【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
時が止まってしまったかのようだった。それは幸福な刹那を永遠に
風は無い。滞留する空気は、先程まではたしかに甘いものであったはずなのに、こんな春先にもかかわらず肌を刺すような冷気へと変わった。窓の外で咲き誇る薄紅色の桜は、まるで嘲笑のようだった。満開になった口で
────違う?
────違う?
────違う?
聞こえた言葉が頭の中で反響する。否定の声音がずっと耳の内側に貼り付いている。恥ずかしがって異議を唱えるような可愛らしいものではない。怒りや嫌悪に染まって否認するようなものではない。ただ本当に
かつての刹那が
甘い思い出が嘘だったように渇いていく。
虚実。虚妄。虚栄。虚構。虚無。何もかも虚ろで、実体のない夢物語。夢は醒めて現実へ。現実は知らしめて真実へ。
そこまで頭を回して、ようやくエイシンフラッシュは、全てが自分の
すれ違いに終焉を。勘違いに終演を。奇跡のような神の気まぐれは、物語が始まった日に終わりを告げる。いつかの優しい黄昏は既に無く、閃光の名を関するウマ娘は、どこまでも続く暗澹たる水底へとその浮かれた虚実を沈めていく。
いつかの日、トレーナーは自身をメフィストフェレスと言った。エイシンフラッシュはそれを否定した。
そうではなかった。そうではなかったのだ。初めから愛されてなどいなかったのだ。何一つ正しい認知など存在しなかったのだ。
ああなるほど、と混乱する頭に一つ納得が落ちた。たしかに彼はメフィストフェレスだ。光を愛さざるものだ。
ついに気づいた。あらゆるものが間違っていたことに。あらゆるものがすれ違っていたことに。関係性につけるべき名前を勘違いしていたことに。一年前のあの日から────否、それよりもっと、ずっと前から。
エイシンフラッシュはその関係性を恋人だと信じていて。
トレーナーはその関係を信頼すべき相棒だと感じていた。
エイシンフラッシュからは想いが向いていて、トレーナーからは思いが向いていた。それだけの違い。ただそれだけのことだった。何よりも、彼女が不運なだけだった。
「えっと……よくわからないんだけど」
固まるエイシンフラッシュを前に、トレーナーはそう言った。困ったように苦笑していた。
「俺と君が、その……恋人? っていうのはどうして?」
その理由を彼は知らない。知るはずがない。シニア級一年目のバレンタインの日、エイシンフラッシュが教えたドイツ流の恋人の条件など、自分に当てはまるとはカケラも思っていない。
「……ドイツでは、恋人になるのに告白をしません」
「言ってたね」
「仲の良い男女が自然に距離を縮めていき、その過程で必要な諸事を済ませ、何の申告もなく恋人と呼ばれる関係になります」
「そうらしいね」
「ここまで言って……わかりませんか?」
やっと指先が動いた。暖かくなり始めた季節のはずなのに、まるで故郷の雪のようにそこはひどく冷たいように感じられた。
「……もしかして、俺たち?」
無言の首肯。ここでようやく首が動いた。断頭台に乗せられた罪人のような気分だった。
「両想いだと確認し、互いに言葉は無くとも、その二人はそれぞれのことを恋人だと認識します。そういうものです。……そういう、ものなんです」
「つまり、君は俺と両想いだと思ってたっていうこと?」
また首肯をする。腕が動いた。骨が折れているかのように力が入らなかった。
「……勘違いさせたなら、ごめん」
────いや。
────いやです。
トレーナーは少しだけ俯き気味に謝罪の言葉を口にした。彼の方が身長が高いから、エイシンフラッシュからはその表情がよく見えた。随分と苦しそうで、申し訳なさそうな顔をしていた。それはシニア級一年目の夏合宿で見た、別れを惜しんでいるときの表情によく似ていた。
────私は貴方に、そんな顔をしてほしいわけではないのです。
────貴方にそんな苦しそうに謝ってほしいわけではないのです。
「ちがっ……!」
