【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
光が遠ざかっていく。
降りしきる雨の向こう側、行手を阻む水のカーテンの向こう側。ノイズのように視界は滲み歪んでいく。無力な私は何もできない。
「行かないで」と私が言った。手を伸ばしても、届かない。
でもいつか。だがいつか。私は必ず、手に入れる。
その
その
私はただ、走り続ける。
◇◆◇
「────フラッシュ、愛してる」
光はここにあった。
囁かれた甘い言葉に、エイシンフラッシュの脳は思考を停止した。
夕暮れのトレーナー室。一日も終わりに近づく黄昏時。赤い陽光が窓から差し込み、二人を照らす。
風が頬を撫でるより速く。遠くに見える鳩が飛び立つより速く。その言葉はエイシンフラッシュの心に届いた。
愛してる。愛してる。愛してる。
3回脳内で繰り返したところで、ようやく思考が再開される。
音にすればたったの5文字。時間にして1秒に満たないほどの短い言葉。しかしその5文字に収まりきらないほどの万感の想いと、無数の感情が、エイシンフラッシュには読み取れた。
日本人はこういった、少ない文字数に情報を込めるのが好きだという。時にしておよそ1300年ほど前、和歌の文化が万葉集という形で大成した。31文字の短い歌の中で、感動、情景、懸想、悲嘆などあらゆる感情と状況を言葉に表すその文化は、技巧のみでなくそこから読み取れる無限の情報にこそ趣を感じるという。
なるほど、と納得した。言葉で全てを表すのでもなく、それに内包される裏側を読み解くのがここまで幸福な気分を齎すとは、今までの彼女には理解できなかった境地だ。
「わ、私も……っ」
動揺しすぎていた。狼狽しすぎていた。顔が真っ赤になっているのが鏡を見なくてもわかる。でも、不思議とそれも良いと思えた。
優しい
時間をかけた。気がした。何度も息を吸った。気がした。
時間にすればきっと数秒。心だけが先走って、想いだけが先走って、身体が追い付くのに要した時間は、時計の針が僅かに傾くまで。
「私も、愛しています────」
ああ、やっと。
これで、やっと。
今の
なんて、感傷的になった。言葉にしなくても伝わらないことがあると、そんなことばかり思っていたけれど。大切なことは大切であると口にして告げることが、こんなに心を満たしてくれる。ああ、なんて素敵な
いつまでも、いつまでも。この時間に浸っていたい。この優しい黄昏の中で、この
「フラッシュ。いつまでも、俺と一緒にいてくれるか」
「はい。私はずっと、あなたの
寄り添って、触れ合って。
二つの影が距離を詰める。トレーナーの腕が伸ばされた。エイシンフラッシュの頬に触れる。彼女には、普段温かい彼の手が、少し冷たく感じられた。それだけ自分の熱が上がっているのだと理解して、ほんの少し恥ずかしくなった。その恥ずかしささえ心地いい。
もう片方の手は肩に。制服越しでも感じる、その手の大きさ。大人の男性だとわかる、3年間縋り続けた頼もしさ。偉大な熱量に、触れた場所が溶けていくようだった。
溢れ出る愛しさをどうやって伝えよう。言葉で足りるだろうか。言葉で表せるだろうか。いいえ、いいえ、きっと足りない。バベルの塔は崩れたのだから、人の心を繋げるのに言葉だけでは力不足だ。
それで足りないなら行動で示せばいい。エイシンフラッシュは両手を動かす。ゆっくりと、この甘美なひと時を惜しむように、彼の頬へ。触れたそこは、熱かった。
────ああ、あなたも同じ。
緊張しているのだろうか。だとしたら、それはおあいこ。互いに触れているのだから、きっとわかっているはず。どちらの顔も、黄昏よりも赤いに違いない。でもそれは仕方がないこと。
誰に聞かせるでもない言い訳。或いは、独白。
泡沫のように消える、甘い思考。蕩かすように侵す恋の蜜。これを愚かというのなら、私は一生愚者でいい。ねえ、あなたもきっとそうでしょう?
