【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
今回は宣伝とかはありません。よろしければここすきも押していってください。
「過ぎ去った」、それはどういう意味だ。
元からなかったのと同じことじゃないか。
『ファウスト』第二部 第五幕
◇◆◇
息を吸うと喉の奥が熱くなった。夏の匂いがした。
最近、随分と暑さが激しくなってきた。エイシンフラッシュは首筋を伝う汗の冷たさを感じながら、太陽の下から逃げるように帽子を被り直した。
夏。世間にとっては夏休みの季節、しかしウマ娘にとっては合宿の季節。エイシンフラッシュも多分に漏れず、例年の恒例となった夏合宿へ足を運んでいた。
焼けるような熱砂と照りつける陽光。潮の匂いと潮騒のさざめき。夏というテーマの絵画のようなこの光景を見るのも、もう何度目だろうか。
故郷の夏はこれとは真逆のものだ。薄曇りで、海は冷たく、水着で泳ぐなんて考えられない。
きみ知るや南の国、という一節がある。ゲーテの著作〝ヴィルヘルム・マイスターの修行時代〟の登場人物ミニョンが歌う曲である。
ドイツ人はその故郷の気候から南国に憧れを持ちやすい。暗く寒く、凍土が常のドイツで生まれ育った人たちは、明るく暖かい南国──イタリアやスペインなど──を夢に見る。エイシンフラッシュもそれは例外ではなかった。
ドイツ人は旅行好きとしても知られていて、昨今では日本への関心も高まっているという。たしかに夏の日本は気温も高く、観光名所も多い。わざわざ日本に来てまで海にはあまり行かないと言うが、数年この国で過ごしたエイシンフラッシュも、旅行にはうってつけの場所ということには同意する。
が、それはそれとして。
「…………
この暑さはいかがなものか、とは思ってしまう。
憧れていた暑い夏であることはまだいい。問題は、生物には耐えられる限界の温度があるということだけ。
夏合宿は海で行うので、潮風のおかげで多少涼しくなっているとはいえ、それでもその日の気温は三十五度を超えていた。日光や湿度で体感温度はそれ以上と考えれば、この暑さは憧れた南国の空気ではなく死神に見えてくる。
また一筋、頬に汗が伝った。
さて、エイシンフラッシュがこの炎天下で立っているのには理由がある。
夏合宿といえども毎日トレーニングに明け暮れているわけではない。適度な休息はどうしても必要であり、彼女が定める秒単位のスケジュールにも、トレーニングと休憩の時間はしっかり分けられている。本日は一日完全オフの日だった。その上で、トレーナーと二人で過ごす予定だった。
────ええ、浮かれているわけではありません。
心の中で誰に聞かせるでもなく言い訳をする。
そう、たとえ学園指定の制服ではなく、少し高名でありながら若く上品さも欠かさないようなブランドの服を身に纏い、夏の暑さでも溶けないようなメイクを施し、この日のために選んだ帽子を落ち着かない様子で何度も被り直していたとしても、それは彼女が誰から見ても恥ずかしくないような振る舞いを常日頃から心掛けているからであって、決してトレーナーと二人で過ごすこれからの時間に浮かれているわけではないのである。
────ふふ、そう、浮かれてなんていません。
たとえこの後トレーナーがエイシンフラッシュの恰好を見てどんな感想を言おうと、彼女は元々感想なんて待っていないし舞い上がったりしないし、決して
────可愛いって、言ってくれるかな。
そろそろ誤魔化すのに無理が出てきたな。
何を隠そう、エイシンフラッシュは浮かれていた。隠せてなんかいなかったが、それはもう浮かれていた。
お出かけ。二人でお出かけ。即ちデートである。その事実だけで彼女は高揚していた。昨日までのトレーニングで溜まった疲労など忘れるほどで、万全の状態で今日に臨めるよう体調を整えてきたし、やる気も絶好調である。今日という日さえあればこの後の夏合宿全部を全力でトレーニングに回しても大丈夫と思えるほど、彼女はこの時を楽しみにしていた。エイシンフラッシュは純情可憐でちょっと重い少女であった。
だが、今ここに来て誤算が一つ。
「来ない……ですね」
集合時間を十分過ぎてなお、トレーナーが現れないのである。正確には十分三十九秒。これは彼にしては異様だった。
トレーナーはよく
それは彼の担当がエイシンフラッシュという時間に厳しいウマ娘であるからというのもあるし、おそらくはそもそもの気質が真面目なのだろう。エイシンフラッシュが時間に寸分違わず動く少女であれば、彼は時間に余裕を持って動く大人だった。これまで何度も待ち合わせというものはしてきたが、その大体はトレーナーの方が先にいて、時間になったらエイシンフラッシュが現れる。そういうものだった。
だというのに今日に限って彼から何の音沙汰も無い。これは随分と奇妙なことだった。
「……まあ、そういうこともあります」
彼も完璧ではない。元々オフだった日に予定を入れてもらったのだから、多少寝坊だったり準備に手間取ったりすることはあるだろう。だからこうなることもあり得ない話ではない。
トレーナーのことだから、時間を過ぎていることに気づき次第連絡を寄越してくるだろう。故に、エイシンフラッシュは寛大な心で待っていればいい。予定の軌道修正はどうとでもなる。元よりバッファは確保している。いつまでもスケジュールに縛られてばかりのエイシンフラッシュではないのだ。
だが、何故だろうか。
ここでエイシンフラッシュの胸に去来したのは、想い人が来ない一抹の寂しさ────ではなく。
何か言いようのない、棘が刺さったような〝違和感〟であった。
「少し、探してみましょうか」
◇◆◇
「おん? いやー、オマエのトレーナーは見てねーな。アタシは朝から昆布と帆立と遠泳してたんだ。わりーけど力にはなれそうにねぇ」
以上、海から上がってきたゴールドシップは何も知らず。
「あ、フラッシュさん、ご無沙汰してます。……トレーナーさん、ですか? いえ、アタシは昨日からウオッ……ちょっと色々立て込んでまして。お力になれずすみませ────ウオッカ! まだこっちは取り込み中なんだから待ってなさいよ!」
以上、
「あ、フラッシュさーん! 見て見て、ファル子の新しいダンス! 今度新曲作るから、それに合わせて考えてるんだー……ってあれ? トレーナーさんは?」
以上、練習中のスマートファルコンは何も知らず。
「んー、カレンはちょっとわかんないです。でもたしかに変ですね。フラッシュさんのトレーナーさん、絶対無断で約束すっぽかす人ではないと思うんですけど……あ、ちょっとメイク直しましょうか。こっちの日陰来てください」
以上、どこからともなくコスメポーチを取り出したカレンチャンは何も知らず。
「ああ、それなら昨日の夜、私のトレーナー君と一緒にいたそうだよ」
まさかの情報がアグネスタキオンから飛び出して、エイシンフラッシュはようやく光明を掴んだ。
「タキオンさん、その話もう少し詳しく伺えますか?」
「とは言ってもねぇ、私も詳細は知らないんだよ。そういうのはトレーナー君に聞いてくれたまえ」
そう言って、アグネスタキオンは彼女のトレーナーがいるという方角を指差した。「今ドリンクを取りに行ってるはずだよ」と彼女は続けた。
エイシンフラッシュは言われるままそちらを見た。一六七七万色の光がそちらから近づいてきていた。
「ほら、あそこにいるよ」
「あの方は本当に人間ですか?」
もっともな疑問だった。
◇◆◇
────〝ああ、たしかに昨日の夜、ホテルで一緒に飲み会してたけど、そういえば朝から見てないな〟
メッセージアプリを確認するが、まだ何も連絡は無い。これはいよいよ彼の身に何かあったのではと考え至り、エレベーターの上昇がいやに遅く感じてしまった。そんな束の間を通り過ぎて目的の階に着くと、心なしか早足でトレーナーの部屋に向かう。
昨日の夜飲み会をしていたと聞いたが、彼が下戸だという話は聞いたことがないし、夏合宿の最中に二日酔いするほど酒に溺れるとも考えにくい。可能性としては熱中症か、あるいは疲労で倒れたか。どちらも考えたくはなかったが、事実として、過去に彼は疲労で五分ほど遅刻してきたことがあるので無いとも言い切れなかった。
「トレーナーさん、いますか?」
彼の部屋番号の前に立ち声をかける。返事は無い。
「いたら返事をお願いします」
扉を二回、軽くノックする。返事は無い。
「……かくなる上は」
そうして彼女は表情に覚悟を滲ませる。脳裏を
「ごめんなさい、トレーナーさん……!」
エイシンフラッシュは小さく謝罪を口にした。いくら非常事態──彼女にとっては大変な非常事態である──とはいえ、相手のプライベートを探るような真似は、良識と常識の塊のようなエイシンフラッシュには相当な重荷であった。
しかし成果はあった。部屋の中からたしかに音がするのである。間違いなく、中に人が────トレーナーがいる。
────なら、どうして出てくれなかったのでしょう?
