【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ   作:かむくら

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 地方にダークライって競走馬実在したの知って笑ったし調べてみたらエイシンフラッシュの同期でめっちゃ笑った。奇跡か?


無実を叫ぶエイシンフラッシュ

「私と勝負しろ、フラッシュ」

 

 トレーナー室に向かう支度を整えていたエイシンフラッシュは、ナカヤマフェスタから勝負を持ちかけられた。

 

「唐突ですね」

 

 時刻は放課後。場所は教室。

 突然の宣戦布告に多少面食らいはしたものの、エイシンフラッシュは至極当然の疑問をナカヤマフェスタへと投げかける。以前にも似たようなことはあったが、今回はそれに輪をかけて突然だった。

 

「何故今?」

「リベンジさ」

 

 ナカヤマフェスタは首に手を当て、頭を軽く回す。瞬間、その眼に宿る色が変わった。

 日常から非日常へ。停滞から流動へ。ただ一瞬にして切り替わったそれは、勝負へ臨むギャンブラーの眼光。

 

 ナカヤマフェスタから勝負を仕掛けられるのは、これが初めてではなかった。エイシンフラッシュはかつて、トレーナーと食堂にいたときに彼女からポーカーを挑まれたことがあった。

 曰く、『完璧な自制心なんてものを持った勝負師は、めったにお目にかかれない』。ナカヤマフェスタからそう評されたエイシンフラッシュは、彼女の勝負好きに付き合わされる結果となった。

 

「アンタはあの日、大一番で私に勝った。私はあの日、大一番でアンタに負けた」

 

 滔々と語られるのは雪辱。拳を握るナカヤマフェスタの声音は心底悔しそうであり、その言葉が事実であることを如実に示していた。

 

「だからリベンジだ。負けたままではいられない────そうだろう?」

「ですが、この後トレーニングの予定が……」

「負けるのが怖いのか?」

 

 ピシリ、と。

 そんな音が聞こえたような気がした。まるで時間が止まったような、それでいて、止まった時間という硝子に(ひび)が入ったような。緊張の概念に音があるのならば、きっとそのような響きになるだろうと思えるようなものだった。

 

 鞄に教科書を詰めていたエイシンフラッシュの動きが止まる。さながら彫像のように美しい手が空中で静止し、ゆっくりと下ろされる。

 

「……今、なんと」

「アンタ、負けるのが怖いのか?」

 

 面白くなってきた、とでも言いたげに、ナカヤマフェスタは口角を釣り上げた。

 

「勝ち逃げするつもりなのか?」

 

 煽る。

 

「あの日の勝ちを掲げ続けて、過去の順位付けに満足しているのか?」

 

 煽る。

 

「また勝負したときに負けてチャラになるのが怖いから、なんだかんだで理由をつけて勝負の舞台に立とうとしないのか?」

 

 煽る。

 

「なあどうだエイシンフラッシュ。私のこのつまらない予想は、アンタの心に響いたか?」

 

 雰囲気に温度があるのなら、この教室は二つの温度が支配していた。

 ナカヤマフェスタが放つ灼熱。そして、エイシンフラッシュが放つ絶対零度。二分された空気。表面張力のみで保たれる、コップに注がれた水の淵のような、決壊寸前の緊張。

 

「────わかりました」

 

 それが今、(あふ)れた。

 

「あなたの挑発に乗りましょう」

 

 ウマ娘とは元来闘争心の強い生物である。競争、勝負、雌雄を決する戦いなどにおいて、負けられないと感じたのならばその対決に全身全霊を注ぐことに躊躇を覚えない。

 エイシンフラッシュもまた、そういったウマ娘の一人だった。

 

 安っぽい挑発なのはわかっている。普段のナカヤマフェスタらしくない荒れた物言いなのもわかっている。だが、負けるのが怖いから勝負から逃げているなどと、そんな勘違いだけは是正しなければならない。エイシンフラッシュは闘争心に塗り固められたそんな使命感を抱いた。

 

「……ははっ。いいね、そう来なくちゃ」

 

 そのナカヤマフェスタの声で、静止した時間が動き出す。教室の中を支配していた空気が霧散する。エイシンフラッシュは仕方ないと言いたげにため息を吐いて、手に持っていた教科書を机の端に置いた。支度を整えるのは後にした。

 

 勝負が成立したことに歓喜しているのか、口の端を愉快そうに釣り上げるナカヤマフェスタは、自分の鞄の中から一つ何かを取り出した。

 それこそが今回の勝負の方法。広げられたのは一つの盤。四角く区切られたマス目と様々な兵士を象った駒が特徴的なそれは、誰もが知っている遊戯だった。

 

「これは……チェス?」

 

 チェス。

 そのルーツは紀元前にまで遡り、成立以後何千年にも渡り世界中で広く親しまれた遊戯である。世界で最も普及している盤上遊戯とも言われ、全世界共通のルールを持ち、年齢や性別、国籍や言語に因らない社交を行うことのできる優れた道具だ。

