【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
今回挿絵がありますので、閲覧設定から挿絵表示を有りにするとよりお楽しみいただけるかと思います。
また、後書きにてちょっとした宣伝がございますので、そちらもよろしければご覧ください。
イーヴはそう言って、この呪われた時に無分別にも手を差しのべて果物を取り、引きちぎり、口にした。大地は傷の痛みを覚え、「自然」もその万象を通じて呻き声を洩らし、悲歎の徴を示した、すべては失われた、と。
『失楽園』第九巻 七八〇-七八三
◇◆◇
曇天と晴天の合間のような天気のとき、その様を言い表す言葉を探して、エイシンフラッシュは空を見上げている。気象学的な観点から見れば、雲が空の何割を占めるかによって決まるものでしかないその判別を、何とは無しに迷っている。
「六割ほど、でしょうか」
「何が?」
ふと溢した言葉に、誰かが答える声がする。隣を見れば、不思議そうな表情をしたトレーナーが、エイシンフラッシュの顔を覗いていた。
「空です。今のような天気は、果たして何と呼ぶべきなのか、と」
雲は白く、風に吹かれて流れていく。一際大きく彼女の髪が揺れた。十二月の風だというのに、その風は湿っていた。
横浜、赤レンガ倉庫。東京湾のすぐ横に建てられた、戦前の面影のままの建造物。その周囲をトレーナーとエイシンフラッシュの二人は歩いていた。雑踏は数多い。そのつま先が同じ方向を向いていたものだから、きっと名も知らぬどこかの誰かも、彼らと同じ目的でここにいるのだろう。
「楽しみだね、クリスマスマーケット」
トレーナーはそう言った。
クリスマスマーケット。冬のドイツの風物詩としても知られる一大行事のことである。クリスマス前、アドベントの四週間に渡って開催される祭りのようなもので、雰囲気としては日本でいう縁日に近い。多くの屋台や出店が並び、煌びやかなライトアップに照らされる。ドイツの夜は長く暗いものだが、その期間だけは昼と見紛うような光が街を覆うのだ。
クリスマスマーケットの文化はドイツや欧州のみならず世界各地に伝播し、今では珍しくもない行事と言ってもいい。クリスマスマーケットという呼び名が英語で知られているのも、日本ではそちらの方が通りが良いからであり、「私にとってはWeihnachtsmarktの方が馴染み深いですね」とエイシンフラッシュが呟いた。
「仕方ない。日本人にドイツ語は難しいし、そもそも俺にこの文化を教えてくれたときも、君はクリスマスマーケットと言っただろう」
「きっと、その方が通りが良いと思ったもので」
現在時刻は正午を過ぎたばかりのために、未だイルミネーションは灯っていない。これがあと六時間でもすれば、街を彩る灯りがどこもかしこも埋め尽くし、華やかに目を楽しませてくれるのだろう。
「それにしても、どうして急にクリスマスマーケットに?」
そう疑問を呈したのはエイシンフラッシュだった。
今回こうして二人が連れ立って歩くことになった発端は、トレーナーがある日ふと発した「クリスマスマーケットに行ってみたい」という言葉だった。
トレーニングも無く、割り当てられたトレーナー室で書類を片付けながらエイシンフラッシュと二人でいたある日のこと、彼はそう呟いた。
「特に理由があったわけでもないよ。ただ、冬が来たから、そういえばそういう行事があったなって、君を見て思い出しただけ」
「なるほど、つまりは気まぐれと」
「そういうこと」
その言葉を聞いて、エイシンフラッシュは軽く笑う。
大した理由は無いのだろうと、何とは無しにわかってはいた。
これまでの付き合いの中で、彼の行動全てに理由があるわけではないということは、当然のようにわかっている。節目を祝う、といった行事の感覚は誰しも持っていようが、エイシンフラッシュの故郷であるドイツでも、全員がアドベントの期間に毎日クリスマスマーケットを練り歩くわけではない。