当然の疑問だった。しかし、それを解消するより前に
エイシンフラッシュは現在、扉に身体を預けている。それが偶然、手を置いていた場所がドアノブで、身体を起こすついでにうっかりその突起を下げてしまって、何故か鍵が閉まっておらず、チェーンもかかっていなかった。
その結果────
「わ、わ、わ────!」
彼女は偶然にも、部屋の中へ倒れ込んでしまったのである。
なんという失態。流石に許可なく入り込むなど言語道断、慌てて顔を上げて謝ろうとして────そこで、信じられないものを見た。
「ふ、フラッシュ……? なんで、ここに……」
困惑する、
疑惑する、
当惑する、
そう、そこにいたのは、エイシンフラッシュがよく知るトレーナーではなく。
彼の面影を残した、一人の少年だったのである。
◇◆◇
「なるほど、朝起きたらその姿だったと」
「理解が早くて助かるよ」
少年────トレーナーは真新しそうなワイシャツを身に纏い、シーツのズレたベッドの上でそう返した。
「〝変身〟……というより退行? ある朝、トレーナーが何か気がかりな夢から目を覚ますと、自分が寝床の中で一人の小さな子どもに変わっているのを発見した、みたいな」
「毒虫と言うには可愛らしすぎると思いますよ」
「やめてくれ、成人男性に対しての『可愛い』は褒め言葉じゃないんだ」
どう見ても
事実、今のトレーナーはとても昨日までの彼と同一人物には見えなかった。縮んだ背丈、あどけない表情、変声期前特有の幼い声。動作の一つ一つや言葉遣いこそ、彼がこれまでの数年間を『大人』として過ごしてきた名残を感じられるものの、それさえ子どもの背伸びに見えてしまうほどだ。
「どうしてそんな……と聞いてわかるものでしょうか」
「心当たりがないわけじゃないけど……昨日、アグネスタキオンのトレーナーと二人で飲み会をしていたんだけどね」
「ええ、聞きました。その本人からここを訪ねるよう言われたのです」
「その時、なんか変な味がする飲み物があったんだ」
エイシンフラッシュはなんとなくそれが何か察した。空の向こうにとてもいい笑顔のアグネスタキオンを幻視した。
「あいつ、酔った勢いで
「なんで飲んでる途中で気づかなかったんですか?」
「ジンだと思って……」
薬草の香りと薬品そのものは別ではないだろうか。その言葉が喉元まで出かかって、飲み込んだ。エイシンフラッシュは配慮ができるウマ娘なのである。
「とはいえ、身体だけ子どもになるだなんて、そんな非科学的なことが可能なのでしょうか」
ふと、そんな疑問が飛び出す。それも当然だろう。常識的に考えればそのようなことはあり得ない。
フィクション、特に漫画に限って言えば、何かしらの薬の効果により肉体が幼児化するということはよく知られた作劇だ。見た目は子ども、頭脳は大人なんていう有名すぎるキャッチコピーまで存在している。
「まあ不可能だろうね。人間の骨格は一晩で変えられるものじゃないし、大人と子どもの質量差はどこに消えたのかって話にもなる。であれば、これは肉体そのものを弄ったんじゃなくて、俺や周囲の認識に作用する何かと考えるべきだ」
「認識……つまりは貴方が小さくなったのではなく、
「そういうこと。実際不思議なことに服の丈は合ったままなんだ。普通身体が縮めば袖や裾も余るだろうに、おそらくはそれも含めて適正サイズに見えるようになっていると思っていい」
トレーナーは自分の服の袖をひらひらと揺らした。たしかに丈は正確に手首までで切られていて、余る様子も、逆に小さすぎる様子も無い。あたかも最初から子ども用の服を仕立てていたようにも見える。
「当然俺の私物に子ども用は無い。今着ているのも元々持っていたものだ。君が来てくれたおかげで何となく状況が掴めたよ」
「それならよかったです」
ベッドの上で座るトレーナーが一抹の安堵を滲ませた息を吐く。
その時、彼のスマートフォンが震えた。確認すると、アグネスタキオンのトレーナーからのメッセージだった。
「『薬の効力は摂取から約八時間で顕在化、その後約十四時間で切れる』
『体表面の構造を一時的に変化させ、対象の年齢を十五から二十ほど若く見せるような光の屈折を引き起こす』『細かい部分を脳の補完に任せているから人によって見える姿は変わる』『声も対象の先入観によって変化させているため、実際には変わっていない。変わっているのは聞こえ方』『巻き込んですまないが後でデータを取らせて欲しい』……これ打ってるのアグネスタキオンだな」
「ファンタジーの話ですか?」
「限りなくファンタジーに近いSF?」
「それはもうファンタジーでは」
「どうだろう。少なくともジャンルは例の名探偵じゃなくて〝透明人間〟とか〝ジキル博士とハイド氏〟になったかな」
薬が事件を引き起こす作品が二つ挙げられたが、少なくともどちらも碌な結末にはなっていなかった。
アグネスタキオンからの話を信用するのであれば時間経過でどうにかなる類いのものらしい。果たしてそれがどこまで本当かは判断の余地が無かったが、しかし現在進行形で現実とは思えない光り方をしている人間──エイシンフラッシュは暫定的に〝あれ〟を人間とした──がいる以上、おそらくは大丈夫なのだろう。多分。きっと。そう思うしか道は無かった。
「まあ、なんにせよ解決はしそうだ。今日は何もできなさそうだけど」
彼はベッドに座ったまま身体を後ろに倒し、目を手のひらで覆った。疲労、というよりは心労だろうか。きっと朝からずっとこの調子なのだろうと、エイシンフラッシュは勘づいた。時計を見ると、まだ昼前だった。
「…………」
時計、そう時計である。
突然トレーナーが若返るという怒涛の展開に見舞われ忘れていたが、彼女はようやく、ここに来た主目的を思い出した。
そっと彼に近づき、ベッドの側へ立つ。
見下ろすと不思議な心地がした。歳の頃は十前後だろうか。日頃見る彼の姿をそのまま小さくしたようなその人に、エイシンフラッシュは語りかける。
「ところで、何か言うことがありませんか?」
「……え?」
気の抜けた返事。瞼の上から手を
「あー、えっと、来てくれてありがとうございます?」
「違いますよね?」
「……真相解明、協力感謝いたします?」
「違いますよね?」
