【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
ついに10話まで来ました。さて、この物語の終着点まであとどれくらいでしょう。
蝉の声が聞こえなくなってしばらくが経った。道行く人々のまとう衣の袖も長くなり、空の雲にはひつじが浮かぶ、十月の季節。
「空が青い時間が短くなって、見上げた先にあるものが積乱雲から巻積雲に移り変わる。そんな空模様を見ていると、『ああ秋が来た』って気分になるんだ」
男は言った。その手には水の入った透明なグラスが握られていた。
場所は神保町のとあるビルの中。鼻腔をくすぐるスパイスの香りが漂い、雑然とした誰とも知れぬざわめきが耳を通過していく。そこは有名な飲食店──カレー屋──だった。その席の一角に彼はいた。
「暑い夏が過ぎ去って、過ごしやすい秋がやってくる。実際、情景的にも情勢的にも秋は充実したもので、日本には三人の歌人が『秋の夕暮れ』を詠んだ〝
滔滔と語る彼の指の隙間でグラスが揺れた。水が傾き、氷がからりと音を鳴らす。結露した水滴が滴ってテーブルに落ちた。
「ヨーロッパの人だし、ヴィヴァルディに関しては君の方が詳しいかな。ねえ、フラッシュ?」
男────トレーナーは水滴の上にグラスを置いて、眼前の少女に問いかけた。こつ、とグラスの下から硬い音がした。それがざわめきの中に消えるその一瞬に、問いかけられた少女は「そうですね」と答えた。それはエイシンフラッシュだった。
「多少は知っているかもしれませんね。とはいえ、クラシック音楽にはそれほど詳しくありませんが」
「そうかな。〝魔王〟を
「有名なのはシューベルトですが、元はゲーテの詩ですからね。それを以てクラシック音楽に詳しいとするかは怪しいところです」
言って、彼女は一口水を含んだ。艶やかな唇が露に濡れる。
「そういうものかな」
「ええ。そういうものですよ」
トレーナーはテーブルについた水滴を人差し指でなぞった。右に3センチ、水の軌跡が伸びる。爪の先についた水を紙の布巾で拭い、「話が逸れたね」と口を開いた。店の奥から、スパイスの匂いが一段と
「何はともあれ、秋とは素晴らしい季節とされる。日本においては呼び方も様々で、何かを始めるのに都合のいい季節のようにも扱われるね」
秋は豊穣の季節であると同時に、人の営みにとってはまた別の意味を持つ。
例えば食欲の秋であったり、例えば読書の秋であったり、例えばスポーツの秋であったり。秋とそれら自体に関連性は無いように思えるが、
「君たちにとってはスポーツの秋かな。それとも食欲?」
「そこはスポーツと断言してほしかったのですが」
「ウマ娘は人間よりも多く食べる。肉体の成長と食は切って離せないのだし、G1だっていくつか控えているのだから、食事制限とか、逆に量を増やしたりだとかを考えると食欲の秋は妥当じゃない?」
「……たしかに」
でしょ? と、してやったりとでも言いたげに笑うトレーナーを見て、エイシンフラッシュは何か仕返しでもしてやりたい気分になった。なりはしたが、合理的な仕返しなど思いつかなかった。
秋。言われてみれば何かあっただろうかと、彼女はこれまでの半生を思い返した。
スポーツ、は秋に限らず一年中そうだ。食欲、も秋に限らず一年中スイーツや何やらを探している。読書、も秋だけの話ではない。
考えてみれば、秋だからといって特別に何かをしたようなことはなかった。
「あまり思い当たるものはないですね」
「まあ、規則正しい生活をしている君に、秋だからと何かが乱れるようなことはないと思うけど」
「そうでもありませんよ。私だって、秋に浮かれることはあります」
「ああ、君はお祭りが好きだったね」
エイシンフラッシュ曰く、彼女は祭典を好むという。それはいつかの夏祭りの日に聞いた彼女の一面で、ドイツという国柄故のものだということを、トレーナーは知っていた。
カーニバルに興じる心を持っているのなら、たしかに季節に乗じて浮かれることがあっても不思議ではない。秋は豊穣の季節。今ではすっかり仮装イベントとして定着したハロウィーンも、元は古代ケルト人の行っていた『サウィン』という秋の収穫を祝う祭礼行事が起源とされている。それを考えれば、行事の多いこの季節にエイシンフラッシュが浮かれるのもあり得ない話ではないのだろう。
