【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ   作:かむくら

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 いつもここすきありがとうございます。
 この小説の総合評価が10000を突破していました。2週間前に。感無量です。いつもご愛顧いただきありがとうございます。さて、次はどこを目指しましょうか。


果実を食むエイシンフラッシュ

 (ある)日の暮れ方のことである。そんな一文から物語が始まりそうな、ある雨の降る日のことである。時は十一月、街路樹が色づき始めた季節のことである。

 

「やみませんね」

 

 エイシンフラッシュは一人きりのトレーナー室の窓から雨の降り(しき)るグラウンドを見下ろした。どこもかしこも水濡れとなったトレセン学園の敷地の中では、色とりどりの傘があちらこちらと弾んでいて、トレーニング場の近くには雨合羽に身を包んで走る誰かの姿も見えた。風邪をひかないといいですが、なんて素直な感想を溢せば、後ろから誰かが答えた。

 目を向けると、トレーナーがいた。部屋の扉の前に立っていた。その手には見慣れない書類とクリアファイルが握られている。わずかに透けた書類の文字から、どうやら何かの会議資料であることがわかった。

 

「いたんだ、フラッシュ」

「お疲れ様です」

「ありがとう」

 

 一言交わして、彼も窓際に立つ。叩きつけるような雨粒が、ガラスに当たって破裂音を鳴らす。

 

「ひどい天気だ」

 

 この調子では屋外でのトレーニングなどほとんどできないだろう。雨を想定したものならいくらか可能ではあろうが、気温のことも鑑みると、力をつけるより先に体調を崩す心配がある。(あま)やみを待っていても、蟋蟀(きりぎりす)の一匹すら見つけられないだろう。

 

 トレーナーはそんな天気を見遣った後、窓に背を向けてチェアに腰掛ける。そのままデスクの上のノートパソコンを開いてキーボードを叩いた。

 

「君も、別にここにいる必要はないんだけどね」

 

 男心と秋の空、あるいは女心と秋の空。

 元々エイシンフラッシュは本日タイヤ引きを行う予定であった。悪天候の日でも問題なく踏み込めるように筋力を重点的に鍛える方針でいたのだが、窓の外の天気はそれ以前の問題だ。予報だと精々が曇り程度だったはずなのだが、蓋を開けてみれば、蓋のない鍋をひっくり返したかのような豪雨である。

 

 ならばと思い休養も兼ねてエイシンフラッシュに「今日は休み」と連絡をしたものの、いざトレーナー室に来てみれば見慣れた背中が窓際に立っていたものだから、真面目だなと感心したのが先程の出来事である。

 

「寮に戻ってもいいんだよ」

「来たかったものですから」

 

 言って、彼女は笑った。雨に波打つ水面(みなも)の水蓮のようだった。そうかい、と一言だけ返して、トレーナーは手元の書類に目を落とした。

 

「少し休憩されたらどうですか」

 

 立て続けに仕事に取り掛かろうとする彼の姿を見て、エイシンフラッシュはそう告げた。トレーナーはその言葉に「んー?」と気の抜けた返事をしたかと思えば、大丈夫だよ、と続けた。

 エイシンフラッシュは本当かどうか少しばかり気掛かりにはなったが、他ならぬ本人が言うならと流した。そうしてまた、窓の外に目を向けた。

 

 この雨はいつになったら止むのだろう。頭上を覆う灰色の雲を眺めていると、それが継ぎ目なくどこまでも繋がっているような気がして、ともすれば止むこともなくずっと雨粒を落とし続けるのではないかとも錯覚してしまう。

 

 晴耕雨読。予定外の天候ではあれど、空いた時間を他のことに充てれば無駄にはならない。そう思い立ち、レース研究でもしようかと振り向いて────

 

 ────どさり、と何かが鳴った。

 

 それはまるで、大きな物質が倒れたような音。床に土嚢(どのう)を叩きつけたかのような、あるいは肉の塊を落としたかのような、鈍くて太い、聞き慣れない音色。

 

「……トレーナーさん?」

 

 目を向けた先には先程までデスクに向かっていたはずの彼の姿はなく、しかしすぐに見つけることができた。そのデスクの下に視線を移す。そこにあったのは倒れたチェアと、床に無造作に転がる、青白い顔で瞳を閉じた────

 

「トレーナーさんっ!?」

 

 叫ぶように放たれた声が雨音に消えていく。そんな悲鳴など、倒れ伏した彼には届かなくて。

 からからと、チェアのキャスターだけが回っていた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「いやぁ、ご心配をおかけしました」

 

 純白のシーツの上でトレーナーは言った。そこはとある病院の一室であった。

 

 結論から言ってしまえば、彼の命に別状はなかった。

 下された診断は過労による意識消失発作、俗に言う失神であった。トレーナー自身は倒れていたために、トレセン学園にいたはずが目が覚めたら突然病院で寝ていたという不可解な状況だったらしく、目が覚めたときの第一声は「ここどこ?」であったという。

 また、搬送された先でどういうわけか個室が割り当てられており、やたらと広い部屋で一人にされた彼は──当然仕事用のパソコンなどは学園に置いたままのため──突如として湧いて出た暇な時間に困惑し、とりあえずエイシンフラッシュに「パソコン持ってきて」と連絡をしたところ、「休んでください」という至極当然の返答を受けたという一幕もあったりなかったり……。