「フラッシュ────」
「はい……トレーナーさん」
ずっと昔のスクリーンシネマのように。どこかぎこちなく、静かに、トレーナーの顔が近づく。頬に触れた手があるから、顔を背けることもかなわない。でも、そんなことはしない。これはずっと、望んできたことだから。
影が混ざる。黄昏は終わろうとしている。このままだと今日の予定を超過してしまう、と冷静な自分が言った。それでもいいか、と
だってずっと待っていたんですから。この日が来るのを、思いが結実する日を。なんてことない日常の一幕が、永遠になるその時を。
だからきっと、明日の自分も許してくれる。そう相反する自分に言い訳して、エイシンフラッシュは目を閉じた。
◇◆◇
目を開けると、見慣れた天井だった。
黄昏時は既に終わり。赤い陽光は青い月光に変わり、窓から差し込む淡い光が部屋を照らしていた。今宵は満月。美しい円が空を彩っていた。
時間を見ると、夜中の一時。数回まばたきをして、部屋の中を見渡して、エイシンフラッシュは理解した。
────あ、今の、全部夢……?
「……ぁぁぁぁああぁぁぁぁ……っ」
恥ずかしさのあまり叫び出しそうになるのを、横にいるスマートファルコンの存在を思い出し制止する。時刻はとうに真夜中で、彼女も気持ちよく夢の中だ。
代わりに漏れたのは吐き出すような呻き声。エイシンフラッシュが生きてきた中でも一番に長い一息だった。
「……穴があったら入りたい……」
もう尋常ではなく恥ずかしい。顔から火が出そうというのはまさにこのことか。いっそ全て忘れたいと切に願った。明日大樹のウロにでもこの気持ちを吐き出そうかと思ったが、誰かに聞かれたらそれこそ恥ずかしいのでやめにした。
────もう一度! もう一度すぐ寝れば続きが見られるかも!
エイシンフラッシュはそこそこ
しかし、寝られない。すぐ布団を被り、目を閉じて5分、10分。全く睡魔が襲ってくる様子はなく、しばらくした後に再び彼女は上体を起こした。
そして、誰にも聞こえないような小さな声で呟く。
「……穴があったら入りたいぃ……」
それさっきも聞いた。
エイシンフラッシュはもうどうしようもなく目が冴えてしまって、このままではどんなに眠ろうとしても無駄なことがわかっていた。
鼓動が早鐘を打つ。うるさくて、しかし興奮していて。今はこの心臓が邪魔になる。でもそれは愛おしさの証明。その昂りが心地良かった。今この瞬間さえ幸せだと、エイシンフラッシュは小さく笑った。若きエイシンフラッシュの悩みは、存外下らないものであった。それでもいいと、それがいいと思っていた。
少し悩んで、一拍の深呼吸。傍らに置いていたスマートフォンを手に取って、トークアプリを開く。その一番上は、
────声が、聞きたいな。
なんて、そんなことを思ったりして。
気づけばメッセージを打っていた。トレーナーさん、起きていますか?
時間は一時を過ぎているというのに。月は高く、もう草木も眠りそうだというのに。ほとんど無意識の内に送られたそれに、そんなはずもないと冷静になった頭で取り消そうとして。しかし小さくついた既読の文字が、エイシンフラッシュの目に入った。
『起きてるよ』
『どうしたの?』
どうしてこんな時間に、とか、そんなことを考えて。それはこっちも同じでしょうとおかしくなった。もうこんな真夜中だというのに。お互いに夜更かししちゃう悪いコンビで、きっと今だけ似たもの同士。それはそれで、悪くない。
悪い子だから、仕方ない。あなたも悪い人だから、仕方ない。誰も知らない心の内に免罪符だけを重ねていって、端的な思いを書き綴る。
『お話ししたいです』
『いいよ』
その3文字が目に入った瞬間、エイシンフラッシュは部屋のドアから外へ出た。
寮の廊下。消灯時間は過ぎているから、誰もいないし、明かりもない。エイシンフラッシュが履いたスリッパの音だけが響いて、暗闇に吸い込まれて消えていく。
共用スペースのソファに座って、光る画面を一度触る。ワンコール、繋がった。耳に当てるのは難しいから、スピーカーで。
『あ、フラッシュ?』
少し機械らしさが混ざった、聞き慣れた優しい声音。喋り方ははっきりしているから、どうやら就寝中に起こしてしまったわけではないようだと安堵した。
『珍しいね、こんな時間に』
「ええ、その……
『ああ、あるよね。変な夢見たとか』
まさにそれだった。トレーナーの言った言葉に少し動揺し、わずかに肩が跳ねる。変な夢────エイシンフラッシュにとっては変ではないのだが、好きな人とキスする夢を見て起きたというのは、世間一般では充分奇妙な理由に含まれるだろう。
「……と、トレーナーさんは、どうしてこんな時間に起きてるんですか?」
エイシンフラッシュは話を逸らすことにした。通話の向こうのトレーナーはそれに気づいた様子もない。「んー?」と一瞬だけ考えるような声が入って、
『月が綺麗だったからかな』
────それって私のこと愛してるってことですよね!?