口を開いて、申し開きをしようとして、言葉に詰まった。喉の奥に何かが引っかかったような感触がした。それは全て気のせいだ。何も食べていないし、何も飲んでいない。ただ心の奥にある後悔が、腹の底から出てこようとしている。
声が出ない。それ以上何かを言おうとしても、喉に詰まった不吉な塊のような感情が邪魔をする。
ふと、何かが頬を伝った。涙だった。随分と熱かった。
「俺の何が、君をそんなに勘違いさせたんだろう」
その涙の熱が、喉に詰まった塊を溶かしてくれた気がした。唇が震えている。喉が引き攣っている。嗚咽にも似た声が出かかっている。その全部を飲み込んで、エイシンフラッシュは答え合わせをしたかった。
恋する少女の心を殺す、最悪の答え合わせを。
「あの日、ひと目惚れしたと言いましたよね」
「ああ、したよ。君の走りに」
「バラを一本、贈りましたよね」
「親愛の証だよね」
「……温泉旅行の日、言った言葉の意味は」
「ネイティブの発音はまだ聞き取れないよ」
虚実に耽った、黄昏のトレーナー室も。
「月の夜に、私のことを考えていたと言いましたよね」
「まあトレーナーだから担当のことを考えるのは当然だよね」
「月が綺麗だと、言ってくれましたよね」
「実際すごく綺麗だったからね」
「その綺麗な月を一緒に見たいと、言っていましたよね」
「みんなで月見、したかったからね」
現実に眠った、月の綺麗な夜も。
「誕生日にオルゴールをくれましたよね」
「贈る意味は感謝らしいからね」
「〝エリーゼのために〟が流れましたよね」
「良い曲だよね」
「出会ってくれてありがとうと、言いましたよね」
「実際、君と出会えたことには感謝してるからね」
無実を叫んだ、誕生日の一幕も。
「世界一綺麗だと言ってくれましたよね」
「一般的に見て、君はかなり綺麗だと思うよ」
「劇でも私しか見れなかったと言いましたよね」
「親心ってあんな感じなのかな」
「いつでもずっと、私のことを考えていると」
「トレーニングに活かせそうなことがあるならね」
堅実に進んだ、ファン感謝祭の舞台裏も。
「私を助けてくれましたよね」
「トレーナーとして当然だよね」
「抱きしめてくれましたよね」
「そりゃ、怖がってたし」
「私のことを守ってくれると、そう誓ってくれましたよね」
「大人としての責務だよ」
口実を得た、怪異に怯えた暗闇も。
「一緒の傘に入りましたよね」
「風邪引いたら困るし」
「私と一緒にアドベントカレンダーを開けたいと言いましたよね」
「楽しいことはみんなでやった方がいいかなって」
「一番大切なのは私だと、そう言ってくれましたよね」
「トレーナーは大体担当のことが一番大切だよ」
如実に翳った、雨雲と相合傘の下も。
「私のことをずっと覚えていると言いましたよね」
「こんなに衝撃的な経験忘れられないよ」
「一番筆が進むのは恋をしているときだと」
「君の走りにはずっと目を惹かれているからね」
「ずっと、私に勝利を捧げると言いましたよね」
「それが仕事だからね」
不実を案じた、青い海の浜辺も。
「別れが辛かったと言いましたよね」
「そりゃ、教え子がいなくなるのは寂しいよ」
「光がよく見えるから夜が好きだと」
「星とか夜景とか花火って綺麗だよね」
「私が望む限り、どこまでも共にいてくれると」
「担当契約の話だよ」
結実を見た、星と花火の散る空も。
「私の考えていることはわかると言ってくれましたよね」
「担当のトレーナーが他のウマ娘の指導をするのが気に食わないって話じゃないの」
「私のトレーナーになったのが光栄だと」
「当たり前だよね。君の夢の手伝いができたんだから」
「貴方の一番は、私しかいないと」
「一番最初の担当だよ」
故実に惑った、イーハトーヴォの風も。
「私の声が落ち着くと」
「良い声してると思うよ」
「私の朗読劇を聴きたいと」
「君の得意なことなら、一回くらいは聴いてみたいでしょ」
「いつか、子供たちにも聞かせてあげたいと」
「だから聖蹄祭でファンの子供たち相手に朗読劇やったでしょ?」
