闘機動の訓練こそ少ないですが、前席が操縦できなくなったときに機体を持ち帰るための操縦訓練も欠かすことができません。そして、最も重要なのは目視による見張りの技術です。

 いくら強力なレーダーを積んでいるとは言っても、ヒュージを相手にすればどうしても探知距離は減少します。強力なヒュージともなれば可視光域以外の波長を極限まで減衰させる隠れ蓑を纏っていることすらありました。「戦場で最も頼りになるセンサーは何か。Mk.1アイボール、すなわち自身の目玉である」という言説が操縦教本の1ページ目に載っていました。

 

 

 私が部隊で乗っていたのはF-3でした。その後席で火器管制官を。F-3は邀撃や制空に対して非常に適性がありましたが、マルチロール機との触れ込みでしたから、当然ながら対地支援をこなすこともできました。知っていますか? マルチロールというのは「何でもできる」ではなくて、「何でもこなさなければいけない」なんです。機体の能力的に可能であっても、それを扱う人間の方が追いついていませんでした。教育隊で習った基礎を元に配属部隊で経験を積みますが、実戦で磨かれるのは頻繁に使う技能ばかりです。画一的な技能で教育隊から「出荷」された私たちは、配属先の部隊の色ではっきりと能力に得手不得手がありました。

 

 私の居た百里基地は主に太平洋上のネストから侵入してくるヒュージの迎撃にあたっていました。八丈島ネスト、小笠原諸島ネスト群、硫黄島ネスト、そしてマリアナ大ネスト。太平洋をはるばる越えてやってくるヒュージたちを、私たちは東京急行という由緒正しいあだ名で呼んでいました。

 

 そのような環境でしたから、主な任務は邀撃です。しばしば本州各地の制空戦闘に投入されもしましたが、対地攻撃を行う機会はあまり巡ってきませんでした。当時の百里飛行隊の対地任務は、最低限こなすことができる程度で、はっきり言って皆不得意でした。

 そんな部隊にすら対地支援要請のお鉢が回ってきたのですから当時の混乱ぶりがわかるでしょう。

 

 

 

 

 浜名湖S級ネストからあふれ出したヒュージの群れは瞬く間に静岡県を飲み込みました。天竜川の防御陣地群は瞬く間に抜かれ、防衛ラインはあっという間に大井川まで後退しました。4日間、計15度のヒュージの群れによる襲撃を跳ね返し、持ちこたえることに成功した大井川の防衛線ですが、東岸に橋頭堡を築かれてからはあっけない物でした。こうして私の故郷、焼津が戦場になったのです。

 時間を稼いでいる間に増援を送り込み大井川以東を確保、その後に天竜川まで押し返そう、という計画は、増援が予定の半数しか届かなかったことで破綻しました。

 駅のホームは避難しようとする人間で溢れかえり、到着した列車から降りるどころではありませんでした。高速道路も峠の山道も、大渋滞を引き起した挙げ句に燃料切れで立ち往生した車列で塞がれており、まったく進むことができなかったようです。

 唯一空路だけは自由な移動が可能でしたが、固定翼機を運用できる滑走路は大井川の西側にあり、着陸など夢のまた夢でした。東岸に取付かれかけている時に、どうして西岸にある空港を確保するようなことができるでしょうか!

 

 

 私たちも百里と静岡県を何度も往復して対地支援任務にあたりました。平均して日に6回、多い日では8回の出撃です。往復1時間の近距離を生かして、燃料補給を省いて弾薬だけ補給して再出撃することなど当たり前でした。

 身軽になった後は制空戦闘に加わって、少しでも友軍の負担を減らす……。出撃のたびに少しずつ往復距離が短くなっていきます。最初は天竜川河口付近まで出かけていたものが、どんどんと近くなり、焼津市までの往復になっていました。谷間を縫って市街地に侵入しようとするヒュージに向けて誘導爆弾を放り込む。そんなことをひたすら繰り返していた結果、市街地との境目にある山がキレイになくなったりもしました。無尽蔵にも思えるほど湧き出してくるヒュージにひたすら攻撃を続けた結果、あんなにも高くそびえていたはずの山が高さを減じてたのです。文字通り地図を書き換える必要があるほどの攻撃を加えてもヒュージの進撃を止めるには至りませんでした。