「ただ、こうして一言『行ってみたい』とでも言わないと、これから機会は無いと思ったから」
横浜の風は冷たい。少し遠くを見れば、冬の黒い東京湾が波打っている。一歩身を引いて、両手の指をカメラの形にしてみる。クラシカルな空気を纏う赤レンガ倉庫と同じ画角にその水面を合わせれば、そこだけ昭和が切り取られたかのようにも見える。
「子どもの頃、よくこうして
「いつの生まれですか?」
「全然平成」
「昭和関係ないじゃないですか」
「いいだろう、別に」
彼は構えた指をエイシンフラッシュに向けて、かしゃり、と呟いた。綺麗に撮れていますか、と彼女は訊いた。いつでも、と彼は返した。
「貴方はまた、思わせぶりなことを」
「え? ……あ、ごめんよ。癖なんだ」
「気にしていません。ただ、私以外には言わないでくださいね」
不機嫌か上機嫌かわからない言葉を残して、エイシンフラッシュは再び歩みを進めた。その後ろをトレーナーが着いていく。彼の方が歩幅は広かった。しばらく進んで、二人の歩調は揃った。
チケットを切りクリスマスマーケットに足を踏み入れると、エイシンフラッシュの胸を、郷愁にも似た感慨が吹き抜けていった。
スパイスの薫り。人の波。頰を刺す冷たさすら懐かしく感じる。そういえばいつかのある日、故郷でこんな場所を歩いていた気がする。
「久しぶりの感覚です。日本もドイツも、クリスマスマーケットの喧騒は変わらないのですね」
日本とドイツ。その二者を比べれば、環境だけで言えば違うところばかりである。
気温、日照時間、服装。冬の装いだけ見ても、着込まなければマトモな生活を送れない向こうに比べれば、せいぜいが気温一桁程度のこちらの何と過ごしやすいことか。雪はほとんど降らず、太陽は八時間以上昇っている。それがこちらの常識だ。故郷とかけ離れた現在だ。
それでも、同じ喧騒が心地良い。
「オススメ、何かある?」
トレーナーがスマートフォンを片手にそんなことを訊く。彼はサイトからメニューを見ているようで、
「色々あって迷ってしまうね」
「でしたらヴルストなどいかがでしょう」
「ヴルスト?」
「簡単に言えばソーセージです」
そうしてエイシンフラッシュの説明を聞きながら露店を回る。その最中で、ふと彼女の足が止まった。何かと思いトレーナーも立ち止まれば、くるりとエイシンフラッシュの身体が彼に向けられた。それだけで何かを察し、彼は自らの手を差し伸べた。
「エスコートいたします、
「発音、上手くなりましたね」
「勿論。どれだけ君といたと思ってる」
差し出された手に、もう一つの手を重ねる。
冷たい空気なんてそこだけ気にならなくなるような心地がした。ただ手が触れただけなのに、エイシンフラッシュにとってはそれだけで満たされた気がした。そうして踏み出した再開の一歩は、先程までの歩幅とは異なっていた。
チーズリゾット、シチュー、シュニッツェル。いつかの日に街で見かけたようなシュトーレンもある。その中からグリューワインを見つけて一つ買った。エイシンフラッシュはトレーナーが酒の類を飲んでいるところを見たことがなかった。
「よろしいのですか?」
「教え子の前で飲むのは褒められたことではないけど、クリスマスマーケットといったらコレ、みたいに紹介されてたのを見たことがあってさ」
「それで気になってしまったと」
「許してくれる?」
「さて、どうしましょうか」
「ズルいよ、それは」
揶揄うようにエイシンフラッシュは笑った。たまに見せるその悪戯のような笑顔の向こう側に、普段学生らしからぬ彼女の子どもらしい一面が見える。「君はまだ飲んじゃダメだからね」と言えば「わかっていますよ」とまた笑った。
「大人の特権ってヤツだよ」
「では、故郷に帰れば私も大人ですか?」
「それはそれ、これはこれ」
「狡いですよ、それは」
「いいの。大人は狡いものなんだ」
トレーナーはグリューワインを一口含んだ。
「……。あったかいブドウジュース?」
「風情……」
「いやそれ以外に言いようが無いんだって」
