【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ   作:かむくら

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 タイトルとあらすじは全部嘘です。これも嘘です。


虚実に耽るエイシンフラッシュ

 ずっと、あの光だけを見つめていた。

 

 霧の向こう側、吹き荒ぶ風の向こう側。見通せない未来を見通そうとして、掴めない星を掴もうとして。伸ばした手のさらに先で、ただ煌々と瞬く光。

 

 何度も、何度も、夢に見る。何度も、何度も、夢を見る。

 

 止まらぬ足が重くとも。幼い想いが熱くとも。

 

 それを求めることだけは、どうしてもやめられない。

 

 それは果たして何であろうか。

 

 届けば消える陽炎であろうか。届けば灼ける恒星であろうか。

 

 答えは知らない。わからない。だからこそ、それを知ろうと求め続ける。

 

 夢に見る。夢を見る。

 

 きっと今も、これからも。

 

 答えを知るまで、終わらない。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「結局、どうしてファウストは救済されたんだ?」

 

 一冊の本を閉じ、男は言った。

 21世紀のある日。時刻は18時を回った頃。トレセン学園の片隅の、そのまた一室。それなりの厚さの本を読み終え、達成感と読後感を味わいながら、彼は眼前の少女に問いかけた。

 

 人間にはない頭上の聴覚器官と、尾骶骨(びていこつ)の付近から伸びる尻尾。若干の青さを含む黒のそれらが、彼女が単純な人間ではなく、それによく似た種族────ウマ娘と呼ばれる存在であることを強く主張していた。

 

「それは永遠の問いですね」

「ああ、やっぱり? そりゃ、誰だって思うよね」

機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)と言ってしまえばそれまでですが、それを一言で終わらせたくないのが読者というものです」

 

 机の上に本が置かれる。それを少女は手に取り、パラパラと開いた。

 

「私も何度も読み返しましたが、〝これだ〟と断じることのできる答えはありません」

「君までそう言うのだったら、俺が考えるには難しい題だったかな」

「そんなことはないですよ。誰にだって解釈の自由は与えられています」

 

 またすぐ見つかるように、と。少女は栞紐(スピン)を話題になっているページに挟んだ。

 

「ちなみになんだけど」

「……? はい、なんでしょう」

 

 男が問う。それは本の内容に対する考察ではなく、少女に向けての問いかけだった。

 

「君はどうしてだと思う?」

「答えはわからない、と言ったはずですが」

「所感でいいよ。君はどう思ったか聞きたいだけ」

「そう、ですね……60秒ください」

 

 少女はしばし思考する。目を閉じ、顎を指で三度叩いて、端正な顔を優美に悩ませながら、きっちり60秒の後、口を開いた。

 

「やはり、愛する人の祈りが届いたと考えるのが、一番ロマンチックではあります」

「……ふぅん」

「……なんですか」

 

 愉快そうににやにやと少女を見つめるその表情(カオ)に、つい棘のある返事をしてしまう。男は椅子の背凭(せもた)れに寄り掛かりながら、「いやなに」と、これまた愉快そうに言った。

 

「やっぱり君ってロマンチストだなって思っただけ」

「あなたに言われたくありません」

「そうだよ。俺も君も、揃って夢想家(ロマンチスト)だ」

 

 言って、男は部屋の隅に目を向ける。そこに並ぶのは、煌びやかな数々のトロフィー。駆け抜けた過去の栄光、その蹄跡。かつて見た夢の轍だった。つい(まなじり)が下がる。対して、無意識のうちに口角が上がった。

 つられて少女もそれを見る。何故男がそれに今目を向けたのかわからないようで、その優しげな表情(カオ)に疑問符で答えた。

 

「そもそも〝やっぱり〟って……私はそんなにロマンチストに見えますか」

「君だけじゃなくて、トレセン学園(ここ)にいるみんながそうだよ。まだ見ぬ夢を追いかけているんだから、揃って全員ロマンチストだ。その中でも、特に君はそうだよ────フラッシュ」

 

 優しく微笑んで、彼は言う。

 告げた男はトレーナー。そして、告げられた少女は、エイシンフラッシュ。

 トレセン学園の生徒にして、初代URAファイナルズ中距離部門覇者である。

 

「〝夢〟を〝未来に実現させたいと願う理想〟と定義すれば、どんな些細な目標や予定だって〝夢〟になり得る。そういう点で、君の定めたスケジュールは、全て小さな夢の集合体と言えるんじゃないかな」