 ナカヤマフェスタが取り出したそれは、折り畳み式のチェス盤と小袋に入れられた駒だった。

 

「何故学校にチェスを……?」

 

 当然の疑問だった。

 

「細かいことはいいだろう」

 

 ナカヤマフェスタにとっては気にすることではなかった。小袋をひっくり返し盤上に駒を広げる。エイシンフラッシュは何か釈然としない気持ちを抱えながらも、自陣──最初に手についたので黒を選んだ──の駒を並べていく。

 

 エイシンフラッシュは早急に勝負を決めてトレーナーの元に向かうつもりだったが、この勝負方法ではそんな早くに決着をつけることは不可能だと判断した。

 チェスの対局時間は、双方の実力にもよるが長くなりやすい。国際大会などの時間は標準的に一人の持ち時間は3時間とされ、オープンなどでも80分から2時間与えられることが多い。以前行ったポーカーなら5分もかからなかっただろうが、同じく5分の電撃チェスブリッツを行えるほど、エイシンフラッシュはチェスに造詣が深くなかった。

 

 よって、出した結論は────

 

「30分です。30分で、あなたに勝ちます」

「上等だ。アンタのそのスケジュール、粉々にブッ壊してやる」

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 エドガー・アラン・ポーが生み出したかの名探偵オーギュスト・デュパンは、知的能力と語られるものの例えにチェスとチェッカー、ホイストを用いた。

 知的能力の中でも『分析力』と呼ばれる領域に秀でた者は、どのような些細な問題にも楽しみを見出す。自身の才能を知性だと自負する者にとって、その才能を発揮するのは問題解決の時であり、解き明かす時である。

 分析力に秀でた者が導き出す結論は、その核心があくまでも方法論的であるにもかかわらず、実際には直観の産物であるかのように捉えられることがある。それはその結論に至る方程式を外部に露出していないからであり、その結論に至るまでが速いほど、他者からはそれが直観的に導かれた当てずっぽうのように見えるのである。

 

 デュパンはチェスの勝敗に分析力が関わることを誤解だとして、それが決まるのは一つ一つの駒が違う動きをする複雑なゲームではなく、チェッカーのようにシンプルなゲームとした。

 チェスに求められるのは優れた洞察ではなく複数の駒による要素を見落とすことがない集中であり、チェッカーのように盤上に考察の要素がないゲームにおいては、求められるのは相手の精神に飛び込み同調し、あわよくば失敗を誘うほど相手を分析できる知性である。チェスは考えることが多すぎるせいで、分析力に秀でていたとしても、それを活かすほど知性が追いつかないのである。

 

 逆説的に考えれば。

 

 駒の動きに集中した上で、相手の動向を洞察し、分析することができるのならば。そしてそれを、あたかも直観と見紛うほどの速度で行えるのであれば。

 それはもう、チェスにおいて最高の知的能力と言う他ないだろう。

 

「────チェック」

 

 無機質な音が響く。

 黒の駒が盤上に置かれる。白のキングを追い詰め、逃げたそれを追いかける。どこに逃げても新たな逃げ道に隠れざるを得ない状況に追い込み、白の計算を崩していく。その果てに完全なる袋小路を作り上げ、最後の一手を仕掛ける。エイシンフラッシュが宣言した勝利宣言(チェック)は、終わってみればナカヤマフェスタに一切の勝ちの目を見せない完璧なものだった。

 

「……ああ、負けたよ。私の負けだ」

 

 続く投了宣言。ナカヤマフェスタは教室の天井を見上げ、感嘆の表情でポケットに左手を入れ、敗北を認めた。

 

「アンタ強すぎるだろ。あのクイーンは最後を見越してのサクリファイスか」

「ええ。ピースダウンですが、ビショップをそこに置けばルークとキングが射線に入ります。圧力をかけるには必要なことでした」

「プロになれるぞ」

「私は競走ウマ娘ですので」

 

 中断していた支度を再開する。机の上に置いたままだった教科書を鞄に仕舞い、席を立つ。

 

「では、私はこれで」

「ああ。悪かったな、邪魔をして」

 

 ナカヤマフェスタから右手が差し出される。エイシンフラッシュはそれに応え、握手の形になった。互いに実力を認め合った敵対者の、健闘を讃える握手だった。

 

 エイシンフラッシュは急ぎ足で教室を後にする。その背中を見送って、ナカヤマフェスタはポケットに入れたままだった手を出した。その手にはスマートフォンが握られていた。表示されていたのは、ストップウォッチだった。

 

「残り12秒……29分48秒でのチェックメイト、か」

 

 それは、対局開始とともに始まっていたものだった。

 エイシンフラッシュが自ら定めた30分という刻限。ナカヤマフェスタは彼女に知らせず、ひっそりとストップウォッチを起動していた。

 別にそれが対局の勝敗に関わるということはない。このストップウォッチが鳴っていたところで、結局はエイシンフラッシュの勝利に終わっただろう。

 