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端にかかり気味になるウマ娘だった。絶対チャンピオンズミーティングでそれやるなよ。
動揺と興奮を隠し切れないエイシンフラッシュに気づくこともなく、トレーナーは言葉を続けた。
『なんか久々にゆっくり夜空を見た気がしたからさ。今日が満月みたいだから、たまにはこんな時間まで空見てるのもいいかなって思った』
きっと、トレーナーは今優しい
「たしかに……綺麗ですね」
『ああ。本当に、綺麗だ』
「ええ。時間が止まってしまえばいいのに」
つい口をついて、そんな言葉が出た。
夏目漱石の『月が綺麗ですね』に対する返答は様々あるが、エイシンフラッシュはこの言葉を選んだ。森鴎外訳、〝ファウスト〟。
『
幸福な時間が過ぎていく。どうしてこうなったかも忘れてしまいそうな、穏やかな時の
『で、フラッシュはどうして起きちゃったの?』
トレーナーは忘れていなかった。蒸し返された問いに間抜けな声が出そうになるのを根性で飲み込み、しかし隠し切れなかった動揺が手先に出た。あたふたと取り落としそうになるスマートフォンをどうにか捕らえ直し、通話越しに聞こえる異音にトレーナーが「どうしたの?」と言う。
「その……えっと……」
あの夢の内容を正直に話すのは気が引けた。他ならぬトレーナー本人に告げるのは公開処刑に等しかった。しかしここで誤魔化しても、何か後ろめたいことがあるように見えてしまう。エイシンフラッシュは逃げることのできない袋小路に誘い込まれたのだと、今この時ようやく理解した。
「……夢を、見たんです。あなたが出てくる夢を。楽しい夢を」
よって、少しだけ内容を隠すことにした。嘘は言っていない。言っていないことがあるだけだった。
『俺が?』
「ええ。夢の中で、あなたと二人。二人だけ、でした」
いつ、どこで、どんなことをしていたのかは言わない。何故その夢で起きてしまったのかも言わない。ただ、それだけで伝わってくれと。
決して悪夢ではない。決して雑念ではない。いつかそう在りたいと願う甘い理想が、そこにはあった。
本当に、昂った。楽しかったそれが────
「夢だとわかっていれば、覚めたくなかったくらいに」
夢と現の境界は、無意識下において曖昧だ。これが夢であってほしいと思うような現実も、これが現実であってほしいと思うような夢も、皆一様に存在する。エイシンフラッシュの場合は後者だった。胡蝶の夢も、百年過ごせば現実と見紛う。
トレーナーもエイシンフラッシュのやけに神妙な雰囲気を察したのか、それ以上の追及をすることはなかった。そういうところだけこの男は察しが良かった。
『なら、一つ国語の授業をしようか、フラッシュ』
代わりに出てきたのはそんな言葉だった。
『思ひつつ寝ればや人の見えつらむ 夢と知りせば覚めざらましを』
「それは……和歌でしょうか」
『そう。古今和歌集に
「いえ、そこまで詳しくはないので……」
エイシンフラッシュは和歌にそれほど造詣が深いわけではなかった。彼女がドイツから日本に来たのはトレーナーと出会う約1年前のこと。中等部時代は母国で過ごし、日本での生活は長くとも4年程度でしかない。
成績は優秀なため、授業内で扱った文法や和歌については記憶しているものの、それ以外について詳しいということはない。トレーナーから聞かされた和歌も、もしかしたら教科書の隅に載っていたかもしれない程度の認識だった。