とはいえ、そこまで羽目を外すエイシンフラッシュの姿が想像できるかと言われれば、トレーナーにはできなかったのもまた事実である。
「お祭りといえば、そろそろだよね」
「そろそろとは?」
「
聖蹄祭。
トレセン学園で開催される催しの一つ。春と秋の2回開催されるファン感謝祭の秋の方の別名が『聖蹄祭』である。
春に行われる『春のファン大感謝祭』は、比率としてスポーツ系の催し──レースに限らず、駅伝、フットサル、バレーボール等──が多く開催され、レース以外の競技で活躍するウマ娘の姿を見ることができる。
対して秋の『聖蹄祭』は、主に文化系の出展などが中心となる。十月のこの日、開催までの足音は既に聞こえ始めていた。
「チーム単位であったり、仲の良い友人同士であったり、もしくは個人であったり。やるのは何でもいいけどね」
ファン感謝祭は、トレセン学園の生徒たちが催し物を企画・運営、または参加するのがメインコンテンツとなる。ファンとの交流を図る形式のものであったり、或いは展示・発表形式のものであったりと企画の形態は様々だが、過去にはウマ娘たちがウェイターを務める執事喫茶や王子喫茶なるものまであったという。
それらの前例を鑑みれば、余程公序良俗に反しない限り何をしても
「それこそ、秋に
そういうの得意でしょ、と彼は言った。知っていたんですね、とエイシンフラッシュが返すと、
「君のことはよく知っている」
「……そうですか」
悪びれもなくそう言うものだから、つい苦笑した。どこで知ったのだろうと気になりはしたが、詮索するだけ野暮というものだろう。エイシンフラッシュがそれ以上の追求をすることはなかった。
「ですが、朗読劇はいいと思いますよ。トレーナーさんの言う通り、自慢ではないですがそういったものは得意であると自負しています*4」
「なら一つ、出し物の案として考慮しておこう。じゃあ次は読むものだけど────」
「お待たせしました。失礼します」
トレーナーが話を続けようとしたその言葉に割り込むように、店の従業員が皿を持って現れた。一旦話を取りやめたエイシンフラッシュだったが、テーブルの上にそれが置かれた途端、その顔に怪訝そうな色が貼り付いた。
「……あの、トレーナーさん」
「何かな」
「これ、なんですか?」
言って、彼女が指した先にあったのは────
「なんでカレーを注文したらジャガイモが出てきたんですか?」
バターの乗った
「しかも二個」
しかも一皿に二個あった。
「知らない? 神保町でカレー頼むとジャガイモが出てくるの」
「初めて知りました」
「そっかぁ」
笑いながら、トレーナーは自分の前にあるジャガイモにフォークを沈み込ませる。当然ながら彼の皿にも二個の芋が乗っていた。その手つきを見るに、どうやら彼はこの店に通い慣れているらしいということがわかった。
「トレーナーさんはよく来られるんですか?」
「そうだね。この店に来るためというよりは、よく神保町に来るからついでに寄っていくって感じ」
フォークに乗ったジャガイモからは湯気が立ち上っていて、その熱量をありありと誇示しているように見えた。表面に照るバターの香りが、どこか縁日の雰囲気を思い出させる。
「俺も結構イベントとかには浮かれるタイプでさ。秋になるとこれ幸いと何某の秋に便乗している。特に読書の秋には」
「読書の秋」
エイシンフラッシュは
読書の秋の始まりは、中国唐代中期の文人の一人、
韓愈の詩〝符読書城南*5〟の一節にこういうものがある。
時秋積雨霽*6
新涼入郊墟*7
燈火稍可親*8
簡編可卷舒*9
韓愈が当時18歳の息子に「本を読め」という思いで書き綴ったこれらの詩は、意訳すれば「秋になり長雨も晴れ上がったので、新しい涼しさが郊外の丘にも入り込むようになった。夜には(暑さを気にせず)灯りをつけられるようになったので、書物を広げることもできる」という意味になる。
『読書の秋』という概念が日本に広まったのは明治期以降、夏目漱石が自らの作品〝三四郎〟の中でこの韓愈の詩を引用したことが切っ掛けとされている。
〝三四郎〟の中に『そのうち与次郎の尻が次第におちついてきて、燈火親しむべしなどという漢語さえ借用して嬉しがるようになった。』という記述がある。これ以前にも江戸時代の俳人が韓愈を引用すること自体はあったそうだが、ここから日本人の間にも『読書の秋』が広まり、戦後間もない1947年に『読書週間*10』が開始されたことによって、読書といえば秋というイメージが定着したのである。