 だが、ナカヤマフェスタは全く別のところで驚愕していた。恐怖していたと言ってもいい。

 何故なら、ナカヤマフェスタが投了したからこそこのタイムで終わったが、あのチェック宣言から最後まで逃げて完全に詰み、キングが取られるまでにはまだ5手の猶予があった。それだけ逃げ回れば、対局には負けてもエイシンフラッシュの宣言を数分オーバーさせることだって可能だったのだ。

 そうしなかったのは、単にナカヤマフェスタの勝負師としての矜持が許さなかったからに他ならない。負けると分かっている勝負を、くだらない盤外戦術の為だけに無粋な思惑で汚すのを良しとしなかった、ただそれだけの話だ。

 

 ただ、もしエイシンフラッシュがナカヤマフェスタのその考えまで読んでいたとしたら?

 

 ナカヤマフェスタがそうするのを読んだ上で戦術を組み立て、時間を測っていたとしたら?

 

「マジでバケモンだよ、アンタ」

 

 肌の上を厭な汗が伝う。もう消えた背中が恐ろしくてたまらない。()()()()()とはいえ、なんて恐ろしい相手に勝負を挑ませるのかとナカヤマフェスタは頭の中のとある人物を恨んだ。それと同時に、楽しくてたまらなかった。

 らしくもない言動。らしくもない挑発。普段そんなことをしないために多少不自然さはあったと思うが、結果としてエイシンフラッシュを焚き付けることには成功したからそれで良しとした。

 

 完璧な自制心。閃光の切れ味。駒の動きに集中し、相手を分析する完成された知的能力。その全てを兼ね備えた才媛がこんな近くにいることを喜ばしく思った。いつか、運に支配されない真っ向勝負で彼女に勝てたらと考えると、恐怖が武者震いに変わった。

 

「……さて」

 

 それはそれとして、である。

 ここはエイシンフラッシュがいた教室のど真ん中である。気づかないうちに空気にあてられたギャラリーが増え、ナカヤマフェスタは取り囲まれていた。僅かに開いた隙間は、先程エイシンフラッシュが出て行ったところだろう。ナカヤマフェスタは思考に熱中する余り周りのことが見えていなかった。

 

 そそくさとウマ娘の壁をかき分け教室の外へ踏み出す。廊下の向こう側を見ても、エイシンフラッシュの背中は既に見えない。トレーナー室がある方の窓に目を向ければ、黒鹿毛の毛先が柱の影に隠れるのがチラリと見えた気がした。

 

「上手く行くかどうかは50%(パー)くらいか」

 

 どこからともなく取り出したコインを弾き、落ちてきたそれを手の甲で受け止める。ギャンブラーとしての賭けではなく、占いのような意味合いだった。

 

「……裏」

 

 その瞬間、学園中に響くような男性の叫び声が聞こえた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 トレセン学園の廊下。日はまだ高く、リノリウムは陽光に照らされて(まばゆ)い輝きを放っている。エイシンフラッシュはその上をトレーナー室に向けて駆けていた。

 当然全力ではない。常識の範囲内で、しかしできるだけ高速で。視界の端の張り紙の「静かに走れ」の文字が一瞬映ってフェードアウトした。エイシンフラッシュがこんなに急いでいるのには訳があった。

 

 ────トレーナーさんといられる時間が30分減っちゃう!

 

 君賢さどこで溶かしてきたの?

 

 エイシンフラッシュは可能な限りの全速力を尽くしていた。一刻も早くトレーナー室に行きたかった。()()()()()()()普段とは違う特別な事情があったのだが、それを抜きにしてもトレーナーに早く会いたいというその一心のみで走っていた。

 

 教室棟を抜け、トレーナー室が並ぶ棟へ。その4階の隅に、エイシンフラッシュのトレーナー室はあった。そして廊下の角を曲がり最後の直線に入った、その瞬間のことである。

 

「あぁぁぁぁぁああ────!!!」

 

 それを聞いた瞬間、エイシンフラッシュの脚が炸裂した。現在でも破られていない、日本ダービー上り3ハロン32秒7の記録を持つ閃光の脚力がその本領を発揮する。

 ターフの上ではないとはいえ、ウマ娘の速さならば短時間で廊下を端から端まで駆け抜けることなど雑作もないことだった。既にある程度走っていたことも、彼女のスパートに一役買っていた。

 

 先の声は間違いなくトレーナーのものだった。それも、普通ならそうそう聞くことがないような切羽詰まった迫真の叫び。もしやトレーナーの身に何かあったのではと最悪の予想が脳裏を(よぎ)り、自分史上最高速さえ今なら出せるのではないかと思しき速度でエイシンフラッシュはトレーナー室の扉の前まで辿り着いた。

 

「トレーナーさん!?」

 

