【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
星明かりさえ消えた夜。空を彩る光は、赤みを帯びた月明かり。どこまでも深く飲み込まれそうな夜の帳が下りた、ある日。
トレセン学園、廊下にて。何かが二人、そこにいる。男と女のシルエットのように見えるそれは、片や神妙な表情を湛え、片や一切の表情が抜け落ちている。
男はトレセン学園に在籍するトレーナーだった。女はトレセン学園に在籍するウマ娘だった。本来指導者と教え子であるはずの二人は、しかしその関係には似つかわしくない緊張感を漂わせ、そこにいた。
「だからさ、フラッシュ。聞かせてくれ」
トレーナーが口を開く。さながら割れる寸前の風船に針を近づけるように、溢れる寸前のコップを傾けるように、闇を支配するしじまを打ち破るように、張り詰めた声が響いた。
「────君はいったい、誰だ?」
◇◆◇
「私は考えました。やはり、苦手を克服することが重要なのではないかと」
五月のある日、放課後のトレーナー室。地球温暖化のせいか早めにエアコンを使い始めるような季節。エイシンフラッシュが一つの提案を打ち出した。
対するのは彼女のトレーナー。彼は備え付けのチェアに腰掛け、仄かな薫りを放つ珈琲を啜っていた。突然の申し出を受け、彼は手元に用意した書類をいくらかめくった。
「そうだね。それはその通りだ。君は最終直線の末脚こそ驚異的だけど、スタミナ面に多少の不安がある。そこを補強するのは間違っていない」
数値化されたエイシンフラッシュのタイムと日々のトレーニングメニューに目を落とす。
担当であるエイシンフラッシュの持ち味は、何と言っても最終直線の速度だ。彼女の脚質が差しというのもあってか、レース中は中団からやや後ろにつけ、最終コーナーを曲がった後間を縫ってごぼう抜きという展開が多い。そのため、日本ダービーに代表されるように上がり3ハロンのタイムこそ目を見張るものがあるが、反面長距離になると多少の不安が見えてくることもあった。
「去年の天皇賞春ではマンハッタンカフェの2着だったね。生粋のステイヤーである彼女相手に1/2バ身差まで迫ったのは見事だけど、あれも最後に追い込みをかけられるスタミナがあれば勝負はわからなかった。そういう面から見ても、たしかにスタミナトレーニングをするのは理にかなって────」
「あ、いえ、そうではないんです」
滔滔と重ねられるトレーナーの言葉は、端的な否定で遮られる。
突然のことに疑問符を浮かべたトレーナーは、「どういうこと?」と理解できていないようだった。対し、エイシンフラッシュは鞄から何かを取り出してテーブルの上に広げて見せる。それはいくつもの薄いクリアケース────映画のパッケージだった。
その表に書かれていた文字は、〝バイオハザード〟。
「ゾンビ映画です」
「見ればわかるよ」
それはゾンビ映画としてあまりにも有名すぎた。
「……トレーナーさん。私は、ゾンビが苦手です」
エイシンフラッシュは、以前からよくそのようなことを口にしていた。
ゾンビ。古くはブードゥー教にまでその歴史を遡る怪異の一つ。数多くのホラーやファンタジーなどの創作物の題材ともなってきたそれは、
何故エイシンフラッシュがゾンビに対して強い苦手意識を持っているかといえば、彼女曰く「実体があるから」だという。
「幽霊には体が存在しません。ですから、それはそこに存在していないも同義なのです」
「実在するしないは別としても、まあそうかもね」
「ですが、ゾンビは別です。死体である以上、そこには実体があります」
ゼロかイチかの二分化するならば、幽霊がゼロでゾンビがイチ。
エイシンフラッシュは
ただし、ゾンビだけは別である。元が人間の死体である以上、実体があり、現象として存在する。『腐敗した肉体』という動くはずのないものが動くという、理屈と理論で説明がつかない非現実的怪異を伴う。実在するしないは別として、エイシンフラッシュにとってはそれが気持ち悪くて仕方がなかった。
「非現実的な現実、ゾンビはその象徴です」
「そうかもね」
「ですので、私はゾンビだけが恐ろしいのです」
「理屈はわかる」
「なので、ゾンビ映画を観て克服しましょう」
「どうして?」
訳が分からなかった。トレーナーは本日二度目の疑問符を浮かべた。
「苦手というのは言い換えれば弱点ですよね」
「まあそうなるね」
「弱点なんて無い方がいいんです」
「そうかなぁ……」
エイシンフラッシュは完璧主義者であった。自分というキャンバスに汚点を許さないという、幼少より培われた信念があった。
本来彼女はイレギュラーへの対応ができないウマ娘であった。完璧主義者であるが故に、自ら定めたスケジュールを外れてしまうと、その修正の仕方がわからない。修正の予定など元より組み込んでいないから、発生したイレギュラーへの対処ができないという、完璧故の不器用さを抱えた少女であった。
トレーナーと過ごす3年間の中でそういった部分も徐々に改善されていき、今ではその不器用さもある程度鳴りを潜めているが、しかし生来の気質が変わるわけではない。
