【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
また、後書きにてちょっとした宣伝がございますので、そちらもよろしければご覧ください。
────十四時〇七分。
指を日に透かすと桜が見えた。桜のように鮮やかで色の濃い血脈が、太陽の光で透けて見えていた。
時は春先、台東区上野。人波の絶えないこの街に桜が咲く季節。上野恩賜公園を埋め尽くす数メートル先も見えないような雑踏の中で、トレーナーとエイシンフラッシュは歩いていた。
ひとたび風が吹き抜けて、陽光に透ける命の色を連れ去っていく。空に揺れる薄紅色が、一筋の隊列のように春風の中で並んだかと思えば、どこまでも続いているような晴天に溶けるかのように遠くへ飛んでいった。その様を見て、トレーナーは「桜吹雪」と一つこぼした。
「綺麗なものだ」
手のひらに一枚花弁が落ちた。血脈に似た色。血脈よりも薄い色。白と赤の中間のような一枚に無数に走る花脈に、まだ拍動する命のかけらを幻視した。
「今年も良い季節になりましたね」
手を振って花弁をどこかへ飛ばすと、横からそんな声が聞こえた。トレーナーと同じく桜を見つめるエイシンフラッシュが、青空と同じ瞳に、舞い散る色を映していた。
何も無い、ただ桜が咲いているだけのこんな日に、二人隣に並ぶのが当たり前になったのはいつからだっただろう。
「今年も、桜は綺麗なままだ」
こうして二人でこの景色を見るのも、この年で七回目となる。出会いの年に一回目。皐月賞の前に二回目。天皇賞・春を見据えて三回目。URAファイナルズの最中に四回目。その後も二人で時を積み重ね、咲いては散っていく花々を見送ってきた。
随分と美しい景色だった。美しいモノを見て時が止まってしまえばいいと思ったが、しかし人の歩みも風の流れも止まることはない。それが普通だ。それが繰り返されてきた当然の道理なのだ。
ひと月前まであったような肌を刺す寒さは既にどこにもなく、移り変わった季節は春という名前をしている。それは出会いと別れの季節と言われているが、二人にとっては何も関係がない事柄だ。出会いなどとうに済ませているし、別れなどとうに通り過ぎている。
二人は並んで歩いている。上野の街並みの上に立つ桜並木を、人波に流されながら歩いている。
────十四時十二分。
「雪が溶けて雲が晴れる。日が差して桜が舞う。やはり日本の春といえばこの景色でしょう」
「向こうに桜は……無さそうだね」
「そんなことはありませんよ。ドイツにも桜はあります」
「それは意外」
「とはいえ、春の花の代表はクロッカスやスノードロップです。桜はベルリンのものが有名ですが、かつて日本から贈られたものですし、ドイツの花とは言いにくいかもしれませんね」
クロッカス。スノードロップ。日本においてそれらを春の風物詩と言うには、たしかに何か足りないのかもしれない。
ソメイヨシノ。カンザクラ。シダレザクラ。今歩いているこの道を彩る桜にも、それぞれ名前がある。ひとえに〝桜〟とだけ認識しているそれらが持つそれぞれの特異性を意識したら、何かが変わるのだろうか。その花弁の色の鮮やかさに区別は無いというのに。それら全てを総合してただ春の風物詩の〝桜〟と呼ぶのは、トレーナーにはなんだか風情が無いような気がしてならなかった。
「もう二十数回、この景色を見てきた」
「これからもっと見られますよ」
「そうだね。いや、そうかな。日本から飛び出せば、その限りじゃないかもしれない」
冗談めかしたその声音を辿って彼の顔を見れば、エイシンフラッシュの青い瞳には、またどこか冗談を吐く少年のような表情が映った。
「ええ、そうですね。きっといつか、見られなくなるときも来るのでしょう」
「願わくば、それはもっと先であってほしいけど」
「わかりませんよ。もしかしたら十年後には、貴方はこの国にいないかもしれません」
