【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ   作:かむくら

15 / 21
 いつもここすきありがとうございます。


真実を知るエイシンフラッシュ

 始まりがあるなら終わりがあり。

 

 開幕を告げたなら閉幕を告げるのが道理である。

 

 季節は巡り、花が咲いた。青い空を覆う薄紅色の花弁の天蓋の美しさは、きっと何物にも例えようがない刹那の芸術だ。

 

 そうやって、花が散っていこうとも。

 

 季節が巡り、移りゆく時の流れが如何に残酷であろうとも。

 

 この幸福な日常だけは、何も変わらないまま永遠に続いていくのだろうと。

 

 ────あの日の私は、そう思っていた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「桜……そろそろそんな時期か」

 

 窓の外には春が訪れていた。三月のある日のことだった。

 

 呟いたトレーナーはトレーナー室から咲き誇る桜を見た。爽やかな春風に(なび)く薄紅色は、それそのものが春の象徴であるというのに、まるでこの季節の到来を喜んでいるかのようにも見える。今このとき、きっと窓を開ければ穏やかに揺らぐ流れが吹き込むような気がして、彼は外界と部屋とを仕切る一枚のガラスを開け放った。気分まで晴れやかになる心地がした。

 

 この国の四季は恵まれている。そう思わずにはいられない。別々の名を冠した季節にはそれぞれの魅力があって、しかも一つとして被るものがない。過ごしやすい時期、過ごしにくい時期というものはあっても、それは別の側面において特色として語られ、また一つの面白さのようなものを持っている。

 季節の巡りと共に記憶と記録が積み重なって、写真に映る背景もまた変わっていく。春は桜の薄紅色が、夏は空と海の群青色が、秋は色付いた葉の黄金と緋色が、冬は心さえ写せそうな雪の白銀色が、それぞれ歩んできた道のりを鮮やかに彩っているのである。

 

 季節は巡り、それを何度も繰り返した。繰り返しても飽きることはなかった。

 時間が経つにつれて、人との巡り合わせもまた変わる。思い出の中の人々は数年ごとに変わっていって、同じことをしても別のことをしても、また違った色の出来事として記憶される。

 トレーナーはそんな他愛のない『当たり前』を好んでいた。当たり障りのない平凡な日常を好んでいた。

 

「今年の新入生はどんな子が来るんだろうな……」

 

 その中でも春という季節には、彼としても思うところが多くある。

 春。出会いの季節。そして別れの季節。新たな門出を迎える時でもあり、大切な友人との日々を思い出に変える時でもある。既に『大人』になってしまった彼にとって、進学などの行事はもう通り過ぎたものだったが、それでも味わってきた離愁の名残は今も心のどこかで埃を被っている。

 

 別れを告げれば新たな出会いもある。春が素晴らしい季節のように扱われるのは、今まさに窓の外で咲き誇っている桜が、その新たなる出会いを祝福しているように見えるからなのだろう。

 

 ふと、学生時代を思い出して懐かしい気分になった。そうしたら、さながら繋がった鎖のように、トレーナーになってからしばらく会えていない両親のことも思い出して、つい郷愁(ノスタルジー)が襲ってきた。正月にも帰る暇など無かったし、お盆休みは夏合宿で完全に消えているため、エイシンフラッシュの担当になってからは両親とは時々の電話連絡くらいでしか話したことがない。

 

 顔を見た回数だけで言えば、自分よりもエイシンフラッシュの両親の方がここしばらくでは多いことに気がついた。なんだか奇妙な可笑しさがあった。

 

「異性の両親に何度も顔を見せるなんて、まるで結婚の挨拶みたいだ」

 

 実はそのつもりなのである。少なくともエイシンフラッシュにとっては。

 

「うおっ────」

 

 一際大きな風が吹いて思わず目を閉じる。背後で紙が舞う音がする。再び目を開けたときには床にいくらかの書類が散乱していて、どうやら全て風に吹き飛ばされたようだった。その中には何枚かの桜の花弁が紛れ込んでいる。そのうちの一枚を拾い上げてみると、トレーナー室の扉のところに誰かの足が見えた。見慣れたものだった。

 

「何をしているんですか」

 

 そこにいたのはエイシンフラッシュだった。未だ柔らかく吹き込む風に、彼女の艶やかな濡羽色の髪と切り揃えられた尻尾が揺れている。少しばかり乱れた髪を手櫛で直しながら、何か不思議な生き物でも見るようにトレーナーを見下ろしている。