ダーウィンの著述によれば、笑顔という表情は本来威嚇の意味を持つのだという。古来より動物が行う『歯を剥き出す』という行為は緊張や警戒を表し、人間がその行為を協調や友好の表れとして転化した、という説である。トレーナーは昔読んだ本にそのような記述があったことを思い出した。
それはそれとして、エイシンフラッシュの笑顔はこの場において途轍もなく恐かった。歯とか見えていないのにそれはもう恐かった。目も口もちゃんと笑ってるのにずっと『次は無いぞ』と言われている気分だった。
「えっと、あの、その」
「はい、なんでしょうか」
「……連絡できなくて、ごめんなさい」
「よろしい」
数度の問答の末、ようやく彼女から威圧感が消える。どうやらこれが正解だったらしい。トレーナーは今日一番の安堵をこぼした。
エイシンフラッシュがベッドの上、トレーナーの横に座った。わずかに沈むスプリングを感じて、トレーナーも上体を起こす。
「私、待っていたんですよ」
「それはその、ごめん。朝起きてからずっと慌てていて、焦ってたんだ。一言でも言えばよかった」
「珍しいですね。遅れるのに、貴方が何も言わないだなんて。忘れられてるのではないかと心配になりました」
「そんなことない。忘れてたどころか、このまま君との待ち合わせに間に合わなかったらどうしようって、それしか考えてなかったよ」
否定する。首を振る。それはどう見ても本心だった。エイシンフラッシュもそれを疑ってなどいなかった。
「君以上に重要なことなんてあるわけない」
「……っ、なら、いい、ですが」
真剣な表情はどんな姿になっても変わらないものだ。それがたとえ、自分より歳若い少年の時分であったとしても。
口を押さえて顔を逸らす。なるほど、お菓子でも、たまに慣れたものとは違うフレーバーを試してみると想像以上に美味しく感じるものだが、同じようなものだろうか。
彼の口説き文句にはもう十分慣れたと思っていたのだが、どうやら認識が甘かったらしい。不意打ちと予想外のダブルパンチでエイシンフラッシュの顔は真っ赤に染まった。彼女の敗北である。
「……? フラッシュ、どうかした?」
「いいえ、なんでもないのです。はい、なんでも」
「それで本当になんでもない場合を見たことがないけど」
何故こういうときばかり察しがいいのだろうか。普段は騙されてくれるのに。彼女は心の内でわずかばかりトレーナーに悪態をついた。女心を転がすことばかり上手くなって、と。
「とにかく、なんでもないのですから、大丈夫なんです」
「君がそう言うなら信じるけどさ」
彼はエイシンフラッシュの顔を覗き込んでいた目を横にずらす。そのまま視線は壁を伝って時計まで滑り、「昼過ぎか」と小さな口で呟いた。
「ごめんフラッシュ。予定は随分外れちゃっただろうけど、どうする?」
その問いかけに、エイシンフラッシュは当然として答えた。
「勿論、今から行きますよ。まずはお昼を食べましょう。その調子だと朝も食べていないでしょうから」
ベッドの上から少しの弾みをつけて立ち上がる。肌身離さず持ち歩いているスケジュール帳には、ただの文字の羅列と化した今日の予定が書いてある。彼女はそれを一瞬眺め、まあいいでしょうと頭の片隅に追いやった。
予定の修正を余儀なくされることなど一度や二度ではない。そのやり方をとうの昔に教えてもらったのだから、今更それで慌てることもありはしない。
それよりも────
「……ふふっ」
隣に立つ彼を見る。
低い背丈。思い返せば彼を上から見下ろすことなどそう無かった。
これが薬の作用によるある種の幻覚、あるいは錯覚の類いだとしても、それはそれで貴重な体験だ。少なくとも、午前の予定を全て紙屑にする以上に面白いものではあった。
「……何か言いたげだね、フラッシュ」
「いいえ、なんでもありません」
「それで本当になんでもないことはないんだぞ」
「なんでもありませんったら」
思わず浮かんでしまった笑みをスケジュール帳で隠す。彼は不満そうな顔をした。いつもの姿だったら
アグネスタキオンによれば、この視覚情報は脳内補完もあるらしいが、そうなると一つ面白い事実に気づいた。
────ああ、そうか。
────私は彼を、こういう顔をする人だと思っていたんだ。
「ふふっ」
「また笑った。なんだい、何が言いたいんだい」
「いえ。可愛らしいなあ、と」
「それは成人男性にとっての禁句だからね」
「ええ、でも少しくらいは許してください。私は今日、誰かさんのせいでとっても傷ついたのですから」
「それを言えるのはそう思ってない証拠じゃないのか」
「さあ、どうでしょう。貴方に私の考えてることはわかりますか?」
「
わざとらしく帽子を被り直し、トレーナーに一歩歩み寄る。薄く飾った顔を近づけ、艶やかな唇に人差し指を乗せて、彼のために選んだ服を
こうまでされてトレーナーも気づかないはずがなかった。仕方が無いなと言いたげに薄く笑うと、今最も求められているその言葉を口にする。
「よく似合ってるよ、フラッシュ」
「
そうしてようやく、彼らの一日は始まったのである。
◇◆◇
ぼんやりと、光が立ち並ぶ。
真っ直ぐに伸びた無数の光。途切れ途切れのようでありながらも、しかし整然とした連なりを持つそれは、さながら帯のようであった。帯のように見えても、その光の内側で動く何かが、それがただ静止するだけのものではないことを示していた。
香り。騒ぎ。八月の夜。
夏祭り。この光の連なりは、そういう名前で呼ばれている。
「たった一年前に来たばかりなのに、随分と懐かしく感じるね」
すっかり日は落ちてしまって、赤かったはずの空は濃い
トレーナーはその群青を見上げ、
「空はあんなに高かったかな」
「貴方の視点が低くなっているだけですよ」
「そんなはずはない。見え方が変わっているだけで、俺の身長は変わっていないはずなんだ。アグネスタキオンの言葉を信じるならね」
「ならきっと脳の誤認でしょう。思い込みは、時に道理を超えますから」
そういうものか、と訝しげにエイシンフラッシュを見つめた。
彼は今、エイシンフラッシュを見上げているのか、見下ろしているのかわからなくなった。錯覚では見上げているし、視覚では見下ろしているように見える。ただ少なくとも、こちらを見るエイシンフラッシュと目が合っているのはたしかだった。脳内補完、あるいは誤認によるものだとしても、果たしてこれがファンタジーではないと言い切る自信は、今のトレーナーには無い。
「できれば薬じゃなくて、機械とか技術とかで未来を感じたかったな」