哀れにも、彼には酒の善し悪しを判断するだけの知識が無かった。
「でも冬に飲むのがいいってのはよくわかる。少しスパイスの風味もするね」
薫るのはシナモンかクローブだろうか。普通のワインに比べて甘みが強いため砂糖も足されているのかもしれない。そんなことを考えてコップ一杯のグリューワインを飲み干した。熱したためにアルコールが飛んでいて、酔う気配は感じられない。
「お酒には強い方なんですか?」
「どっちがいい?」
「弱い方が可愛らしいかと」
「俺みたいな大人に可愛らしさを求めないでよ」
途端、エイシンフラッシュの手が彼の頬に当てられた。少しひやりとした手のひら。先程エスコートしていた左手だけ、少しの熱を帯びていた。
彼女の両の親指が、トレーナーの口角を持ち上げる。
「ほら、可愛い」
「そういうことじゃないと思うんだけど」
何か、今日の彼女は浮かれているように感じられた。どこか弾けているというか、いつも着けている真面目で几帳面というアクセサリーを、今だけは見えないように隠しているような、奇妙ならしくなさがあった。
「さあ、どうでしょう」
そんなことを考えているトレーナーの心の裡を見透かすように、エイシンフラッシュは再び、悪戯っぽく笑うのだ。
「ドイツでは、クリスマスは家族と過ごす日です。まだこちらでは早いですが、案外、私は家だとこうなのかもしれませんよ」
「ご両親の前では、君はまだ子どもか」
「ええ、勿論」
「俺にとっても似たようなものだけど」
「貴方にとっては、もっと別のものでいたいですが」
「いいや、まだまだ子どもだよ。お酒も飲めないし、悪戯もするようなら、まだね」
◇◆◇
思うに、大人と子どもの違いとは何だろうか。
年齢のどこかで区別されるものだろうか。法律により成年と未成年の区別は存在するが、それが一概に大人と子どもを分けるものだろうか。
経験値の総量で区別されるものだろうか。人より多く、人より希少な経験をいくつも通ってきたところで、それが一律に適用されるものだろうか。
嗜好の有無か。思想の貴賤か。仕事の多寡か。資源の消費か。
結局大人と子どもを分ける明確な基準など存在しない。したとして、人による。よくある議論は、よくあるそんな言葉で締め括られることがほとんどだ。
「身長や顔立ちの外見的特徴。言葉遣いや礼儀の所作的特徴。性格や精神の内面的特徴。そのどれを取っても結局それは個人差の範囲だ。例えば君にとって俺は大人なんだろうけど、ベテランの先輩にとってみたら若手に見える。……いや、それも一応大人扱いか?」
狭い、ダンスホールにも似た
〝氷川丸〟。一九三〇年に竣工し、貨客船や病院船、外航船として活躍した後、横浜の山下公園前に係留された重要文化財だ。
赤レンガ倉庫のクリスマスマーケットを楽しんだ後、彼ら二人はその船へ足を踏み入れた。現在から百年近くも昔のものだというのに、船は今にも動き出しそうな質感を足の裏から返してくる。
「どうしたんですか、急に」
「さっきの話の続きだよ。結局、俺たちは大人なのかってこと」
靴の裏が一歩船内を打ち付けるたびに、かつんと硬質な音が鳴る。
かつん。かつん。こと。こと。かつん。こと。二人の足音はまた別のものだ。体重差。歩き方。性別と性格による違いが、狭い船内ではよく響く。
「例えば君は、子どものために書かれた本を読む人を大人だと思う?」
「前提が矛盾していませんか?」
「いいや、していないよ。実際に、大人のために書かれた、子どものための本は世の中にあるからね」
しばらく歩くと甲板に出た。
寄せては返す波の音。吹いては抜ける風の音。髪を揺らす海風は、冬の冷たさを纏って頰を打つ。既に日は傾きかけていた。十二月の黄昏は、いつかの春よりずっと短い。
「……星は見えなそうだ」
吐いた息は白い。夕暮れに照らされたトレーナーの横顔が向いていたのは、どこか遠くの空だ。
「大人と子ども。物をよく知っているのはどっちだと思う?」
「大人でしょうか」