「一理あるとは思います」

「でしょ?」

「なら、私からも一つ聞かせてください」

 

 してやったりとでも言いたげなトレーナーの言葉に挟むように、エイシンフラッシュの口が動く。

 夢。意義としては、将来の希望。現実の在り方とは別に願う理想。

 エイシンフラッシュの夢は、故郷でマイスターとして大成すること。一度は先送りになったそれは、まだ胸の中で燃えている。

 

 ならば。

 それを先送りにさせたトレーナーは。

 あの日、有マ記念の熱狂の中で、全ての予定を狂わせた彼は。

 

「あなたの夢は、なんですか?」

 

 そういえば、聞いたことがなかったと気がついた。

 当時のトレーナーはまだ新人で、担当を持ったこともないただの人。何かの夢を抱いてトレセン学園にやってきたのか、それともトレーナーになること自体が夢だったのか。それすらもエイシンフラッシュは知らなかった。

 トレーナーという職業を夢とする者もいれば、GⅠ制覇、ダービー制覇など、その先に夢を見る者もいる。自らが鍛え上げたウマ娘で偉業を為すことを生涯の目標にしているトレーナーだって珍しくない。

 

 そうだな、と一拍置いて。

 

「君だよ」

 

 拍子抜けするほどあっさりと、彼はエイシンフラッシュを指さした。

 

「……え?」

「だから、俺の夢。他の誰でもない、君だ」

 

 きょとん、という効果音が鳴った気がした。

 エイシンフラッシュは間の抜けた表情でトレーナーを見る。一本立てた指を戻して、彼は続けた。

 

「正直、俺自身に夢はない。なかった。トレーナーになったのだって、そんな大した理由があるわけじゃない。ただ────」

「ただ?」

「最初に出会ったのが君だった」

 

 はにかんで、

 

「無理なスケジュールを組んで、自分の身体のことなんて省みることもせずにがむしゃらに頑張る君を見て、放っておけなかった。最初はただそれだけ」

「むっ……それは聞き捨てならないですね」

「でも本当じゃないか」

 

 言って、彼は出会いの日を思い返す。

 過密で、過度で、過負荷なメニューをこなし続けるエイシンフラッシュを見て、どうしても放っておけなかった。

 それはトレーナーとして当然の行動だ。人間より頑丈とはいえ、未だ成長途中にいる少女が身体を壊すようなトレーニングをしていたら、その道の人間としては止めなければならない。きっと、誰が見てもそうしていた。たまたまそこにいたのが彼であり、気づけたからこその出会いでしかない。

 

 だがその出会いに、彼は夢を見たのだ。

 

「誇れる自分になるために、って言ったよね。本当に痺れたよ。俺より一回り下の()が、まさかそんな信念を抱いているとは」

 

 最初は変わった娘だとしか思わなかった。不器用で、自分を変えることを知らないだけの典型的な堅物だと思っていた。

 だがその裏には彼女なりの思いがあり、夢がある。それを知ったからには、見て見ぬふりはできないだろう。

 

「まさかその後すぐにご両親に引き合わされるとは思ってなかったけど」

 

 あれは本当に驚いた、と笑う。対してエイシンフラッシュは顔を真っ赤にして、何か口籠もったように断続的に言葉を発していた。

 

「あ、あれは、その……!」

「わかってるって。肝が据わってるように見えて、意外とそういうところで物怖じしちゃうくらいには、君は不器用なんだから」

 

 夕暮れ時ということもあって、沈む黄昏の色が窓から室内へと差し込んでくる。それに紛れるようにして、彼女の頬を彩る朱色も、どんどん赤みを増していった。

 

「……あなたはイジワルな人です」

 

 言い訳のような短い言葉を言い終えて、やっと出てきたのは可愛らしい非難だった。指を身体の前で絡めて、少し下を向いた物憂げな表情(カオ)で発されたその言葉に、トレーナーは小さく吹き出した。

 

「ごめんごめん。でも、それがあったからこそ、俺は君のトレーナーになるって決めたんだよ」

 

 かつての言葉を思い出す。

 

 『私のトレーナーさん……に、なってほしいと考えている方です』

 『まだ予定ですが』

 

 両親の前に連れられ、突然告げられた〝予定〟。驚きはしたが、納得もした。初めて彼女を見たときから、ずっと心は決まっていた。

 運命というものがあるなら、きっとあの瞬間のことを指すのだろう。

 