 

 ヒュージが焼津の市街地に取り付いた後は航空支援も難しくなりました。足場の悪い山間部と異なり、キレイに舗装された市街地にしっかり足をつけたヒュージは対空砲代わりに熱線を撃ちかけてくるようになっていました。可燃物も多い市街地では、発生した火災煙で誘導用のレーザーが遮られることが多くなって、いきおいGPS誘導だけで投下しなくてはなりませんでした。GPS誘導だけでは精度も劣りますし、目標が移動してしまえば無駄に地面を抉るだけで、はるばる何百キロも運んできた爆弾を無駄にすることも多くありました。

 

 何の因果か、実家の近所を爆撃したこともありました。昔自分が飛び降りたジャングルジムが前衛的なオブジェへと転職するのを見ました。かつて通った小学校の体育館が中に詰まったヒュージごと爆砕される光景を見ました。通い詰めて勉強した図書館にヒュージが巣くって、そこに1000lb爆弾が飛び込んでいくのを見ました。

 それら全てが私の手で行われた行為でした。

 

 私も故郷には多少の愛着がありました。防衛軍に志願したのも、見知らぬ誰かのためではなく、自分の見知った範囲の世界を守るためです。そのために涙を呑んで、思い出を自分の手で破壊したからこそ、静岡陥落時の郷土防衛隊の暴走には怒りを覚えます。

 

 

 大井川東岸に戦場が移ってから一週間ほど経ったころ、戦場は最終防衛線である瀬戸川まで達していました。瀬戸川は、大井川などとは比べものにならない、政治的決断を(はか)るための記号としての意味しかないような細い河です。当然ながらそのような場所でまともな防衛戦闘などできるはずもなく、瞬く間に突破され、戦場は瀬戸川北部に広がっていきました。

 

 最終防衛線を突破されたことで、現地で活動している部隊には撤退の命令が下されました。直近の反攻を諦め、宇津ノ谷と日本坂の2カ所に戦力を集中させることで静岡市を最前線としつつ機会を伺う。事前の計画ではそうなっていました。

 

 しかしながら、郷土防衛隊が撤退を拒否、あろうことか防衛軍の一部までそれに同調したことで、現場からは最後の秩序が失われました。

 防衛軍の戦力を含めた万全の状態でもヒュージの侵攻を遅滞させるのがやっとだったというのに、郷土防衛隊だけでどうして押し戻すことができるでしょうか。

 撤退が壊走に変わるのにさほど時間はかからなかったと聞いています。

 

 まともな地上部隊が消え去ってしまっては航空支援もなにもあった物ではありません。ヒュージの注意を引き、敵の対空砲火の密度を減少させてくれる地上部隊があってこそ効果的な支援を行えるのであって、航空機だけでは目標の選定すら覚束(おぼつか)ないのです。

 それでも私たちはなんとかヒュージを押しとどめようと奮闘しました。上空からでも見分けることのできるラージ級に2000lb爆弾をねじ込み、ミドル級の群れに機銃掃射をかける。可能だったのはその程度です。

 できるだけのことはしたつもりでしたが、そんなもので押しとどめることができるほど甘くはありません。

 

 

 

 核攻撃の命令が下りました。

 

 

 

「……クソッタレが」前席が搭乗前に兵装を確認して呟いた言葉が、私たち皆の心の内を表していました。普段通り、洋上での発射であれば付随被害など考えなくても問題ありませんでした。しかし、そのとき私たちは50キロトンの威力を持つ弾頭を、自らの守るべき土地へと送り込もうとしていたのです。

 危害半径が大きすぎる故に味方の頭上に投入することなどできない兵器も、この状況であれば使用が可能でした。

 

 未だ疎開の完了しない静岡市の50万人が脱出するまでの間、ヒュージを山の向こう側へ押しとどめておく必要がありました。そのために選択されたのが、持続的な火力による制圧です。