「そうだね。普通に考えればそうだ」
「妙な言い回しをしますね」
奇妙な遠回りだとエイシンフラッシュは感じた。
物をよく知っている。知識の有無を問うのならば、それは当然〝大人〟と呼ばれる人間の方が多いだろう。
だけどね、とトレーナーは言った。彼は船の手すりに肘をかけ、背中を預けた。彼と彼女の距離は、おおよそ三歩分だった。
「子どもが猛獣を飲み込もうとしている
猛獣を飲み込んで腹が大きく膨れた大蛇の絵を脳内に思い浮かべる。
蛇の体は細くて長いのだから、何かそれより大きな物を飲み込めば、その中心だけが歪に盛り上がる。それを横から見れば、たしかに何も知らなければ帽子に見えてもおかしくないのだろう。
「子どもは恐ろしさを知っていて、大人は恐ろしさを知らない。子どもはそれが何かを知っていて、大人はそれが何かを知らない。前提の共有やモチーフの伝達を抜きにすれば、その瞬間、子どもの方が大人より物知りになる」
「……思い出しました。その例え話を、六歳の頃に見た覚えがあります」
エイシンフラッシュはトレーナーと同じく空を見上げた。彼が何故そちらを見ていたのかをようやく理解した。
「〝星の王子さま〟、ですね」
〝星の王子さま〟。
フランスの飛行士、あるいは小説家のアントワーヌ・ド・サン=テグジュペリが手がけた小説である。
────いちばんたいせつなことは、目に見えない。
小さな子どもにもわかるような優しい言葉で、誰もが耳にしたことがあるような有名な一文だ。〝星の王子さま〟は児童文学として名を馳せる名作だが、その中には、大人に向けたようなメッセージや、人生の指針となるような大切な事柄が散りばめられている。
三つの火山と、星を割くほど巨大なバオバブと、他の星からやってきた一輪のバラだけがあった星。そんな星に住んでいた王子が、些細なきっかけで星を飛び出し、異なる六つの星を訪れた後、地球にやって来る。そこで王子と出会った『僕』はサハラ砂漠に墜落した飛行士で、王子のこれまでの星の旅路と、地球に訪れてから目にした体験談を聞きながら短い日々を過ごすのだ。
「俺が思うに」
トレーナーは未だ空を見上げている。
「大人になるっていうのは、そんなに良いことばかりでもない」
「それは何故?」
「物事には理由があると知ってしまうから」
星が輝くのは核融合反応によるものだと、大人になれば知ってしまう。
子どもの頃は空を見上げて、そのどこかの星に、王子さまがいて笑っているのかもしれないと思えた。王子さまが笑えば、空に輝く星が、まるで五億もの鈴が鳴り響くようにも見えた。
大人になれば、それは単なる御伽話に過ぎなかったのだと知ってしまう。夢物語を夢物語として認識してしまう。
「大切なものは目に見えない。『砂漠が美しいのは、どこかに井戸を、一つ隠しているから』と王子さまは言ったけど、その目に見えないものを信じることを、大人になるとやめてしまう」
原理が解明できない物事の真相を、その奥に隠された神秘に期待する。
子どもの頃は誰もが当然のように抱いていたその幻想が、やがて色褪せ枯れ果てる。物の道理を知ると同時に、幻想に対する理解を失っていく。そうして、かつて知っていたはずのものを知らない、大人というものが生まれるのだろう。
「その点、俺は君が羨ましいのかもしれない」
「子どもだから、ですか?」
「そう言ったら、君は怒る?」
「怒りませんよ。それはきっと、私の気持ちと似ていますから」
私が思うに、と、エイシンフラッシュは先程の彼のような口調で続けた。
「大人になるというのは、それほど悪いことばかりではないのかもしれません」
「それはどうして?」
「貴方の隣に並べますから」
一歩、彼女が前に踏み出した。
「私はまだ貴方にとってどうしようもなく子どもなのでしょう」
「そうだね」
「お酒は飲めませんし、わからない道理もありますし、夢も捨てられません。叶った夢と叶わなかった夢があっても、まだ夢を捨てたことはないんです」
「やっぱり君は