弱点を見つけ次第克服するという、ある意味エイシンフラッシュらしい発言に、トレーナーは心の中で『不器用だなぁ』と小さく笑った。
「そんなに躍起にならなくてもいいと思うけどね」
「いいえ、これは既に決定事項です。私は今日でゾンビを克服します」
「ゾンビが苦手なフラッシュも可愛いよ」
「……! か、かわっ……!」
軽く発された一言に、エイシンフラッシュは自分の顔が熱を帯びていくのがわかった。トレーナーは既にその時彼女から目を外していて、テーブルの上に広げられた〝バイオハザード〟のパッケージの一つを手に取っていた。
「まあ、フラッシュがそれでいいならいいけど。今日は過去のレース研究の予定だったし、映像観るってことには変わらないしね。……フラッシュ?」
「は、はい。なんでしょう」
「どうかした? 顔赤いよ」
「大丈夫です、はい、本当に」
自分がしたことに一切気がついていないのか、トレーナーは本日三度目の疑問符を浮かべた。哀れな犠牲者のエイシンフラッシュはそっと身体ごと後ろへ向けて頬を押さえる。触れたそこは、熱病に侵されたように熱かった。
トレーナーが映像機器を用意し、二つ椅子を並べる。準備が出来たとばかりにエイシンフラッシュの方を向けば、そこには未だ顔を背けたままの彼女がいた。フラッシュ、と声をかければ、ようやく彼女はこちらを向いた。
「そういえば、時間は? これ全部観たら夜にならない?」
「問題ありません。フジキセキさんに届けは出していますし、そのつもりでスケジュールを組んでいましたから」
「なるほど」
トレーナーはその用意周到ぶりに感心した。どうやら、彼女は最初からゾンビ映画を観るつもりだったらしい。断られたらどうする予定だったのだろうかと疑問に思ったが、そのシチュエーションを想像してみて自分が断る未来が見えなかった。トレーナーのこの考えまで予想しての申し出だったというのなら、その慧眼は底知れない。
「電気は?」
「点けておきましょう」
二人、横並びで椅子に座る。エイシンフラッシュが持ち込んだのはBlu-rayだったが、トレーナー室の機器は問題なく再生できた。
雰囲気が出るから、なんて言ってエイシンフラッシュはエアコンの温度を下げる。
「少し下げすぎたかもしれません」
失敗したとでも言いたげにはにかんで、しかし設定温度を上げることはしなかった。代わりにジャージを取り出して、自分の椅子を近づける。
「近くない?」
「いいんです、これくらいで」
〝バイオハザード〟を一作目から流す。エイシンフラッシュは勿論のこと、トレーナーも観たことはなかったので、実は少し楽しみだった。仮にも学園でこういうものを流すのは如何なものかと思いはしたが、他ならぬエイシンフラッシュが望んだのだからと目を瞑ることにした。
「フラッシュってさ、腐った死体が奇妙な要因で動いてるのが納得できないんだよね」
その時ふと、とある疑問が浮かんだ。画面の中では特殊部隊の隊長がレーザーで細切れになっていた。
「例えばの話さ、新鮮な死体を医療的に蘇生させたとしたら、それはどうなの?」
「……難しいですね。何故そんなことを?」
「〝死体蘇生者ハーバート・ウェスト〟って小説があってさ。それがまさにそういう話なんだよね」
〝死体蘇生者ハーバート・ウェスト〟。
20世紀初頭のアメリカの作家、ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの手になるそれは、死体を医学的アプローチによって蘇生させんとする医者のハーバート・ウェストの狂気を
「あとは同じ作者の〝冷気〟とか、そのオマージュ元みたいなポーの〝ヴァルドマアル氏の病症の真相〟とか。これは死に瀕した人間をどれだけ延命させられるかって話なんだけど」
〝冷気〟と〝ヴァルドマアル氏の病床の真相〟はよく似ている。これらは共に、本来死ぬべき年齢を迎えた人間を、冷蔵や催眠術を使って延命させる話だ。ゾンビを『動く死体』とする場合、そもそも死んでいないのでその定義に当てはまるかは不明だが、似たようなものだとトレーナーは考えていた。
「結構不気味な話だよ。〝冷気〟はもう外気温にすら耐えられない組織が溶け落ちてしまったり、ヴァルドマアル氏は本当の死を迎える直前に『俺は死んでいるんだぞ!』なんて叫んだりして」
「即ち、腐敗した死体ではないゾンビについてどう思うかということですか?」
「そうなるね。どう?」
エイシンフラッシュがゾンビを苦手な理由は、それが非科学的な存在であるのに実体を持つからに他ならない。今観ている〝バイオハザード〟は人為的に作られたウイルスによる、ある程度は科学的な理由が設定されているが、これに関しても彼女は否定的なように見えた。
というよりも、恐怖を隠し切れていないのだろう。先程から画面にゾンビが映る度にトレーナーの腕に擦り寄っている。今に至ってはしがみついて離れない始末だ。そんなに恐いのか、とトレーナーは動かすことのできない右腕を掴んで離さない黒鹿毛のウマ娘を見てそう思った。
「実体があることに変わりはありませんが……しかし、ハーバート・ウェストはまだしも後者二つは死んでいないのでしょう? でしたらまあ、怖れるものではないかと」