 簡単にいってしまえば、1時間おきに核弾頭を搭載したミサイルを送り込み、ヒュージの侵攻を止める。そんな乱暴な作戦でした。まともな戦術を選ぶことができるような戦力は遥か遠方で渋滞に捕まったままでした。

 

 

 長距離多目的誘導弾に爆撃効果判定用の偵察ポッド、自衛のために空対空短距離誘導弾。2機編隊で離陸し、相模湾上空まで進出。そこで核弾頭を搭載した長距離多目的誘導弾を対地攻撃モードで発射する。射撃用の諸元を入力する手が震えるのが自分でも分かりました。

 ミサイルが発射されて……自機からスルスルと伸びていく2条の白煙を見ながら、私は解放感を感じていました。試験が終わった後のような、大きな買い物の支払いを済ませた後のような。

 

 数分後、西の空が輝きました。

 

 

 

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 私は一般人の避難を支援するための増援として送り込まれました。ネストから際限なく湧き出してくるヒュージを狩り続け、少しでも時間を稼ぐように、という指示でした。全国からリリィが送り込まれ、送り込まれるよりも多い数のリリィが後送されていきました。いくらスモール級、ミドル級がほぼ全てだとは言え、圧倒的な数を頼みに襲いかかってくるヒュージの脅威は恐ろしいものです。私の仲間たちも一人欠け、二人欠け、たったの三日でレギオン―当時は班と呼ばれていました―は動ける構成員が半減しました。

 

 一体のヒュージに斬りかかっていると、そのわずかな間に熱線が三本も四本も飛んできます。スモール級程度の熱線など防御結界で防ぐことができるとはいえ、立て続けに食らってしまえば貫通される危険も十分にあります。ヒュージを盾にしようにも、乱戦状態の中では敵の射線を考慮することも困難です。あそこには、現代の強大な一個体への対処とはまた違った危険がありました。

 

 それでも何とかヒュージを食い止めていました。いえ、食い止めていた、というのは語弊がありますね。毎日大量のヒュージを仕留めながらも私たちはジリジリと押し込まれていました。昨日まで戦っていた防衛線にたどり着くことができない、次の日はまた一線下がる、といったように。

 

 ネストを潰して名を上げる! と意気込んで乗り込んだ私たちでしたが、初日の夕方にはもうそんな気力はありませんでした。ヒュージの体液、汗、泥、血。初日を何とか生き抜いた私たちは体中をドロドロに汚したまま眠りにつきました。お風呂なんて文明の産物は遥か遠く。そんなものに使う資源も時間も気力もありません。食事ですらエナジーバーを水で流し込んで終わりでした。

 

 全力を振り絞って戦うことは長くは続きません。戦場ではわずかな気の緩みが明暗を分けます。疲労から集中力を途切れさせてしまった一瞬で、私はヒュージの攻撃を食らいました。

 大きな衝撃……、宙を舞う感覚……、遅れてやってくる痛み……。

 医師の見立てでは左腕と肋骨が折れていました。他にも特に傷が深かったのは脇腹の裂傷でしたが、細かな切り傷は全身にありました。私は前線を離れ、後方に送られて入院することになりました。

 

 

 後送されるとは言え、リリィ一人に専用の人員をつけることなどできません。むしろ逆でした。私は避難民と同じトラックに乗って移動することになりました。

 規則ではトラック一台につきリリィが一人、護衛として乗り込むことになっていましたが、5台のトラックで組まれたコンボイにリリィは私一人だけでした。ネストの攻勢はとどまるところを知らず、護衛にリリィをつけるような余裕などどこにもありませんでした。避難する車列には私のような負傷リリィがたまに混じっていれば運の良い方で、運転手は徴用された民間人、防衛軍の軍人も負傷兵が二、三人いるだけでした。

 

 私の乗ったトラックの荷台に設えられた座席を埋めているのは、避難の対象となった老人や子供たち、その母親でした。体力のある年齢の人間は男女の区別なく徴用され、雑役に駆り出されていました。避難誘導に始まり、砲弾の運搬や陣地構築、給食の調理にちょっとした看護。正規の軍人でなくともできることは山のようにありましたし、防衛軍の人員やリリィだけではまったく手が足りませんでしたから。

 