「ええ。知っていますよね」
二歩、彼女が前に踏み出した。
「貴方も、捨ててばかりではなかったのでしょう?」
「それはそうだ。君に夢を叶えてもらったからね。ただそこから、新しいものを探そうとは思えなくなった」
トレーナーの夢はとうの昔に叶っている。
日本ダービー。エイシンフラッシュが掴んだ栄誉は、全てのトレーナーとウマ娘が一度は夢に見る至上である。トレーナーにとっては年に一度有るか無いか。ウマ娘にとっては一生に一度有るか無いか。限られた王座だからこそ、その栄冠に価値がある。
かつて、彼はエイシンフラッシュに向けてこう告げたことがあった。俺の夢は君だ、と。
「なら、それでいいのではないでしょうか」
「と言うと?」
「私がずっと、貴方の
三歩、彼女が前に踏み出した。向かい合うようにして立ったエイシンフラッシュは、そのまま彼の横に並んで、手すりに背中を預ける。
「それに、どうせ貴方はまた違う夢を見つけますよ。そういう人です」
「なんか含みを感じる言い方だなあ」
「最初の
揶揄うような、囃し立てるような、少しばかりの笑みを含んだ口調だった。
きっとそこに大した意味などない。話の上で優位に立てそうな気配を感じたから、ほんの少し揶揄ってやろうと思っただけに過ぎないのだろう。トレーナーにもそれがわかっていたから、子どもの悪戯を流すように、そうだねとだけ返した。
「君が
「さあ、何でしょうか」
「答えないんだね。君の予定表には何も書いてないの?」
「いいえ、書いてありますよ。言うべきではないと思っただけです」
「何だか今日の君は、いつにも増して狡いな」
「狡いのは大人の特権では?」
「そうだったかもね」
手すりから背中を離す。ひやりとした風が空白になった背筋を撫でた。
────氷川丸にお越しのお客様にお知らせします。
近くのスピーカーから放送が鳴った。どうやら、あと十五分で船内観覧は終わるらしい。ここまでだね、とトレーナーが歩き出す。そうですね、とエイシンフラッシュが連れ添う。
ふと、空を見上げた。日は既に落ちていた。十二月の黄昏は短いものだ。
「……星だ」
横浜の夜は明るい。
中華街の喧騒、赤レンガ倉庫のイルミネーション。その他にも夜を彩る照明は数多い。その光の中で空に一つ瞬くものを見つけて、そんな声が漏れた。
「あそこに王子さまはいると思う?」
「いたら素敵だと思いますよ」
甲板から船内に戻る際に、一際大きな風が吹いた。エイシンフラッシュの足が止まった。トレーナーも足を止めて振り返る。夜空のような青い瞳が、彼をずっと見つめていた。
「トレーナーさん」
声は揺れず。
瞳は揺れず。
ただ、心だけが揺れているのが見えた。
「……今、貴方の目に映るものは、綺麗に見えますか?」
それはきっと、一人の『大人』に対する問いかけ。
一人の少女から、一人の大人へ。少女にとって綺麗なものが、大人にとってもそう見えているかの問いかけだ。
〝星の王子さま〟の語り手が六歳の頃、猛獣を飲み込んだ大蛇の絵は、大人からは帽子だと言われた。きっとこの瞬間にも、エイシンフラッシュだけが気にしている、トレーナーには見えないものがあるのだろう。
だが、彼には見えた。少女が見せたかったもの。星空の底で輝く、目には見えない真相の奥。
「ああ、勿論」
そうして彼は、こう答えるのだ。
「今まで見た中で一番、綺麗だよ」
────さて。
時に、〝星の王子さま〟は、果たして誰のために書かれたものなのだろうか。
かの作品の冒頭には、始まる前にとある献辞が記されている。それは著者であるサン=テグジュペリの親友にして、執筆当時ある苦境に立たされていた人物レオン・ヴェルトに向けてのものだ。
レオン・ヴェルトはサン=テグジュペリより二十二も歳上で、決して子どもと言える年齢ではなかった。しかしこの物語は、児童文学の体裁を取りながらも大人に向けて贈られている。故に献辞では、これを読む子どもに向けて、そして大人たちに向けて、このように書かれているのだ。『小さな男の子だったころのレオン・ヴェルトに』と。