 

「んー、春を感じてる?」

「するべきは掃除のように思えますが」

「それも尤も」

 

 床のあちこちに散らばった書類を集めてクリップで留めデスクに置けば、もう風に(めく)られることはあっても飛ぶことはなかった。要らない手間を取らされたような気もするが、指の間に挟んだ薄紅色の花弁を見れば、それすら気にならないような爽快感が胸の内に流れ込んできた。

 

「もう放課後か」

 

 時計を見ればとうに日は頂点を通り過ぎている時刻であった。窓の外には帰り支度を整えたウマ娘と、急ぎ足でトレーニング場に向かう慌ただしいウマ娘の姿が混在している。その中に一つ、見慣れない影を見た。真新しいスーツに身を包んだ知らない男性が、何やら緊張した面持ちでトレセン学園の門を通った。それを見て、トレーナーは小さく笑った。

 

「フラッシュ。あれ見て。あの人」

「学園内では見慣れない方ですね。どなたでしょうか」

「多分ね、来年から来る新しいトレーナーだと思う。何かの用事があって呼ばれたんだろうね」

 

 懐かしいな、と彼は言った。その声は随分優しいものに聞こえた。

 

「懐かしい、ですか」

「そう。あれはまさに、何年か前の俺の姿だ」

 

 今でこそURAファイナルズを制した王者のトレーナーだが、その実年齢的にはまだまだ若手と言ってもいい。

 初めての担当。初めての専属。チームを持つほど経験もなく、複数人を抱えられるほど手も広くない。たった一人を頂点にまで導いたというその功績だけは煌々と輝いていても、しかしトレーナーとしての経験はまだ一桁の年数しか積んでいない、新人というには遅く、ベテランというには早すぎる立場である。

 間に激動の数年間を挟んだといっても、しかし自身がトレーナーバッジを持ってこのトレセン学園の門を跨いだ日のことは、今でも昨日のことのように思い出せる。それほどまでに、かつてのその日は高いものだった。そのときのことを不意に想起させられて、トレーナーはつい笑ってしまったのである。

 

「春は出会いの季節と言うよね」

 

 思えばエイシンフラッシュと出会ったのも、こんな晴れた日のことだった。

 あまりに無理なスケジュールを押し通そうとする彼女を見かねて声をかけたり、倒れてしまったところを保健室まで連れて行った。両親へ成長した自分を見せるのだというその心意気と、振るわない結果に終わった選抜レース。そして両親との語らいの後結んだ契約。

 その全てを。あらゆるエイシンフラッシュとの全てを。全て全て、克明に覚えている。

 

「……もう四年か」

「そうですね」

 

 出会ってから今まで、その姿が頭から離れたことはない。皐月賞での雪辱、ダービーの感動、出ることすら叶わなかった菊花賞、高い壁に阻まれたジャパンカップと有マ記念、世代を超えた強者が集ったシニア級の日々、再び輝いた天皇賞・秋、終わりであり始まりであった二度目の有マ記念、そして全世代の頂点となったURAファイナルズ。

 

 最初の三年間。それからの一年間。早いようで、遅いようで。長いようで、短いようで。これから先に控えている約束された九年間も、きっと同じように過ごすのだと思う。トレーナーはそんな『当然』があるのだと信じていた。

 

 いつかトゥインクルシリーズから退()いてドリームトロフィーリーグに行くことになるのだろう。それでもやることは変わらない。いつも通り二人並んで、何事があってもなくても上を目指して歩いて行くのだ。────契約終了までは。

 

 そのとき、窓の外で何かが動いた。桜の花弁ではなかった。よくそれを見ると、大きく鮮やかなアゲハ蝶であった。

 ふと、トレーナーの中の少年のような誰かが顔を出して、そのアゲハ蝶の前に人差し指を差し出した。蝶はしばらくゆらゆらと付近を彷徨(さまよ)った後、彼の指先に止まった。

 

「君、虫は大丈夫?」

「その程度なら」

 

 トレーナーは窓の内側にそれを入れるようなことはしなかった。窓枠に肘を置いて、羽根を震えるように動かす小さな生命を見つめている。

 

「フラッシュは何年生のときからこっちにいるんだっけ」

「中等部の後半ですね」

「なら、多分授業ではやっていないかな」

 