トレーナー曰く、彼はそういう概念に乗るタイプであり、ならば読書の秋に神保町に訪れることはそこまでおかしなことではないのだろう。
神保町は古書店街としても有名だ。神田神保町一帯には古書店の密集する地区があり、その総数は諸説あるが、一説には400を超えるとも言われている。そんな場所を指して、通称〝古本の聖地〟と呼ばれることもあるのだという。
「良いところだよ、
国語辞典や教科書で有名な三省堂の本店があったり。
岩波書店、小学館の始まりの地であったり。
日本有数の大学や学術関係の施設が点在していたり。
そうやって
トレーナーは、その文化と知性の結晶のような街並みを気に入っていた。
「俺も色々買ったものだ。店頭のワゴンに詰め込まれた一冊100円の古書を漁ったり、入ったことのない店に足を踏み入れてみたり。せっかくだからとここに来てカレーを頼んで、ジャガイモが出てきて困惑したり」
笑いながら、彼はフォークを持っていない左手でエイシンフラッシュの前にある皿を指した。ジャガイモの熱にあてられて、既にバターが半分ほど溶けていた。
「古典であったり、文学であったり。やっぱり日本のものが多かったけど、そこで初めて触れる本もあったんだ」
かつて遠く過ぎ去った、有りし日のことを思い返す。
学生時代、参考書を探しに来た帰り道。ふと立ち止まって路傍を見れば、光に焼けて端の色の褪せた本がワゴンいっぱいに詰め込まれている。その中の一冊を取り出して、見たことのないタイトルと表紙に心を躍らせて開いてみれば、そこには自分の知らない世界が広がっている。
本との出会いとはそういうものだ。異国、異郷、天国、地獄、異種、異性。あらゆる垣根を取り払って、それを読んでいるときだけは全く違う視点に立つ。その出会いが多く転がっている場所こそ書店であり、神保町なのである。
「『私は、自分がこれまでに読んだすべてのものの一部である*11』とも言う。ここで見つけたものが今の俺を形作っていて、君との出逢いに繋がっている。そう考えると素敵じゃない?」
一口水を含んで、飲み込む。今トレーナーの喉を通ったのは、果たしてただの水だけだったのだろうか。エイシンフラッシュには、その中に過ぎ去った寂寥があったように思えて仕方がなかった。
「ええ。とても素敵なことだと思います」
それを口にしないまま、運命的な出逢いに想いを馳せる。それでよかった。それだけが、今の彼女に必要なものだった。
大人になることがどんな寂寥を内包しているのか、まだエイシンフラッシュにはわからない。わからないから、まだ何も言わない。それが一番賢い判断だと、彼女は断じていた。
「こうやって君と二人でこの街を歩けることを嬉しく思うよ。それこそ、芥川と谷崎みたいにね」
「というと、芥川龍之介と谷崎潤一郎ですか?」
「そう。黒い背広と赤い
芥川龍之介と谷崎潤一郎の交流のエピソードとして有名なのは、雑誌『改造*12』で行われていた「小説の筋の芸術性」をめぐる論争だろう。
『小説の筋の面白さ』は『作品そのものの芸術的価値』に関わりがないとする芥川に対し、『筋の面白さを除外するのは、小説という形式が持つ特権を捨ててしまふことである』と反論した谷崎の壮絶な論争は、文壇のみならず世間の注目を広く集めた。
とはいえこの二人の仲が悪かったかといえばそうではなく、むしろ二人は東大*13系同人誌『新思潮』の先輩後輩であることから、親交は厚かったといわれる。
そんな二人の関係性をよく表したのが、芥川による〝人間随筆(其三)──最近の谷崎潤一郎氏〟である。
「二人一緒に神保町を
言って、トレーナーの言葉が止まる。何かと思いエイシンフラッシュがその顔を窺うと、彼はさも名案が閃いたとでも言いたげに口を開いた。
「〝蜘蛛の糸〟」
彼はただ一言、それだけを告げた。
「……〝蜘蛛の糸〟?」
「そう。さっき話してたでしょ。朗読劇をするなら何を読もうかって」
〝蜘蛛の糸〟。
言わずと知れた芥川龍之介の著作の一つである。
この犍陀多は殺人・放火などの大罪を犯した大泥棒ではあったが、生前一つだけ
それを見ていたお釈迦様は上から一本蜘蛛の糸を垂らしてやり、犍陀多を地獄から救い出してやろうと考えたが────