 三年前のある日のこと。選抜レース、六着の日の昼下がり。

 

「ふふっ、そうでした。トレーナーさんは私に〝ひと目惚れ〟したんですもんね」

「あ、それ言っちゃう? 今思い返すと結構恥ずかしいんだけど」

「イジワルされたので、おあいこです」

 

 頬に差す赤みはわずかに引いて。

 先ほどとはまた別の色をその表情(カオ)に滲ませて。

 エイシンフラッシュは口に手を当て笑っていた。

 

「なるほど。君も中々イジワルだ」

「ええ。誰かさんに似て」

「……ぷっ」

「……あははっ」

 

 互いにどこかおかしくて、つい自然に溢れた二つの笑い声。

 黄昏時は終わろうとしている。陽光の赤は既にその輝きを半分以上地平の向こう側に隠し、月が反対側から顔を出す。宵の明星の季節にはまだ早くて、空を照らす星は、その二つしか見えなかった。

 

「思えば、あの頃から俺と君は契約を結んだわけだ」

「あら。〝ファウスト〟を読んだからって、ついそんな感傷を?」

「だったら俺は、君にとってのメフィストフェレスか?」

「あなたにだけは、メフィストフェレスになってほしくないものです。せめてファウストかと」

 

 先ほどまであった空気は霧散して、エイシンフラッシュは唐突に真剣な表情を浮かべた。それはいっそ不機嫌にさえ見えた。まるで掴もうとした梯子を失ったかのような、手の行き先を惑う感覚にトレーナーは襲われた。

 

「突然真顔になるじゃん。そんなに俺が悪魔なのがイヤ?」

「というより……いえ、なんでもありません。強いて言うなら、メフィストフェレスの語源を調べてみるのがいいかと」

「……よくわからないな」

「ええ」

 

 そこで会話は終わった。トレーナーからしてみれば意味のわからない、理不尽にも近い突然の会話終了に思うところがないわけではないが、女心と秋の空ということで気にしないことにした。しかし一応あとでメフィストフェレスの語源は調べてみようと決意した。もしかしたら変な地雷が紛れているかもしれないので。

 

 ふと、時間を見る。なんだかんだと長いこと話していたのか、18時を過ぎた長針はもう半分を迎えようとしていた。窓の外に目を()れば、トレーニングを終えたのだろう何人ものウマ娘が歩いていくのが見えた。

 

「そろそろみんな帰る時間か」

「現在時刻は18時28分31秒です」

「この後の予定は?」

「18時30分にトレーナー室を退出。18時42分に寮に到着し、18時49分に入浴。19時30分に夕食をとり、それから────」

「いや、そこまで言わなくていい。いつ帰るのかなって思っただけだから」

 

 机の隅に置かれた鍵を指に引っ掛けて、トレーナーはエイシンフラッシュの前に掲げてみせた。

 

「門限も近いだろう。今日も一日お疲れ様でしたってことで」

「そうですね」

 

 言って、エイシンフラッシュは(きびす)を返した。

 備え付けのパイプ椅子に置いてあった鞄を取り、ドアに身体を向ける。時刻は18時29分32秒。スケジュール通りの完璧な予定遂行だ。

 ドアノブに手をかけチラリとトレーナーの方を振り返れば、「また明日」と呟いて手を振っていた。それに同じく返そうと口を開きかけたところで、「そういえば」とあることに気づいた。

 

「訊くのを忘れていました」

「ん? 珍しい。なんか気になることでもあった?」

「ええ、とても重要なことです」

 

 もう一度トレーナーの方へ向き直り、

 

「あの時の言葉の意味、わかりましたか?」

 

 エイシンフラッシュは、そんなことを口にした。

 

「あの時の言葉? ……いや、残念ながらわからないな」

 

 投げかけられた問いに、理解できない様子のトレーナー。それを見て、エイシンフラッシュは一つため息を吐いた。

 彼女の指が動き、机の上を指し示す。そこにあったのは、先ほどからずっと話題に上がっていた〝ファウスト〟だった。

 

「そうですか。では、もう一度それ、読み直してくださいね」

「うぇ、ホント? これ読むの結構カロリー使うんだけど」

「それでも、です」

 