 ノックも礼節も気にしていられない。エイシンフラッシュは乱雑に扉を開け放ち、部屋の中に飛び込む。そこにはトレーナーがいて────その他に、何も変わったところはなかった。

 

「……え?」

「あ、フラッシュ?」

 

 突然のことに驚いたのか、トレーナーも若干呆けた表情(カオ)をしている。無論、エイシンフラッシュも同様だった。

 

「……フラッシュだよね?」

「は、はい。あなたのエイシンフラッシュですが……」

 

 それよりも、トレーナーはむしろエイシンフラッシュがこの場にいることに驚いているようだった。何故ここに、とでも言いたげな目で彼女を見つめるが、エイシンフラッシュには心当たりがないので首を傾げる他ない。しれっと発された『あなたの』の部分には、動揺するトレーナーもエイシンフラッシュ自身も気が付くことはなかった。

 

 それよりも、先の声に関することを聞く方が先決だった。

 

「何かあったのですか?」

「えっ、いや、まあ……」

 

 煮え切らない答えと、逸らされた視線が、如何にも何かありますと物語っているように感じられた。その視線はエイシンフラッシュを外れて机に向かっており、まるでそこにあった何かを見ているかのようだった。

 

「……実は、さっきまでここに置いていた荷物が失くなってて」

 

 やがてトレーナーは観念したのか、口を開いた。

 

「さっきまで会議に行っていて、部屋を1時間くらい空けていた。勿論鍵は閉めてたから、他の誰かが入ってくるなんてことはないはずだ」

「なのに、戻ってきたらそれがないと」

「その通りです」

 

 トレーナーは見るからに肩を落としていた。余程大事な物なのか、と一目でわかる消沈具合で、まさに絶不調と形容すべき有様だった。

 

 ふむ、とエイシンフラッシュは顎に指を当てる。この場合どうするべきかを考え、トレーナーと自身のこれからの予定を天秤にかける。

 エイシンフラッシュにはこれから少々()()()()()がある。本来なら放課後はトレーニングの時間に当てているが、その時間を少しだけ削ってでも成し遂げたいと願ったものだ。既にナカヤマフェスタの影響により予定は大幅な修正を余儀なくされているが、可能ならばこれ以上のイレギュラーは避けたいと、彼女は頭を働かせた。

 

 考えて、出た答えは一つだけだった。

 

「では、探しましょうか」

 

 トレーナーが悲しんでいるのだったら、それをどうにかする方が大切だ。エイシンフラッシュはそう結論づけた。

 

「……探す?」

「ええ。失くなったのなら、失くなった理由があります。それを解明すれば、自ずと答えは見えてくるはずです」

 

 鞄を置いて、中からメモ帳を取り出す。軽くペンを走らせて、エイシンフラッシュは告げた。

 

「では、周囲の方に聞き込みを開始しましょう」

 

 ────数分後、トレーナー室に戻った二人は、トレーナーからの情報も合わせて状況の整理を始めた。

 

 例の荷物は縦横20cmほどの小箱。薄い水色の小袋に入っており、口を細いリボンで結んでいる。

 14時40分からの会議があり、トレーナー室を退室。その段階で荷物は机の上に置いてあるのを確認し、鍵は閉めた。確認もしたため間違いない。

 トレーナー室の鍵を借りに来た者はいない。

 この1時間ほどでトレーナー室の方に向かう人影はいたが、そもそも多くの部屋がある区画なので誰が怪しいかまではわからない。

 所属のトレーナーは皆会議に出席中。

 ウマ娘は皆授業中。

 清掃作業中だった用務員によると、窓に面した通路を誰かが通った記憶はない。

 窓は上段の横長の窓だけ開いていたが、人が通るには狭い。

 

「なんかシャーロック・ホームズみたいだ」

「状況的にはオーギュスト・デュパンかと」

 

 情報を書き出したメモに二人で目を通して、ふと口から感想が漏れる。探偵ごっことでも言えばいいのか、子供の頃ですらあまりやらなかった遊びをこの歳になって大真面目にやることに、トレーナーは僅かばかりの可笑しさを覚えた。

 

「それじゃあここはモルグ街か」

「だとすれば、犯人はオランウータンですね」

 

 軽快な話し口がどことなく笑えてきて、顔を見合わせて互いに吹き出した。

 エドガー・アラン・ポーの著作の一つ、〝モルグ街の殺人〟。世界最初の推理小説とされ、登場する名探偵であるC・オーギュスト・デュパンは、のちに創作されるシャーロック・ホームズら名探偵に少なからぬ影響を与えているとも言われている。

 聞き込みを行った結果、どこか状況が〝モルグ街の殺人〟に似ていると、二人は感じていた。しかし当然トレセン学園にオランウータンなんていないし誰も死んでいないので、それもどこか奇妙な笑いに変わった。

 

「ですが、手がかりがありません。侵入者はいなさそうですし、そもそも怪しい人物が誰かもわからないのです」

「そうだね。考えられるのは外からだけど」

 