エイシンフラッシュ的に〝冷気〟と〝ヴァルドマアル氏の病症の真相〟はセーフらしい。やはり一度死んでいるかどうかは重要なのだろう。よくわからない線引きだが、深く考えても詮無きことだ。恐怖に理由はいらないのである。
何だかんだと観ていれば、一作目が終了した。ディスクを入れ替えるべく椅子を立とうとすれば、右腕をすごい力で掴まれていたことを思い出した。腕を抱え込むようにしてエイシンフラッシュがいるから立ち上がれない。一言離してと告げて腕を抜けば、エイシンフラッシュは力を緩めてトレーナーを解放した。
次いで二作目の視聴を開始する。始まった途端にまた定位置の如く腕を抱え込まれるものだから、右腕だけやたら温かかった。対して左腕はエアコンの空気に晒されてとても寒い。左右の温度差が酷いもので、無意識のうちに体が震えた。そうするとエイシンフラッシュがさらに深く腕を抱え込むので、さらに身動きができなくなる惨状だった。
「ちょっと離れない?」
「いえ、このままでお願いします」
そんな会話をしているうちに、三作目と四作目まで観終わった。すっかり外は暗くなっていて、残りを観終わる頃にはとっくに寮の門限なんて過ぎているだろう。帰りは寮まで送っていこうと、彼はひっそり考えていた。
トレーナーは残業で慣れているが、夜の学校というものは中々雰囲気があって怖いものだ。よく怪談話になるのは病院と学校が二大巨頭だろう。設備が新しいからかそういうものに縁遠く感じるだけで、普段あまり意識しないが、このトレセン学園にもそういった『いわく』のようなものは存在することをふと思い出した。
途端、いたずら心が鎌首をもたげた。
「そういえば知ってる? トレセン学園にも、幽霊とか怪奇現象とか、そういう噂があるってこと」
思い出されたのは三人のウマ娘。マヤノトップガン、マチカネフクキタル、マンハッタンカフェ。それぞれのトレーナーから聞いた話によると、全員明らかに霊現象としか言いようのない体験をしているという。特にマンハッタンカフェのところはすごいらしく、毎日のようにポルターガイスト現象があちらこちらで起きているらしいのだから驚きだ。
「勝負服が届く前に亡くなってしまったウマ娘の亡霊だとか、寮の地下に存在する寮長しか知らない地下牢だとか、その他色々。こんな時間だから、ちょっと考えちゃうよね」
「亡霊なんて、非現実的です」
いつしか学園の喧騒も消え、トレーナーとエイシンフラッシュ、二人の声だけが静寂の中に木霊する。廊下を通る人影はなく、誰もが既にトレーニングを終えたのかグラウンドにも誰一人姿は見当たらない。
「でも、もし今そういうのに見舞われたらどう?」
「そんなことあるはずがないでしょう」
「わからないよ。例えば、」
言って、彼は天井の照明を指さした。
「突然電気が消えるとか」
────瞬間、トレーナー室が暗闇に包まれた。
「……あれ?」
それが、今まさに話していた通り、照明が消えたのに由来するものだと理解するのにわずかな時間を要した。うっかり変なところに触ったかとスイッチを押しても、その暗闇が晴れることはない。
「……おかしいな」
「どうかしましたか?」
「いや、点かないんだよ」
すわ停電か、と考えた。見れば映像機器も全て止まっている。電気設備のトラブルの可能性が真っ先に頭をよぎった。これでは他のトレーナーも困るだろうなと同僚の姿を思い浮かべたところで、気がついた。
────周囲から、誰の声も聞こえない。
トレーナーは激務である。それこそ、夜遅くなっても誰かしらが各々のトレーナー室で業務に追われていることなど日常茶飯事のような職業だ。いつもトレセン学園はどこかしらの電気が点いていて、それが消えることなどそうない。であるならば、外から他のトレーナーの声が聞こえてきてもおかしくない……どころか本来そうであるはずなのに、周囲は
悪寒が背を撫でる。それはこの部屋に充満した冷気がそうさせたのか、奇妙な直観が働いた結果か。このままではいけない、というただそれだけが思考の海に湧き出した。
とりあえず誰かに連絡を取ろうとスマートフォンを取り出して、絶句した。表示は圏外。しばらく待っても電波状況は改善の兆しを見せることはない。地下鉄に乗っているわけでもエレベーターの中でもないのに、この府中でそうそう見ることのない文字を見て、トレーナーはこれが異常事態であることを悟った。
「……フラッシュ。ちょっとここにいてくれるか」
「トレーナーさんはどこへ?」
「人を探してくる。用務員さんとかなら、まあまだいるでしょ」
言って、トレーナーは扉に手をかけた。この時、何故か「他の誰かと合流しなければならない」とトレーナーは強く考えていた。一種、それは強迫観念と言ってもよかった。理屈と理由がないのに、それだけが脳を強く支配していた。
幸いにして、電波が通じなくてもそれ以外の機能に問題はないようだった。鍵を手に取り、スマートフォン背面のライトを灯して、トレーナー室から一歩踏み出す。後ろからエイシンフラッシュが何か言っていた気がするが、耳に入ることはなかった。
暗闇へ進む。宵闇へ進む。その先に、光はなかった。
一歩、二歩、一分、二分。しばらく進んで、思考が落ち着いた自覚を得る。どうして一人で部屋を出たのだろうと先の自分の行動に疑問が浮かぶ。