「まあ、結末はみんな知っているだろうけど。犍陀多は蜘蛛の糸を登ってくる他の罪人をみんな蹴落として、最後は糸が切れてしまう」
およそ日本においては知らぬ者のいないであろうその有名な結末を、彼は名残深そうに口にした。
犍陀多は蜘蛛の糸に捕まって極楽を目指すが、当然他の罪人たちもそれを見逃すはずもなく、彼の後ろについて登ろうとしてくる。
蜘蛛の糸は細く、大人数が掴まればたちまち切れてしまいそうなほどで、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は
「どうかな。ちょうどいいと思うんだけど」
「異論はありませんが……そもそも、トレーナーさんは私が童話の読み聞かせが得意と知ってこの提案をしたのでしょう?」
「そうだね」
「これは童話と言えるのでしょうか」
「むしろ、これ以上に童話らしいものはないと思うよ。〝蜘蛛の糸〟は元々、児童文学を作ろうという動きの中で生まれたものだからね」
〝蜘蛛の糸〟は元来、鈴木三重吉という男が芥川にとある話を持ちかけたことから生まれた物語である。
大正期、鈴木は『子どもが読むに相応しい文学』がないことを嘆いていた。当時の少年少女向け雑誌や読み物の多くは、表紙が俗的で、内容にしても
故に、当時文壇で活躍していた高名な作家に声をかけ、世間の子どもたちのためにと創刊されたのが、児童雑誌『赤い鳥』である。
〝蜘蛛の糸〟はその創刊号に掲載され、芥川初の児童向け作品として広く名前を知られるようになった。
「童話を『子ども向けの作品』と定義するなら、〝蜘蛛の糸〟はまさしくそれだ」
かちゃん、と硬質な音。その発生源はトレーナーの手元で、既にそこには皿とフォークしか残っていなかった。
エイシンフラッシュは自身の手元を見た。まだ片方のジャガイモにすら口をつけていなかった。
「エイシンフラッシュの朗読劇。きっと絵になるだろうね」
「もう……また貴方はそうやって」
「本心だよ」
そう、何でもないことかのように言い放って。いつものように笑うその
エイシンフラッシュは困ったような顔をして、しかしたしかに、わずかばかり口の端を上げて。それが見えないように、手のひらで覆い隠した。
「……私以外に言っちゃダメですからね」
「君にしか言わないよ。こうやって、一緒に神保町まで来てくれるような、君にしかね」
────ほら、またそうやって笑う。
胸を刺すような刺激ばかりが、視覚情報を支配する。なんて狡くて、なんて悪どい。赤くなった頬を覆い隠すこの手のひらが外せるのはいつになるだろう。まだ注文したカレーすら届いていないのだから、食べるまでには治まるだろうか。治まってくれないと、この緩んだ頬を見られてしまう。
────貴方になら、見せてもいい。
そう思って手を下ろす。何笑ってるの、なんてトレーナーが言った。何でもないですよ、とエイシンフラッシュが返した。
この笑顔の意味は通じているのだろうか。通じていないんだろうな、と自問自答の解決をする。それでもいい。きっとそのうちわかってくれると信じているから。いつかの未来、大人になったそのときに、そんなこともあったねと笑い合える日がきっと来るから。そう、エイシンフラッシュは信じている。
「俺もそのうち聞きたいな。君の朗読……読み聞かせ? そういうものを」
「お望みとあれば、いつでもお聞かせしますよ」
「それは嬉しいね」
スマートフォンを取り出して、トレーナーは何かを調べ始める。何を見ているのかとエイシンフラッシュが尋ねると、
「童話、何があるかなって」
「そんなに楽しみにされると、こちらとしても恥ずかしいのですが……」
「いやいや、期待してるよ。君の声は落ち着くからね」
アナウンサーみたいだ、と彼は言った。褒められているのかはよくわからなかったが、おそらく褒め言葉なのだろうと、エイシンフラッシュは思うことにした。落ち着く声と言われて悪い気はしなかった。それも、愛する人からなら。
「いつか、子どもたちにも聞かせてあげたいな」
「……は────」
「お待たせしました」
そんなことを話しているうちに、店員が盆を持ってテーブルの隣に立っていた。失礼します、と一言告げて、二人の間に料理を広げていく。白い皿に入れられたカレーからは芳醇なスパイスの香りが立ち上り、思わず唾液が口の中に滲み出す感覚があった。