 言って、トレーナーは窓に目を向ける。

 この部屋の窓は上下に二段になっている。下に大きな窓と、上に横長の細い窓がある。当時の状況としては上の窓だけ()()()()()()()()()()()が、人間の大きさの物体が通るには少々狭い。その上、

 

「ここは4階だ。普通に考えて、ウマ娘でも入ることなんてできない」

 

 完全なる密閉空間ではないが、条件的には密室だった。高所の密室への侵入手段としては屋上や周囲の建造物からというのが常套手段ではあるが──事実、〝モルグ街の殺人〟の侵入手段も近くの避雷針だった──トレセン学園はさらに上の階がある。そもそも屋上からロープなり何なりを垂らせば目立つし、通過点の部屋に人がいた場合のことを考えると現実的ではない。

 

 窓枠も念入りに確認したが、土らしきものは付着していなかったし、ロープやフックが擦れた跡もなかった。外部からの犯行ではないことの証明はそれで十分だろう。

 

「さて、となると内部からだが」

 

 トレーナーの足が部屋の扉へ向く。鍵は一般的な教室などで使われるものと同じタイプで、力づくで開けることはできない。鍵を破壊すれば可能だが、その形跡はなかった。

 

「俺が戻ってきたとき、鍵はちゃんと閉まっていた。ピッキングで開けたのなら同様に閉めた可能性もあるが、人の往来がある場所でそんなことをしたら一発でバレる。そもそも、ここは俺とフラッシュが使う部屋なんだから、俺たち以外が入ったら怪しいに決まってる」

 

 一つ一つ、考証を進める。

 外からの侵入は不可能。この部屋に出入りしても怪しくなく、尚且つ鍵を持っていてもおかしくない。トレセン学園の中を自由に歩き回ることができ、犯行後自然に姿を消すことが可能な人物。

 

 トレーナーは頭を悩ませ、やがて閃いた。その条件に当てはまる人物が一人いるではないか。

 

「そうか……つまり、そういうことだったんだな」

「もしかして、トレーナーさんもわかりましたか」

「ああ。だが、信じられない。そんなことがあるのか」

「ええ。ですが、事実としてそうなのです」

 

 二人同時に辿り着いた答え。神妙に顔を見合わせ、頷き、その名前を口にする。

 

「私しかいませんね」

「フラッシュしかいない」

 

「そんなわけないでしょう!」

 

 当然のツッコミだった。

 

「いや、わからない……〝モルグ街の殺人〟じゃなくて〝アクロイド殺し〟だったかもしれない……」

「推理小説の読み過ぎですよ」

「でもなんかフラッシュならそこら辺全部上手くやりそうっていうか」

「何故でしょう、信頼が全く嬉しくありません」

 

 はぁ、と漏れるため息。まさか状況を辿って分析した結果がこんなおふざけのような結論になるとは思っておらず、つい呆れたような表情(カオ)になる。

 

「そもそも、その時間は授業中です。それに、終わった後ナカヤマさんとチェスをしていたのですから、私にはアリバイがあります」

「まあ、そうだよね……」

 

 せっかく順調に推理が進んでいたというのに、ここで全て白紙になった。もう一度最初から考え直す必要があると、トレーナーが若干陰鬱な気分に沈みかけたとき、ふと視界の端に何かが映った。

 

 それは机の下から出ていた。床と机の前板の隙間、座ったときの足元になる場所。そこに、茶色とも黒ともつかぬ何かが落ちていた。

 

「これは……」

 

 手に取り、眺める。エイシンフラッシュも隣からそれを覗き込んだ。一目見れば、その正体がすぐにわかった。

 

()()()()……?」

 

 瞬間、トレーナー室に近づいてくる足音が一つ。エイシンフラッシュとともにそちらに目を遣れば、一人のウマ娘が姿を現すと同時にその体を折り目正しく90度曲げて、叫んだ。

 

「ほんっとうにごめんなさい!!!」

 

 現れた彼女は、エルコンドルパサーだった。

 

 突然の謝罪。困惑する二人と、未だに頭を上げようとしないエルコンドルパサー。奇妙な空気が漂う中で、彼女の腕に留まる鳥が一声鳴いた。それに突き動かされるように、ようやく意識が現実へと戻ってくる。

 

「えっと、とりあえず頭上げようか」

 

 トレーナーが促し、エルコンドルパサーが顔を上げる。記憶にある彼女は溌剌として快活な少女であったはずだが、その表情に滲む思いはそれとは程遠いものだった。あえて表すのならば慙愧に近い。何か自分次第で変えられることがあったのではないかと、そういった後悔に苛まれているかのような色があった。

 

 トレーナーは彼女の傍らにいる鳥に目を向け、その羽根の色が先程見つけた羽根と同じことに気がついた。

 

「ああ、なるほど」

「はい、ご想像の通りデス……」

 