「貴方の今の状況も相当未来的だと思いますよ。要するに視覚情報の改竄ですから」
「そう聞くと怖いな、すごく」
夏の暑さに包まれてなお鳥肌が立つ。この感覚は、そう、酷くぞっとするような怪談を聞いた後のようなものだ。つくづく開発者がアグネスタキオンでよかったと思った。彼女の手の中に薬があるうちは、それらはトレセン学園から出ていくことはないのだから。
「もっとこう、何でもやってくれる万能なロボットとかで未来を感じたかったよ。ドラえもんとか」
「今とても歳相応の発言をしましたね」
「俺の年齢を見た目通りだと思ってる?」
「そんなことはありませんよ。トレーナーさんはトレーナーさんですものね。はい、綿飴をあげます」
「俺の年齢を見た目通りだと思ってる?」
差し出された綿飴を素直に受け取り食べる様子は、そうは言っても子どものようにしか見えなかった。なんだかんだ言いつつも、彼はお菓子が好きだし、エイシンフラッシュに渡されたものを拒むようなことはしない。
お菓子。まるで自分の一部が彼の身体に染み入っているようで、エイシンフラッシュは奇妙な感慨と心地良さを感じた。
「たとえ未来に万能ロボットがあったとしても、それはきっと貴方が思うようなものではないと思いますよ」
「そうかな。〝人間が想像できることは、人間が必ず実現できる〟とも言うだろう」
「まあ、ドラえもんは無理でも、
「〝夏への扉〟?」
「ええ」
〝夏への扉〟。
アメリカのSF作家ロバート・アンソン・ハインラインの代表作の一つとも言えるSF小説である。
タイムトラベルと
SFの巨匠ともいえるハインラインの作品の中でも特に日本人気が高く、度々行われるオールタイム・ベストでは何度も上位に選出されているほどである。
「そういえばドラえもんは〝夏への扉〟から着想を得たって聞いたことがあるな」
「たしかに猫と万能ロボットという要素は合っていますね」
「タイムマシンもね。どちらも『悪い未来を変える物語』だ」
与太話の一つだけどね、とトレーナーは付け足した。
いつの間にか綿飴を食べ終わっていた。少しベタつく口元を舌先で舐め上げて、不要になった割り箸をゴミ箱に放る。
「久々に食べるといいものだね」
隣のエイシンフラッシュに話しかけたつもりだったが、返事が無かった。横を向けば彼女はじっと時計を見つめていた。トレーナーさん、と、彼女は意を決したように発した。
「少し、私についてきてくれませんか」
言って、彼女は手を差し出した。その手と表情を交互に見遣る。ほんの僅かな停滞の後に、トレーナーはそこに自身の手を重ねた。重ねて、待って、引こうとして、握られて引き止められる。
「フラッシュ。これは、どうして?」
「この人混みだと
「建前ね。本音は?」
「言わなければわかりませんか」
「いや、いいよ。
エイシンフラッシュは握った手を引いて歩き出す。
時は既に夜である。トレセン学園にほど近い慣れ親しんだ都会の夜では見えないような星空が、今の時期だけはよく見える。
トレーナーを見た。彼はこちらを見上げていた。エイシンフラッシュを通して、その向こうにある星空を見ていた。
「ねえ、トレーナーさん」
ふと、彼女の中にとある疑問が湧いた。しばらく歩き回り、夏祭りの喧騒から外れ、静かな道に
「もしもの話です。もし貴方が
彼女はそこで一度言葉を切った。そこから先を口にしていいのかという逡巡が、その後ろ姿から垣間見えた。
「……貴方は、その先の人生を、同じように歩みたいと思いますか?」
「不思議な質問だね」
少しだけ手が緩んだ。もういいのか、とトレーナーは思って繋がれた手を引こうとする。が、それはまだ繋がれたままだった。エイシンフラッシュが再び手を握っていた。
「それはタイムマシンがあったらの話?」
「
「なら、そうだな。もう一つ条件を付け足してもいい?」
「どうぞ」
「その時、君はどうしている?」
一瞬だけ強く手が握られた。動揺だろうか。
トレーナーは自らの手を見る。その輪郭がわずかに揺らいで見えた。夏の暑さで汗をかいたところから、まるで肌の上のテクスチャが剥がれ落ちるように、それはノイズとなって視覚情報に現れる。
「……私は」
「ああ、それだったら質問を変えよう」
何も答えないまま、彼は問い返す。
「もし、君が今、子どもの頃に戻れたとしよう。今の経験も思考も全部引き継いで、何も難しいことは無しにして、全部やり直せるとしよう。君はその選択をする?」
「……貴方は」
「ああ、俺は
エイシンフラッシュが足を止めた。そこは少し開けた小高い場所だった。
トレーナーはここを知っている。かつての夏合宿、エイシンフラッシュがまだクラシック級だった頃に二人で来ようとして、夏祭りを楽しみ過ぎて時間を忘れてしまい、結局来られなかった場所。そして、その失態を取り返すように、その後にまた二人で来た場所だ。
するりと二人の手が
「なら、私は────」
その刹那のことである。
「あ……」
背後で大輪の花が咲いた。色とりどりの花火が上がっていた。
「そういえば時間か」
トレーナーはエイシンフラッシュが何故自分をここに連れてきたのか、その時になって理解した。
彼らが過去にここを訪れた際、主導していたのはトレーナーである。あの日見られなかったものを見に来たと告げたいつかの夜を思い出し、ああなるほど、これはあの日の
もう一度、彼は自分の手を見た。ノイズが激しくなっている。その隙間から本当の姿が見え隠れしている。花火が上がる時間は、彼がアグネスタキオンから教えられた『薬の効果時間』とほぼ一致していた。
彼はエイシンフラッシュに問いかける。
「それで、君の答えは?」
その声も、大人と子どものものが入り混じっている。
「……私は、その選択をしません」
「理由は?」
また一つ、花火が鋼青の空に咲いた。旋盤で夜空の黒に大きな穴を空けているかのような、綺麗な光がそこにある。
エイシンフラッシュは押し黙った。空と、彼と、そして自分自身を見つめ直すように何度も視線を宙にやり、やがて口を開いた。
「私は、貴方がいない時間を過ごしたくはないのです」
それが彼女の出した結論だった。
「フレドリカ・ヴァージニア・ジェントリーをご存知ですか?」
「〝夏への扉〟の登場人物だね。作中ではリッキーと呼ばれている子だろう」
〝夏への扉〟はタイムマシンと
そこで彼は親友