 

 現在はそんな事態から一夜明け、(くだん)の搬送の翌日だった。トレセン学園での通常授業が終了し、放課後となったその時間に、エイシンフラッシュはトレーナーの病室を訪れていた。

 

「本当ですよ。心配したんですから」

 

 彼女は備え付けの椅子に座り、彼の顔をじっと見ていた。厳しい目線ではあったが、責めるようなものではなかった。その瞳の奥には、何か仄暗い悔恨のようなものが渦巻いていた。

 

「面目ない。まさか倒れるとはね」

 

 トレーナーは申し訳なさそうに笑って頰をかく。その表情からは、本心からの謝意を受け取ることができて、それ以上何かを言うつもりにはならなかった。

 

 そもそも、彼が倒れる原因を作ってしまったのはエイシンフラッシュである。

 何か悪いことをしたのではない。単にトレーナーという職業が度を超えて激務なのに加えて、『初代URAファイナルズ覇者のトレーナー』という肩書きが、それに拍車をかけてしまっていたのである。

 レーススケジュール管理、トレーニング考案・管理、アイドル的側面を持つウマ娘のマネジメント、雑務及び通常業務、その他エトセトラ。そういったものに忙殺され、さらには夏合宿後から始まる秋のG1シーズンの到来も相俟り、トレーナーに休日や休憩というものは無くなっていた。その結果が今回の一件である。

 

 彼女の責任ではないとはいえ、トレーナーに負担をかけていたのはエイシンフラッシュの実績そのものであるというのは、その心に一つ影を落とすには十分に過ぎることであった。自身のために頑張ってくれているというのは嬉しいことではあっても、その果てに彼が倒れてしまっては意味がない。

 

「……本当に、心配したんですから」

 

 シーツの上に投げ出された彼の手に、そっと自分の手を重ねる。伏せられたその顔からは、エイシンフラッシュが今どんな表情をしているのかは見ることができない。ただ、わずかに震える声音から、彼女が今どんな気持ちでここにいるのかは大凡(おおよそ)察することができるというものだろう。ごめん、と一言返して、トレーナーはもう片方の手をそこに重ねた。

 

「君を不安にさせるつもりはなかったんだけどね」

 

 彼としても、決して自分の身体が頑丈ではないことは知っている。

 無理をすればどこかに反動が出て、無茶をすれば必ずどこかで返ってくる。そんな当然のことを承知の上で、それでも担当(エイシンフラッシュ)のためにあらゆる激務を(こな)し続けて────できてしまったからこそ、今回のようなことが起こった。

 

 トレーナー、特に中央のトレーナーとは狭き門だ。東京大学卒業生でさえ不合格になることが珍しくないという超難関試験をくぐり抜けた、誰もが目を見張るエリートたち。彼もまた例外なくその一人であり、世間一般で天才と持て囃されてもおかしくない人物である。

 だからこそ、と言うべきか。有能であるが故に、普通の人間ならとっくに()を上げてもおかしくないことができてしまった。できないと言えれば楽なものを可能にしてしまった。中央のトレーナーに相応しいその能力を用いて、明らかにキャパシティを超える物量の業務を片付けてしまった。

 そんなことを繰り返していれば、倒れるのも当然というものだろう。

 

「これからは気をつけるよ」

「……約束、してくださいね」

「もちろん」

 

 重ねたエイシンフラッシュの手に力が籠もったのがわかった。トレーナーもすぐにそれを握り返した。

 その手のひらから伝わる脈動に安堵する。生きている。今この人は生きている。そう思えるだけで、エイシンフラッシュはこれ以上なく幸せだった。血の通ったぬくもりがそこにあるだけで、エイシンフラッシュの胸は満たされた。

 

 トレーナーの手がゆっくりと退()けられる。彼女の手のひらを包んでいたものが離れていく。名残惜しいと思っても、終わりのときはいつだって訪れるもので。重ねた場所にわずかな熱を残しながら、彼女もまた手を引いた。無意識にトレーナーの顔を見上げていた。大丈夫だよと言いたげに、優しく笑っていた。

 

「ところで、これはなんでしょうか?」

 

 そんな空気を貫くように凛とした声で、エイシンフラッシュは言った。

 彼女が目を向けた先にあったのは、テーブルの上に置かれた色とりどりの果実だった。

 

「同僚が持ってきてくれたんだよ。美味しい果物でもどうかって」

「そうなんですね。……いえ、それにしてもこれは多くないですか」

 

 一つ、果実の中から手に取ってみる。それはリンゴだった。真っ赤に熟れた、甘い香りの立ち上る上質な一品だと一目で分かった。

 それだけではない。並んでいる果実は明らかに病人一人で食べ切れる量ではなく、〝お見舞い〟の域を超えていた。しかもどれもが上等なものばかりで、東京で揃えるとなればその値段はかなりのものだ。

 

「どなたが持ってこられたのですか?」

「テイエムオペラオーのトレーナー」

「ああ……」

 