エイシンフラッシュは冗談めかしたように言った。意趣返しのようなものだった。トレーナーは「ならどこにいるんだ」と小さく笑っている。彼と彼女の会話の中で出てくる国など決まりきっているのに、それがわかっているからこその言葉だった。
「さあ、どこでしょうか」
誤魔化すように笑った。
誤魔化せてなどいなかった。
誤魔化すつもりもなかった。
それがどこかなど、エイシンフラッシュというウマ娘を知っていれば誰だって理解できる。
遠い異国。雪と夜の国。トレーナーにとってはいつかの日に一度行った国で、エイシンフラッシュにとっては生まれ故郷である国。トレーナーが日本以外の土を踏むとしたら、きっとそこ以外にないのだろう。そんなこと、二人にとっては至極当然の前提だ。
笑ってしまうような、他愛もない、独り言ならぬふたり言。六年だ。もう六年になる。既にそれだけの年月、こんなことを繰り返している。
「意地悪だね」
「ええ、誰かさんに似て」
「どこの誰だろう、そんな誰かは」
「きっと、私の隣にいる人かもしれないですね」
「ああ、それじゃあ仕方ない」
────十四時十九分。
桜並木の向こうに何かが見えた。晴天の下を悠々と泳ぐ巨大なシロナガスクジラがそこにいた。いつの間にか、それなりに公園の中を歩いていたらしい。気がつかない内に博物館の近くまで来ていたようだった。
少し休みたいような気分になって、トレーナーはベンチに腰を下ろした。ごく自然にエイシンフラッシュも左隣に座る。そのまま二人で何も言わずに舞い散る桜を眺めていた。桜の花弁が落ちる速度は秒速五センチメートルなんだ────なんて、どこかの映画で聞いたような言葉が脳裏をよぎった。
「もう日本には慣れた?」
「それを訊くには六年遅いと思いますが」
「そうかもね。ただ、なんとなく思ったんだ。そういえば訊いたことなかったなって」
トレーナーからしてみれば、エイシンフラッシュは出会ったときから随分とこちらの環境に慣れていたようだった。納豆が好きだと言うし、時差を気にしている様子もなく、当然のように日本語を使っている。見方によっては日本人よりも日本人然としていて、それこそウマ娘は生まれた国ごとの見た目の差異なんてものはないから、言われなければ彼女がドイツから来たなんてわからない。
最初からそうだったものだから、トレーナーはいつの間にかそれを訊く機会を失していた。
「でも、何だかんだで最初から順応してそうだ」
「そうでもありませんよ。私だって、日本に来た当初は困惑したものです」
「そうなんだ」
トレーナーにしてみれば意外だった。一見そつなく何でもこなせてしまいそうなエイシンフラッシュだっただけに、彼女が異国の文化で困っている様子など想像できない。
「食事が違う。時差がある。言葉が通じない。貴方と出会うまでに、一通りは経験しているんですよ」
祖国の味に慣れた舌は、最初日本の料理を不思議がった。
祖国の時間に慣れた感覚は、最初日本の朝に戸惑った。
祖国の言葉に慣れた耳は、最初日本の会話に苦労した。
「あらゆるものが違います。それが私が留学してまで見たかったものなのだ、と言ってしまえば簡単ですが……そうはいきませんでした」
「そうやって色々失敗して、その巻き返しのためにまた無茶をするわけだ」
「お恥ずかしい話ですが」
「若いってことだよ。歳になるとそんなことしてる余裕は無いからね」
「まだ貴方もお若い方でしょう」
「どうだろう。もう若さを名乗るのは厳しいかも」
まだ大台に乗ってはいないけど、と彼は笑った。まだその口元に皺は見えない。それでも、あと五年もすれば、きっとそこに無かったものが増えていくのだろう。
歳を取る。国を発つ。些細なことで変わっていく、未知で未確認な未来。エイシンフラッシュは懐かしい気分になった。自分も随分変わったものだと、いつかの不器用な少女のことを思い出していた。
「ああ、ですが────日本に来て、変わらないものもあったんです」
「それは?」
返される疑問に答えるように、エイシンフラッシュは上を見た。一際強く風が吹いて、薄紅色のカーテンを巻き上げる。