「ダンはリッキーに
「だから、君はやり直せたとしても、それを選ばないのか」
「はい。それに、そんなのはずるいじゃないですか」
彼女は肩を竦めて笑った。
「
「そうか。真面目だね」
「取り柄ですから。貴方もそうではないんですか?」
「流石、俺のことをよくわかってる」
「当然です。何年一緒にいると思っているんですか」
自信ありげな彼女の言葉に、そうだねとトレーナーは返す。
事実、彼も同じ選択をできるとして、それを選ぶことはないだろう。
同じ人生、同じ過去を積み重ねて、都合の悪いことだけを回避する。エイシンフラッシュほど未来に展望を持っているわけではないが、来るとわかっている事柄を当たり前のように繰り返すことがいいことだとは、彼には思えなかった。
「まあ、結構楽しかったけどね」
じっと手を見る。もうそこにあったのは、ほとんど見慣れた手の形だった。
「童心に帰るって言うのかな。俺にとっては過去のものが、勢いよく襲いかかってきたみたいな感覚。昔は夏祭りなんて楽しみで仕方なかったし、花火の日はもう夜まで落ち着かなかったものだ」
「ええ、目に浮かぶようです」
「いつからか、そういうのに、あの頃みたいなわくわくは覚えなくなった。大人になったんだ、子どもの頃持ってた何かを失って。だから今日は楽しかったよ。綿飴なんて食べたのはいつぶりだろう」
ノイズ。
容姿が。声音が。変わる。混ざる。
十四時間。トレーナーが飲んでしまった、ふざけた薬のタイムリミット。それが今、終わる。
「君の言う通りだよ、フラッシュ。俺もきっと、その選択はしない。……違うな。同じことを繰り返すだけになるから、そんなことはしたくない」
「同じこと……」
「そう。何度やっても、俺は一つの道しか選べない」
「それは」
その途中で彼が一歩踏み出した。一陣の風が吹いて、エイシンフラッシュは咄嗟に目を瞑る。再び開いた視界に映ったのは────いつもの見慣れた、一人の男の姿であった。
「君を探すよ」
夜空に大きな花火が咲いた。
「何度繰り返しても、俺は君を探す。トレーナーになって、あの日グラウンドで開かれていた選抜レースを見に行って、君の姿を探し続ける」
「……それは、何故」
「何故って言われても……考えてなかったな。何故だろう」
彼は困ったように言った。
「まあ、猫だって冬になると〝夏への扉〟を探すんだ。何故かは知らないけどね。……ああ、それがいい。俺は君という〝夏への扉〟を探すんだ」
不思議な物言いだ。エイシンフラッシュは彼の言葉にそう感じた。
夏。夏への扉。SFにおいては、猫のピートが冬になると探すという、夏に通じる扉のこと。あるいは主人公ダンが探していた、儚い望み、明るい未来への糸口のことを指している。
「だから俺は、もし子どもに戻って全部やり直せるとしてもその選択をしない。
────ああ、それは。
彼がエイシンフラッシュの横を抜け、花火を背にして振り向く。いつか見たような光景。いつかあったような風景。それでも今、ここにしかない、一度きりの情景。
「だからまあ、理由をつけるとするのなら」
────ああ、そうだ。
これは今だけの特権。彼が
タイムマシンも
「俺はもう、
────だから、そう。
────私の
◇◆◇
「それで、夏祭りは楽しめたかな」
後日。
夏合宿も終わりトレセン学園に戻ったエイシンフラッシュは、アグネスタキオンからの招待で彼女の研究室を訪れていた。無数の研究器具と得体の知れない薬品がそこかしこに置かれていて、アグネスタキオンがよく着ている白衣の裾が何故引っかからないのか不思議で仕方がなかった。
「それで、どうして私は呼び出されたのでしょうか」
「なに、色々話をしたくてね」
彼女はビーカーに紅茶を淹れてエイシンフラッシュの前に置いた。これは本当に飲んでも大丈夫なものだろうか。そこはかとなく不安な気持ちが押し寄せる。
「スカーレット君も世話になっているようだしね」
「世話というほどでは……共通の後輩がいて、彼女経由でよく話すようになっただけで」
「それでいいのさ。好意は素直に受け取っておきたまえ」
「ではお言葉に甘えて」
紅茶に口をつける。一口含んだだけで芳醇なアッサムティーの香りが広がり、そこにカカオのフレーバーが絶妙な風味で混ざっている。しかしストレートで飲むには少々濃い。それはエイシンフラッシュには馴染みのある────実家でよく知っている味だった。
「
「君を招待するのであれば、やはりドイツのブランドだろうと思ってね。やはりわかってしまうか。ミルクと砂糖は必要かい?」
「いただきます。それにしてもお高かったのでは?」
「ホストに茶葉の値段を訊くものではないよ。なに、色々と
エイシンフラッシュがミルクと砂糖を正確に適量加える間に、アグネスタキオンは次から次へと角砂糖を──それこそ溶解度を超えかねないほどに──投入していく。何故この人は何の病気もせずいられるのだろう。エイシンフラッシュは再び疑問に思った。
「まあそんなことはいい。私が聞きたいのは、この間の夏合宿でのことだ」
「夏合宿……そういえば、あの時はありがとうございました。おかげで……ふふ、面白いものが見られました」
「それはよかった。実を言うとあの薬は失敗作でね」
「今恐ろしいことを言いませんでしたか?」
「まあ聞きたまえ。本当はどんな薬を作りたかったか、聞きたくはないかい?」
ぽつり。アグネスタキオンが角砂糖を紅茶に入れる。その水面下には既に白い山が見えそうになっていた。底知れないものの底を見せるような、そんな感覚が見え隠れしていた。
「あれは本来ウマ娘用に作っていたんだ。君も見た通り、あれは飲んだ対象を若返らせる────ように見える。実際は体表面の組織を一時的に変化させて見た目と脳の認識をバグらせるだけだから、夏場だと代謝の関係で一日ももたないんだがね」
なんてことないように彼女は話すが、それだけでも十分にオーバーテクノロジーだ。
外見の変化。それは生物である以上どうしても付きまとう枷であり、そして加齢という生命体の本質の一つに付随する機能である。
体細胞の劣化とテロメアの摩耗は生きている以上避けられるものではなく、身体機能はどうあがいても日に日に衰えていく。それはエイシンフラッシュもよく知っていた。より正確には、競技ウマ娘である以上、それはどうしても避けては通れない問題でもあるのだ。