 有無を言わせぬ圧力を発しながら、エイシンフラッシュは至極真面目なような、それでいてお茶目な乙女のような、奇妙な相反する感情を言葉の隅に滲ませていた。

 トレーナーはその空気に覚えがあった。以前この状態の彼女を見たのは、数ヶ月ほど前、突然ドイツに連れて行かれたときのことだ。URAファイナルズが終わり、何の縁か温泉旅行まで付き添った後、ある日何の前触れもなくドイツに行くと言い渡されたときとそっくりだった。

 

 この時の彼女は〝強い〟と、3年の付き合いの中で理解していたトレーナーは、抗っても無駄なこともまた理解していた。何言っても言いくるめられそうだなと脳が抵抗を諦めた瞬間、彼の口から出た言葉は「わかりました……」という情けない一言だった。

 

「ふふ。はい、よろしい」

 

 そしてこの3年間で何度も目にしてきた、口元に手を当てた上品な笑みを最後に、また明日という挨拶だけを残して、彼女はトレーナー室を後にした。

 

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 夕暮れの校舎。赤色に染まる廊下と、リノリウムに反射する黄昏が、少女の影を長くする。

 その少女の名はエイシンフラッシュ。閃光の名を持って生まれ、幾多の舞台においてその末脚を恐れられた、一人のウマ娘である。

 そして、そんな彼女は今────

 

「ふふ、ふふふ……えへへ」

 

 猛烈にニヤけていた。

 それはもう、他所様にはお見せできないレベルでニヤけていた。

 

 表情筋は一切仕事をすることをやめ、いつもは凛々しく引き結ばれている口角はだらしなく緩んでいる。頬はそれをついていくように一緒に緩み、黄昏とは絶対に違うであろう赤色に染まっていた。その上から彼女自身の手が置かれている。

 端的に言えば、すごく幸せそうな表情だった。

 

「18時32分54秒……予定より2分54秒の超過……トレーナーさんと2分54秒もお話しできちゃった……!」

 

 脳内ピンク色かな?

 

「でもでも、やっぱりメフィストフェレスはいけないと思うんです。トレーナーさんには反省していただかないと」

 

 緩んでいた表情筋が引き締まり、口が凛々しく結ばれる。そこから出てきたのは、会話の中に出てきた一つの単語に対する苦情だった。

 

 メフィストフェレス。ファウストに賭けを持ちかけた悪魔の名前。何故彼女がただの単語にそこまでこだわるかといえば、その成り立ちにこそ理由がある。

 μή(ではない) φώς() φίλος(いとしい)を複合した造語、光を愛さざるもの(メフィストフェレス)閃光(フラッシュ)の名を持つ彼女にとって、トレーナーが己との関係にそれを当てはめるのは、決して看過できないことだった。

 

 何故なら────

 

「そう、そうです。()()()()()()()()()()()()()()()()()()、愛してもらわなければいけないのです」

 

 どうして君の脳内そんなことになってるの?

 

 もちろん、これにも理由がある。

 ドイツには〝告白〟の文化がない。日本のような、言葉で好意を伝えて恋人関係になるというステップは、ドイツでは一般的ではないのだ。

 友人関係と恋人関係はシームレスで、仲の良い友人から、幾度かデートのようなものを重ね、自然に関係を更新する。その中で家族への紹介や想いの確認を済ませていく。

 明確な転換点(パラダイム)というものは存在せず、言葉にせずとも認識を共有し、意識の水面下で恋人になる。それが、エイシンフラッシュが育った国での通例だった。

 

 即ち。

 3年間を共に歩み、走り抜け、幾度も困難を乗り越えながら支え合い、既に両親への顔合わせを済ませているトレーナーは、彼女の基準では十分恋人と呼んで差し支えないものだった。

 

 しかし、それでもエイシンフラッシュに異文化への理解は存在する。日本において恋人関係に移行するのに言葉を介したコミュニケーションが必要なことは、当然数年間における生活の中で得た知識として有る。

 

 だが、それについても心配はない。何せ、彼女はトレーナーから既に言葉を貰っている。

 ひと目惚れ。トレーナーがエイシンフラッシュと契約を結んだときの言葉。最初に出会ったときから、トレーナーは既にエイシンフラッシュに好意を抱いていたと、他ならぬ彼自身から話された。

 有マ記念のときに。今後10年のスケジュールを、共に走りたいと渡された。それに応え、彼女は自身が決めたスケジュールを破り捨てた。

 

 ────これもう両想いですよね。間違いないですよね。恋人ですよね。もう告白と変わらないですよね。

 

 エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端にかかり気味になるウマ娘だった。もう固有スキル発動しないよ。