そう、それこそ、彼女が見た〝変わらないもの〟だ。
────十四時二十七分。
「日本の桜も、祖国と同じように綺麗でした」
実はドイツでも、桜が見られる場所は数多い。
特にその中でもベルリンが有名だろう。かつて日本のとある放送局によるキャンペーンでベルリンの壁跡地に桜が贈呈されたことがある。その数はおよそ九千を超え、今でも残る壁に寄り添うように植っているのだという。
ドイツ出身であるエイシンフラッシュにとって桜とは春になると見られる花の一つであり、春の名物とまでは言えずとも、実のところ馴染み自体はあるのだ。
「君にとって桜並木は見慣れたものか」
「そうも言えますね」
「色んなことが違っても、春と桜の美しさは変わらない。なるほど、ロマンチックだ」
桜の花弁が美しく色づくのは一年のうち一度だけの限られた期間である。ほんの三週間程度の限定的な美は、しかしその間だけでも人々の心に一年の巡りと新たな季節の訪れを知らせてくれる春の象徴だ。
別に桜が『美しく咲きたい』と願っているわけでもない。開花は植物が種の繁栄に必要だと選んだ手段の一つでしかなく、それに目をつけた人間が品種改良を繰り返して作り出した、謂わば人工的な価値だ。人工的に見出された価値だ。それでも、そんな価値を綺麗だと思っている。
「そういえば、こんな与太話を知ってる?」
咲き誇り、あとは散るだけの薄紅色の天蓋。それを見ていると、ふとトレーナーは、とある話を思い出した。
「なんで桜がこんなに美しいのか、その理由だ」
「そう作り出されたから、ではないのですか?」
「違うよ。桜の樹の下には屍体が埋まっているからだ」
少し脅かすような口調だった。まるで静まりかえった夜更けに怪談を語るような、そんな気味の悪さだった。
「こうやって満開になっている桜の樹の下に、一つ一つ屍体が埋まっているんだ。腐って、虫が湧いて、水晶のような液が垂れている屍体がね。それらを根で包んで、その液を吸い上げている。だから桜はあんなに綺麗なんだ」
「梶井基次郎ですか?」
「正解。〝桜の樹の下には〟だね」
桜の樹の下には屍体が埋まっている。
春になると時折語られる与太話の一つだ。元は梶井基次郎の短編小説の一つであり、それが彼自身の作品集〝檸檬〟に収録された〝桜の樹の下には〟である。
「桜は綺麗だからね。完璧にも見える美しさは、
桜が見事に咲くなんて信じられない。あの美しさが信じられない。梶井基次郎は作中でそう書いた。
美しさとは欠陥を内包していることである。欠損と言ってもいいだろう。何事においても完璧で完全なものなど存在せず、もしそんなものがあったのだとしたら、それはとても信じられるものではない。
桜はまさにそれだ。春になると咲く何よりも美しい風物。欠陥、欠損、不完全の欠片も無い完全な美。
ミロのヴィーナスは両腕を失い〝完全〟ではなくなったからこそ至高の美へと至ったように、桜を美しいと思うのだったら何かしらの不完全さを見出さなければならない。しかしそんなものは無いのだ。桜はただ桜であるだけで美しく、そこに失われた両腕のような欠損は見つけられないのである。
「だから、その下に屍体が埋まっていると思いたいんだ。それくらいの〝醜さ〟があれば、桜が美しくても信じられるから」
「貴方もそう思うのですか?」
「はは、まさか」
エイシンフラッシュの問いに笑って返す。「もしそうなら、今頃ここは公園じゃなくて霊園だよ」と冗談混じりに彼は言った。
────十四時三十四分。
「結局それは例え話だし与太話だ。今こうして見ている桜は、別にどうにか欠点を見つけなくても綺麗だろう」
目の前を通り過ぎる花弁を一枚見つけて手を伸ばす。捕まえてみようと手のひらを握りしめて、開いてみればそこには何もなかった。
花弁はまるで蝶のようにも見えた。ひらひらと、はらはらと、風の流れに揺れる姿がそう見せている。世の中には花に擬態する
また一枚目の前を通り過ぎて、手を伸ばし、掴み損ねる。その失敗に少しだけ意地になって、また手を伸ばし、しかし指の隙間から小さな薄紅色がするりとすり抜けていく。