 何故か石油王と知り合いだったり、何故かクリスマスパーティーに大手企業の重役を呼んだりするとあるトレーナーの姿が脳裡を(よぎ)り、エイシンフラッシュは納得のような何かの声を吐き出した。たしかにあの世紀末覇王のトレーナーならあり得なくもないのかもしれない。

 いや、それにしても規格外だろうと思わなくもないが、あの辺りの人々に合理性を求めると破綻することを知っていたのでそれ以上考えることをやめた。エイシンフラッシュはそういった思考判断において賢明であった。

 

 ともあれ、お見舞いの品はそれだけではなく。

 

「……ご友人、多いのですね」

 

 その他にも、様々なものが並んでいる。

 近年話題になった本であったり、有名な和菓子であったり、あるいは花束であったり。

 ここが個室でよかったと思えるような見舞い品の数々が、テーブルの上、そして収まり切らなかった分は床に置かれている。その中にはいくつかメッセージカードや手紙らしきものまで内封されているようで、同僚や友人から彼が()く思われていることが窺い知れるというものだろう。

 

 そして、エイシンフラッシュはそれらの中から、一つ変わったものがあるのを見つけた。

 黒い30センチほどの箱のように見えるそれは、長方形で、前面に多くのボタンが配置されている機械であった。彼女はそれに見覚えがあった。普段からよく見るものではないが、特定の目的で、特にダンスレッスンのときに使用されるものだ。多少いつものものとは形や色合いが違っていても、その用途まで変わることはないだろう。

 

「これは……ラジオですね」

 

 黒いラジオが袋に入って床に置かれていた。持ち上げてみると、中にはいくつかのCDも入っているようだった。ラインナップは主にクラシックが中心で、同封されていた手紙の名前を見るに、どうやらエイシンフラッシュの知らない誰かからのものらしかった。

 

「ラジオか。珍しいね」

「こちら、お手紙のようですね。ご友人ですか?」

「そう。高校のときの友達かな」

 

 手紙を受け取り中を開くと、彼が吹き出すように笑う。何かと(たず)ねれば、「暇潰しにどうぞだって」と喜色混じりの声で彼は言った。

 

「スマホもあるのに」

 

 どこか楽しそうにからからと笑う。たしかに現代において、『暇潰し』という一点においてはスマートフォンを上回るものはそう無いだろう。それは間違いないのだが、彼は病室で流れる音楽というものに叙情でも感じたのか、

 

「何かをかけようか」

 

 数枚のCDを手に取って、トレーナーに渡す。彼は入っている曲のリストに目を通すと、そのうちの一枚をエイシンフラッシュに返した。

 

「何をかけますか?」

「ショパンのノクターンを」

 

 CDを入れて、ボタンを押す。昨今はあまり見なくなったラジオという機械だが、トレセン学園のウマ娘であればダンスレッスンの際に親しむもので、操作に戸惑うことはない。

 

 流れたのは優しいピアノの音色だった。『Nocturne op.9 No.2』────最も有名なショパンのノクターン。夜を想う曲。その音色を聴いていると、星月夜が脳裏に浮かぶかのようだった。

 

 ラジオの穴から、一羽の真っ赤な小鳥が飛び出してきて、耳の中に入ってくる。それからその小鳥は、骨の森の中を自由に飛び回り、そして最後に、肋骨の一つの上に来て、止まる。

 そんな光景を幻視した。そんな感覚を幻覚した。トレーナーは、その小鳥が羽ばたくごとに、胸の内から咳が這い上がってくるような奇妙な感覚を覚えた。咳なんてしていないのに、ノクターンの叙情が、さながら鳥を思わせた。

 

「これはどうしましょうか」

 

 言って、エイシンフラッシュはリンゴを手に取った。ナイフはあるの、とトレーナーが問うと、無いのです、と彼女は答えた。普通の病院であれば刃物類の持ち込みは厳禁だ。これでは到底食べることなどできない。

 

「齧り付く?」

(こぼ)れますよ」

「だよね」

 

 トレーナーも一つ、果実を手に取った。瑞々しいマスカットの一房が、指の間で揺れていた。これなら食べられるかもしれないと思って、ベッドから立ち上がった。軽く洗うと、その表面に冷たい水滴が映えるように輝いた。

 

「病室で果実を剥く光景は、なんだかテンプレートなもののように思えるけど、実際には危なくてナイフなんか持って入れないよね」

 

 一粒、マスカットを指で()む。鮮やかな黄緑色をしたその果実を口に放り込めば、噛む度に果肉と果汁が溢れて舌の上に幸福で覆う。どうやらこれはだいぶ上等なものらしいと、その一口でトレーナーは理解した。

 

「食べる?」

 

 もう一粒摘んで、エイシンフラッシュに差し出した。いただきます、と一言だけ言って、彼女の手に黄緑色の果実が渡る。それを口にしたときの反応といったら、それはもう、驚愕と幸福に表情がついたかのようだった。

 

「……もう一粒貰えますか」

「一粒と言わずもっとあげるよ」

「それは申し訳ないです」

「なら半分だ。半分ならいいだろう」

 

 房の半分ほどから手折(たお)り、エイシンフラッシュは少し心地の悪そうな顔をしながらもそれを受け取った。しかしそれも追加で一粒食べるまでの話で、再び黄緑色の丸を口に入れた途端、彼女の顔が幸せの色に染まった。