「もしかして、
「勘が良いね。その通りだ」
肉体そのものの若返り。即ち、意図的な成長の逆行。
生命体の本質、生物的な機能に抗う、言うなれば死の否定である。
エイシンフラッシュは息を呑んだ。まさかあの時の薬がそこまで大きな実験の副産物だとは思ってもみなかったのである。
「君も知っての通り、ウマ娘の全盛期は短い。本人の意思にかかわらず『本格化』という現象は始まり、肉体は勝手に全盛期を迎えて、たった数年程度でそれは終わる。外見は概ねそこで固定されるが、一度盛りを過ぎたウマ娘がもう一度全盛期を迎えることはほぼ無いと言っていい」
「それが『老い』というものです」
「そうだ。まあ、君もよくわかっていると思うけれどね」
からん。アグネスタキオンの紅茶の上にまた一つ角砂糖が置かれ、白い山が水面を飛び出し、崩れる。
彼女の言う通りだった。エイシンフラッシュは自身の全盛期の終わりが近いことを予期していた。何年も前に本格化を果たし、三年の戦いのうちにURAファイナルズまで走り抜け、ドリームトロフィーリーグに進んだ彼女の選手寿命がもう長くないことは、エイシンフラッシュ自身がよくわかっていた。
引退。卒業。短い春を終わりが近づくウマ娘の脳裏には、常にこの言葉がこびりついている。
「皮肉めいた言い方になってしまったね、すまない」
「ああいえ、謝られるようなことでは」
アグネスタキオンがガラス棒で角砂糖の山を突き崩す。ミルクティーの白褐色に溶けていく。それはさながら、胸の
「とはいえ、私もこの研究が科学者として踏み入ってはいけない領域に足を突っ込んでいることは重々理解している。だからこの研究は
それは彼女に残っていた倫理だろう。あるいは矜持とでもいうべきか。
深淵を覗き見る者は覚悟しなければならない。深淵もまたこちらを覗いているのだから。研究者として幾度もそこを覗いたであろうアグネスタキオンは、最後に越えてはいけない一線がどこにあるのかをよくわかっていた。ただの興味で踏み越えるべきではない境界がたしかにそこにあったのだ。
「飲んでも少し不思議な体験ができるだけの薬。まあそのくらいがちょうどいいのさ」
「ですが、そんな重要な秘密をどうして私に話したのですか?」
「当事者である君に何も言わないというのも不義理だろう。まあなんだ、私なりに巻き込んでしまったことへの謝意と誠意だよ」
言って、彼女はビーカーに口をつけ「あまっ」と一言漏らした。
「それで、どうだったかな?」
「何がでしょう」
「君の恋路に進展はあったかい?」
がたん。エイシンフラッシュが動揺で膝をテーブルにぶつけた音だった。危うく置物となっていたいくつかの器具が倒れかけ、アグネスタキオンがそれを慌てて受け止める。
しかし当の本人は一瞬にして平静を取り戻し、
「ふふ、なんのことでしょうか」
「ビーカーが震えているよ」
「そんなことはありません」
「説得力無いなあ……」
平静を取り戻したように見えただけだった。思い切り動揺していた。
「いやあ、以前スカーレット君から君たちの話を聞いたことがあってねぇ。普段は君のトレーナーが主導権を握っているようだから、たまには立場を逆転させてみてもおもしろ……進展があるんじゃないかと思って」
「待ってください、まさかあの件って故意ですか?」
「おっといけない。聞かなかったことにしてくれ」
「もう誤魔化すのは無理ですよ」
「安心してほしい。安全性はモルモット君で確認している」
「また実験台にされてる……」
なおアグネスタキオンのトレーナーが薬を飲んだ際は、発光の光源が縮んだためとんでもない光量になりしばらく外出できなくなったという。ほぼ
「それでどうだったのかな? 何か進展はあったのかな?」
「う……」
にまにまと生暖かい笑みで接近するアグネスタキオン。エイシンフラッシュはその圧に押されて少し引き下がる。こういうところはお年頃……というよりも、ただアグネスタキオンが面白そうなことに首を突っ込みたがるだけであった。
「それは、その……はい」
「おお! 何かあったんだね、言ってみたまえ! さあ、さあ、さあ!」
「圧強いですこの方」
「実験の結果をいち早く確認したいのは研究者の
「もっともらしい理由をつけてますけど圧が強いです」
若干気圧されながらも、エイシンフラッシュはあの日のことを思い返す。
花火を背に大人の姿に戻ったトレーナー。頬を撫でる一筋の風が二人の間にあった時の壁を消し去って、空を覆う光と音さえ、あの時は脇役に過ぎなかった。
主演は二人。エイシンフラッシュとトレーナー。そして、その時彼はこう告げたのだ。
「その……私のことを、〝夏への扉〟なのだと言ってくれたのです」
────私が彼の〝夏への扉〟。
────これが意味するのは運命、希望、未来。
────主人公が探し求めた未来。
────自身が愛したリッキーとの結婚。
────つまりプロポーズ!?
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。今回は水着着てないから水着版の固有スキルは無いよ。つまりまた固有出ないね。
「そう、これは実質的なプロポーズ! あの人もようやく私の想いに応えてくださって」
「すまない、一ついいかい?」
興奮して捲したてるエイシンフラッシュの言葉を遮る。冷や水をかけられたように
「その、夏への扉、だったか」
「はい」
「どうしてそれがプロポーズということになるんだい」
ぴしり。がらがら。
流れていた空気が凍った音がした。同時に何かが崩れた音も聞こえた気がした。少なくともエイシンフラッシュの思考は確実に停止した。
これまでに無かったことが今起きている。そう、アグネスタキオンは研究者にして科学者。理論と理屈と理性の怪物。即ち────極度の
「い、いえ、だって夏への扉は運命の比喩表現で」
「考え過ぎってことはないのかい? よしんばそれが本当に運命の比喩だったとして、それが
「あ……あ……」
いいぞもっと言ってやれ。ちょっと可哀想になってきたけど。
「となれば彼の性格も鑑みて、その言葉は君への告白ではなく感謝と捉える方が自然であって、あまり色恋に関しての情報は含まれていないのではないかな。一応トレーナーが在学中のウマ娘に告白とかしたら職業倫理の問題にもなりかねないからねぇ」
すごいな全部言ってくれる。ラブコメキャンセルの達人か?