「ふふっ」
「どうしたの」
「いえ、なんでも」
「なんでもってことはないだろう」
「ええ、そうですね」
笑っていて、それでも曖昧な誤魔化し。
可愛らしい、とは言わないでおいた。それはエイシンフラッシュの中に少し残っていた悪戯心のようなものだった。
美しさとは欠陥を抱えること。まさにその通りだと、エイシンフラッシュは思っていた。より厳密に言えば、完璧に見えるその中に、少しだけ見える不完全さこそが、何より人の心を惹きつけて離さないのだと理解していた。
どこか訝しげに彼女を見るトレーナーの目が、また宙を舞う桜の花弁に向く。その横顔の中に垣間見える彼の不完全さ────即ち、歳上らしからぬ少年の面影が、エイシンフラッシュの心を捕らえているのである。
「えい」
わざとらしく呟いて、彼の手から逃れた花弁を掴んでみせる。流石はマイスターの娘というべきか、こと手先の器用さに於いて、彼女の右に出る者はいない。親指と人差し指の間に挟み込まれたそれが、風に煽られて小刻みに震えている。
「……俺の負けだよ」
「勝負だったのですか?」
「そうでなくても俺の負け。これはプライドの敗北だ」
顔に手を当て空を仰いだ。はぁ、なんて溜息が聞こえてきた。エイシンフラッシュには勝負をしていたつもりなんてほんの少しも有りはしなかったが、しかし負けを宣言されたからには勝者である。彼女は指先にある一センチの
「では、一つお願いでも聞いてもらいましょうか」
「なんで」
「私が勝ったのです。敗者は勝者に何か差し出すべきでは?」
「横暴だよ」
「勝負を持ち出したのは貴方ですよ」
指を離し、摘まれていた花弁が風に攫われる。エイシンフラッシュが横に視線を流すと、トレーナーが心底微妙そうな
きっと、勝負だとかプライドだとかいうのは、ふと飛び出しただけの軽口に過ぎなかったのだろう。それを拾われて、
「欲張りさんめ」
「知らなかったんですか?」
「いいや、よく知ってる」
肩を竦めて、呆れたような、諦めたような、それでもどこか「してやられた」と認めるような、そんな口ぶりだった。
欲張りと言われても、彼女は然程悪い気はしなかった。むしろこの場においては褒め言葉ですらあると感じている。欲を張る。欲するものを手に入れる。それ即ち、彼女が思い描いた通りに事が進んでいるということに他ならないのだから。
────十四時三十八分。
「それで、そんな君は俺に何を望むのかな」
「そうですね。では、そこから動かないでください。あと、少しだけ背中を曲げて」
「え?」
物品や行動ではなく、ただ静止を求められ困惑する声が漏れる。何が目的かも分からず、その仔細を問おうとして────
すとん、と。トレーナーの左肩にエイシンフラッシュの頭が触れた。髪が触れた。ベンチの上に置かれた左手に、彼女の右手が絡められる。指と指の間に彼女の指が滑り込む。それは少し冷たかった。
「何を────」
「動かないでください。動いちゃ、ダメですよ」
自分のすぐ下から声が聞こえる。彼女が一言発する度に、ほんの少しだけ頭が揺れて、ウマ娘特有の耳についた飾りのリボンが横顔を擽っている。
「……どういう?」
「わかりませんか?」
「……」
沈黙。喉から絞り出したような息が、トレーナーから溢れる。
ここでの沈黙の意味は否定であった。分かっている。理解している。トレーナーは、エイシンフラッシュがこのような行動に出た意図を把握している。それを分かった上で訊いて、そんな風に返される。
「ずるいね、君は」
絡められた指の、その触れた隙間に熱が籠る。
頬を擽る黒髪の、その触れた軌跡に風が薫る。
密着した細腕の、その触れた肌に鼓動が伝う。
人前でここまで大胆になっている彼女の姿は中々見たことがない。トレーナーは、彼女が節制と自制を重んじる性格だということをよく知っている。桜の下、人通りの多い往来で、こんなにも近づいてくるエイシンフラッシュを見たのは、ともすれば出会ってから初めての経験なのではないだろうか。