ならばこそ、この物語もそれに倣い、最後にこの一文を書き記すとしよう。
かつて小さな子どもだったころの、あなたたちに。
◇◆◇
一つ、ここに至るまでの話をしよう。エイシンフラッシュという少女は、胸の奥底でずっと、とある恋心を抱いている。
手を取ってくれた人、夢を叶えてくれた人。エイシンフラッシュが諦めかけた時でさえ、エイシンフラッシュのことを諦めなかった人。そんな人に、彼女はずっと想いを向けている。
トレーナー。恋した人。愛する人。特別な人。心に入り込んだ人。どのような言葉で言い表せばいいのか、エイシンフラッシュ自身にさえわからない人。
そんな彼がクリスマスマーケットに興味を示したとき、エイシンフラッシュはすぐさまこの日の予定を組み立てた。自らの祖国のイベントに、想い人が興味を持っている。舞い上がるにはこれだけで充分だったのである。後から考えれば彼の興味に大した理由などないことはわかったが、しかしせっかくの機会だとも考え、この日を迎えた。
エイシンフラッシュは普段から化粧にこだわるタイプではない。
そんな彼女だったが、今日に限っては違った。よく見ないと気づかない程度ではあるが、アイライン、チーク、リップなどで随所に手が加えられている。誰の手によるものかと言えば、カワイイに詳しいカレンチャンと見え方にこだわるスマートファルコンである。
そして、何故そんなことをしたのかと言えば、想い人であるトレーナーとのお出かけだから────
「……ふふ、ふふふ」
不敵な声。抑えきれず溢れたような、それでいて育ちの良さを隠しきれていないような笑い声だった。
エイシンフラッシュは既にトレーナーとわかれ、寮までの帰路についていたところだった。付近には誰もいない。街灯の光だけが隣人である。
「やりました……」
さて、ここで一つ、とある背景の話をしよう。
エイシンフラッシュはトレーナーと共にトゥインクルシリーズ及びURAファイナルズを駆け抜け、いくつもの栄冠を手にしながら絆を紡いできた、正に唯一無二のパートナーと言っていい存在である。
だが、ここに至るまでに成し遂げられていないことが一つあった。誇りを示し、力を示し、世代の頂点に立って尚────
「トレーナーさんに、綺麗だと言ってもらいました……! これは大きな進歩です……!」
エイシンフラッシュは
別に、ウマ娘とトレーナーの関係が恋愛的なものでなくてはならないことなどない。ウマ娘とトレーナーがどのような関係性を構築するかは各々の自由である。師弟、親子、兄弟、悪友、個性の数だけ関わり方があり、チームやコンビの数だけ関係性があり、その中の一つに恋人という選択肢があることも事実だ。現実的に、担当ウマ娘と恋仲になってそのまま結婚までしたトレーナーもそれなり以上の数がおり、一例で言えばかの二冠ウマ娘ミホノブルボンの家庭がそれに当たるとされている。
そうなるとエイシンフラッシュがトレーナーに恋心を抱き、
「結構アプローチしているはずですし、そろそろ向こうから何か
エイシンフラッシュがかなりの
少女は夢を見ていた。予定とは未来を書き記すもの。まだ不確定な
その予定の中にはトレーナーに関するものも当然のように含まれていた。具体的には彼との将来を思い描いている。トレーナーから
「いくらトレーナーさんが大人だとはいえ、もう出会ってからかなりの年月が経っています。そろそろ私も子どもではない……はずです」
エイシンフラッシュは恋愛模様になると普段の冷静さを失い突然掛かり気味になるウマ娘であったが、それでも何故自分の想いが未だ実っていないのかを正確に分析できるほどの理性は残っていた。
年齢差。立場の都合。恋愛価値観。それらの要素を原因として見出し、一つ一つ解決していこうというのがエイシンフラッシュの作戦である。