 ぼんやりとした呟きだった。また風が吹いても、蝶がどこかへ行くことはなかった。その細い脚で指先にしがみつき、横から吹きつける春の奔流を受け止めている。

 

「〝少年の日の思い出〟。知ってる?」

 

 〝少年の日の思い出〟。

 ヘルマン・ヘッセの手になる短編小説。元はミュンヘンの雑誌、次いで20年後にドイツの地方新聞に掲載されたもので、度々改題を重ねながら発表されてきた彼の代表作の一つである。

 語り手の言う『客』という男が語る幼少期の過ちを綴った小説であり、小さい頃にのめり込んでいた蝶や蛾の採集と、かつて犯してしまった罪、そしてその悔恨を淡々と、しかし情景が目に浮かぶような詳細な筆致で書き連ねた名作として知られる。

 特に日本においては中学校一年生の教科書に掲載されていることから知名度が非常に高く、今なお多くの人の記憶に残り続ける一作であると言えるだろう。

 

「知っていますよ。ヘッセはドイツの作家ですからね」

「ああ、なるほど。向こうでも有名なのかな」

「たしかに有名ではありますが、日本ほどではないかと。彼がノーベル文学賞を獲るほどの大作家であっても、別に誰もが文学を読んでいるわけではありませんから」

 

 聞いて、そんなものかとトレーナーは一つの納得を得た。

 エイシンフラッシュが近くへ寄る。隣に立って、「少し借りますね」とトレーナーの指の横に自分の人差し指を触れさせた。指先を通るほんの少しの脈動は、まるでそこだけ血管が繋がってしまったかのような感覚を彼らに与えた。

 

 アゲハ蝶はしばらく迷うように脚を動かした後、ゆっくりとエイシンフラッシュの方へ乗り移った。その白魚のような指先に乗る鮮やかな蝶のコントラストが、桜と青空、白い雲の背景の中で一段と目立って見える。指先に蝶を乗せるエイシンフラッシュの姿は、それそのものが一枚の絵画のような絶妙な美しさを持っていた。

 

「貴方にもあるのでしょうか。そういった少年の日の何かが」

「あるにはある。男の子は虫を集めようとするものだからね」

 

 アゲハ蝶はありふれているけれど、と彼は言った。

 

「ただまあ標本にするほど熱心でもなければ、その辺りに珍しい蝶がいるような場所に住んでいたわけでもない。それより友達と遊んだりしている方が楽しくて、誰かの標本を潰すような真似をしたこともないよ」

「ふふ。虫取り網を持って駆け回る姿が目に浮かぶようです」

「俺そんなイメージある?」

「ええ。貴方は結構、そういうところがありますよ」

 

 放るように腕を窓の外で動かせば、蝶は弾き出されたかのように青空の下へ飛び立った。風に揺られてふわふわと漂うそれをじっと見つめて、その姿がどこか遠くの花弁に隠れるまで言葉はなかった。

 

 逃がしてしまったのか、とトレーナーは言った。あまり長居させるわけにもいきませんから、とエイシンフラッシュは返した。

 

 自分が少年だったときの思い出なんて何があっただろう。トレーナーは過去に思考を巡らせた。そんなもの沢山ありすぎて、覚えているものと忘れているものがどれだけあったのかすらわからなくなる。ただその中で、小学校の友人と蝶の採集に明け暮れた日があったことはたしかにわかっていた。

 

「……なんだろう。大人になりきれていないのかな、俺は」

「むしろ、完璧な大人なんているのでしょうか」

「難しい問いだね」

「それに答えられないのなら、きっと貴方は普通ですよ」

 

 随分と抽象的な言葉だと思った。現実主義者(リアリスト)の彼女にしては珍しい、現実で具体例を探すことの難しそうな問いだ。

 

「それは定義ができませんから」

「哲学的だ」

「哲学で言っても曖昧ですよ。〝超人〟の定義すら不明瞭ですから」

「ニーチェ?」

「はい」

 

 いつの日か、こんな語らいも思い出になるのだろうか。エイシンフラッシュが少年──厳密な意味の定義としては女性も含まれる──から青年に変わっていく道中である今も、いつかそういうことがあったと客人に語る日が来るのだろうか。