 

 トレーナーはベッドに腰掛けた。まだノクターンは続いている。その音色に乗って羽ばたく赤い鳥もまた、この病室の中を駆け巡っているように思えた。

 

「ああ、思い出した。堀辰雄だ」

 

 その声と同時に、赤い鳥が指先に止まった。気がした。そんなものは見えないが、たしかに肋骨の上と肺の中を飛び回るそれが、ラジオの音に合わせて踊っていた。

 

「〝風立ちぬ〟の?」

「そう。とは言っても、そっちじゃない。俺が思い出したのは〝死の素描〟だよ」

 

 〝死の素描〟。

 昭和の文豪堀辰雄の著作であり、『愛』と『死』をテーマとした彼の作品群の内の一つである。

 病に(おか)され入院した『僕』と看護婦の制服を着た──というよりも看護婦そのものである──『天使』の語らいと病院生活、そして『僕』の恋人への手紙を中心とした作品で、フランス文学、特に詩人ジャン・コクトーの影響を強く受けた言い回しが多く見られる。

 堀辰雄本人が若い頃から肺結核に(おか)され、その生涯を死と戯れるように過ごした経験から、彼の作風には生と死の(あわい)が幻想的に(えが)かれる。それをフランス文学の洒落(しゃれ)た軽快な筆致に乗せ、鮮やかな詩情で書き出す。この〝死の素描〟もまた、そういった作品の一つだ。

 

「その中で『僕』がベッドの(かたわ)らの『天使』に向かってこう言うんだ。『蓄音機をかけてくれませんか?』とね」

「それで、流れたのは?」

「『ショパンのノクタアンを、どうぞ──』」

 

 それは、今この病室を埋め尽くす音と同じ名前をしていた。伸びたピアノの音色が静かに響いて、小さな残響とともに消えていく。時計を見ると、流し始めた頃から4分30秒が経過していた。そしてまた、4分30秒前に聞いた音がラジオの穴から飛び出してきた。ループする設定になっていたようだった。

 

「『僕』は病を患っていて、ノクターンを聴くだけでも咳に血が混ざる。それを『赤い小鳥』だなんて表現するんだから、ロマンチックだよね」

「貴方には『赤い小鳥』が見えるんですか?」

「見えるとも。少なくとも、隣に『天使』がいるからね」

 

 笑う彼の瞳は、どこか悪戯好きな子どものような無邪気さを孕んでいた。

 エイシンフラッシュは看護婦の制服を身に纏ってはいないが、たしかに『天使』と呼んで差し支えない、見目麗しい少女である。真っ白な病室で蓄音機に代わりラジオをかける、ベッドのかたわらの天使である。その背中に翼は無くとも、そこに〝死の素描〟に記された風景があるのだから、たしかに『赤い小鳥』もノクターンに乗ってそこにいるのだろう。

 

 詩的だ、とエイシンフラッシュは思った。言うに事欠いて『天使』などと、またヨーロッパの伊達男のようなことを口走る。最早ある種の癖ではないのかと疑いたくもなるような言葉だが、しかし悪い気はしなかった。そういう性質(たち)だと知っているから、それが無意識に発せられたものだと何となくわかっている。

 

「……っ!」

 

 故に胸の高鳴りも一度で済んだ。恋する少女の一敗である。

 

 誤魔化すようにマスカットを()む。この舌の上で踊る甘味は、果たして果実かそれ以外か。恋心に緩みそうな頬を別の美味で上書きしようとして、結局どちらかなどわからなくなる。少なくとも、先程食べた一粒よりも甘かった。これがリンゴかイチジクであったのなら、禁断の味で全て洗い流せてしまえたのに。そう思わずにはいられなかった。

 

「手紙、か」

 

 そんなエイシンフラッシュの様子を知ってか知らずか、ベッドの上に戻ったトレーナーが、見舞い品に同封されていた数枚の紙を見回した。

 

「意外とみんな、こういうものに律儀なんだね」

 

 昨今、手紙が連絡手段として適しているかと言えば、必ずしもそうとは言えない。

 SNSに始まる利便性の高い様々なサービスが世に展開していく中で、物理的な運送を必要とする『手紙』という媒体は確実にそのアドバンテージを減らしている。単純な連絡であればスマートフォン一つでどうとでもなり、インターネットがあって当たり前の現代社会において、ある意味では過去の遺産として見られてもおかしくはないだろう。

 それがこうして、見舞いの品とともに何通も重なっている。その意味を考えると、何か感慨のようなものが浮かんでくる気がした。

 

「皆さん、きっとトレーナーさんに伝えたいことがあるんです。早く元気になってほしい、無理はしないでほしい、体に気をつけてほしい。電子ではなく筆跡として、言わなければならないと思ったことがあったのです」

「……良い友人を持ったと、しみじみ思うよ」

「なら、縁は大切にしなければなりませんね」

 

 ノクターンは未だ続いている。優しいピアノの旋律が、手紙に触れる指先を撫でていく。

 