行実に即した、古書店街の薫りも。
「私のことを『天使』だと」
「だってまあ、フラッシュ綺麗だし」
「同じ歌を聴いていたんですよね」
「有名ならそういうこともあるよね」
「あの日、私の想いは全て伝えたはずです」
「ごめん、寝てたからわからない」
果実を食んだ、ノクターンの響く病室も。
「プリザーブドフラワーを贈りましたよね」
「ああそう、あれ結局何の花?」
「クリスマスは大切な人と過ごすものだと」
「それくらい近しい間柄だと思ってくれてるんだなって」
「時計のプレゼントの意味は……」
「君いつも時計持ち歩いてるし、喜ぶかなと思ったんだ」
誠実を祈った、聖なる夜の贈り物も。
「手を繋いでくれましたよね」
「人が多かったからね」
「願いは同じだと言ってくれましたよね」
「今年もレースに勝てるといいなって」
「また、私の故郷を訪れるつもりだと」
「また旅行に行きたいな」
正実を願った、雪降る幸運の年明けも。
「義理チョコを贈ることはないと伝えましたよね」
「日本の文化に馴染んだんだなって」
「何故日本語で本を読むのかと、貴方ならわかるはず」
「そんなにこの国が好きになったんだって思ったよ」
「あのチョコレートの形は……」
「ああ、そういうこともあるよね。珍しい形じゃないよ」
内実に秘した、甘い薫りの一日も。
「だって、あの時、私が好きだと……!」
絞り出すように、吐き出すように。
エイシンフラッシュとしては叫んだつもりだった。噴き出した想いは音となって、大きく響いたはずだった。それがどうしようもなく小さい声量にしかならなかったのは、首を絞めるような痛ましさが、彼女の喉元を押さえて離さないからだ。
「……ああ。それは、」
勘違いしようもない。するはずもない。何よりも直接的な愛の告白のはずだ。
間違いなんてない。それさえも間違いだったら、何もかもに説明がつかない。そう思って、最後の希望のように縋りついて────
「だって君、お菓子作りが好きだろう?」
そんな何もかもが、全て虚実だったと突きつけられて。
そしてエイシンフラッシュは、真実を知った。
「……は、」
息が一つ、口から漏れる。
そっと、何か言おうとしてできなかった。ぞっと、顔が青褪めたのがわかった。赤い舌さえ青く染まっているかのような、雪を食んだときに似た気持ち悪さがあった。
「つまり、全部……」
涙が止まらなかった。何故それが流れているのかもわからなかった。より正確に言うなら、わかりたくなかった。悲しいはずなのに、それを悲しみと定義することを躊躇っていた。
だって、それを悲しいと言ってしまえば、初恋は悲恋になってしまうから。それだけは、嫌だった。初めて抱いた優しい心音を、シェイクスピアのように終わらせたくはなかったのだ。
「わたし、の……勘違い……?」
ただ流れていくだけの瞳の熱が疎ましくて、服の袖で頰を拭う。制服の青い袖口に、紺色の雫の跡が増えていく。
止まらない。止まってくれない。潤む視界の向こう側に、何かが動いたのが見えた。トレーナーがハンカチを差し出していた。それはエイシンフラッシュの瞳と同じ色をしていた。ごめん、と聞こえた気がした。
────ああ、どうして。
この涙に溶けて、恋心さえ流れていってしまったらよかったのに。
優しくされていると思ってしまう。大切にされていると思ってしまう。それで痛い目を見たばかりなのに、この胸には熱が残っている。
────私は。
────まだどうしようもなく、貴方に恋をしている。
「ごめん、フラッシュ。まずは謝らせてほしい」
淡いブルーのハンカチを手渡して、彼は言った。その表情からは、まさに居た堪れないという感情がひしひしと伝わってくるようだった。
「君を勘違いさせてしまったこと。それに君を泣かせてしまったこと。本当に申し訳ないと思ってる」
トレーナーとしても、エイシンフラッシュにそのような勘違いをさせることは想定外のことであった。