 想像しようとして、何も浮かばなかった。未来のことなど誰にも分からないと、ある日の海でエイシンフラッシュは語っていた。それもまた一つの思い出である。

 

 彼女はきっと蝶を集めたりはしなかったのだろう。幼少の頃から将来のための勉強や修行を重ね、その結果ここにいるのだと、聞かなくてもわかっている。彼女はそういうウマ娘だ。そういうウマ娘だと、積み重ねた日々が証明してくれている。

 

「まあ、完璧じゃなかったかもしれないけどさ。俺は結構、今を楽しんでいるならそれでいいと思っているよ」

 

 思えば、この一年様々なことがあった。

 

 初めてエイシンフラッシュの誕生日を祝った。URAファイナルズが終わった直後でそれなりに忙しくありつつも、これまで祝ってこれなかった分を、プレゼントとして感謝を示した。

 

 二人でチョコレートを食べに行った。不安にも雨に降られてしまって、二人で身を寄せ合いながら同じ傘で帰ったことを覚えている。その後にお互い風邪を引かなかったのだから、きっとあれが最善策だったのだろうと思うことにしていた。

 

 花火大会を見た。かつて見られなかった分の綺麗なものを、初めて特等席で見ることができた。そして、彼女の時間を貰えた光栄と、レースで共に戦っていくことへの決意を示した。

 

 特別講師として出張に行った。かつて自分が教わる側だった人たちへ何かを教えるのは、トレーナーにとってはかなり気の滅入ることではあったが、エイシンフラッシュの言葉に勇気を貰った。

 

 クリスマスを一緒に過ごした。プリザーブドフラワー、白い美しい花を貰って、未来への祝福を授かった。その代わりに時計を贈って、彼女のこれからの安泰を願った。

 

 貰い、貰われ。

 贈り、贈られ。

 

 そうやって互いに何かを分け合いながら、彼らは一年を過ごしてきた。今となっては懐かしいと思える思い出もあるし、まだそれほど時間の経っていない新鮮な記憶もある。

 

「覚えていますか。一年前、このトレーナー室でしたことを」

「今からちょうど?」

「はい。今からちょうどです」

「……ああ! そうだ、ファウストの話をしたんだ」

 

 今日よりちょうど一年前、ある晴れた日の黄昏のことである。

 彼ら二人はこのトレーナー室で談笑をしていた。他愛もない、よくあるただの会話だった。

 会話の題は〝ファウスト〟。ドイツを代表する作家の一人であるゲーテの作品について、彼らはその日語り合っていた。

 それより少し以前に訪れていた温泉にて、エイシンフラッシュはその〝ファウスト〟からとある一節を引用してトレーナーに話していた。それ故に彼に自分の言った言葉の意味を理解してもらいたくて、持っていた日本語訳のものを渡したことから、彼がそれを読んだ、というのが事の発端である。

 

 そんなこともあったと、トレーナーはまた過去を懐かしむ気持ちになった。たった一年。されど一年。既にあの日からそれだけの月日が経ったのだと、過ぎ行く時の流れを実感してしまう。

 ということはつまり、URAファイナルズという夢の舞台が開かれてからもそれだけの時間が経ったということになる。その後トレーナーが突然ドイツに連れて行かれたのも、本人にとっては楽しい思い出の一つだった。

 

「ということは、君に貰った一緒に走れるタイムリミットまであと9年か」

「ならば、そこまで私を導いてくださいね」

「もちろん。……とは言っても、全盛期はそこまで長いわけではないから、まあある程度短くはなるかもしれないけど」

「貴方がそれを言ってしまうんですか」

 

 10年という期間を提示してきたのは貴方の方なのに、とエイシンフラッシュは笑った。

 

「あのときは焦っていたんだ」

「ええ、知っていますよ。貴方は私にひと目惚れしたんですからね」

「それもう四年前だよ」

「何年経っても忘れませんよ」

 

 拗ねたようにトレーナーは顔を逸らした。そんな仕草でさえ可愛らしく見えるのは、エイシンフラッシュがどこまでも彼に心を奪われているからだろう。

 

 有マ記念の後で彼らの未来は決定的に狂った。エイシンフラッシュは自身の決めていた未来計画を破り捨て、トレーナーはそこから一人だけを見続けるという誓いを立てた。

 約束とは互いの指を繋ぐ縛鎖に似ている。離れたくても離れられず、無理に力を込めれば痛みとなって襲い来る。離れようなどと思ったことはないし、離れるつもりも毛頭ない。エイシンフラッシュはただ、それを今でも覚えていてくれているというその事実だけが、どうにも嬉しくて仕方がなかった。