「何度見ても美味しそうだ」
トレーナーはカトラリーケースからスプーンを取り出して手元に置いた。そんな彼の様子を見ながら、エイシンフラッシュは固まっていた。鼻梁を撫でる
「……どうかした?」
「い、いえ、何でもありませんよ。何でも……」
彼の声で現実に引き戻されて、慌てたように首を振る。それを不思議そうに見つめて、わずかばかりの疑念を残した表情をしながらも、彼はカレーを掬って口に運んだ。
「そういえばね」
カレーを飲み込んでトレーナーは言った。
「この店、プリンもすごく美味しいんだけど」
「……あとでいただきます」
そうして、ようやくエイシンフラッシュはジャガイモを一口齧った。それはすっかり
◇◆◇
「あ、おかえりー」
「はい、ただいま帰りました」
エイシンフラッシュが寮に戻ると、同室のスマートファルコンが出迎えてくれた。彼女は何やら本を読んでいたようで、尋ねると「読書の秋だからね!」と元気よく答えた。ベッドの上に栞を挟んで放り出されていたそれは〝赤毛のアン〟だった。
「これ、お土産です」
「え、なになにー? ……プリンだ!」
「ふふ。はい、そう、プリンです」
「ありがとー!」
無邪気に瓶詰めのプリンを受け取って喜ぶスマートファルコンを見て、エイシンフラッシュは部屋を後にした。去り際にどこに行くのかと問われた際、彼女は一言「諸用が」とだけ答えた。
向かった先は寮の御手洗いであった。とはいえ、別段エイシンフラッシュは用を足しに来たのではない。
入口近くの水道で水を流し、石鹸をつけ、手を洗い────
手を洗い────
手を洗い────
手を洗い────
……いつまで手洗ってるの?
「……お、おおお落ち着きなさいエイシンフラッシュ。落ち着きなさい、落ち着くのです」
落ち着けてないねそれ。
実際のところ、エイシンフラッシュの心は乱れに乱れきっていた。それはもう、トレーナーとわかれた後、寮に戻り、スマートファルコンに土産を渡すときでさえ、
ずっと、胸の奥で心臓が鳴っている。規則正しい心音が、ずっとずっとうるさいままで、焦燥のようなものをかき鳴らしている。
「toi,toi,toi……」
幾度となく繰り返して来たおまじないを
「toi,toi,toi……」
ずっと流し続けていた水を止める。寮の外で輝いている綺麗な黄昏の空など、全く目に入ってはいなかった。ずっととある言葉が頭の中で渦巻いていて、正直どうやって帰って来たのかすら定かではない。
「toi,toi,toi……toi,toi,toi……toi,toi,toi……!」
多くない?
鏡の中の自分を見る。一目見ただけでわかるほど、顔が真っ赤に染まっていた。その表情たるや、誰が見ても『恋する乙女』だとわかってしまうだろう。
何故彼女がここまで昂っているかといえば、カレー屋でのトレーナーの発言が原因だった。
────〝俺もそのうち聞きたいな。君の朗読……読み聞かせ? そういうものを〟
────〝いやいや、期待してるよ。君の声は落ち着くからね〟
────〝いつか、子どもたちにも聞かせてあげたいな〟
「はぅ……!」
その言葉がリフレインした途端、赤い顔がさらに赤く染まった。窓の外の夕焼けよりも赤かった。鏡の中にいたその恋する少女が世代の頂点に立ったダービーウマ娘だなんて、他ならぬ彼女自身でさえ信じられなかった。
────子どもたちにも、聞かせてあげたい。
────それってつまり……
「私とトレーナーさんの……!?」
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。賢さ1200でも6%で掛かるって本当なんだね。
トレーナーの言葉を聞いて、エイシンフラッシュの脳裏には既に未来予想図が描き上がっていた。誰よりも格好いいお父さんと、誰よりも可愛い我が子と、そして自分。そんな幸せな
────しかも、子ども
「一人じゃなくて、もっと……!?」
今日はいつにも増して脳内ピンク色だね。秋だからかな。
つまるところ、エイシンフラッシュはずっとトレーナーや家族との幸せな結婚生活を思い浮かべていたのである。果たしてトレーナーが子どもを何人欲しがっているかは定かではないが、できるだけその要望には応えてあげたいという、健気で
────子ども……
────Kind……
────Kinder……!