元来彼の性格はそういったものだ。褒めるべきものは褒めるし、素晴らしいと思ったものには素直に賞賛を贈る。ただ少し、口調が変わっているだけなのである。
人を喜ばせるような言葉は山のように出てくるのに、その意図の本質に近づく言葉だけが的確に足りない。どこか軽快な伊達男のように飄々としていて、しかしそもそもの性格が誠実であるために、一途な恋する一人の男のように見えてしまう。しかも不運なことに、彼にはそういった自身の特性を一切理解していなかった。
「君を軽んじているわけじゃない。たった一人、祖国を
大切じゃない、はずがない。
トレーナーにとって一番最初の担当というのは思い入れが深いものだ。失敗することもある。悩むこともある。そんなあれこれを二人三脚で乗り越えて、その更に先を目指す。行き着く先がどこであっても、それは絶対に消えないものだ。
「
エイシンフラッシュとトレーナーは、互いに初めて同士だ。
慣れない異郷、慣れない旅路。友人と呼べるような相手もほとんどおらず、ただ自分の決めた道筋だけを頑なに正しいと信じ続けてきた不器用な少女がいた。
慣れない環境、最初の教え子。教育者として勝負の世界に放り出され、しかし目の前の少女を放っておけず、ただがむしゃらに力を尽くそうとした男がいた。
「ダービーを勝ったとき、本当に嬉しかった。君が一番最初にゴール板を駆け抜けたとき、持ってたハンカチが使い物にならなくなるくらい泣いたんだ」
それはきっと、嘘ではない。
「天皇賞・秋を勝ったとき、救われた気がした。俺の信じる君が、またG1の舞台で輝くことができて……君と歩んだ道は正しかったんだって、そう思えた」
それはきっと、嘘ではない。
「有マ記念を勝ったとき、嬉しかったけど、悲しかった。もう君と一緒に走ることはできないんだって、でもまだ一緒に頑張っていきたいって、そんな思いでいっぱいだった」
それはきっと、嘘ではない。
「そして、URAファイナルズを勝ったとき。君と出会えて本当に良かったって、そう思った」
────ああ、そうか。
一つ、エイシンフラッシュは納得をした。すとん、と胸の奥に何かが落ちたような音が聞こえた。
そう、彼と彼女は何もかもを間違えていた。関係性の名前を間違えていた。未来予想図を間違えていた。交わした言葉を勘違いしていた。交わした想いを勘違いしていた。正しかったことなんて無かった。そう思えてしまうほど、すれ違いが多すぎた。
でも。
それでも。
二人で歩んだ日々だけは、決して嘘ではなかったのだ。
そして、その中でトレーナーがどういう人間かをよく知っているから。
────だから私は、貴方に恋をしているのです。
「……トレーナーさん。お話があります」
ハンカチで目元を拭って顔を上げる。
そこにもう涙はない。いつも通り、優しくも鋭利な切れ味を感じさせる瞳のエイシンフラッシュが、たった一人そこに立っている。うん、とトレーナーが答えた。どのような話がされるのかは、流石にわかっているようだった。
「トレーナーさん」
胸元に軽く握った手を当てる。心臓がうるさい。レース前にもしないような奇妙な緊張があった。その緊張を、一つ息を吸い込んで喉の奥に飲んでしまう。
言葉足らずで誤解されるなら、誤解されないほどに直接的な言葉を。
すれ違いにて曲解されるなら、曲解できないほどに熱狂的な告白を。
何も勘違いしようがないほどに、徹底的に愛を伝えてあげよう。
さあ、決定的な一言を言ってしまえ。
「私は────貴方のことが好きです」
そしてついに、エイシンフラッシュはその言葉を口にした。
「人としてではありません。師としてではありません。ただ一人の男性として、私は貴方に恋をしています」
今まではそこで解釈の余地が生まれていた。
好きという言葉に含まれる複数の意味。友愛、親愛、師弟愛、そういった全ての意味の分岐を排除して、エイシンフラッシュは想いを告げる。
「貴方の優しいところが好きです。貴方の子どもっぽいところが好きです。貴方の不器用なところが好きです。貴方の博識なところが好きです」