『思いながら眠りについたので、あの人が夢に現れたのだろうか。もし夢とわかっていたのなら、覚めなかっただろうに』
「……それは」
続いた現代語訳に、エイシンフラッシュはそれ以上言葉を繋げなかった。
なんということだ、それではまさに、今の状況そのままではないかと。先程自分が漏らした正直な気持ちと一致する歌に、エイシンフラッシュは頭を強く打ち据えられた気分になった。まるで、歌を通して自分の心の中を
『小野小町の歌なんだけどね。さっき君が似たようなことを言ったから、つい思い出した』
「……恥ずかしくなってきました」
『ごめんね。それじゃ、もう一個歌を紹介しようか』
言って、通話越しに水音のようなものが聞こえる。続いて、硬質な物が触れ合う接触音。トレーナーが何か飲んでいるのだろうか、とエイシンフラッシュは共用スペースの自動販売機に目を向けた。
『駿河なる宇津の山べのうつつにも 夢にも人にあはぬなりけり』
その歌には聞き覚えがあった。伊勢物語第九段『東下り』、その中で昔男が詠んだ歌だ。その意味は────
「駿河にある宇津の山のほとりに来ていますが、現実でも夢でもあなたに逢わないことだよ、でしたか」
『知ってた?』
「ええ。以前授業で扱った覚えがあるので」
自分をこの世界に不要なものだと思い込んで旅に出た先、夢の中でさえ想い人に逢えない悲哀。もし自分が同じ立場だったらどうだろうか、と考える。どこか遠く、隣にあの人がいない旅路。……考えられないし、考えたくもなかった。
『当時の価値観では、夢に誰かが出てくるというのは、相手が自分を思ってくれているからだと考えられていた。相手が夢に出てこないのは、自分のことを忘れてしまったからだという悲哀がこの歌にはあるんだよね』
「しかし、どうして今その話を?」
『いや、君の夢に俺が出てきたっていうからさ』
一拍、そこで静寂。自分の鼓動さえ聞こえそうな
『この綺麗な月を君と見たいって思ってたから、きっと君の夢に俺が出てきたんだろうなって』
────息を吸うことさえ、忘れた気がした。
その口説き文句はあまりにも狡い。エイシンフラッシュは顔を伏せた。誰に見られるわけでもない。カメラもオンにしていない。それでも、顔を上げることはできなかった。きっと今の顔は、熟れた林檎のようになっているはずだから。前を向いていることさえできなくて、俯いた。
────狡い。狡い。本当に、あなたは狡い人です。
そういうことをさも当たり前のように言うから、いつも恥ずかしい思いをする女の子がいることに気づいていないんですか。口に出さない恨み言を、心の中で口にする。そう言われて嫌な気分にならないのだから、この恋心はどうしようもなく盲目だと自惚れる。本当に、この気持ちは正直者だ。
『君が俺のことを
ええ、ええ、わかっています。鼓動が速い。体の至る所が熱を持つ。熱病に侵されたような感覚だが、とうに体は恋の病に侵されている。その病原体のなんと愛しいことだろう。世界はそれを心と呼んだ。
「……あぁぁぁぁ……っ!」
悶える。呻くように、泣くように、しかし喜ぶように。まだ顔は上げられない。でもそれでいい。次に顔を上げるときはきっと晴れやかな表情になっているはずだから、暗闇にさえ今の顔は見せたくない。見せるのは、一人でいい。