一人になって、
東京の夜は明るいという。排気ガスで空気が濁り、ビルの光で闇が晴れる。事実空を見ても星明かりは見えず、見えるのは際立って明るい一等星か、月程度だった。今宵の月は、わずかな赤を帯びていた。
「……本当に、誰もいないのか」
通過する部屋の一つ一つを覗き込む。見慣れた構造に、それぞれのウマ娘とトレーナーが持ち込んだであろう物が散見される個性豊かなトレーナー室は、まるで先程まで誰かがそこにいたかのような感覚を覚える様相だった。
そう、それは突然世界から人が消えたかのような。
あるいは、鏡の世界に閉じ込められたかのような。
世界に自分とエイシンフラッシュ二人だけになってしまったような錯覚にトレーナーは見舞われた。果たしてそれは本当に錯覚なのだろうかと自問した。もしかしたら、この赤い月の夜、本当にここには二人しかいなくて────
「……やめよう」
そんな不気味な空想をかき消して、また一歩前に踏み出した。
廊下に出てからやたらと寒い。どこから出ているかも知れない冷気が空間を満たす。それはさながら冷蔵庫の中にでもいるようで、トレーナーは鳥肌の立つ腕を
同時に後ろから響く足音。パタパタと急ぎ足のようなそれに、誰かと思い振り向けば、先程トレーナー室に置いてきたはずの顔が見えた。
「やっぱり、私も一緒に行っていいですか?」
この冷気の中で、羽織っていたジャージはどこに脱いできたのか、制服姿のエイシンフラッシュがそこにいて。心なしか、周囲が一層冷え込んだような気がした。
そうしてしばらく歩いた先、二人並んで覗き込んだ用務員室には、誰もいなかった。
◇◆◇
────その頃、トレーナー室では。
「……トレーナーさん、大丈夫でしょうか」
エイシンフラッシュが一人、椅子に座っていた。
彼女は先程のトレーナーの様子を思い返す。部屋を出ようとする彼の目はどこか虚ろで、まるでそこに本人の意思が介在していないように見えた。不安になって引き留めはしたものの、その声は彼の耳に届いていないようだった。
────何事もなければいいですが。
電気が消える前にしていた話を思い出す。トレセン学園の幽霊の噂。これまで数々のウマ娘やトレーナーが遭遇してきたというそれを信じるかと言われれば、エイシンフラッシュは信じない。
自分の目で見たわけでもないし、甚大な実害がそれで出たという話も聞いていない。唯一マンハッタンカフェのトレーナーだけは物理的な干渉を受けているらしいが、エイシンフラッシュ本人が聞いたわけでもないのでどこまでが本当かも知らない。
でも、もし、そういう類いの怪奇現象が実在するとして。それが自身のトレーナーに何か悪影響を与えているのだとしたら────放っておくなどできない。
────やっぱり、ついていきましょう。
決めて、立ち上がる。未だ冷気は抜けず、数時間前の安易な判断を悔やんだ。羽織ったジャージは手放さず、トレーナーの後を追おうと扉に手をかけようとして、しかしその扉の向こうからノックが聞こえた。
「フラッシュ、いる? 入れて」
その声はトレーナーのものだった。鍵を開けて外を見れば、先程出て行ったはずの彼がそこに立っている。中からエイシンフラッシュが見えたのを確認すると、すぐさまトレーナーは中に入り込み、鍵を閉めてしまった。
「どうしたんですか。人を探しに行ったのでは?」
「やっぱりそんな焦ることでもないかなって。それよりも、暗い中で分かれる方が不安になる」
尤もな意見だった。エイシンフラッシュとしては反対する理由もないので、特に何も言わず揃って椅子に座る。しばらく待っていれば復旧するだろうと彼が言ったから、この暗闇の中で大人しくしている以外無さそうだった。
普段は騒がしいトレセン学園も、こんな状況になってみると静かなもので。中々意識しない時計の針が時を刻む音も、今になればはっきりと聞こえる。
トレーナーが入ってきてから、部屋を満たす冷気が強くなった気がした。ジャージを掴んで引き寄せる。いくら昨今の五月が暑いとはいえ、さすがに冷房を効かせすぎたと、考えたところで、トレーナーがそのリモコンを操作しているのに気がついた。響いたのは、設定温度を下げる音。
この状況で何を考えているのかと思い、自身の方に向いた彼の右腕をそっと掴んだ────その瞬間。
ぬるり、と音が聞こえそうな感触がした。
「……え?」
触れたトレーナーの腕は、ぞっとするほど冷たかった。離した自分の掌を見る。黒い汚物にも似た、塊とも液体ともつかない粘性の何かが、掌にべっとりと付着していた。
考えてみればおかしな話なのだ。電気が点かない。停電の疑いあり。では何故、この部屋を満たす冷気は未だ衰えないのか。
トレーナーは出るときに鍵を持っていったはずなのに、どうしてわざわざ鍵を開けさせたのか。入れて、なんて言ったのか。気づいても、もう遅い。
掌から視線をゆっくりと上げていく。トレーナーの腕が見えた。エイシンフラッシュが触れていた箇所は、掌についていたのと同じ、黒々とした液体のようなものがついていた。否、腕が溶けてそれになっていた。ゆっくり、ゆっくりと、さながら体組織が崩壊していく様を見せつけるようにして、彼女が触れたところから黒く溶け出していく。やがてそれが腕を一周したとき、重力に逆らうことのないままそこから先が床に落ちた。床には、黒い水たまりが広がっていった。