胸の内から次々と、これまで言うことすらできなかった想いが溢れ出る。
「貴方の笑顔が好きです。貴方の喜ぶ姿が好きです。貴方の思い遣りが好きです。────貴方の、言葉が好きです」
四年間、様々な姿を見てきた。
教え導く師としての姿。
無邪気に喜ぶ人としての姿。
仕事に勤しむ大人としての姿。
記憶を重ねた。思い出を積んだ。その全ては、嘘ではない。
たとえ、彼の言葉に望んでいた意味は無かったとしても。
たとえ、自分の言葉が正しく伝わっていなかったとしても。
「私の心をときめかせて、何も考えられなくなるくらい素敵な夢を見せてしまうような────そんな貴方が、大好きです」
好きになった彼の姿は、決して嘘ではないのだから。
「だから、お願いです」
勘違いばかりの日々に終焉を。
間違いばかりの日々に終演を。
この喜劇に────さあ、幕を引こう。
「私と、恋人になってください」
「え、ごめんなさい」
お前マジでふざけんなよ。
エイシンフラッシュの一世一代の告白を受け、トレーナーは至極当然のことかのようにそう返した。一瞬の躊躇いすら無かった。とても告白を受けた男の反応とは思えなかった。
「……え……あ……」
対し、エイシンフラッシュは予想外の返答にダメージを受けていた。いくら今まですれ違い続けてきた二人とはいえ、四年間も一緒にいてあれだけ距離が近かったのだから流石に彼も自分にある程度好意を持ってくれているだろうと思っていたのだ。それがこの一瞬の玉砕である。君何も悪くないよ。マジで何も悪くないよ。
「ああいや、そうじゃなくて! 落ち着いて聞いてほしいんだけど!」
「……な、ん、ですか……」
ダメージデカすぎるだろ。また泣きかけてるよこの子。
「別に君が嫌いとかそういうわけじゃないんだ。でもさ……」
「でも……?」
「常識的に考えてトレーナーと学生が恋人になるってダメじゃない?」
お前が常識を語るな。
しかしトレーナーの言うことも真っ当ではある。一般的にトレーナーは教員に近い立ち位置であり、教育者としての意識に則るのなら、学生であるトレセン学園在籍生のエイシンフラッシュと恋愛的な意味で親密になることは本来許されない。
彼は──言葉が足りなかったり超鈍感であることを除けば──普通の人生を歩んで世間一般の常識を身につけた人間だ。当然それまでにそういった教育者としての心構えは学んでおり、まだ齢20にすら達していないエイシンフラッシュなど、初めから眼中に入っていない。
「だから、君を恋愛対象として見たことはないよ」
「う……ぁ……」
「それにさっきも言ったと思うけど、俺まだ人を好きになったことないんだよね。恋愛とかよくわからないし」
エイシンフラッシュは泣いた。また頰に一筋熱が流れた。
「だからごめんね。君の想いには応えられないかな」
その涙を拭って、彼はそう告げた。その指先は随分と優しかった。
「……そういうことをするから、勘違いしてしまうんですよ」
「え? ……あ、そういう」
「はい。そういうことです」
トレーナーは何も変わらない。無二の相棒だと思っていた少女から愛の告白を受けた後でも、彼の仕草は何も変わらない。
エイシンフラッシュの言葉を断ったから気まずくなった、というようなことは、少なくとも今の彼からは感じられなかった。きっとこれからも、何かを変えるつもりはないのだろう。今日が終わったそれからも、二人はずっと担当契約を結び続けて、レースに出て、強者として君臨していく。たまに一緒にどこかへ出かけて、時が来れば────
時が来れば、何だと言うのだろう。
「トレーナーさん」
エイシンフラッシュは何十年後の未来でも、隣には彼がいると信じて疑ってこなかった。二人の間の契約内容は『担当』から『結婚』になって、関係性の名前も『恋人』から『夫婦』に変わる。そんな未来が当然だと思っていた。
しかし今、その前提は覆った。9年までは先がある。有マ記念の後、彼に引き留められた粗だらけのレーススケジュールには、そこまでの予定が書かれていた。
────なら、その後は?