 おずおずと差し出されたエルコンドルパサーの手に乗せられていたのは、大きさ20cmほどの小包だった。それはまさに、彼が今探していた荷物そのものだった。

 

「マンボがこの部屋に入って持ってきちゃったらしくて……すぐに案内させてここまで来て……本当になんと言えばいいか……」

「いや、いいよ。君が悪いわけじゃないんだし、こうやって見つかったんだし。届けに来てくれてありがとう」

 

 差し出された小包を受け取り、トレーナーは微笑んだ。怒っているわけではないと伝わったのか、エルコンドルパサーも安堵の表情を浮かべる。「もうするんじゃないぞ」と鳥に目を向ければ、わかっているのかいないのか、翼を数回羽ばたかせた。

 

「それじゃ、アタシはこれで失礼します! お邪魔しました!」

 

 それだけ言い残し、さながら羽が生えているかのように、エルコンドルパサーは走り去っていった。まさに嵐のような到来と退去に呆気に取られるが、ふとエイシンフラッシュの方を見ると、彼女も同じく困ったような表情をして佇んでいた。

 

「……どうやら、ここはモルグ街だったみたいだ」

「オランウータンではなかったですけどね」

 

 まさかの犯人……犯鳥の登場に戸惑いはあるが、結果として解決に至ったので良しとすることにした。

 

 それに、とトレーナーは思う。重要なのは犯人探しではない。この探していた小包にこそ、重要な意味があるのだ。

 

「フラッシュ」

 

 名前を呼ぶ。神妙な雰囲気がトレーナー室を満たした。エイシンフラッシュもそれを察したのか、「はい」と小さく返事をして、トレーナーに向き直った。

 これこそが、今日の本題。トレーナーとエイシンフラッシュ双方にとって様々なイレギュラーこそあったものの、ようやく形になる大切なこと。シンとして音が消えた空間を、トレーナーが破った。

 

「誕生日、おめでとう」

 

 3月27日。探していたそれは、誕生日プレゼントだった。

 

 思わずエイシンフラッシュは目を見開いた。淡い色の袋に、細いリボン。よく見ればそれは金糸で精巧な刺繍が施されていて、たしかにプレゼント用の包装だった。

 

 考えてみれば当然のことだった。エイシンフラッシュはこれまでのことを思い返す。どんな時も、トレーナーが必死になるのは、いつだってエイシンフラッシュが絡んだ時だった。物を失くしただけであんな大声を出してしまうなんて、それこそ今日という日を考えれば、誕生日プレゼント以外ないようなものなのに。

 

 渡されたそれを受け取る。

 

「開けてみてもいいですか?」

「いいよ。開けてみて」

 

 ゆっくりと、包装を破らないように。中から出てきたのは、幅が20cm程度はありそうな長方形の箱だった。

 

「これは……」

 

 そっと、蓋を開く。抵抗はない。中に見えたのは緻密な仕掛けの数々。それと同時に、流れ出す優しい音楽。どこかで聴いたことのあるような、クラシックの音色だった。

 プレゼントは、オルゴールだった。

 

「いつも、フラッシュには感謝してるんだ」

 

 音楽に合わせるように、トレーナーは語り出す。

 

「言葉にしたら、きっと語り尽くせない。それくらい、この3年間は色んなことがあったから。だから、こうして形にするしかない」

 

 新人の身の上で、突然受け持った担当ウマ娘。

 ダービーを勝ってダービーウマ娘になった。天皇賞秋を勝って天皇賞ウマ娘になった。有馬記念を勝ってグランプリウマ娘になった。URAファイナルズを勝ってチャンピオンの称号を手に入れた。どれもこれも身に余る重圧で、しかしそれを勝った本人はもっと圧を感じているはずで。

 そんな子が隣にいるのに、不甲斐ない姿は見せられないと奮起した。

 

「俺が頑張れたのは君がいたからだ。君が誰よりも頑張るから、俺も相応しくならなくちゃいけないって、そう思えた」

 

 ────だから。

 

「俺と出会ってくれてありがとう、フラッシュ。本当に、誕生日おめでとう。これからもよろしく」

 

 感謝の言葉は、きっとこれでは足りないけれど。

 それでも、大切なことは言葉にしなければいけないと思っているから。

 過去も、今も、これからも。ずっとずっと、感謝している。トレーナーがエイシンフラッシュに出会わなければ、きっと今の姿はない。運命というものがあるのなら、これは間違いなく運命だった。

 

 エイシンフラッシュの頬を涙が伝う。どうしたの、なんて慌てるトレーナーがおかしくて、笑った。泣きながら、笑っていた。

 

「いえ、なんか、不思議なんです。悲しくなんてないのに、嬉しいのに、涙が出てきて」

 

 手に持ったオルゴールで口元を隠す。エイシンフラッシュが笑うときによくする動作。いつもは手で隠しているが、今日その役目はオルゴールが引き継いだ。

 