そのための第一プランが今回の横浜である。トレーナーとの年齢差や、そもそもの出会いが学園だったこともあって、彼にとってエイシンフラッシュは未だ子ども扱いのままだ。ならば、その認識を覆してやればいい。
────〝今、貴方の目に映るものは、綺麗に見えますか?〟
先程の言葉をエイシンフラッシュなりに言い換えるとこうだ。
────私は。
────まだ子どもの私は。
────今日のために、大人のふりをして着飾っています。
────この背伸びは、貴方にとってどう見えますか?
「上手く……いったでしょうか」
空を見上げた。都会の空に星は見えない。ただ月だけが煌々と輝いている。
結局、今日の作戦が成功したのかどうかを彼女が推し量ることはできない。トレーナーの心境に与える影響が有るか無いかなど、考えるだけではわからないものだ。
が、それでも。
────〝今まで見た中で一番、綺麗だよ〟
「……あれが真実であれば、それでいいのです」
それ故に、この話はここで終わり。その答え合わせはいつかの未来がしてくれる。それが幸せなものであればいいのだと、どこかの星に願っている。
未だ小さな少女だったエイシンフラッシュより、愛を込めて。
◇◆◇
「あ、流れ星」
冬空に、雪の代わりに一筋の光が落ちた。珍しいものを見られたと、トレーナーは上機嫌だった。
夜、公園にて空を見上げる。自動販売機で買ったコーヒーを片手にベンチに腰掛ければ、熱された吐息が星の雲のように白く棚引いている。
月だけが空を彩る女王だ。従者の星はどこにも見えない。都会の夜は明るいが、光年の距離を照らしてはくれない。
トレーナーは現在エイシンフラッシュとわかれた後の帰り道である。ほんの気紛れでコーヒーを買い、一日歩き通しだったために腰を下ろしたくなって、近くにあった公園に立ち寄った。
「昔はこのくらいなんてことなかったんだけどなあ……」
コーヒーを口に含んで呟く。最近は歳を感じることも多くなった。まだ若者と呼べる歳のはずだが、それでも学生時代と同じとはいくはずもない。一日動き回れば足に疲労を感じることは当然と言えるだろう。
ただ、面白かった。それだけは間違いないと、彼は今日のことを思い返す。靴裏の痛みはその対価と思えばいい。クリスマスマーケットの雰囲気、歴史ある客船、それに────
「綺麗。……綺麗に見えるか、か」
それは問いかけ。エイシンフラッシュからトレーナーへの、とある背伸びの問いかけだ。
────ああ、勿論綺麗だったとも。
────あの時の言葉の通りに。
トレーナーの返答に嘘は無い。風に揺れる濡羽色の髪の向こう、紺碧の夜空に似たエイシンフラッシュの瞳に見つめられて問われたそれは、たしかに美しく見えたのだ。
「また、見られたらいいな」
彼女の想いは、たしかに彼に届いていた────
「ガ◯ダム」
どこ見てんだお前。
さて、こうなったのにも当然理由というものがある。
大人と子ども。指導者とウマ娘。立場年齢恋愛観、様々な理由で未だエイシンフラッシュとトレーナーは結ばれずにいるが、そのどれよりも大きな理由はただ一つ。
歯の浮くような言葉は全て無自覚。積極的なアプローチは全て無認識。それこそ今回の件に関しても、エイシンフラッシュからすれば想い人とのデートだがトレーナーからしてみれば担当ウマ娘のコンディションを鑑みた息抜きの一環である。
「いやしかしすごかったな。あんなにデカい機械が動くんだもんな」
氷川丸のすぐそばにはかの国民的ロボットアニメの実物大スーツが展示されている。全長十八メートルにも及ぶそれは当然遠くからでさえ目立つものであり、トレーナーが立っていた甲板からも見えるものであった。
さらには夜になると周囲がライトアップされ、夜闇の中でより目立つようになる。彼とエイシンフラッシュの身長差により、ちょうど彼女の方を向くと頭の上からそれが見える位置だったのだ。だからと言って女の子とのデート中に見るな。
「あのアニメ観たことないからよく知らなかったけど、それでもテンション上がったからすごいよな。今度観てみるか、ガ◯ダム」
子どもか???