「貴方がそうやって誰からも思われているというのは、私も嬉しいものです」

「そうかな。君にはあまり関係の無いことのように思えるけど」

「そういうものだと思ってください。……しかし、本当に多いですね、お手紙。こちらはファルコンさんのトレーナーさんから。こちらはゴールドシップさんのトレーナーさんから。こちらは秋川理事長から。こちらは……名前からして女性でしょうか」

「ああ。高校時代の友人だね」

「なるほど。それでこちらは桐生院さんから。こちらは樫本理事長代理から。こちらはたづなさんから……待ってください女性多くないですか」

「こんなものじゃない?」

 

 何か不思議なことでもあったのだろうか。そう言いたげに首を傾げるトレーナーを見ていると、何だかエイシンフラッシュの方こそ、自分が間違っているような気がしてきた。

 メッセージカードのようになっている手紙の内容を軽く────そう、決して見ようとしたわけではなく不可抗力で見えてしまっただけで────見た限りだと、たしかに内容的におかしいところは無い。同僚を心配するのは当然のことだ。そもそも自身とトレーナーは既に恋仲にあるのだから、そこを疑うこと自体ナンセンスというものだろう。エイシンフラッシュはそう自分を納得させた。

 

「まあ、たしかに昔から女友達は多かった気がするけど」

 

 一枚、メッセージカードを手に取る。「懐かしい名前だ」と、その声音に懐古が混ざった。

 

「意外と入院もしてみるものかもしれないね。君が来るまでにも何人か古い友人が訪ねてきたよ。調子はどうだって。良いわけないのにね」

 

 わかってて聞いてるんだ、と彼は言った。『トレーナー』ではない、また別の誰かがそこにいた。そんな彼の表情を、エイシンフラッシュは初めて見た。3年以上隣にいるのに、また知らない彼の一面が増えた気がした。

 

 友人。トレーナーの友人。懐古するようなかつての誰か。彼ら、あるいは彼女らなら、『トレーナー』ではない名前の誰かを知っているのだろうか。出会ったときから今このときまで、エイシンフラッシュの知る彼は『トレーナー』でしかない。成人していて、立場のある、ただ一人の『大人』でしかない。それ以外の顔を見たことがない。

 そんな彼の一面を、訪ねてきた人々は知っているのだろうか。そう考えると少しだけ羨ましかった。

 

「調子が良くないのなら、眠るべきです」

 

 そんな感情を胸の内に仕舞い込んで、誤魔化すようにエイシンフラッシュはそれだけを口にした。その声が震えているかどうかは、彼女自身にはわからなかった。隠せているだろうか。隠せているといいな。なんて、そんなことが頭に浮かんだ。

 

 既にその手にマスカットは無い。その黄緑色は全て食べ尽くされた後で、果実と一緒に飲み込んだ何かもまた、そこには無い。

 

 また4分30秒が経過した。再びループが始まりそうになったところで、停止のボタンを押す。ピアノの音がぴたりと止み、()()とした静寂がこの白い部屋を包み込む。病室と肺の中を飛び回っていた赤い鳥はその羽ばたきだけを残して、指先に羽毛も()れさせぬまま消えていった。

 

「眠れる気はしないんだけどね」

「ですが、今の貴方に必要なものですよ」

「そんなものかな」

 

 微妙に納得できないような表情(カオ)をしながら、トレーナーは枕の上に頭を置いた。全然眠くないな、と呟きながら瞼に手を当てる。未だ目も意識も冴えたままで、百人一首さえ(そら)んじられそうな気がした。

 

「貴方はもう少し、ご自身の身体を労わるべきです」

「それを言われると何も言えないな」

 

 困ったように顔を逸らす。まるで母親に怒られた子どものような、()()の悪そうな表情が垣間見えた。事実、身体の悲鳴を無視し続けた結果が今なのだから、そこを突かれてしまうと反論の言葉の一つさえ出てこない。

 

 エイシンフラッシュは子守唄の一つでも歌ってみせようかと考えた。それは彼が今このときに子どものように見えたのもそうであるし、何より────

 

「昔、私が眠れないときは、母が子守唄を歌ってくれました」

「へえ。君にもそんな時期があったんだね」

「どういう意味ですか」

「ごめんごめん。おかしな意味じゃなくてね」

 

 かつて、まだ物の道理も分からないほど無知であった頃。齢の桁が今より一つ少なかった頃。

 何か大した理由があったわけではなくとも、眠れない夜があった。ただ機嫌が悪かっただけなのかもしれないし、眠れないだけの不都合があったのかもしれない。何はともあれ、子どもらしく少し寝つきが悪くて親を困らせていた時期が、エイシンフラッシュにもあった。

 

「君は昔からそういうのには縁遠そうだと思っていたから」

「買い被りすぎですよ」

「そんなこともないと思うけど」

 

 エイシンフラッシュがトレーナーの『かつて』を知らないように、トレーナーもまた、エイシンフラッシュの『かつて』を知らない。

 過去に積み上げてきたものが『今』になり、『人』を作る。だからその人を見ていればどのような日々を過ごしてきたのかを考えることができるかもしれないが、それにだって限度はある。

 