「
────私があなたを想うように。あなたが私を想うように。
相互に交わした慕情。スマートフォンを持つ手に力が入る。この小さな機械が、今の二人を繋ぐ架け橋。
「
ぽつりと
1秒、2秒、3秒。10秒待っても返事はない。ようやく心の整理が落ち着いたエイシンフラッシュが、何かおかしいと顔を上げれば、画面にはただのトーク画面しか映っていなかった。その一番下には、通話終了の文字。
「あっ……切れてる」
いったいいつから切れていたのか。思い当たる節はいくつかあるが、きっと先程身悶えていたときのことなんだろうと納得した。あのときはつい手に力が入ってしまって、うっかり通話終了を押してしまったのかもしれない。それが一番あり得そうな可能性だった。
全身から力が抜ける。ソファに腕を乱雑に放り出した。
「……はぁぁぁ」
ため息。しかしそれは諦めや呆れから来るものではない。心地よい脱力感。胸にある幸福。それらが体を満たしたから、つい追いやられた息が漏れただけ。幸福が逃げるため息ではなく、幸福を留めておくため息だった。
体を起こして空を見る。月は藍色の空に光の穴を穿っている。先程まで、あの月を────あの同じ光を、トレーナーと一緒に眺めていたのだ。世界の何処にいても見上げる空は同じだというが、なるほど、空を見上げるだけで大切な人の存在を感じられるなら、それはとても幸福なことなのだろう。
時間を見る。既に目が覚めたその時から30分が経過していた。いつもは絶対にしないような夜更かしの時間。今夜だけは、悪い子だった。
「こんなスケジュール、許されるはずないのに……ふふっ」
でも、そのおかげでトレーナーと話せたのだから、人生万事塞翁が、というやつである。もう一度月を見上げる。今日はありがとうと一礼して、エイシンフラッシュは部屋へと足を向けた。
────ええ、でも。
思わず笑みが溢れる。今から寝ても、きっとあの夢の続きは見られない。でも、それでよかった。最初にこの唇に触れるのは、夢のあなたじゃなくて、現実のあなたがよかったから。
そういえば、こんな思いを詠んだ歌があったなと、エイシンフラッシュは思い出した。特に詳しいわけではないけれど、恋の歌だけは少しだけ覚えたことがある。……他人事とは思えなくて、なんとなくおかしかったから。
「恋しさに思ひ乱れて寝ぬる夜の ふかき夢路をうつつともがな」
いつかまた、黄昏が差す逢瀬の時に。
あの夢の続きを、二人で。
◇◆◇
「切れちゃった……」
トレーナー寮の一室。僅かに外へせり出したベランダの淵に寄りかかって、トレーナーは小さく呟いた。
時刻は夜中の1時30分。既に草木さえ眠る時間に入りかけているというのに、何故トレーナーが起きているのかといえば、その視線の先に原因があった。
「月、綺麗だな」
ホットミルクの入ったマグカップを持ち、一口啜りながらそう漏らした。
「んー……」
その返答については様々あるが、俗に二葉亭四迷の『私、死んでもいいわ』だとか、森鴎外の『時よ止まれ、お前は美しい』が有名なところだろう。明治期の文豪らしく、非常に機知に富んだ洒落た言い回しだ。
月を見て、ぼうっとして、ホットミルクに口をつける。かれこれ数度その動きを繰り返し、マグカップの中の液体が底をついたところで、再び彼は呟いた。
「マジで月綺麗だな」
お前さてはそれしか考えてないな?