先程あれだけ大人と子どもの定義について語っていたとは思えない姿であった。とはいえ男とは動いて光る巨大なロボットを見たらテンションが上がる生き物なのである。問題はそれがエイシンフラッシュの後ろにあったというだけで。不憫。
それのせいで、トレーナーにとってエイシンフラッシュの言葉は全く別の意味に捉えられていた。
────〝今、貴方の目に映るものは、綺麗に見えますか?〟
────〝ああ、勿論〟
「ガ◯ダム、めっちゃ光ってて綺麗だったな」
そうじゃないんだってだから。
非常に残念なことに、途轍もない鈍感であるこの男に、エイシンフラッシュの勇気を出した一言が通じているはずもなかった。彼にとってあの時目に映っていたものは発光する巨大ロボットであり、恋する少女ではなかったのである。
が、それはそれとして、
────そういえば、今日のフラッシュ、いつもよりオシャレしてたな。
思考が残念なだけでそういうところにはしっかり気づくのがトレーナーという男であった。それをちゃんと踏まえて考えられればこんなことにはならなかったものを。それが自分のためだと思えないあたりが彼の残念なところなのである。
「まあ、そういう気分もあるんだろう」
コーヒーを飲み切る。軽くなった空き缶をゴミ箱に放り入れ、息を吐いてベンチから立った。
星は無い。王子さまはいない。かつて夢見た空の向こうに夢見ることはもうしない。いつかの過去に見えていたものが見えなくなっている。大人になるとは、この都会の空のようだ。小さな灯りは、より大きな灯りにかき消されてその色を失っていく。
が、それでも。
「……また、どこかに行こうか。二人で一緒にね」
楽しいと感じるその心だけは、いつになっても変わらないものだった。
故に、この話はここで終わる。子どもの彼女と大人の彼のすれ違いは、まだ終わらずとも少しずつ進んでいく。それだけが、ただ一つ変わらない真実であり、変わり行く関係性の一幕である。
「明日も良い日になりそうだ。きっとね」
小さな子どもだった頃の誰かの、明日を願って。
参考資料
『星の王子さま』
収録:「星の王子さま」(新潮文庫)
著:サン=テグジュペリ
訳:河野万里子
お話は最終話が終わった後、同じ年の冬。絶対オトすと宣言して半年以上経ったのに未だにアプローチが実っていないみたいな感じです。どうやったら前回のハッピーエンドに繋がるのか。多分めっちゃ頑張ったんでしょう。
挿絵はみそに様に依頼させていただいた合同誌の表紙絵です。最高。めっちゃ可愛い。本当にありがとうございました。
ここから先は宣伝です。
10月20日に横浜産貿ホール マリネリアで開催されるプリティーステークス38Rにて、サークル『春一番』の方から私が参加した合同誌が頒布されます。お品書きはこちら。エイシンフラッシュが秋の夜長に不思議な夢を見る話です。よろしければ是非いらしてください。
感想や評価があれば是非お願いします。
この戦いの最終的な勝者は?
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エイシンフラッシュ
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トレーナー
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ダークライ
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その他