「こちらこそ、ありがとうございます。こんなに……こんなに嬉しい誕生日は初めてです」

 

 そうして、優しい音楽が流れるトレーナー室で。

 二人きりの誕生日会は幕を開けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「お誕生日おめでとー!」

 

 寮の部屋に戻ると、クラッカーが出迎えた。

 部屋にいたのは四人。スマートファルコン、ゴールドシップ、トーセンジョーダン、ナカヤマフェスタ。よく一緒にいることの多い友人が部屋に集まり、パーティーを開いていた。

 

 部屋の壁にはカラフルなリボンや『お誕生日会』の看板。どこで用意したのかわからない豪奢な料理が狭いテーブルに所狭しと並べられていた。

 

「この鯛アタシが釣ってきたんだぜ」

 

 エイシンフラッシュはそういうものだと納得することにした。ゴールドシップの奇行にいちいち反応していては何も生まれないことを、彼女はトーセンジョーダンを見てよく理解していた。

 

「サプライズがいいかなって思って頑張って準備してたの! ねえねえ、驚いた?」

「はい。とても素敵なサプライズでしたよ」

「やったー!」

 

 スマートファルコンが両手を上げて歓喜を示す。そんな同室の友人が微笑ましくて笑っていると、ベッドの上に腰掛けているナカヤマフェスタが目に入った。彼女もこちらに何か話があるのか、口火を切った。

 

「その感じだと、そっちもサプライズは上手くいったみたいだな」

「もしかして全部知っていたんですか?」

「まあな。アンタのトレーナーから頼まれて、ああやって足止めしてたってわけだ。会議があるから先に部屋で待てないってな」

 

 エイシンフラッシュはようやく得心がいった。ナカヤマフェスタにしてはらしくもない挑発と、時間のかかるゲームの誘い。それらは全て、トレーナーの仕込みだったのだと彼女は言う。

 

「祝う側は祝われる側を待っていたいんだとよ。殊勝なことじゃないか」

「……ありがとうございます。本当に、何から何まで」

「いいんだよ。私も楽しめたしな」

 

 満足そうに笑うナカヤマフェスタを見て、エイシンフラッシュも感謝を告げる。既にゴールドシップが料理に手を出しているのを見て、トーセンジョーダンが止めている光景が視界の端で繰り広げられていた。

 

「……ん? おいフラッシュ、それなんだ?」

 

 と、突然ゴールドシップがエイシンフラッシュの持つ小包に目を向けた。

 

「トレーナーさんからいただいたプレゼントです。見ますか?」

「おう、見せてくれ見せてくれ。あのトレ公のセンスは如何程のものか、このゴルシちゃんが測って差し上げよう」

 

 ゴールドシップが言うと同時、他の皆もそのプレゼントに興味津々なことに気づいた。エイシンフラッシュは再びゆっくりと包みを開け、中の物を取り出す。

 

「わぁ、オルゴールじゃん。オシャレー」

「ほほーう。さてさて、曲はなんじゃらほい」

 

 蓋を開ける。流れ出すのは先程も聴いた優しいクラシックの旋律。皆一様にその旋律に耳を傾けているようで、暫し部屋をその音楽だけが支配していた。

 曲が区切れ、もう一巡に入ったところで、ゴールドシップが言う。

 

「〝エリーゼのために〟か。中々良いセンスしてるじゃねえの」

「お詳しいんですか?」

「ま、多少はな。気になったら調べてみるといいぜ。オルゴールを贈る意味も含めて、な」

 

 何やら意味ありげなことを言い、ゴールドシップは口を噤む。詳しいことまではわからないが、どうやらそれには特別な意味が含まれているらしいことだけは理解した。このパーティーが終わったら調べてみようと、それだけを思い、エイシンフラッシュはこの話題に区切りをつけた。

 

「それよりも、早く食おうぜー! もうゴルシちゃんは腹が減りすぎて重力崩壊ブラックホールまっしぐらなんだよー!」

「ふふっ。そうですね、いただきましょうか」

 

 オルゴールの優しい音色の中で、ウマ娘5人集まれば────。

 ただ幸せな、一年に一度の特別な日に。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「はぁー、大変な一日だった」

 

 仕事を終えて、午後8時。トレーナーは自室へと帰宅した。

 鞄を置き、上着を脱いでハンガーへ。窮屈なネクタイから首を解放し、それだけベッドに放り投げた。あとで畳むから今はいいだろと無生物に弁解しながら、珈琲を淹れようとポットのスイッチを押した。

 

「ナカヤマフェスタにはちゃんとお礼しないとな」

 

 今回の功労者の名前を呟いて、いつか果たすべき約束を口にする。

 

 ナカヤマフェスタに協力を仰ぐにあたって、彼は交換条件を提示した。好きな時でいいから、どんなものでも、どんなことでも一度だけ、実現可能な範囲で要望を叶える。彼は恐らくそれが叶えられるのは勝負事に関してだろうと思っているが、ナカヤマフェスタからの要望であれば可能な限り応えるつもりだった。