複数形になるな。
いやしかし、と思い直す。そもそもトレーナーは10年間一緒に走ってほしいという思いでエイシンフラッシュを引き止めたのだ。つまり、それまではまだ脳内で組み上がった未来予想図を実現するわけにはいかない。そう考えて思い
思い留まって、「いえでもキングヘイローさんのお母様は子どもができてからもレースに出ていませんでしたっけ?」と余計なことを思い出した。段々と妄想に歯止めが利かなくなってきていた。そろそろ誰かこの
「……toi,toi,toi.」
そうして、何度目かもわからないおまじないを呟いて。
もう一度鏡を見た。水に濡れた指で、そこに映った自分をなぞった。垂れた水滴が頬の上を涙のように流れていく。水の軌跡はすぐに消えて、その平面にあったのは、正反対になったエイシンフラッシュだけだ。
「……本当に、罪なヒト」
想いを一つ吐き出して、どこにも届かず霧散する。
言葉一つでこれだなんて、一体この先どうなってしまうのだろう。未来予想図の中には何事もなく幸せな自分がいたが、実際にはどうだろうか。
上手くできているだろうか。
上手く動けているだろうか。
また今回みたいに言葉一つに惑わされて、何も覚えていないまま過ごしていたりしないだろうか。
「責任、取ってくださいね」
きっと、これは幸福の反動。
恋と縁遠かったエイシンフラッシュの身体が、恋に焦がれても慣れていないから、そうやって熱い想いに焼かれてしまうという、ただそれだけの自然現象。
もう、こんな身体になってしまっては、他の恋などできはしない。できはしないし、する気もない。
きっと未来永劫この初恋だけを抱き続けて、抱えたままどこかへ行く。行き先が天国であっても地獄であっても、冥土の土産に恋心なんて贅沢なものを持たせてもらえるのなら、恵まれ過ぎているというものだろう。
────貴方が、私を引っ張り上げたんですから。
細い糸だとしても、かつてそれを掴んだ判断は間違っていなかった。選抜レース、六着の日の昼下がり。自身を見つけてくれたトレーナーの手は、たしかにエイシンフラッシュにとって蜘蛛の糸にも勝る救いの兆しだったのだ。
「断ち切ってなんて、あげませんから」
映る瞳は決意の色をしていた。
◇◆◇
秋の夕暮れは、誰もが歌に詠むほどの絶景で、それは東京にいても変わりはない。
灰色のビルの向こうに橙色の輪郭が沈んでいく。どこかから飛んできた烏がその中に飛び込んで、光の中に黒い点を描いて遠くへ飛び去って行った。
空の向こうから響く鳴き声を聞きながら、トレーナーは神保町の街を歩いていた。
時間と共に減っていく人の足並みと、過ぎ去っていくだけのかつての思い出。胸の中に一抹の懐古を抱えながら、彼は古書店の隙間を進んでいく。今こうして歩んでいるこの時さえ、1秒後には過去になる。
「……あー。学園、戻らないと」
ふと足を止めて、仕事を思い出す。
エイシンフラッシュを駅まで送って、わかれた後に。しばらく気の赴くままに街を彷徨していたが、脳裏に今しがた新しく増えた業務が
聖蹄祭。近く開かれる秋の祭典。エイシンフラッシュが何をするのかはまだ未定だった。その案の一つとして、話の流れではあったが何か思いついたのは僥倖と言えるだろう。最終的に決定するのは彼女だが、とりあえず仮の案として企画を纏めておく程度はしておいた方がいいと彼は考えた。
それだけならトレーナー寮でいいのだが、不安なことに仕事用のパソコンを学園に置いて来てしまった。それを取りに行かないことには何もできない。そう思い立ち、駅に足を向けた。その中で考えていたのは、先程のカレー屋での出来事だった。