 

 しかし実際、過去にトレーナーがそういったことを口にしたのは事実だった。ひと目惚れだとか、こうなる予定だったんだよとか、粗だらけのスケジュールとか、まるで飄々としたイタリア人のように告白まがいの所業の数々を重ねてきたことは否定しようがない。有マ記念のときの彼は、今にも泣きそうなほどひどい顔をしていたように思えたが。

 否定できないのなら、現実に起きたことをエイシンフラッシュはその言葉のまま受け止めた。

 

 だからこそ、何度も顔を合わせる中で、エイシンフラッシュも日本の様式に(なら)うことにした。言葉と形でこの恋心を表そうと、精一杯のアプローチを重ねた。

 

 バレンタイン。一本の赤薔薇。ドイツには義理チョコの習慣がなく、パートナーへ贈り物をするのが通例。価値にすれば、数日で枯れる花の一輪でしかないそれは、しかし贈り物という形になることで、違う意味を獲得する。その花言葉(意味)は────

 

「ふふっ……」

 

 赤薔薇は『あなたを愛しています』。一本の薔薇は『あなたしかいない』。わざわざ婉曲的にとはいえ義理ではないと伝えたのだから、その意味は誰もがわかるところだろう。当然、トレーナーにも。

 

 そして、一番は。

 思い出すのは温泉旅行に行った日のこと。少しのぼせた頭で、夜空の下で語らった睦言(むつごと)。心地よい火照りと、わずかに吹き付ける夜風の中で、つい口をついて出た一つの詩。

 

 〝ここでは自分も人間だ(Hier bin ich Mensch,)

  ここでこそ人間らしくしていられる(hier darf ich's sein.)。〟

 

 ファウスト悲劇第一部、市門の前。ファウストとワーグネルの会話より。

 復活祭の散歩(Osterspaziergang)にて、老若男女が口ずさむその一節を、さながら春の極楽を喜ぶ市民のように、あの時の彼女は(こぼ)した。

 それは無意識下で口にした想いの発露。不思議と口ずさみたくなったその意味は、きっと湯あたりで感傷的になっただけ。ふわふわと緩んだ思考で、論理とスケジュールのヴェールを奪い去り、剥き出しになった心を彼に向けた。

 

 ────あなたの前だから、私は私でいられる。

 

 ────ウマ娘だからとか、教え子だからとか。

 

 ────そういうしがらみの一切を抜きにして。

 

 そして、そんな緩んだ自分が。剥き出しの自分が。完璧ではない未熟な自分が。あなたの前では出てきてしまう。どうかあなたに見てほしい。どうかあなたに肯定してほしい。

 ある意味では日本的な、一世一代の告白にも似た(うた)だった。

 

 だからこそ、それを認め、肯定してくれたトレーナーへの想いは止まるところを知らない。

 エイシンフラッシュなりの告白を経て、ドイツ式でも日本式でも、二人は晴れて恋人になった。どういうわけかトレーナー本人の口からその関係性の名前を聞いたことはないけれど、わざわざ言葉にするのも無粋だからだと理解した。

 

 ああ、今ならわかる。メフィストフェレスとの契約の果て。盲目になったファウストの最期の言葉。最高の刹那(Angenbilck)をずっと噛み締めていたいという、想いの行き着く最後の果てを。

 

 ────時よ止まれ、お前は美しい。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 

 一人残されたトレーナーは脱力したように椅子に(もた)れかかると、〝ファウスト〟を手に取り表紙をまじまじと眺めた。

 〝一〟〝二〟とわかれた文庫本。暗闇の中を死神か悪魔のような何かが飛んでいる一巻と、太陽の下を翼の生えた顔──おそらく天使だろうか──が飛んでいる二巻。ゲーテ60年の大作だけあって、その文量も斯くやというほどだ。これをもう一度読み直せというのだから、もしやエイシンフラッシュは自分のトレーナーの時間を徹底的に潰そうとしているのではないかと思ってしまった。

 管理主義の彼女だから、こうして余暇を埋める本を渡してトレーナーの予定まで掌に収めようとしているのではないかと邪推する。いくら彼女でもそこまで考えてはいないだろうと一笑に付し、もう一度読み直せと言ったその真意について考えた。

 

「あの時の言葉……あの時の言葉ねえ……」

 

 担当ウマ娘、エイシンフラッシュ。新人の身の上で受け持ち、大切な3年間を共に駆け抜けた少女の言葉を、彼は思い返し────

 

「……なんのことだろうな?」

 

 お前マジ?