人間とは星見の種族である。かつて時計やコンパスがなかった時代は、太陽、月、星といった天体の動きから現在の時間や位置を把握したとされている。人間の生活は元来空と密接にリンクしていて、そのDNAは電子機器が発達した現代でも星への興味という形で受け継がれている。
トレーナーも御多分にもれず、星に興味津々な人間だった。プラネタリウムに目を輝かせ、冬になるとオリオン座を探すような人間だった。だからこそ、仕事終わりに空を見上げて綺麗な満月があったから少し起きていようかななんて思ったのだ。
そんな彼が……更に言えば朴念仁を極めた彼が、告白の意味で『月が綺麗ですね』なんて言うかといえば、それは断じてノーであった。
無論、彼とてそれがどういった文脈で告白に使われるのかは理解している。一般常識にも近いのだから、当然夏目漱石が云々なんてことは知っていた。
しかし、彼にとってはただ空を見て感想を述べたに過ぎない。考えてみればそれはそうだ。ただ月が綺麗だという感想だけで告白になるのなら、中秋の名月には全国でカップルが激増している。
そしてエイシンフラッシュにとっては不幸なことに、彼は『月が綺麗ですね』に対する返答を『私、死んでもいいわ』しか知らなかった。つい最近〝ファウスト〟を読んだのにこのざまである。彼は森鴎外を『舞姫』と『高瀬舟』しか読んだことがなかった。
「夢。夢ねえ」
月から目を外し、空になったマグカップをシンクに置く。思い出したのは、突然電話をかけてきた相棒の言葉だった。
夢。睡眠中、特にレム睡眠時に起こる脳の現象。記憶の整理、或いは理想の具現。エイシンフラッシュは自分が夢の中に出てきたと言っていた。それが夢だとわかっていたら覚めたくないと思うくらいには楽しい夢とも語っていた。
その寂寥さえ感じさせる声音と、わざわざ自分に電話までかけてきたエイシンフラッシュの真意に思いを巡らせ、彼が出した結論は────
「トレーニングでもしてたのかな」
お前マジでそういうとこだぞ。
彼はエイシンフラッシュからの好意に一切合切気づいていないので、まさか彼女の脳内で自分がキスしようとしていたとは欠片も思わなかった。多分誰もそんなことまで考えない。
彼の認識ではエイシンフラッシュはただ心を通わせた教え子でしかないので、自分が彼女と二人きりでいる状況はイコールでトレーニングに結びつけられた。余程楽しいトレーニングだったんだな、なんて見当違いなことを考えていた。
頭の中のエイシンフラッシュは練習上手◯かもしれないけどお前は察し×だよ。
よって、引用した古今和歌集の歌にも大した意味はない。ただエイシンフラッシュが知っている歌と似たようなことを言っていたので、その状況に当てはまるものを引っ張り出してきただけである。
「せっかくだから月見とかしたいよな」
しかし、月を見てエイシンフラッシュのことを考えていたのは事実だった。綺麗なものを誰かと一緒に見たい。その中にエイシンフラッシュは入っていた。
「秋川理事長とか、たづなさんとか、桐生院トレーナーとかみんなで」
彼にデリカシーというものはなかった。
例えば世にも珍しい皆既日食を家族や友人と集まって見るように。例えば子供が珍しい形の石を見せびらかすように。少し嬉しかった出来事をSNSに載せてシェアするように。ただ自分が『良い』と思ったものを他人と共有する。彼が思っているのはただそれだけだった。決してエイシンフラッシュが思っているような二人きりで月を見上げたいなんてロマンスに満ち溢れたものではなかった。
伊勢物語を引用したのも、古今和歌集で夢の話を出したから同時代で有名な夢の和歌を思い出しただけである。しかしエイシンフラッシュと月を見たいと思っていたのは事実だから、彼女のことを考えていたという言葉が嘘にはならないのが本当に厄介なことだった。それでいて歯の浮くような台詞を無意識で言ってしまうのだから、最早そういう体質だった。
「今度誘ってみるか……九月みんなでお月見しませんかって」
絶対やめろ。
しかしトレーナーはそんな他人の事情など知ったことではない。特にエイシンフラッシュからの感情が一番重いのに、これほど近くにいて全く気づかないのだから救えない。「楽しみになってきたな」などと善意十割で
時計を見て、少し夜更かししすぎたかと反省した。その後にカレンダーを見て、そろそろ三月も終わりに近づいてきたかと時の流れを実感する。ふと目線を下に滑らせて、トレーナーはその終わり頃につけられた一つの丸を目に留めた。
────ああ。そういえば、そろそろ。
夜が更ける。夜が更ける。今宵も月は高らかに、人の心を優しく照らす。
◇◆◇
翌日、エイシンフラッシュはしっかり寝坊した。
体力が30回復した。
エイシンフラッシュのやる気が下がった。
夜ふかし気味になった。
あまりにも幸せそうな寝顔だったから起こすのはちょっと忍びなかったと、同室のスマートファルコンは語った。
この戦いの最終的な勝者は?
-
エイシンフラッシュ
-
トレーナー
-
ダークライ
-
その他