 隣に座った若い母親は私にとてもよくしてくれました。生まれて間もない赤ん坊を抱えながら、「女の子がそんな格好をしていてはダメよ? どんなときだってキレイにしていなくては」なんてとびきりの笑顔で言いながらウェットティッシュで私の顔を拭ってくれたんです。垢や汗やいろいろなものでグチャグチャになっていた私の顔は、しばらくぶりに人間の顔を取り戻しました。

 彼女は、「私も本当は防衛軍に協力したかったの。でもこの子がいるから。私が死んだらこの子がひとりぼっちになっちゃうでしょ?」と言って愛おしそうに赤ん坊を抱きながら話してくれました。私にも抱かせてくれようとしたのですが、丁重にお断りしました。だって、顔は綺麗になったとはいえ、身体の方はまったく手つかずの汚いままだったんです。そのときは、”誰かを抱きかかえるなんて、もう少し身綺麗にしてからにしたいわ“なんてお高く纏った返事しかできませんでした。変にもったいぶらずに素直に抱かせてもらっていれば、何か違う未来もあったのかも知れません。

 

 避難しなければならない距離は長くありませんでした。40kmも後方へ行けば、まだ電車が動いて避難民を運んでいるという情報もありましたし、40kmなど1時間もあれば移動できます。そう思っていました。

 その考えはすぐに甘かったと思い知らされることになりました。峠を一つ越え、二つ越え、最後の町中を走っているときでした。既に避難を終え、無人となった町を眺めながらぼんやりとしていた私は、突然沸き起こった爆発音に意識を引きずり戻されました。

 痛み止めのフェンタニルトローチを吐き出し、急停車したトラックの荷台からチャームを掴んで飛び降りると、そこには小さな地獄が広がっていました。先頭を進んでいたトラックが爆発したのです。私は叫びました。

 

「ヒュージよ! トラックから降りて走って!」

 

 怪我をしている? 関係ありません。ヒュージの勢力が不明? 関係ありません。私はリリィで、その場にいたリリィは私だけでした。

 利き腕一本でチャームを振るってヒュージを倒します。ビルの影に見えた一体に駆けよって大上段から唐竹割りに。その後ろから出てきたヒュージに、抱え込んだチャームごと体当たりをして壁に串刺しにします。一瞬で動かなくなったヒュージからチャームを引き抜いて、辺りを見回して気づきました。そこら中にヒュージがいる、と。そこから先はもう、無我夢中でした。とにかく目の前のヒュージを切って切って切り続けて。当時はまだマギクリスタルコアの性能も知れたもので、交戦記録もそこまで詳細なものではありませんでした。だから何体のヒュージと交戦していたかは今となってはもう分かりません。とにかくたくさんのヒュージを切り捨てました。目に見える範囲で最後のヒュージを仕留めたとき。私のチャームは役目を果たした、とばかりに刀身がポッキリと折れてしまいました。それまでの激戦でくたびれていたところに、気を緩めた私が変な具合に力を入れてしまった結果でした。

 

 ヒュージの襲撃から無事に逃げおおせたのは30人足らずでした。トラックは全て破壊され、私たちは徒歩以外の移動手段を失いました。夕焼けの日差しのなかで、私たちは歩き始めました。時折遠くから聞こえるヒュージの叫び声に怯えながら。

 移動中にヒュージに見つかっても、もうチャームがありません。私はリリィではなく、単なる無力な少女でしかありませんでした。

 

 そしてその移動中にヒュージが三度、現れました。バラバラに散らばって逃げるしかない、何人かは犠牲になるかも知れないけれど他の人は逃げ果せられる、と覚悟を決め、振り返って集団に指示を出そうとしました。そのときです。銃声が響きました。

 銃声の方を見ると、同道していた負傷兵の方がヒュージに小銃を撃ち込みながら、明後日の方向へ駆けていくではありませんか。私は理解しました。ヒュージが彼の挑発に乗り、盛大な銃声に引かれて追いかけていくことを確認すると、集団を反対方向へ逃げるように誘導します。同じことがもう二回、起こりました。

 

 夜になろうとする薄暗闇の中で私たちがたどり着いたのは小学校でした。体育館の脇にあった避難用のシェルターを見つけると一目散に駆け込んで、皆が座り込みました。老人、老人、幼児、母親、赤子、母親……。皆疲れ切って一言も声を出すこともできません。シェルターの扉も、故障しているのか操作が悪いのか、閉めることができませんでした。ああ! 扉を閉めることさえできていたなら!