エイシンフラッシュは、先程トレーナーから聞いた話を思い出していた。ラヴクラフトの書いた〝冷気〟という話。既に死を迎えている人間の肉体を、極低温で保存する、狂気の延命措置。その肉体は外気温に耐えられず、最後には溶け落ちてしまう。
ああ、ならば、今のこの状況も当然のこと。
トレーナーの顔をした、トレーナーの姿をした、トレーナーの声をした何か。エイシンフラッシュが視線を上に向けるとともに、なぞるように黒い侵食も上へと進んでいく。
恐怖に支配されながらも、目を逸らすことなんてできなかった。ずっと見ていなければ背後から襲われるかもしれないという不意打ちへの警戒もあるが、それだけではない。一番大きいのは、もっと純粋なもの。好奇心にも似た恐怖の形。ヒトがヒトの形を得たときから変わらず存在する原初の感情。それが、エイシンフラッシュを支配する恐怖の正体。
彼女がその目を〝それ〟の顔に向けたとき、そこには既に、彼と同じ顔はなかった。
「────ぃ」
水の滴るような音と、泥が落ちるような音。それに付き従うように、上から下へ、視界の中を得体の知れない汚れた何かが通り過ぎていく。
腐り落ちて、溶け落ちた、黒い汚物にも似た何かだけが、そこにはあった。
「いやあぁぁぁぁぁぁ────っ!!!」
絹を裂くような絶叫だけを残して、エイシンフラッシュの意識はそこで途絶えた。
◇◆◇
「今、何か聞こえなかった?」
用務員室に誰もいないのを確認して、トレーナーとエイシンフラッシュは来た道を戻っていた。リノリウムの廊下に靴の擦れる音だけが響く。
その中で、奇妙な音が聞こえた気がした。声のような、叫びのような。その正体をよく知っているはずなのに、不思議と思い至らない。そんな錯覚。
「いえ、特に何もなかったですよ」
隣を歩くエイシンフラッシュは、顔の横に手を当てて耳をそばだてる。それでも何も聞こえないのか、小さく首を横に振った。
そうかな、と小さくない違和感を抱える。それは今の彼女の反応に対するものか────いいや違う、
「ところでさ、さっきの話の続きなんだけど」
トレーナーは足を止める。それに続いて、少し前でエイシンフラッシュも止まった。振り返るその顔が、不気味な赤い月光に照らされる。
「トレセン学園には結構幽霊とか怪談とかの噂があってさ。これはマヤノトップガンのトレーナーから聞いた話なんだけど、以前噂を確かめようと夜の学校に忍び込んだ時、トウカイテイオーの姿をした幽霊らしきものと会ったらしい」
シンとした廊下に、トレーナーの声だけが響く。眼前の彼女からの返事はない。
「マンハッタンカフェの所にはたづなさんの声をした『何か』が来たらしいね。そういうのを鑑みるに、その怪異は人の姿を模倣するのが好きなようだね。まるで貌が無いみたいだ」
さながらパズルを解き明かすように、殺人事件のトリックを暴くように。怪奇現象という不可解な事象を、起きた事実によって固定する。
「では、その怪異が実在して、尚且つ誰かの姿を模倣するものだとすれば、真っ先にするべきことはなんだと思う?」
その声に確信が宿る。
模倣する怪異。容姿という判断材料を無に帰す存在が、科学や智慧の届かない超常的な力を持っているならば、目や耳はなんの役にも立たない。そこから得られる外見的情報は等しく無価値であり、身体構造までを写し取ることが可能であれば、精密検査でさえも何一つ意味を成さない。
だからこそ、トレーナーの出した結論は────
「隣の誰かを疑うことだよ」
即ち、
エイシンフラッシュの顔から一切の表情が抜け落ちる。驚愕や呆れによるものではない。間の抜けたものでもない。ただただ、そこにあるべき
普段トレーナーとエイシンフラッシュの間に漂っているような和やかな雰囲気はない。二人の間にあったのは緊張感。さながら外敵と相対したかのような空気だけがそこにあった。
「だからさ、フラッシュ。聞かせてくれ」
その緊張を打ち破るように、トレーナーが口を開く。冷気が一層強く肌を刺す。それ以上踏み込むなと、眼前の〝それ〟が警告している。そんなものを受け入れるほど、臆病じゃない。
「────君はいったい、誰だ?」
確信を持って、核心に迫る。
短く、しかし鋭く発されたその言葉は、たしかにエイシンフラッシュの姿をしたそれに突き刺さった。
目に見えてその動きを止める眼前のそれに、果たして思考する機能が備わっているのかはわからない。よく怪談話に出てくる幽霊なんてものは、生前の未練や何かしらの行動原理のみが備わっていて、ただ単一的な怪奇現象を繰り返すだけか、生きていた頃の残滓としての人格しか残されていないものだ。
エイシンフラッシュの姿をしてはいるが、これが過去の目撃証言通りに『相手の姿を模倣する』だけの存在なのか、それとも別の意図があっての手段に過ぎないのかは、トレーナーには判別できなかった。
「……いいえ、何を言っているんです。私はエイシンフラッシュですよ」
返ってきた答えは、そのトレーナーの考えを否定するものだった。
「まあ、自白するとは思ってないよ。