 

 しかし、こう思うのも無理はない話である。

 彼とて、エイシンフラッシュの隣に3年間居続けて何もしなかったわけではない。たまに口から出る彼女のドイツ語を理解するために、ドイツ語の教科書を買い、辞書を買い、最も身近なネイティブの力も借りて日常会話程度ならこなせるようになろうと努力した。

 

 Guten Morgen(おはよう).

 Guten Tag(こんにちは).

 Guten Abend(こんばんは).

 Wo ist das Badezimmer?(トイレはどこですか?)

 

 この程度なら話せるようになったのだが、結局は英語よりも学んだ年数が短い付け焼き刃。いくら隣にネイティブがいると言っても、普段彼女は日本語で話し、何度か顔を合わせた彼女の両親は拙いながら日本語で会話してくれた。ドイツ語を学んでも使う機会があまりなく、聞き取る耳が出来上がっていなかったのである。

 

 そんな中で突然発されたゲーテの詩などわかるはずもない。当然の帰結であった。

 

 ────なんか今日フラッシュ変だったな。

 

 しかし、とはいえ彼も3年間を共に走り抜けた仲。相棒の様子が普段と違えば、ぼんやりとでも意識できるくらいには知った仲である。そういえばメフィストフェレスがどうとか言ってたなと思い出し、スマホの検索窓に叩き込む。

 

「光……、を、愛せざるもの」

 

 ああなるほどと理解した。それはたしかに、名前に閃光(フラッシュ)が入っているのだから、こんな意味の名前と関係性を当てはめたら縁起が悪いにも程がある。そう────

 

「そりゃ、()()()()()()()にそんなこと思われたら嫌だよなあ」

 

 お前マジ?

 

 彼は生粋の日本人であった。それと同時に、ちょっと口がイタリア人みたいに軽いところもあった。要するに、かなり天然であった。

 

 ひと目惚れ? したよ、彼女の走りに。

 粗だらけのスケジュール? そりゃ、まだ走りを見ていたい担当が引退なんて言ったら引き止めたくもなるよね。

 

 彼にそれ以外の意図はない。彼の頭にあるのはトレーナーとしての仕事を全うする使命感であり、教え子を導く教育者としての責任だった。

 

 つまり────彼はエイシンフラッシュのことを、初めて担当した教え子としか見ていなかった。

 

 ……大人として当たり前では?

 

 それと同時に妙なところで意図を察する能力が鈍く、バレンタインに赤い薔薇を一本贈られたときに意味を調べはしたものの、『情熱』『あなたしかいない』というのを「そんなに慕ってくれていたのか。トレーナーとして」と考える程度の朴念仁であった。赤い薔薇の花言葉に『愛』があることを完全に見落としていた。しかし見ていても恐らく勘違いしている程度には、彼は鈍かった。

 

 無論、彼は日本人なので恋人への関係の転換に告白を伴うものだと考えているため、言葉無しに変化するドイツ式恋愛方程式には疎かった。それも、エイシンフラッシュにとって不幸だったと言えるだろう。異文化コミュニケーションは難しいのである。

 

 ────うん、次会ったときには謝っておこう。3年間担当してきたのに無思慮だったなって。

 

 違うそうじゃない。お前が考え無しなのはそこじゃない。

 

 しかしトレーナーは気づかない。気づけない。気づいていたらこんなことにはなっていない。

 エイシンフラッシュに向ける思いは当然あるものの、それは恋愛感情によるものではなく、大人から子供に向ける人生の先輩としてのもの。そもそも教育者(トレーナー)という職に就いているのだから、その感情に余計なアレコレはあるべきではないのである。

 

 少なくとも、彼はそういった常識を備えた大人だった。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 エイシンフラッシュは気づかない。

 トレーナーも気づかない。

 

 想いと思いの違い。互いに向ける関係性の名前の違い。どこまでも不器用な彼女は勘違いを加速させ、どこまでも朴念仁な彼はその勘違いすら抱かない。

 

 もう恋人だと思っているエイシンフラッシュと。

 そんなことは微塵も考えていないトレーナーと。

 

 その熾烈な闘いの幕は、既に開かれていた。




 ダークライは出てきません

この戦いの最終的な勝者は?

  • エイシンフラッシュ
  • トレーナー
  • ダークライ
  • その他
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