 光が漏れてヒュージの気を引かないよう最小限の非常灯のみをつけたシェルターの中で、非常用の電話を使って、やっと指令部と連絡を取ることができました。私たちを襲ったヒュージは、防衛線を迂回して浸透してきたヒュージの先鋒だったと聞かされました。私たちのコンボイの前後に出発した車列は全てやられてしまった、とも。そして私たちが越えるはずだった最後の山では既に戦闘が始まっており、今日の昼まで私が戦っていた防衛線は既に包囲され、風前の灯火となっていることも知りました。

 

 ヒュージの群れのただ中に取り残された事実がありましたが、指令部は必ず救助をよこすと約束してくれました。明日の朝一番に航空機で回収すると。

 そのことを伝えると皆の間に安堵のため息が広まりました。一晩耐えれば迎えが来てくれる。戦線を突破して安全な地域に駆け込む、というほとんど不可能な挑戦まで視野に入れていた私たちにとって、それは希望の光でした。

 

 ほとんどの人がまんじりともせずに夜を過ごしていました。扉を閉めることができない入り口から時折入り込んでくる、ヒュージの雄叫びに身を震わせて、身体を休めるのもやっとでした。皆が疲れ切って、睡眠不足でした。疲労はピークを更新し続け、無事に朝を迎えることだけを希望として恐怖に耐えていました。

 

 深夜、午前2時頃だったでしょうか。それまでよりも恐ろしく近い距離でヒュージの叫び声が聞こえました。本当に近くで、どうやら小学校の敷地のどこかにいるらしいことが感じられました。シェルターの中の空気が一変して、わずかに漂っていた弛緩した雰囲気が霧散します。呼吸音すらもヒュージに聞こえるのではないか、心臓の鼓動を聞きつけたヒュージが今にもその入り口から入ってくるのではないか、と恐ろしい想像に襲われました。出入り口が一カ所しかないこのシェルターにヒュージが侵入してきたら抗するすべはありません。身じろぎ一つしないように息を潜めながら、ヒュージがどこか遠くへ行ってしまうことを祈りました。

 そのときです。緊張を増した空気を敏感に感じ取ったのでしょうか。あろうことか、赤ん坊が火の付いたように泣き始めたんです。私は思わずそちらを見ました。見てしまいました。シェルター内の全ての人の視線を浴びた母親の顔が、絶望に染まったものから覚悟を決めたものへと変わるその様を。

 彼女は赤ん坊の鼻と口を自分の手で塞ぎました。夜闇を切り裂いて響き渡っていた泣き声がくぐもったものになり……まもなく小さくか細くなって……泣き声が止みました。昼間、私の顔を拭ってくれた時のあの弾けるような笑顔をしていた若い母親はもういませんでした。まなじりからは滂沱と涙が溢れ、歯を食いしばりすぎたのか、わずかに開いた口の端からは荒い息と同時に血の泡が流れ落ちていました。

 

 私は彼女を見ていることしかできませんでした。体は凍り付いたように動かず、心臓だけが早鐘のように鼓動を刻んでいました。そして全てが終わった後、赤ちゃんの体温を逃がさないようにその体を抱え込んで、声を殺してすすり泣く彼女を見て、ようやく自分を取り戻しました。

 私の心の内を占めていたのは、凶行を目撃してしまった恐ろしさと、そんなことを許してしまった自分の弱さに対する怒り、そしてヒュージに見つかる恐怖から解放された安堵感でした。そう、安堵感です。何の罪もない赤ちゃんが理不尽にその生を閉ざされたというのに、私の感じていたものは安堵感だったんです。そのことに気づいて愕然としました。

 

 夜が明けて……迎えの輸送機が小学校の校庭に着陸しても、私は立ち上がることができませんでした。

 

 

 

 

 

 

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