彼女の指にわずかな力が入った。より強く指を結びたいのだと、そのような意図が察せられた。トレーナーはそれに返すことはしなかった。
「……結構、経ったけど」
────十四時四十二分。
まだエイシンフラッシュは離れない。離れる気があるのか、それとも無いのか。そもそも、これはいつまで続くのだろうか。彼女は何を求めてこんなことをしているのだろうか。その疑問が湧いて、視線だけを隣に向けた。顔色は窺えなかった。
そのとき気づいた。エイシンフラッシュが左手に何かを持っている。よく見るとそれは彼女が普段から使っているスケジュール帳だということがわかる。
器用に片手だけで頁を捲っていく。トレーナーからもよく見える位置でのことである。見慣れた彼女の文字に、分単位、秒単位で細かく定められたスケジュール。それを追っていくと、本日の予定まで辿り着いた。
『十四時〇七分:トレーナーさんと上野で桜を見る』
『十四時十二分:公園内の桜が見られるコースを規定した地点まで進む』
『十四時十九分:ベンチで三十二分休憩。Planenを進行』
『十四時二十七分:Planenを進行』
『十四時三十四分:Planenを実行』
〝Planen〟────トレーナーの記憶によれば、それはドイツ語で『計画』を意味する言葉だ。常に先を見据えた計画を立て続けるような人生を送ってきたエイシンフラッシュのスケジュール帳にこの文字があるのは何ら不思議なことではない。
不思議なことではないのだが、では果たしてそれは何の『計画』なのか。
今起こっていることは、ただ二人並んで座っているだけだ。普通より距離は近いだろうし、一見すれば恋人に勘違いされるであろう行為であっても、ただそれだけである。
────別に、恋人同士でもないのだけれど。
そう、トレーナーとエイシンフラッシュは恋人ではない。担当トレーナーと担当ウマ娘、言葉にすればそれだけの単純な関係だ。それがこうして、指と肩を触れ合わせている。それはきっと奇妙なことではあるのだろう。
とはいえ、である。
トレーナーとて、ここまでされて何も思わないほど鈍くはない。エイシンフラッシュがこの行為に秘めた真意までは分からずとも、何故このようなことをするのか程度は理解している。無論、彼女の望みも。
スケジュール帳に目を向ける。見る位置を下へずらしていく。
十四時四十二分、現在時刻。そこに書いてあったのは────
『十四時四十二分:答えを貰う』
「トレーナーさん」
しばらく黙っていたエイシンフラッシュが不意に告げた。トレーナーは「何」と返す。何か非日常的な緊張感のようなものが漂った。
「六年です。……六年、経ちました」
「そうだね。もう、そんなになる」
「貴方はもう、私の心を知っていますよね」
「そうだね。きっと、知っている」
「だから、貴方に答えてほしいのです。今、ここで」
ゆっくり、ゆっくりと、スケジュール帳のページが捲られていく。新たに開かれたそこに書かれていたのは、いつものような細かい予定ではなく────
『Qui aimes-tu le mieux, homme énigmatique, dis?』
見開き全体を通して書かれた、そんな文章だった。
「ドイツ語……ではないね」
「わかりますか?」
「そりゃ、どれだけ君といたと思ってる」
「そうですね。……そうですか」
腕越しに伝わる鼓動が少し速まったのがわかった。それを誤魔化すように、エイシンフラッシュは言葉を続ける。
「〝異邦人〟ですよ」
「カフカの?」
「いいえ、ボードレールの。〝パリの憂鬱〟の最初です」
〝パリの憂鬱〟。
フランスの詩人、シャルル・ボードレールの手になる散文詩集だ。トレーナーもよくは知らないが、ボードレールという名には聞き覚えがあった。〝パリの憂鬱〟や〝悪の華〟といったものが代表作だったか、と朧げながらに記憶している。
「異邦人、異人さん、────私と異なる貴方に問いたいのです」