「なんにせよ、君のそれは考え過ぎの可能性が高いんじゃないかと思うよ。まあなんだ、恋は盲目と言うからね。普段は思慮深い君でも愛とか恋とか絡むと機能不全を起こすのはやむなしというか」
「もうそこまでにしてくれませんか!?」
流石にエイシンフラッシュもこれには耐えられなかった。羞恥と混乱で顔が真っ赤である。ちょっと可哀想。
アグネスタキオンもやりすぎたと思ったのか、少し悪びれたようにすまないと返す。エイシンフラッシュも数度の深呼吸の後に息を整え、再び紅茶を口にした。
「……私の浅慮がよくわかりました。本当に、何故そんな単純なことに気づかなかったのかが不思議なくらいです」
「ふむ、冷静だね。人は自らの価値観が覆されるとき、もっと狼狽するものだと思っていたのだけれど」
「あいにく、一度それで酷い目に遭っていまして。あのときに比べたら些細なものですよ」
「そういうものか」
紅茶を飲み切りエイシンフラッシュは席を立つ。「もういいのかい」とアグネスタキオンが訊く。エイシンフラッシュは一言、大丈夫です、と返した。
「もう少し〝プラン〟を見直す必要があるとわかっただけで、私にとっては非常に大きな収穫でした」
「ほう、プラン。それを聞いてはいけないのかな?」
「はい。これは誰にも教えていない、私だけの秘密ですので」
言って、彼女は微笑み唇に指を当てた。
「とても大切な
それだけ言い残し、エイシンフラッシュは研究室の扉を手を掛ける。それを引き止めるように「待ちたまえ」とアグネスタキオンが言った。
「何だかんだ言ったが、先ほどの君の思考過程の全てが間違っているとは私も思っていない」
「というと?」
「〝夏への扉〟が運命の比喩表現であること自体は合っているだろう、ということだよ」
「……ふふっ」
「はははは」
そして彼女たちは意味深に笑った。双方共に何かが通じ合ってこぼれた輪唱だった。
「素敵なお茶会にご招待していただきありがとうございました。また機会があればお願いします」
「ああ、次も君の口に召すような茶葉を用意しておこう」
すっかり意気投合したのか、二人はそう言葉を交わす。そこに先ほどまでの奇妙な雰囲気は残っていなかった。
今度こそエイシンフラッシュは扉を開く────寸前に、忘れ物でも思い出したかのように、
「ああ、そうでした」
「まだ何かあるかい?」
「ええ、一つだけ」
そして、彼女は振り返り────アグネスタキオンの更に奥、無数の研究器具の隙間を覗き込むようにして、
「
「…………はは、やられたねぇ」
「それではまた。失礼します」
エイシンフラッシュは一歩、夏への扉を踏み出した。
◇◆◇
客人が帰り、研究室が静まり返る。たっぷり十秒ほどの静寂を超えて、アグネスタキオンは大きく息を吐いた。
彼女は扉がしっかり閉まっているのを目視して、振り返り、部屋の奥に声をかける。
「さて、もう出てきていいよ。エイシンフラッシュのトレーナー君」
そこから姿を現したのは、呼ばれた通りトレーナーだった。彼の顔にはどことなく「まじか」とでも言いたげな表情が浮かんでいた。
「まさか気づかれていたとは」
「まあ、私も君も、彼女を甘く見ていたということだ。まったく、浅慮はどちらだろうね」
アグネスタキオンは自嘲するように吐き捨てた。
エイシンフラッシュに散々『考え過ぎ』だの『機能不全』だのと言った手前、まさかそこからすぐ出し抜かれるとは思ってもいなかったのだ。これだから実験は面白い、と自嘲を興味が上塗りして、その思考は終了する。
「それで、どうだったんだい?」
そして彼女は問いかける。未だ研究器具の間に立つトレーナーに、その真意を問いかける。
「
そう、それが全て。
今回の夏合宿を取り巻くたった一日の大事件は、全て彼の目論見であった。
その問いに対して、彼は言葉を噤んだ。アグネスタキオンはそれを気にしなかった。彼女も共犯だった故のことだった。
「正直驚いたよ。あの夏合宿の直前、君から『変な薬をくれ』だなんて言われてね。ちょうどその時作った失敗作があったし、たまたまモルモット君で安全性は確認していたからそれを流用したのだけれど」
「助かったよ。今回は『何かが起きた後』に君とフラッシュを二人で会話させるのが目的だった。見事な手際だったね」
「くく、もっと褒めてくれてもいいんだよ。この私の華麗なる手腕をね」
「報酬の上乗せは必要かな?」
「ああ、それは結構。君から貰ったこの茶葉で十分さ」
アグネスタキオンは見せつけるようにビーカーを上げた。山盛りに入った角砂糖がミルクティーに溶けていく。アイリッシュモルト、これを渡したのは他ならぬトレーナーだった。
「それで、自分から薬を飲んでハプニングを起こし、エイシンフラッシュ君と私に接点を作らせ、ここに誘導する。まあよく考えたものだね」
「一個だけ無理がある『設定』を通す必要があったから、そこを疑われるとまずかったんだけどね。まあなんとか誤魔化せたよ」
「へえ。具体的には?」
「俺は夏合宿中に酒を飲まないよ。一応、夜も仕事の時間だからね」
トレーナーはあの薬を飲んだのは、アグネスタキオンのトレーナーと飲み会をしているときだと語っていた。ジンと薬品を間違えて飲んでしまったのだと。
が、そもそもそれは誤りである。彼は夏合宿中に一度もアルコールを摂取していない。夏合宿の期間でも夜は自由とはいえ、何かあった際の対応は必要だ。彼は有事に備えて、その期間中に酒を飲んで酔うようなことはしない人間だった。
「フラッシュにそこを突かれたらどうしようかと思ったけど、あの時はそれどころじゃなかったからね。騙されて……くれたのかなあ」
「さっきのあの様子を見る限り、気づいていてもおかしくなさそうだったがね」
「まあその時はその時だ。詰められたら素直に謝るよ」
肩を竦めて
「それで、そろそろ教えてくれてもいいんじゃないかい」
「何を?」
「君の目的」
アグネスタキオンは目を細めた。そこには興味の色が浮かんでいる。仕方が無いと言いたげにトレーナーは彼女の正面に座り、「大して面白いことでもないよ」と前置きした。
「さっきの話からもわかったと思うけど、俺とフラッシュの会話は、時々致命的なほどすれ違うんだ」
それはあまりに大きな彼の悩みの種であった。
致命的なすれ違い。そう、致命的なほど、である。
トレーナーとエイシンフラッシュの付き合いはもう数年に及んでいる。苦難、挫折、栄光、勝利。これまでの人生に横たわっていたいくつもの山と谷を二人で乗り越え、喜びと悲しみを分かち合ってきた。
彼らの絆は最早ただの生徒と指導者の枠に収まるものではなく、お互いの存在が心の奥底に深く食い込んで、もう二度と引き剥がせない楔となって残っているほどだ。
その上で、彼は、彼女は、選択を間違えていた。二人の関係性につけるべき名前をお互いに間違えていたのである。
「だから彼女の真意を確かめたかった」
かつてエイシンフラッシュはトレーナーのことを恋人だと思っていた。文化的に、告白をせずとも、そういった関係性は自動で構築されると勘違いしていたから。未だ実らぬ恋心を実っていると勘違いしたまま、彼女は日々を過ごしていた。