 

 ────まあ一生隣にいますけれど。

 

 これまで不測の事態に直面するたびに改変を余儀なくされてきたエイシンフラッシュのスケジュールだが、それだけは変えるつもりは一切無かった。

 死が二人を別離(わか)つまで。死が二人を別離(わか)つとも。銀河鉄道に乗ってみなみじゅうじ星を目指したとしても。魂の果て、どこまでも。彼の隣の席は自分しかいないのだと、そう彼女は確信している。

 

 ────結婚なんて通過点でしかないのです。

 ────これから先、何十年も一緒に過ごすのですから。

 

 窓の外にまたアゲハ蝶が飛んでいた。その隣に、今度はもう一匹蝶がいた。

 

「へぇ、珍しいこともあるものだ」

 

 言って、トレーナーはまた指を差し出した。「止まってくれるだろうか」若干の好奇心を隠し切れていない声音でそう言った。蝶は指の周りをしばらく飛び回った(のち)、突然の春風に吹かれて二匹は別れどこかへ行ってしまった。ああ、と彼が残念そうな悲嘆を漏らした。

 

「せっかく仲が良さそうだったのに」

 

 少し元気の無い声音だった。引っ込めようとしたその指先に、また一枚花弁が貼り付いた。ある意味では運が良かったのかもしれないと、トレーナーは笑いながらそれを振り払った。

 

「いや、どうなんだろう。あれは(つが)いのように見えたけど、もしかしたらたまたま隣に居ただけの蝶だったりするのかな」

「ロマンが無いですよ」

「まあ、そうだね。ロマンがあった方が面白いか」

 

 もしも、あの蝶たちが番いだったとして。

 彼らはどのようなことを話しながら飛んでいたのだろうか。無論、虫に言葉が発せないことなどわかりきっている。その上での仮定として、トレーナーはそんなことを考えていた。

 

「例えば彼らに言葉があったとして、何を話していると思う?」

「蝶が、ですか?」

「そう」

 

 今日は風が強いね、だとか。

 今日は空が青いね、だとか。

 

 そういった何でもない日常の風景を語り合っているのだろうか。蝶の目から見える世界は色が違うと言うが、果たしてそれでも景色の美しさは変わらないのだろうか。

 

「そうですね」

 

 エイシンフラッシュはそう呟いて少し考える素振りを見せた。それは奇しくも一年前、彼女にファウストが救済された理由を聞いたときと同じような仕草だった。

 

「一番ロマンがあるものを言っても?」

「いいよ。君は夢想家(ロマンチスト)だからね」

「では────」

 

 言って、彼女は窓の外を見た。そこに蝶はいなかった。

 

「これからずっと一緒にいよう、ですね」

 

 エイシンフラッシュの顔は、熟れた果実のように赤かった。

 

 ────二人だけの永遠を誓っていたら、どれだけ美しいことか。

 ────まるで私たちみたいに!

 

 エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。多分そろそろ固有スキル出して差し切る用意をした方がいいと思う。もう丸々一年出てないから。乗り換え上手すら発動してないから。

 

 顔を赤くするエイシンフラッシュをよそに、トレーナーは窓を閉めた。風がぴたりと止んだ。吹きつけられて騒がしかった紙束も、ついにその合唱を停止した。

 

「これからずっと一緒に、か」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「そういえば」

 

 思い出したように、トレーナーがそう口にした。

 

「あと9年……厳密に言えば、君が走っていられる期間。それを終えた後のことを、全然考えたことがなかったな」

「以前、本を出したいと言っていませんでしたか?」

「それは老後のことだよ。俺が言っているのは、それよりずっと最近の未来のこと」

 

 ウマ娘とトレーナーの契約には、当然ながら期限がある。

 その契約内容自体がトゥインクルシリーズ、及びドリームトロフィーリーグに出場するための制約・制限として機能している。ウマ娘がそれらの公的なレースを走るためにはトレーナーの存在が必要不可欠であり、必然、走れなくなったウマ娘との契約は満了される。

 