 きっとエイシンフラッシュは、小さい頃から厳格に、今の同じようにスケジュール通りの日々を過ごしてきたのだろう。そうは思っても、考えてみれば出会う前の彼女のスケジュールは無理と無茶だらけで、幼少の頃は加減なんて知らなさそうだから、余計にその傾向があったのかもしれないな、なんて結論が浮かぶのに大した時間はかからなかった。

 

 だとすれば、子どもだというのに夜遅くまでスケジュールを遣り繰りしようとして、母親にベッドまで連れていかれる彼女の姿も不思議ではないのかもしれない。

 

「君の故郷の子守唄はどんなものだったの?」

「そうですね。私が母から聞いたものは“Schlafe,schlafe,holder,süßer Knabe”というものでした」

「ああ、それなら俺も知っているよ。同じ歌を子どもの頃に聞いた」

「トレーナーさんも?」

「そう。こっちだと『ねむれ ねむれ 母のむねに』って言うんだけどね」

 

 〝シューベルトの子守唄〟。

 世界三大子守唄と呼ばれるものの一つ。モーツァルト*1、シューベルト、ブラームスの三つの子守唄を総称してそう呼び、その訳詞は日本においても広く知られるところである。

 

「不思議なものだ。言葉が違うのに、同じ歌を知っている」

 

 海を超えて出会う前。互いのことなど知りもせず、互いの国など考えもしなかった頃。

 それぞれがまだ親元を離れることもできないほどに子どもで、まだ外の世界に及びもつかないほどに小さかったその頃に。

 エイシンフラッシュはトレーナーの『かつて』を知らない。それでも────そんな遥かな『かつて』からあった繋がり(共通点)に、胸が躍るような心地を覚えた。

 

「ええ。ええ。それはきっと、とても素敵なことですよ」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 異郷にて君を想う。

 まるで運命のようだと思った。まるで宿命のようだと思った。出逢いは必然で、初めからそのために生きてきたのではないかとも思った。

 

Schlafe,(眠れ) schlafe(眠れ), holder süßer Knabe(かわいい愛らしい我が子よ),」

 

 気づけば唄を口遊(くちずさ)んでいた。かつて母から聞いた子守唄、シューベルトの子守唄。その原語の歌詞とメロディーを。

 

Leise wiegt dich deiner Mutter Hand(母の手で優しく揺れて),」

 

 彼も同じ歌を聞いて眠ったのだろうか。昔から少し無茶をするような性格で、頑張りすぎて疲れてしまって倒れこんだベッドの上で、微睡みの中、このメロディーを知ったのだろうか。

 

Sanfte Ruhe(穏やかな安らぎ),milde Labe(柔らかな気持ちを),」

 

 そう考えると、なんだか彼が可愛らしく見えてくる気がした。

 トレーナーさんと呼ばれる彼は、いつも『大人』で、その背中に手が届かない。どんなに年月が経っても開いた彼我の差はあって、隣に立っているつもりでも、きっと何か壁のようなものが挟まっている。超えたくても、どうにもならない遠すぎる距離。

 

Bringt dir schwebend dieses Wiegenband(この漂う揺りかごが君に運んでくれる).」

 

 そんな彼が、この時だけはエイシンフラッシュの唄を聴いてくれている。まるで子どものようにベッドに横になって、子守唄に耳を傾けてくれている。それがどうしようもなく嬉しかった。

 

 1番を歌い終えたところで、気づけばトレーナーからの言葉は無くなっていた。顔を覗き込むと、既に瞼は閉じられ、小さな吐息だけが聞こえてきた。眠ってしまったのか、それとも寝ようとしているのか。はたまた形だけの狸寝入りか。その真偽はわからずとも、先程眠くないと自分から言っていたのだから、きっとまだ意識はあるのだろう。エイシンフラッシュにはそう見えた。

 

 そういえば、彼の寝顔を見るのは初めてだったと気がついた。泊まりがけでどこかに行くことなどないし、夏合宿でも宿舎は別だ。昼寝などしているところも見たことがないから、こうして眠りに就こうとしているトレーナーの顔は新鮮に思えた。

 

「ふふっ……トレーナーさん、起きてますかー?」

 

 小さく呟いて、彼の頬に人差し指を当てる。人の頬に触れることなどそう無かったが、押しては返す独特の弾力はクセになりそうに思えた。これだけやっても反応がないと言うことは、本当に寝てしまったのだろうか。今なら何をやっても起きないのではないだろうかと、エイシンフラッシュの脳裏にそんな思考が(よぎ)った。

 

「……トレーナーさん、本当に起きてないんですか?」

 

 そんな思考が────過ってしまったのである。

 

 ────今なら何でもできちゃうのでは!?

 

 エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。賢さの上限値上がったからもっとトレーニングしようね。

 

 (ゆだ)った頭で彼を見た。その小さな吐息は寝息のように聞こえた。吐き出される場所に視線を移せば、肌色の中で自己主張する唇に目を奪われた。

 

 ────起きてませんよね。

 ────何してもわかりませんよね。

 ────キスとかできちゃいますよね!?