頭上を覆う白い天蓋が風に揺れる。風が吹いているはずなのに、音が消えた気がした。雑踏が無数に往来を闊歩しているはずなのに、音が消えた気がした。トレーナーとエイシンフラッシュ以外の全てが、今だけは黙り込んでいるような気がした。
「
────六年待ったんです。
「
────答えを出してください。
「ねえ、
────今、ここで。
スケジュール帳が閉じられる。世界に音が戻ってくる。木々のざわめきとごった返すような喧騒。その中で一際大きく聞こえるような、隣にいる彼女の鼓動。未だ表情は見えない。それでも、緊張しているという事実だけははっきりと感じることができた。
答え。パリの憂鬱。六年という時間。
何と答えるのが正解なのか。それが分かっていたのなら、きっとこんなことにはなっていないのだろう。
トレーナーはエイシンフラッシュの言葉の意味を理解している。どんな答えを求めているのかも理解している。その上で、何と言うべきかを言い淀んでいる。
その中で、指先に感じる震えに気がついた。もうずっと結ばれたままの左手。そこから視線を上に上げれば、触れ合ったままの細腕と、肩の上に乗せられた彼女の艶やかな髪が目に入る。
────ああ、そうか。
そもそも、これを振り払っていない時点で答えは決まっていたのだろう。左手を小さく動かす。もっと強く結べるように、指と指を絡め合わせる。それがある意味での返答だった。これで通じると、彼は信じていた。
エイシンフラッシュから息を呑むような声が聞こえて、指が握り返される。それでよかった。それでもう、二人の間では全て通じている。
「フラッシュ」
たった一言の呼びかけ。そこに何が続くのかは、分かっているつもりだった。
彼と彼女の距離はゼロ。でも、まだ足りない。もっと近くに寄りたくて、エイシンフラッシュは頭と肩を押し付けてみた。らしくないと言われそうだが、しかしそうしたくて堪らないのだ。そうしても許してくれると、確信があったから。
それを可愛らしいと思いながらも受け入れてみる。なんだ、随分と簡単なことだったじゃないかと、彼は空を仰いだ。自分の中にある物事と感情は、何か複雑怪奇に絡まったものではなく、言葉にすればひどく単純なものであったのだ。
「フラッシュ」
また一言、そう呼びかけて。止まった彼女の髪の上に、そっと自分の頭を乗せてみる。寄りかかられるような姿勢から、寄り添うような姿勢に。触れ合った指は、絡み合うような形から握り合うような形に。そうしてみると、なんだかこれが一番自然なことのように落ち着いた。
「ねえ、フラッシュ」
「はい、なんでしょう」
「────」
そして、最後にたった一言そう告げて。
桜の花は、どこまでも咲き誇っている。
参考資料
『桜の樹の下には』
収録:「檸檬」(角川文庫)
著:梶井基次郎
『パリの憂鬱』
収録:「巴里の憂鬱」(新潮文庫)
著:シャルル=ピエール・ボードレール
訳:三好達治
二人のハッピーエンドは、何も特別でなくたっていい。それで通じ合えるのだったら。そういうお話です。
ここから先は宣伝です。
12月30日に東京ビッグサイトで開催されるコミックマーケット103にて、サークル『春一番』の方から私が参加した合同誌が頒布されます。お品書きはこちら。エイシンフラッシュとトレーナーが横浜のクリスマスマーケットに行くお話です。よろしければ是非いらしてください。表紙の権利は勝ち取りました。
感想や評価があれば是非。
この戦いの最終的な勝者は?
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エイシンフラッシュ
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トレーナー
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ダークライ
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その他