エイシンフラッシュとトレーナーは恋人でも何でもない、ただの担当ウマ娘とトレーナーである。走れなくなれば契約は終わりを迎え、彼と彼女はそれぞれの道を歩み始める。その先には、いつか他の誰かと出会って、その人と一緒に歩む未来も、もしかしたらあるのかもしれない。
だがエイシンフラッシュには、彼のいない隣の空白に他の誰かがいる未来が、どうしても想像できなかった。
彼以外の誰かに恋をする自分が、どうしても想像できなかった。
初恋だった。そして、最後の恋だった。
「私は貴方のことが好きです。告白を断られても、それはずっと変わりません」
その頬に、既に涙は無く。
代わりにあったのは、爛々と煌めく決意の色だった。
たった一つ大切なことを決めた、誰よりも強い、恋するウマ娘の瞳だった。
「貴方は言いました。学生と恋人になるのはダメだと。そして、自分は恋を知らないのだと」
至極当然の大義名分。世間一般に知れ渡っている一般常識。それに加えて、トレーナー本人の気質。先程彼が自分から申告したそれを、エイシンフラッシュは再び挙げる。
「────要するに」
あるではないか。その問題をクリアする、最も単純明快で、たった一つの冴えたやり方が。
「
それこそが、エイシンフラッシュの答えだった。
「……え?」
「私は貴方を諦めるつもりはありません。このままいつか来るお別れでさようならなんて、絶対に嫌です」
少女の恋は終わった。虚実と幻想に
幼年期はいずれ終わるもの。終わりたくないと思っても、始まりを迎えたものが永遠であることなどない。どれだけ世界が美しくても、時が止まることなどありはしない。
そして、
「ですから、私が貴方に〝恋〟を教えます。貴方に〝好き〟を教えます。私がどれだけ貴方を好きで、どんな想いを抱え続けてきたのか、貴方にも知ってもらいます」
初恋は実らないと誰かが言った。────そんなことを誰が決めた。
初恋が実ったとしてもいいではないか。何も知らない無垢な少女が、恋を知って大人になる。そんな理想論を掲げたって別に構わないではないか。
胸を刺すような痛みも。目を灼くような光も。その全てを併せ呑んでこそ、本当の恋というものだ。そうして鳥籠の中の景色から外の世界へ飛び出して────その隣に、連れ出してくれた初恋の人がいるような。そんな夢物語を望んで何が悪い。
「時間はあります。あと9年。いえ、そんなに待っていられません。2年です。そのスケジュールで、貴方を惚れさせてみせます」
決めたリミット。それは決して目標ではない。実現を願ういつかの夢ではない。
告げたその期間は決定事項だ。既にそうなることが決まっている、彼女なりのスケジュールである。これまでのトレーナーとの年月で改善が見えたはずの不器用なスケジューリング。それを今、彼女は突きつけた。
「絶対に、貴方に〝好き〟だと言わせてみせますから」
顔が赤い自覚がある。早口になっている自覚がある。それでも、この宣言だけはしなければならない。
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。
もうそこに、余計な言葉はいらないだろう。
彼女はゴールから遠ざかった。再びスタートラインに立った。勝負の舞台にすら立てていないことに気づいて、今ようやく前を向いた。
時は止まらない。光は遠い。手に入れたいと願ったものは遥か彼方で、手を伸ばしても届かない。
されど────君との日々は、こんなにも美しい。
「覚悟、してくださいね」
もう恋人だと思っているエイシンフラッシュは、真実を知って大人になった。
そんなことは微塵も考えていないトレーナーは、手を引かれて戦いの舞台へ。
二人の新たな戦いが、今ここより始まった。
◇◆◇
────さて。
語ることができる物語はこれで終わり。勘違いとすれ違いを重ねたコメディは幕を引き、これから始まるのは少女が男の心を我が物とするべく奔走する恋物語である。
その結末はどうなるのか。そんなもの、どこの誰にもわからないものだ。これより始まる物語は彼と彼女の二人だけのもの。ならば、二人以外にそれを知っている者などいるはずもない。
だがしかし、一つだけ言うとするならば。
────頑張る少女の物語がハッピーエンドじゃないなんて、それこそ無粋というものだろう。
悲しみもあろう。苦しみもあろう。魘され怯える悪夢もあろう。それでも、きっと大丈夫。二人は今までも乗り越えてきた。ならばこれからも同じことをしていけばいい。
それでは、これにて終演です。観客の皆さま、お帰りの際は足下に気をつけてお立ちください。
これにて「もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ」は完結となります。
読者の方々。
ファンアートを描いてくださった方々。