 

 身体を前に傾ける。少しずつ、少しずつ、その顔を近づけていく。あと30センチ。あと20センチ。あと10センチ。そして、その影が重なり────

 

「……トレーナーさん、起きていますか?」

 

 触れることはなかった。

 寸前で止まった二人の距離。あと3センチ顔を前に出せば触れてしまうであろう距離。吐息が混ざり、霧散する。それはマスカットの香りをしていた。

 そんな距離が、埋められなかった。埋めるべきではないとエイシンフラッシュは思っていた。熱い吐息の代わりに口から出たのは、全く別の言葉だった。

 

「起きているならそのまま聞いてください。起きていないならごめんなさい。でも、そのまま聞いてください」

 

 その声音に浮かれた色はない。しかし確実に、何かの色を含んでいる。それは決して明るいものではなく、例えるならば────悔恨と、懺悔。

 

「貴方は知らないでしょう。貴方が倒れたとき、私がどんな気持ちだったか」

 

 それは前日の出来事である。

 雨の降る日、憂鬱な昼。

 倒れた彼を見て血の気が引いた。心が(おり)のように濁った心地さえした。前後不覚で、マトモに立ってもいられなくて、頭の中がぐちゃぐちゃになって。救急車を呼ぼうとスマートフォンを取り出しても、その番号すら頭から飛んでしまうほど狼狽えて。

 

「結局、悲鳴を聞いた誰かが駆けつけてくれるまで、私は何もできなかったんです。私はただ、そこにいただけだったんです。……倒れた貴方を見て、慌てていただけだったんです」

 

 トレーナーが担架に乗せられて病院に運ばれるまで、エイシンフラッシュは何もできなかった。ただ呆然としていただけで、同行者として一緒に救急車に乗り込むことさえ叶わなかった。彼の同僚だという他のトレーナーが付き添って救急車に乗り込んで行くのを、ただ見つめていることしかできなかった。

 

「貴方は私の成長と変化を褒めてくれますけど、そんなことはないんです。まだまだ私は未熟者で、貴方がいてくれないと、できないことだらけなんです。……だから」

 

 途切れた言葉。シーツを握るエイシンフラッシュの手に力が籠る。吐き出した懺悔は形のないまま(ほど)けて消える。彼女の肩は震えていた。

 

「私のためを思うなら、私のために頑張らないでください。私のためを謳うなら、私のために無理をしないでください。……貴方はきっと知らないでしょう。貴方が倒れたあのときに、この心臓が止まってしまいそうになったことを」

 

 胸元のシャツを握りしめる。皺になってしまうだろうが、そんなこと気になんてしていられなかった。ただ苦痛と懺悔を吐き出すだけのこの行為に意味なんて無いと知っていても、言葉は止まってくれないし、胸の奥は痛いままだ。

 恋心のような優しい痛みではなく、疼くような、膿むような、化膿した傷口に針を突き立てるような。鈍くもあり、鋭くもあり、形容し難く、度し難い。そんな思いなど二度としたくないと、エイシンフラッシュは願った。

 

 ────もし貴方が、また私のために倒れてしまったらと思うと胸が張り裂けそうになる。

 

 無理をするなと言っても。無茶をするなと言っても。きっと無駄なことなのだろうとわかってはいる。トレーナーはいつもエイシンフラッシュのことを第一に考えている。第一に考えてしまう。だから、自分の限界に気がつかない。

 

「だからもし、貴方の身にまた何かあったら────私は、私を許せなくなってしまうのです」

 

 ────どうか、最後の一線だけは踏み越えないで。

 

「貴方は、〝シューベルトの子守唄〟のその先を知っていますか?」

 

 ぽつり、と雨粒が落ちるように、エイシンフラッシュはそう続けた。

 

 シューベルトの子守唄。日本にて広く知られている『ねむれ ねむれ 母のむねに』という歌詞ではあるが、当然これは日本語訳であり、元のドイツ語歌詞が存在する。1番の歌詞は内容的に大きな相違はないが、しかし2番以降の歌詞は、ドイツ語と日本語で意味が大きく異なっている。

 

 Schlafe(眠れ), schlafe(眠れ) in dem süßen Grabe(心地よい墓に),

 Noch beschützt dich deiner Mutter Arm(母の腕に守られたまま),

 Alle Wünsche(すべての願い), alle Habe(すべての物を)

 Faßt sie liebend(彼女は愛しく包む), alle liebewarm(愛の温もりで).

 

 Schlafe(眠れ), schlafe(眠れ) in der Flaumen Schoße(綿毛の中で),

 Noch umtönt dich lauter Liebeston(大きく優しい音色が君の周りに鳴り響いて),

 Eine Lilie(一本の百合と), eine Rose(一本の薔薇が)

 Nach dem Schlafe werd' sie dir zum Lohn(眠りの後に、それらが君への報いとなる).