「だから、何を言っているんです。私は────」
「なら、なんで君はそんな格好をしている?」
指さしたのは、眼前のそれの服装だった。今の彼女が身に纏っているのは、トレセン学園の制服のみ。
言葉を交わす中で、冷気はさらに強くなっている。ともすればそろそろ氷点下にでも差し掛かるのではないかというほど強烈なもので、トレーナーは指先の感覚が鈍くなっているのを感じていた。
いくらエイシンフラッシュが寒いドイツ出身とはいえ、先程までトレーナー室のエアコンの温度でさえジャージを羽織っていた彼女が、この低温の中でわざわざそれを脱ぐだろうか。後ろから追ってきたのを見た時から、それがずっと頭の片隅に引っかかっていた。それが、最初の違和感。
「それに君、さっき耳を澄ますとき、どこに手を置いた?」
何か音が聞こえたとき、耳に手を当てるのは不自然な動作ではないだろう。周囲の音を集め、聞きやすくする。ウマ娘でも人間でも、それは変わらない。ただ一つ違うのは、聴覚器官の位置。
「ウマ娘の耳は頭上のそれだ。君がやったみたいに顔の横に手を当てたところで、意味なんてない」
「……」
「生まれたときからウマ娘であるフラッシュがそんなことするはずがないよね。……その怪異は、ウマ娘の真似に慣れてないのかな」
眼前のそれは動かない。対し、トレーナーは前に一歩踏み出した。互いの距離が、一歩分縮まる。
「俺をここまで連れてきたのは君だろ? 憑依とか、心を操るとか、そういうのありがちだよね。だったら、それを許した時点で俺の負けだ」
さらに一歩。
「ただ、出し抜かれはしたが、それ以上遅れは取らない。寒くなってきたし、そろそろ戻るとするよ」
さらに一歩。
「それと、さっきの音、本当はちゃんと聞こえてる。わからない気がするのなんて、全部錯覚だ。……3年間、一緒にいたんだ。間違えるはずがあるものか。フラッシュの声なら、どこにいても絶対届く」
さらに一歩。
その一歩で、彼我の距離はゼロになる。肩と肩が触れそうな、真横に並んだ二人の体。向いている方向は、逆だった。
「まあ、君が何だっていいけどさ。あまり〝こっち側〟に手を出しちゃダメだよ」
そうして、さらにその先へ踏み出して。眼前にあったエイシンフラッシュの姿を怪異を、後ろに見送って。
ゼロからイチになった彼我の距離。後ろにいるそれは、何も言わない。
振り返ることなく、トレーナーは進む。
月の光が揺らいでいる。怪奇現象が終わりを告げようとしている。ならば、ここで言うべき言葉は一つだ。
終わりを忘れた何かの残滓。終わりに置いていかれたかつての残骸。ヴァルドマアル氏に倣うのならば、告げてやるべきは、その末路。
「────君は、死んでいるんだから」
そして、後ろで水が弾けるような音が聞こえて。
月明かりが優しさを取り戻したところで、彼はトレーナー室へと急いだ。ついぞ、後ろを振り返ることはなかった。
◇◆◇
「……ん、ぅむ……ぅ……?」
エイシンフラッシュが目を覚ますと、天井が見えた。
見慣れた光景。トレーナー室。未だ晴れない暗闇の底。ぼんやりと意識が覚醒してきて、先程までの記憶が蘇ってくる。
黒い液体、汚物のような何か。それがこちらを見ていて、そこで倒れて────
「トレーナーさんは!?」
「あだぁっ!?」
急いで上半身を起こすと、額が何かにぶつかった。思わず痛みに目を閉じる。それに、悲鳴のような何かが聞こえた。恐る恐る目を開けてみると、暗い部屋の中、額の真ん中を赤くしたトレーナーが、そこにいた。
どうやらソファの上で膝枕の体勢になっていたようで、顔を覗き込んでいた彼と正面衝突したらしいことがすぐにわかった。
「お、おはようフラッシュ……」
「……トレーナーさん?」
「うん、トレーナーさんだよ」
そう言って、彼は優しく微笑んだ。3年間で見慣れた、彼の
「本物……ですよね」
「もちろん」
答えた瞬間、飛びついた。いきなりのことで制御もままならなかったのか、トレーナーは背中からソファに倒れ込んだ。その上で、彼の胸に顔をうずめる。触れた体温は、温かかった。
「……ごめんなさい……本当に、ごめんなさい」
出てきた言葉は謝罪だった。
涙が滲む。エイシンフラッシュの瞳から出た後悔が、トレーナーのシャツを濡らす。
「私が、ゾンビ映画を観たいなんて言わなければ……私が、くだらないことを言ったから……!」
発端はたしかにそれだった。
そもそも、エイシンフラッシュが映画を観たいと言い出したのには、二つ理由がある。一つは自分で言った通り、苦手を克服するため。有名なゾンビ映画を観れば、自分の中に巣食う恐怖を打破できるのではないかという気持ちがあった。しかしそれは、副次的に発生した小さい理由。大きな理由は、それではない。
そして、その大きな理由のもう一つは、トレーナーに触れるため。
恋しい人と触れ合うにはどうすればいいのか。トレーナーが自分を大切に扱っていることは、3年間を通じて痛いほど感じていた。決して自分から触れようとはしない。どんな状況であっても、彼は指一本触れることはなかった。
手を繋ぎたい。腕を組みたい。抱きしめてもらいたい。そんな想いが募っていって、ある日友人に相談した。いったい、どうすれば自然に触れ合えますか。