 競技シーンからウマ娘が引退してその後のセカンドキャリアを歩み始めた後、担当契約を結んでいたトレーナーとの関係性には様々な形がある。指導者と教え子から良き友人のようになる者。その後一切の関わりが無くなる者。薄くとも冠婚葬祭や年中行事には声をかけられる程度の関わりを繋ぐ者。

 そういった関係性がどうなるかを、トレーナーは少し考えてみた。

 

「君が引退したらどうなるんだろうなぁ」

「どうもなりませんよ。きっと何も変わりません」

「変わるさ。それこそ、人生全部ひっくり返るくらい」

 

 彼の瞳は未来を見ていた。その瞳にエイシンフラッシュは覚えがあった。何か、自分では及びもつかない遠いところを見ているときの瞳だった。

 何故そんな目をするのだろうと、彼女は思った。

 そんな近い未来のことなんて、とうに決まっているはずなのに。二人一緒に幸せになるだけのはずなのに。いくらかは厳しい道が待っているだろうが、それも全て二人で乗り越えていけるはずなのに。

 何故。何故。何故。

 

 ────そんな、()()()()()()()()()みたいな顔をしているのですか。

 

「すぐにまた別の担当がつくだろうけど、どうだろうなぁ。どんなウマ娘になるんだろう」

 

 ────違和感、一つ。

 

 彼はエイシンフラッシュが走り終わったら共にドイツに行くのでは無かったのだろうか。日本でトレーナーなど続けられないはずだ。あの雪が降る日、そう聞いたはずだった。

 

「そろそろ両親からも孫の顔が見たいって言われそうだし、結婚のことも考えないとなぁ」

 

 ────違和感、二つ。

 

 結婚のことなど心配する必要は無いはずだ。トレーナーはエイシンフラッシュと結ばれる。そんなこと、既に決定している確定事項のはずなのに。あのクリスマスの日、時計の意味はそれのはずだった。

 

「君の顔が見られなくなるのも、多分結構寂しいんだろうね」

 

 ────違和感、三つ。

 

 顔が見られなくなることなんてない。毎日顔を合わせて、毎日おはようとお休みを言って、そうやって日常を過ごしていくのではないのか。それが未来に待っている『普通』のはずなのに。花火と星を見た輝く夜、そう誓ったはずなのに。

 

「結婚って言っても手がかりとか何も無いしなあ。実は初恋すらまだなんだよね」

 

 ────違和感、四つ。

 

 初恋すらまだだなんて、そんなことがあるはずはなかった。ひと目惚れと言ってもらったはずだった。トレーナーは絶対に、一度は恋をしているはずだった。これまでの軌跡の中で、そう確信していたはずだったのに。

 

 何かがおかしい。何もかもがおかしい。

 崩れていく。幻想が崩れていく。

 思い描いていた未来が色褪せていく。幸せだったはずの日々がセピア色に濁る。

 

 一体何を勘違いしている。エイシンフラッシュは必死に考えた。

 

 これまで積み重ねてきた二人の記憶は決して間違いではない。

 

 レースで勝って。

 それより多く負けて。

 大切な舞台で勝って。

 沢山の栄光を掴んで。

 一緒にどこかへ出掛けて。

 色々なものを見て。

 自分の大切なものを教えて。

 彼の大切なものを教えてもらって。

 夢を語って。

 夢を語ってもらって。

 

 それら全ては、何も間違いではない。たしかに事実として残っている、エイシンフラッシュの大切な思い出だ。

 

 何かを勘違いしている。どこを。何を。こうやって積み重ねてきたものが真実なら、果たして何を。

 

 何かもっと、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()────

 

 ────もしかして。

 

 そうして一つの可能性に行き着いた。混乱する頭の中で、それでも思考をクリアにして、自身の明晰な頭脳を最大限使った結果、一つの可能性が導き出された。

 それは決して認めたくないことだった。それを認めてしまえば、自分はこれまでの思い出のほとんど全てを間違っていたことになる。そんなことがあるはずがない。そう思っても、それ以外に可能性など残ってはいなかった。

 

「……あの、トレーナーさん」

 

 そうしてエイシンフラッシュは、決定的な一言を口にした。

 

「私たちって……恋人ですよね……?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「え? 違うよ?」

 

 ついに────気づいた。




 次回、最終回。

 感想評価があれば是非。

この戦いの最終的な勝者は?

  • エイシンフラッシュ
  • トレーナー
  • ダークライ
  • その他
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。