 

 一般的には子守唄であるが、この歌は元々亡くなった我が子が天国に行けるようにと願う鎮魂歌(レクイエム)だと解釈される。故に、エイシンフラッシュは先程、歌うのを1番で止めたのだ。トレーナーの鎮魂など祈りたくないから。……死んでほしくなど、ないのだから。

 

「大好きです。愛しています。誰よりも。何よりも。ずっと、私と一緒にいてください。私の────最愛のヒト」

 

 それだけを(こぼ)して、エイシンフラッシュは顔を上げた。時刻はとうに夕刻だった。窓に映ったその瞳が潤んでいたように見えたのは、きっと気のせいではない。

 

 スケジュール帳を開く。時計と照らし合わせてみれば、本来の予定より大幅に時間が過ぎてしまっていた。随分と話し過ぎてしまったらしい。この調子では、学園に戻って何かトレーニングを行うのも無理がありそうだと、彼女はすぐに理解した。

 

「また後日、元気な姿を見せてください」

 

 言って、エイシンフラッシュは椅子を立った。

 止めたままだったラジオに気がついて、電源を切った。

 

「さようなら、私の天使」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 ひとりぼっちの病室は、ひどく静かで風の音さえ響くようだった。

 秋の夕暮れ。舞い散る紅葉。窓の外では先日の雨で濡れた銀杏(イチョウ)が落ちて、誰かに踏まれて散り散りになる。一際大きな木枯らしが吹けば、擦れた枝葉が()()と揺れ、その音色はさながら秋時雨のようにも感じられた。

 

「……くぅ」

 

 窓の内側に目を戻せば、そこには白いベッドに横たわる病人がいた。病人のように見える男がいた。病に冒されているわけではなくともその体調は万全ではなく、よく目を凝らせばその相貌には未だ消えない()()があった。それは泥人形だった。その泥人形にはトレーナーという名前がついていた。

 

「……すぅ」

 

 トレーナーは誰もいない病室で安らかな寝息を立てていた。さて、果たしてそれは寝息であったのだろうか。それともただの呼吸であったのだろうか。その真偽はわからずとも、しかしたしかな事実としてあるのは、彼には毛頭眠るつもりなどなかったということである。

 

「……ん、むぅ」

 

 昼寝の習慣などない彼にとって、病室でただ(ぼう)としていることはある意味では苦痛に近いものがあった。ワーカーホリックと言えばそれらしく、働き詰めの身体にこんな早い時刻からの睡眠はメカニズムとして含まれていないのである。

 

 そして更には、耳元で囁かれたエイシンフラッシュの言葉である。長く、長く、絞り出すようで吐き出すような悔恨と懺悔と告白を聞いてしまっては、眠りに就くなど困難を極めてしまうのは当然で────

 

「…………すやぁ……」

 

 爆睡してんじゃねえよ。

 

 当然、この男にそんな道理が通じるわけもなかった。「眠れる気はしない」などと宣っておきながら、エイシンフラッシュの子守唄を聴いて即座に夢の世界へ飛び立ったのがトレーナーという男である。

 

 なので勿論、エイシンフラッシュの言葉は全て聞こえていなかった。最初から最後まで心の声を吐き出した彼女の想いは、残念ながら全て睡眠の壁に阻まれていたのである。

 

 3年以上に渡り蓄積されてきた疲労と、ここ最近の仕事量のせいで、トレーナーの過労はピークに達していた。無論、そんなものが一晩寝た程度で治るはずもなく、眠くないと言いつつ彼の身体は休養を求めていたのだ。

 故に一度横になってしまえばあとは早く、懐かしい子守唄を聴きながら彼は一瞬で意識を手放してしまった。エイシンフラッシュの声が落ち着く声質なのもある意味では災いしたと言えるだろう。すぐにでも眠れる身体にそんなものを与えてしまえば、さながら泥濘(でいねい)に沈むが如く、夢の底に落ちていくのみである。

 

「くぅ……すぅ……」

 

 どれだけ経っても彼が起きる様子はない。面会時間は近く終わりを迎え、無論個室なため医師と看護師以外にこの部屋を訪れる者もいない。もう彼の眠りを妨げるものはなかった。このままトレーナーはエイシンフラッシュが何を言ったかすら知らぬまま翌朝を迎えるのみである。

 

 とにかくとことん間が悪い。ダービーウマ娘だというのにエイシンフラッシュの運は恋愛運には全く向いていなかった。もしわずかにでも意識があれば、残り3センチまで迫った彼女を見て何か察するところがあったかもしれないというのに。本当に? こいつその程度で何か察せるかな……。

 

「……う、ん」

 

 果たしてどのような夢を見ているのだろうか。吉夢だろうか。悪夢だろうか。誰が出て何をしているのか、無意識の中に入り込む(すべ)はない。外からでは、その夢の善し悪しは判別がつかない。

 

 ああ、だが────

 

「ふら……しゅ」

 

 その夢の中に出てくるくらい、恋する乙女に特権があってもいいだろう。

 

 夢に見る。夢を見る。

 秋の空は移ろいやすい。せめてそれが晴れの間くらい、善い夢を見るべきだ。たとえそれが、誰にとっての善い夢かはわからずとも。

 

「……ありがとう」

 

 冬の足音は、たしかにすぐそこまで迫っていた。

*1
厳密には作曲者はモーツァルトではなくフリースであり、さらに言えば、近年の研究により実際の作曲者はフリースでもなくフライシュマンであると言われている。




 裾野こがら様からファンアートをいただきました。神保町でカレーを食べるフラッシュです。リンクはこちら。タイトルロゴ無しはこちら。ありがとうございます。

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この戦いの最終的な勝者は?

  • エイシンフラッシュ
  • トレーナー
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