誰よりもカワイイその子は、そんなの簡単だよと、あっけらかんとして言った。
────ホラー映画とか観たことある? 怖いフリして抱きついちゃえばいいんだよ。
結果、実行されたのが今日の顛末である。
実際それは間違っていなくて、ゾンビに対する恐怖は本物だったから、つい観ている最中に彼の腕にしがみついてしまった。あえて部屋の温度を下げることで、傍に寄ってもおかしくないようにした。女の子からするのははしたないと思いもしたが、観ていく中でそれも有耶無耶になっていた。その時は、満足感と充足感でいっぱいだった。
その後は、後悔しか残らなかったけれど。
ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返す。涙が止まることなく溢れてくる。このままでは彼のシャツを汚してしまうとわかっているのに、縋り付くことがやめられない。本当に、弱い私でごめんなさい。
トレーナーの顔を見ることができなかった。恥ずかしくて、情けなくて、こんなくだらない
「……謝るのは俺の方だよ」
その時、頭に何かが触れた。
優しい体温。ゆっくりと前後するそれは、不思議と安心する温度をもっていて。柔らかく、どこか硬いところもあるそれが、トレーナーの手だと気づくのに、時間はかからなかった。
慈しむように、愛しむように。彼はエイシンフラッシュの頭を撫でていた。
「俺が間抜けだった。一度でも怪異に出し抜かれて、君に怖い思いをさせた。ならこれは、俺の失態だ」
エイシンフラッシュの嗚咽が止まる。ゆっくりと顔を上げれば、彼の顔に責めるような色はなかった。
「君が後悔するのは、俺の力不足だ。君にどうにもならないことがあるなら、俺がどうにかする。君が怖れるものがあるなら、俺が守る。……今までだってそうしてきたんだから、今も、これからもそうすればいいだけだよ」
それは、トレーナーとしての責務だった。
大人として、指導者として。迷い、悩み、苦しむウマ娘に道行きを示す。未だ精神的な成熟を迎えないにもかかわらず、世間の矢面に立つことの多い少女を導くのだから、その役目には盾さえも含まれる。
子どもではどうにもならない理不尽は、大人がどうにかする。襲い来る理不尽と火の粉は、降り掛かる前に払い除ける。
……今回こそ、多少手遅れだったかもしれないが。最悪の事態に至る前に解決できたのだから及第点だろう。
「それに、こうして君は無事だった。なら、それに越したことはない。……本当に、何事もなくてよかったよ」
浮かんだ表情は、心からの安心。
対して、エイシンフラッシュの瞳に再び涙が滲む。それは後悔によるものではない。自分がこうまで思われているという証明が、大切にされているという実感が、何よりも嬉しかったのだ。
顔を伏せて、トレーナーの胸に額を当てる。響く心音は、生きている証。そっと背中に手を回して、誰よりも愛しい人を抱き締める。トレーナーはそれに気づいたようだが、何も言わずに受け入れた。
その時、電気が数度点滅し、点灯した。暗闇だった部屋に光が戻る。お、と小さく反応して、トレーナーはエイシンフラッシュの背中を軽く叩いた。
「点いたね。フラッシュ、そろそろ……」
「……もう少し」
「……?」
胸の上の彼女から返ってきたのは、そんな言葉。顔を上げず、ただゆらゆらと左右に揺れる尻尾だけが、彼女の感情を表していた。
「もう少し、このままがいいです」
「……ん、いいよ」
そうして、しばらく二人抱き合って。
その優しい抱擁は、しばらく続いた。
◇◆◇
「あ、フラッシュさんおかえりー」
すっかり夜も更けた頃、エイシンフラッシュは寮の自室へと戻った。部屋の中ではスマートファルコンが寝る準備をしていたのか、既に着替えていた。遅くなりましたと一言告げて、せめてシャワーでも浴びようと着替えを持った。
その中で、自分の右手を見る。そこに黒い何かの痕跡はない。目覚めた後、トレーナー室を見回しても、床にそれらしき跡はなかったのを覚えている。
果たしてあれは夢だったのか。ゾンビ映画に怯えすぎて気を失った末に見た悪夢だったのか。そう思いたいけれど、それでは説明のつかないことがあるのも事実だった。あの時感じた恐怖は本物で、触れた怪異は現実で。臭いは残っていなくても、まだ脳が覚えている。
トレセン学園には怪異の噂が多い。これからは、その中に『冷気の怪物』が加わることだろう。自分がその第一発見者になってしまった事実はなんとも受容し難いが、起きたことは覆せない。物語の怪異が現実に出てくるなんて、まるでアメリカの児童書みたいだと思いながら、制服を脱いでいく。
恐怖の記憶を思い返すと、同時にトレーナーの言葉も蘇ってくる。今日の体験は紛うことなくエイシンフラッシュの中に消えない傷を刻んだが、悪いことだけではなかった。今まで以上に、トレーナーから嬉しい言葉をもらったから。
────俺が守る。俺がどうにかする。これからもずっと……
「えへへ……あれもうプロポーズですよね」
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端にかかり気味になるウマ娘だった。鍛えた賢さはどこへいったの?