 

『ちょっと煽るくらいでもいいからエイシンフラッシュを足止めしてほしい。できれば時間のかかる遊びで、少なくとも30分くらい』

 

 彼からナカヤマフェスタへ依頼したのはこれだけである。対して、彼女は最低限の時間ではあれどきっちりと依頼を果たした。その恩義には報いなければならないと、トレーナーは意思を固めた。

 

「誕生日、全然祝ってなかったしな」

 

 エイシンフラッシュと出会ってから3年。経過した誕生日は過去2回。ほとんど毎日顔を合わせているのに、忙しい時期だからと毎年お流れになっていた。クラシック期はそのすぐ後に皐月賞が、シニア一年目は大阪杯や天皇賞春が控えていたから、仕方ないといえば仕方ないのだろう。今回はその分も含めてのお祝いだった。

 

 ────誰かにプレゼント贈るなんて、初めてだったな。

 

 トレーナーは今まで贈り物をしたことがなかった。親の誕生日を祝おうとしても「言葉だけでいい」と言われるし、親戚の子どもは贈り物をするほど深い関係ではない。友人の誕生日を祝うにしても飯代を奢る程度で、本格的な贈り物はこれが初めてだった。

 

 故に、彼はプレゼントに迷った。何を贈ればいいのか見当がつかないもので、どうすればいいのか、何を贈れば喜ばれるのかを必死で考えた。一番伝えたいのは感謝だから、それが伝わるようなプレゼントを────そう思って調べていたとき、まさにその条件にピッタリなものに出会ったのだ。

 それがオルゴールである。

 

 ────これだ!

 

 トレーナーはそのとき、まさにこれしかないと直観した。オルゴールを贈る意味は、『相手に対して心から感謝している』。トレーナーは早速曲選びに取り掛かった。

 しかし、トレーナーは気づかなかった。気づけなかった。オルゴールを男性から女性に向けて贈るという行為の、その意味するところを。

 男性から女性へのオルゴールのプレゼントというのは、感謝の他に()()()()()()()()()()()という意味を持つ。もう少しでも調べていたらきっと気づくことができたはずなのに、トレーナーはそういうところで詰めが甘かった。

 

 曲を選ぶにあたり、エイシンフラッシュはドイツ出身だから、ドイツの音楽家の曲がいいと思い、ベートーヴェンをチョイスした。トレーナーは音楽にそれほど造詣が深くなかったため、聴いたことのあるメロディーの中で一番気に入った物を選んだ。

 

「〝エリーゼのために〟、だったか」

 

 楽聖とも呼ばれるベートーヴェンの曲だけあって、曲名までは知らずとも、旋律を一度でも聴いたことがある人はきっと多いことだろう。この曲はただのクラシックとしてだけではなく、ベートーヴェンがとある女性を想いながら書いた恋の歌としても有名なものである。当然、トレーナーもそのことを知って────

 

「めっちゃ良い曲だよな」

 

 こいつがそんなことを知っているはずがなかった。

 

 オルゴールを贈る意味に感謝が含まれるのは、その相手に合わせた曲を選ぶという行為に価値があるからである。即ち、贈られた曲に応じて含まれる意味に違いが生まれるということであり、恋の歌を贈るというのは率直なプロポーズとして受け取られてもおかしくないものであった。

 しかしトレーナーはエイシンフラッシュのことを考えて曲を選びはしたものの、「これなら好きそうだな」といった単なる好みの選別でしかなく、含まれる意味合いに関しては完全に無頓着であった。哀れな生き物である。

 

 珈琲を淹れ終わり、ベランダに立って空を見上げる。満月はこの前過ぎてしまったから、今日の月は半月と満月の中間ほどであった。

 熱い珈琲に口をつけ、湯気と息で空気が曇る。体に沁み渡る苦い薫りが、一日の疲れを癒していくようだった。

 だが、今日のような疲れなら悪くないと、そう思った。

 

「……誕生日、おめでとう」

 

 何度目になるかもわからない独り言。

 

 本当の出会いなど、一生に何度あるだろう。生涯忘れられない思い出を幾つも積み重ねるような出会いなど、果たして何度あるだろう。出会えれば運が良くて、出会えないのが普通。運命とでも形容すべきその出会いに、彼は心からの感謝を捧げた。本当に、ありがとう。

 

「君のこれからの一年が、希望に満ち溢れたものでありますように」

 

 そう、誰に聞かれるでもない独り言を、また一つ重ねて。

 月だけがただ、空に浮かんでいた。




 後日、ミホノブルボンとサイレンススズカに「あのオルゴールのメロディーが頭から離れないの……フラッシュさんがずっと聴いてるから」と相談するスマートファルコンの姿が見られたとか。

この戦いの最終的な勝者は?

  • エイシンフラッシュ
  • トレーナー
  • ダークライ
  • その他
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