感想や評価をくださった方々。
シチュエーションや題材を提供してくださったフォロワー様や友人各位。
そのほか、ここまでお付き合いいただいた沢山の読者の皆様。
皆様方へ、まずは最大級の感謝を。この物語が完結まで至れたのは、ひとえに皆様方の応援のおかげです。本当にありがとうございました。
そして、今は亡き偉大なる文学者の先達へ。数々の時代、数々の世界を描いた彼ら彼女らに最大級の敬意を。数多の文学なくしてこの小説は生まれませんでした。本当にありがとうございました。
以下は本作を執筆するにあたり題材・モチーフに使用した書籍及び文学作品です。
第一話「虚実に耽るエイシンフラッシュ」
『ファウスト』
収録:「ファウスト(一)(二)」(新潮文庫)
著:ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ
訳:高橋義孝
第二話「現実に眠るエイシンフラッシュ」
『伊勢物語』
収録:「新版 伊勢物語」(角川ソフィア文庫)
訳注:石田譲二
第三話「無実を叫ぶエイシンフラッシュ」
『モルグ街の殺人』
収録:「モルグ街の殺人・黄金虫」(新潮文庫)
著:エドガー・アラン・ポー
訳:巽孝之
第四話「堅実に進むエイシンフラッシュ」
『ロミオとジュリエット』
収録:「新訳 ロミオとジュリエット」(角川文庫)
著:ウィリアム・シェイクスピア
訳:河合祥一郎
第五話「口実を得るエイシンフラッシュ」
『冷気』
収録:「ラヴクラフト全集4」(創元推理文庫)
著:ハワード・フィリップス・ラヴクラフト
訳:大瀧啓裕
『ヴァルドマアル氏の病症の真相』
収録:「ポオ小説全集4」(創元推理文庫)
著:エドガー・アラン・ポー
訳:小泉一郎
第六話「如実に翳るエイシンフラッシュ」
『フランケンシュタイン、あるいは現代のプロメテウス』
収録:「フランケンシュタイン」(新潮文庫)
著:メアリー・シェリー
訳:芹沢恵
第七話「不実を案ずエイシンフラッシュ」
『老人と海』
収録:「老人と海」(新潮文庫)
著:アーネスト・ヘミングウェイ
訳:高見浩
第八話「結実を見るエイシンフラッシュ」
『銀河鉄道の夜』
収録:「銀河鉄道の夜」(角川文庫)
著:宮沢賢治
第九話「故実に惑うエイシンフラッシュ」
『隠者の夕暮』
収録:「隠者の夕暮・シュタンツだより」(岩波文庫)
著:ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチー
訳:長田新
第十話「行実に則すエイシンフラッシュ」
『蜘蛛の糸』
収録:「蜘蛛の糸・杜子春」(新潮文庫)
著:芥川龍之介
第十一話「果実を食むエイシンフラッシュ」
『死の素描』
収録:「日本近代短篇小説選 昭和篇1」(岩波文庫)
著:堀辰雄
第十二話「誠実を祈るエイシンフラッシュ」
『賢者の贈り物』
収録:「オー・ヘンリー傑作選」(岩波文庫)
著:オー・ヘンリー
訳:大津栄一郎
第十三話「正実を願うエイシンフラッシュ」
『雪国』
収録:「雪国」(角川文庫)
著:川端康成
第十四話「内実を秘すエイシンフラッシュ」
『檸檬』
収録:「檸檬」(角川文庫)
著:梶井基次郎
『城のある町にて』
収録:「檸檬」(角川文庫)
著:梶井基次郎
第十五話「真実を知るエイシンフラッシュ」
『少年の日の思い出』
収録:「少年の日の思い出」(草思社文庫)
著:ヘルマン・ヘッセ
訳:岡田朝雄
今一度、以上の著者及び翻訳者様方に感謝申し上げます。
読者の皆様がもし本作を読んで何かしらの文学作品に興味を持っていただけたのならこれ以上ない幸いです。
いくらかご要望がありましたので、今後もしかしたら他キャラクター視点で二人を見た番外編を書くかもしれません。気長にお待ちください。まずはファル子からですかね。
今後の更新、新作の情報は私のTwitterアカウント(@Kamukura0327)にてお知らせしていきます。ご興味があれば。
これにて本編は完結となります。最後ですので、よろしければ感想や評価の方もよろしくお願いいたします。
それでは私から皆様に、最後に一つだけ。
ダークライ、出てきませんでしたね。
この戦いの最終的な勝者は?
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エイシンフラッシュ
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トレーナー
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ダークライ
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その他