映画を観て腕を組んだ。怪異から解放されて抱きしめてもらった。頭を撫でてもらった。プロポーズにも似た言葉をもらった。それだけで、恐怖を上書きできるほどエイシンフラッシュは幸せだった。
赤くなった頬に手を当てて、緩んだ口元を隠すことなく笑みを浮かべる。たしかにとんでもない事態の連続だったし、体験した恐怖が記憶から消えることはないだろう。でも、その前後にあった幸せに比べれば、それのなんと小さなことだろうか。愛の前にはあらゆる怪異は無力なのである。
シャワーの熱い雫が肌を打つ。冷気に晒されて冷えた体に熱が満ちていく。それはまるで、心の充足が体に伝播しているようだった。
これはもう、作戦は成功したと言ってもいいだろう。ホラー映画を観て距離を縮めるというカワイイ友人の案は見事に成果を挙げた。これは今度改めてお礼が必要だと、エイシンフラッシュは心に決めた。
今日の事件を受けて、二人の心はより深く繋がったと言っても過言ではない。何せ、エイシンフラッシュが離れたくないと願ったのを優しく受け入れてくれたのだ。今までは触れることさえままならなかったというのに。素晴らしい進展だった。上手くいけば、このままもっと関係を進めることだって可能だろう。エイシンフラッシュはまだ見ぬ未来の予定を脳内で組み立て始めた。
次はどうしたい。次はこうしたい。恋の進みにスケジュールなんて意味はないが、思い描くだけならいいだろう。次は────
「トレーナーさんから、好きって言ってもらいたい……」
想いはわかっているけれど、やっぱり言葉で示してほしい。
シャワーを止める。雫の滴る指先を、唇に這わせた。
いつか、ここに触れてほしい。言葉だけじゃなくて、あふれる想いを形にしたい。はしたないと思われようと、その願望はたしかにあった。
それが結実するのはいつになるだろう。トレーナーは何だかんだで真面目な人だから、在学中はきっとダメだ。でも、焦ることなんてない。有マ記念のときに今後10年は保証されたのだから、その間ゆっくりと進んでいけばいい。残された時間は、まだまだある。
着替えて部屋に戻った。既にスマートファルコンは布団を被っている。予期せぬ事態の連続で今日のスケジュールは全てご破算だが、それは今後取り返すとしよう。
電気を消して、布団に潜る。恐ろしい暗闇も、慣れれば日常の一部でしかない。できればトレーナーさんが夢に出てくるといいな、なんて思いながら目を閉じれば、エイシンフラッシュの意識はただ沈んでいくのみだった。
……と、思っていたのだが。
「……すみません、ファルコンさん。今日だけ一緒に寝てもいいですか……?」
結構しっかりトラウマになっていたエイシンフラッシュだった。
◇◆◇
エイシンフラッシュを寮まで送り届けて、トレーナーは再びトレセン学園に戻った。時刻は22時近く。外から見た学園は、未だいくつか窓から明かりが漏れていて、トレーナーはようやく現実感というものを得た気がした。
「……さて」
ただ一つ、隅に置かれた黒いビニール袋を除いて。
「これどうしようか」
入っていたのは、黒い汚物のようなものだった。液体とも塊ともつかない、腐敗した体組織に似た何か。このトレーナー室の床に広がっていたそれを、エイシンフラッシュが目覚める前に急いでかき集めるのは骨が折れる作業だったと、トレーナーは自分の手を見つめて思い返した。
先程起きた一連の現象は違うことなき現実である。トレーナーを誘い出した怪異を振り払い、エイシンフラッシュの周囲に散乱するこれを掃除し、彼女の手や足に付着したものを拭き取った。服までは汚れていなかったのは幸いだろう。
トレーナーは、自分の担当がこれから怯える夜を過ごす羽目にならないかと心配になった。さすがに怪異による心の傷を癒すメンタルケアのやり方は誰も教えてくれていない。頼られれば可能な限り寄り添うつもりだが、自分がどこまで力になれるかは自信がなかった。
そういえばと、彼は今日のエイシンフラッシュの様子を思い出す。あまり娯楽などに通じているイメージのない彼女だったが、苦手だというゾンビ映画を大量に持ち込んだあたり、誰かに教えてもらったのだろうか。彼女の友人関係でホラー映画に造詣が深い子はいただろうかと考え、とある芦毛のウマ娘が思い浮かんだ。
────なんか今日のフラッシュ変だったな。
お前の担当いつも変だよ。
何か、らしくないとでも言えばいいのか。普段ならあまりしないような行動が目立っていたような気がした。冷房をやたら下げたり、腕にしがみついてきたり、特に目についたのは目を覚ましてからのことである。
自責と後悔の念に苛まれていたあの時。胸に縋り付く彼女を見て、何も思わなかったわけではない。少女の涙を見て何も思わないほど、トレーナーの心は凍っていない。つい頭に触れてしまったのは、腕の中の彼女が痛ましかったから。
そして、明かりが点いた後。離れようとしないエイシンフラッシュを見て、まだ傍にいたいとでも言いたげな「もう少し」を聞いて、トレーナーさえその心を察した。
年頃の女の子が異性に触れる理由。そんなの、あの状況では一つしかない。そう、それこそは────
「よっぽど怖かったんだな」
怖いのはお前の頭だよ。
トレーナーはエイシンフラッシュが恐怖で人恋しくなっているだけだと思っていた。一人になるとまた恐怖がぶり返してきそうだから、最も身近で頼れる大人の側に居たがっているだけだと思っていた。そもそも彼女がゾンビ映画を持ち込むことになった思惑など、一切知る由もなかったのである。
トレーナーは本気でエイシンフラッシュが苦手を克服するためにゾンビ映画を持ってきたと思っているし、観ている最中ずっと腕にしがみついていたのは怖いからだと信じていた。せっかく勇気を出したのに不運だったなと、見当違いなことばかり考えていた。今まで以上にメンタルケアには気を遣おうと、彼は強く決意した。
その思いやりをもっと別のところに使え。
今後トレセン学園でホラー映画を観るのは控えることにしようと思いながら、彼はビニール袋を持ち上げる。その重さは人間一人分あるだろうか。それにしては軽い気もするし、相応の重さなようにも思えた。
噂話や怪談は怪異を引きつけると言う。談笑の中のそれならいいかもしれないが、やはり学校という場所が
引き摺るようにビニール袋を持ち出して、トレーナー室から外へ出る。これゴミ捨て場でいいのかな、なんて暢気なことを考えながら鍵を閉めた。
「……見た目は完全に死体遺棄だよなあ、これ」
どうか誰にも見つかりませんようにと、三女神様に祈って。
窓から差し込む月光は、優しい蒼白の色だった。
あの世界普通に怪奇現象起きますよね。そもそもウマソウル自体が怪奇現象。
この戦いの最終的な勝者は?
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エイシンフラッシュ
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トレーナー
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ダークライ
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その他