トレーナーはエイシンフラッシュのことを教え子だと思っていた。歳下の女の子に甘い言葉をかけている自覚が無く、無意識に彼女の心を恋に染めてしまい、それが致命的となっていた。
「どうやら俺の言葉は誤解を招きやすいらしい」
「だろうね。なんとなくわかるとも」
「だからそろそろ知るべきだと思ったんだ。どういう経緯でフラッシュが勘違いしているのかをね」
それこそが、今回トレーナーが一連の流れを仕組んだ真相であった。
まずトレーナーとエイシンフラッシュが二人になり、いつも通り会話をする。その後、それを客観的に見ることができる第三者によって彼女の勘違いを暴き、その情報をトレーナーに伝える。これが大まかな目的だった。
アグネスタキオンはそれにぴったりの人材だったのである。客観的な視点とエイシンフラッシュに真っ向から立ち向かえる理論武装が可能で、何かイベントを起こす
トレーナーは
「まさか君が人を騙すようなことを仕組むとは思わなかったけどねぇ。聞いてる限り、そういうことには不向きだと思っていたよ」
「やらないだけで向いてないわけじゃないよ。こういう言い方をすると
「はは、違いない。もしかしたらモルモット君もこういうことができるのかな」
「中央でトレーナーをやってるような人間ならこれくらいすぐに思いつくよ、きっと。誰もこんなことをやる必要が無いだけでね」
「が、今回君はやらざるを得なくなったわけだ。その致命的なすれ違いを解消するために」
「そういうこと。君には汚れ役を押し付けることになってしまった。申し訳ない」
「そう言わないでくれたまえ。私は
アグネスタキオンは砂糖の塊のような味と化した紅茶を啜った。それでいいのかとトレーナーは言いかけて、これは彼女なりの気遣いだろうと黙ることにした。
「さて、とはいえ私も気になりはする」
「何が?」
「君の言う〝夏への扉〟とは何なのか」
「さっきフラッシュとタキオンが言ったので概ね正解だよ。フラッシュには通じると思った運命の比喩表現、『俺と出会って、ここまで連れてきてくれてありがとう』ってところかな」
「彼女がプロポーズだと勘違いしたのは?」
「多分SF小説の〝夏への扉〟のラストで、主人公のダンがリッキーっていう女の子と結婚したからかな」
「なるほどね。だいたい理解したよ」
それだけ聞くとアグネスタキオンはスマートフォンで何かを調べ始めた。「教えてもらって何も調べないのはどうかと思ってね」と、彼女は〝夏への扉〟のことを調べて閲覧しているようだった。
二分ほどそれを見ていると、アグネスタキオンは信じられないものを見るような表情で、
「うわっ」
「どうかした?」
「これ主人公とヒロインの歳の差すごくないかい?」
「ああうん、だいたい二十歳差」
「これはなんというか……」
「言いたいことはわかるよ。俺も最初読み終わった後、面白かったなって感想の後に『でも歳の差すごくないか?』って思ったから」
〝夏への扉〟はSF小説の名作として名高いが、その分読んだ際の感想も人それぞれである。その中でもよく出やすいのが主人公とヒロインの歳の差についてだ。
主人公のダンが
ダンは自身を好いていたリッキーに「そしてきみが二十一になったとき、もしきみがまだぼくたちに会いたいと思ったら────そのときは、きみも
「名作なのもわかるけど、流石に倫理的にどうかと思うんだ」
「なんだ、
「俺たちの職業倫理が疑われるような発言だね」
「でも否定はしないだろう?」
「ノーコメント」
トレーナーは口を噤んだ。知っている例が多過ぎたのである。
「自分はそうはならないと?」
「俺は指導者で、彼女は教え子だ。その線引きが俺の中にある以上、そこを踏み越えることはないよ」
「その言い方だと、エイシンフラッシュ君が卒業したら線引きは消えるんじゃないのかい?」
「…………」
前述の通り、エイシンフラッシュの全盛期は終わりを迎えかけている。
引退。卒業。そしてそれぞれのセカンドキャリア。競技ウマ娘の人生はレースだけで終わるものじゃない。生きていくためには働く必要があり、そこから先の人生は、ただ速く走れば報われていた日々とは違う困難が待っている。
トレーナーは未だに答えを出せずにいた。エイシンフラッシュが教え子でなくなったら、彼女の想いを断る言い訳が無くなる。そうしたら、果たして自分はどうするのだろう、と。
「くく、君も大概だね」
「何がかな」
「大概不器用だと言っているんだ。似た者同士じゃないか」
面白そうに。実に面白そうにくつくつと笑うアグネスタキオンに、彼は何も言い返せないでいた。否定ができなかった。心のどこかでその通りだと思ってしまっていた。
「まあ、私はこれ以上何も言わないようにしようか。その答えを出すのは君たちなわけだしね」
「……はあ。どうやら俺は、君にも上回られたらしい」
「そう嘆息しないでくれたまえ。化かし合いは私の方が上手かったのさ」
言って、彼女は扉を指した。時計を見れば、既にエイシンフラッシュが出て行ってからそれなりの時間が経過している。
「敗者は去れ、ってことかな」
「露悪的な言い方をしないでくれ。私も暇ではないのさ」
「冗談だよ。何にせよ、君のおかげで助かった。また何かあればよろしく頼むよ」
「好きにするといい。ただ、一つ言うとするなら────君の〝夏への扉〟は、きっと私のところには無いよ」
「はは、肝に銘じておく」
笑い飛ばして、彼は扉に手を掛けた。
「まあ、ここからの答えは自分で出すよ。そのために必要なものはもう持っているはずだしね」
そして、そこから一歩を踏み出して。
「それじゃあ、またね」
扉の先には夏が広がっているのだと、彼は信じていたのだ。
参考資料
『夏への扉』
収録:「夏への扉」(早川書房)
著:ロバート・アンソン・ハインライン
訳:福島正実
今回の話を書くために鍵まで使って水着フラッシュの育成イベント全部開けたのに水着一回も出てこなかった。そういうこともある。
以下後書き。
4回に渡り友人たちとの合同誌に寄稿してきましたが、テーマが春夏秋冬の季節だったので、一巡りした今回で一旦区切りとなります。
過去に寄稿したものも含めて、時系列は本編最終話から秋→冬→夏→春になります。最終話でのエイシンフラッシュの宣言「2年です。そのスケジュールで、貴方を惚れさせてみせます」はこれにて完遂されたというわけです。流石強い子。
せっかくの区切りということで、今回は「何があってあのクソボケが恋愛感情を意識したのか」に焦点を当てた話になりました。言うなれば関係性が変わる最後の一押しです。これがあったので、ここからは勘違いフェーズあんまり起きずに進んだのでしょう。それであの春の話に繋がります。長かったね。
感想や評価があれば是非。あと少しで評価者数500人になるので、入れていただければ嬉しく思います。
以上です。次回があれば多分ネオユニヴァース編が出ます。
この戦いの最終的な勝者は?
-
エイシンフラッシュ
-
トレーナー
-
ダークライ
-
その他