朗読劇。あるいは読み聞かせ。童話を読み上げ、語り聞かせる。彼女が得意だとするそれをファンとの交流に活かせないかと考えて出た案は、トレーナー自身でもそれなりのものなのではないかと思われた。恐らくは、彼女の声質を鑑みてもかなりマッチしたものだと言えるだろう。
────きっと、絵になることだろう。
一人舞台に上がって、スポットライトの下、滔滔と〝蜘蛛の糸〟を読み上げる。そんなエイシンフラッシュの姿が脳裏に浮かんで、似合うな、と笑みが溢れた。
忘れないようにと、スマートフォンを取り出してメモ帳を起動する。案を纏める前に雑多にだが概要を整理しようと、彼は白紙のそこに内容を打ち込んでいく。
タイトル、聖蹄祭におけるエイシンフラッシュの企画について。
────いつか、子どもたちにも聞かせてあげたい。
そう思ったのも間違いではない。彼の脳裏にはたしかに、子どもたちに物語を語るエイシンフラッシュの姿が浮かんでいた。
いつかの未来、幸せの辿り着く先で。静かな場所と、和やかな空気の中で。彼女の語るお話を、ただ安らかに聞いている。そう、そんな未来予想図がたしかにあって────
「
そんなことだろうと思ってたよ。
当然ながら、トレーナーにそんな意図はない。彼の言う『子どもたち』とは、自身の子どもではなくエイシンフラッシュのファンの児童のことを指していた。
そもそもトレーナーは独身である。恋愛とは縁がない鈍感である。いつかは結婚しなくちゃなー孫の顔見せなくちゃなー程度にしか結婚について考えていない彼に、そのうちできるかもしれない我が子のことを考える脳などありはしなかった。
つまるところ、
たしかに、トレーナーも「俺もそのうち聞きたい」とか「君の声は落ち着く」とか宣ったが、それは単なる客観的事実に他ならず、決して結婚後我が子と一緒にエイシンフラッシュの読み聞かせを聞きたいとか、そんな意味ではないのである。
とりわけ仲が良かった芥川龍之介と谷崎潤一郎の例を出して「君と二人でこの街を歩けることを嬉しく思うよ」などと言っていても、それはただ担当との『運命的な出逢い(アスリートと指導者的な意味で)』のことであり、決してエイシンフラッシュが思うような『運命的な出逢い(生涯を共にする伴侶的な意味で)』ではないのである。
じゃあなんでこいつら平然と神保町デートしてるんだ……?
兎にも角にも、トレーナーの言葉に他意はない。彼は本当にファン感謝祭の催し物としてしかエイシンフラッシュの朗読劇を捉えておらず、個人的な感情云々を語るのであれば、まあそのうち機会があればね、程度にしか考えていない。
たしかに大切な担当が何か文学作品を上手に読み上げてくれるのなら聞いておきたいと思わなくもないが、それは別に急ぎでなくても構わない。むしろ自分は毎日のように顔を合わせるのだから、彼女と接する機会の限られるファンに席を譲った方がいいと考えるのは、ある意味当然のことであった。
故に、今回のトレーナーの発言もまたエイシンフラッシュの恋愛回路を暴走させたばかりで、彼女の勘違いは深まる一方となってしまった。どうするんだよこれ。エイシンフラッシュ今頃顔真っ赤だぞ。
しかし、そんなことは当然彼の知ったところではなく。その思案が終わった頃には既に神保町駅の入り口まで辿り着いており、目の前には階段が続いていた。
トレセン学園に向かうべく駅の階段を降る。一段、足を踏み出す毎に軽く足音がして────
「……おっ、と……あれ……?」
「……疲れてるのかな」
そう、力無く彼は呟いて。
階段を降りる。一段ずつ、踏み外さないように。転がり落ちないように。
背後の夕陽は、既に沈んだ後だった。
この戦いの最終的な勝者は?
-
エイシンフラッシュ
-
トレーナー
-
ダークライ
-
その他