【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ   作:かむくら

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 バレンタインフラッシュ天井。


不実を案ずエイシンフラッシュ

 遠く、遠く、まだ遠く。

 

 走り抜けた先に待っていたのは、新たなる挑戦への道だった。

 

 星を探して。星を求めて。彼方に輝く星に手を伸ばして。

 

 ずっと願ったその栄光に手が届いて、誰もが羨む光に照らされて。それで終わったと思ったのに。

 

 ああ、こんなことを言ったら叱られてしまうかもしれないけれど。

 ああ、こんなことを言ったら怒られてしまうかもしれないけれど。

 

 その栄光は。

 その栄冠は。

 その栄誉は。

 

 それは、たしかに輝かしいものではあったけれど。

 

 ────願ったものにはまだ届かず。

 ────彼方の星は、まだ消えない。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 夏には魔物が棲むという。

 

 夏。地球が太陽の周りを公転する時間を分割した二十四節季の内の一時期。日本の四季の一つ。気温が上昇し、太陽の光が強く照り輝く季節である。

 

 多くの学生にとって、夏は待ち遠しいものだろう。夏休み、一夏(ひとなつ)のアバンチュール。ある人はまだ見ぬ出会いを求めて新天地へ駆け出し、ある人はいつかの未来を見据えて知識を蓄え、またある人は太陽を嫌って溶けるアイスを齧る。

 

 しかし、トレセン学園に所属するウマ娘にとって、夏は休養の季節ではない。むしろその逆で、世間が夏休みやお盆を謳歌する中、彼女たちは新たな成長のために強化合宿に精を出す。それは勿論、エイシンフラッシュも例外ではなかった。

 

 七月。春シニア三冠最後を飾るグランプリを終え、ウマ娘レースの熱がひと段落した、そんな日に。

 未だトゥインクル・シリーズの最前線を走り抜ける彼女が、学友兼ライバルたちと砂浜でやっていたことと言えば────

 

「問題。アルベール・カミュの」

「異邦人!」

「ですが」

「あぁ〜!」

「それと同じく不条理文学の傑作として知られるフランツ・カフカの、ある日朝起きた男が毒虫になっている」

「変身!」

「の主人公の名前は?」

「誰がこの問題答えられるんですか。グレゴール・ザムザですね」

「正解!」

 

 クイズ大会だった。

 

「ああ全くよー! なんだセンター試験の世界史みたいな問題の出し方しやがって!」

「問題文を最後まで聞きましょう、と言いたいところですが早押しですからね。出題者側の意図に引っ掛かってしまったわけです。それと、今は大学入学共通テストですよ」

 

 クイズ番組のようにやたら本格的なセットの上で一喜一憂しているのは、ゴールドシップとエイシンフラッシュの二人。問題を読み上げているのはナカヤマフェスタだった。

 夏、砂浜、青い海。トレセン学園指定のスクール水着を身に纏い、三人揃って冷たい潮の横でクイズ大会に勤しんでいる。ふと視線をどこかへ逸らせば、その先では幾多のウマ娘がそれぞれこの地を活かしたトレーニングに励んでいる。

 

「お疲れさま、フラッシュ」

 

 声のした方を見ると、トレーナーが立っていた。脇にはクーラーボックスを抱えていて、そこから数本のドリンクを取り出しエイシンフラッシュ達に渡す。いくらハードな運動を伴わないからといって、直射日光の下に長時間いれば相応の消耗は必然だった。喉を通る液体は仄かに冷えて、火照った身体に染み渡るようだった。

 

「調子はどう?」

「万全です。ですが、一つお聞きしたいことが。以前から疑問だったのですが……」

 

 ドリンクのキャップを閉めて、エイシンフラッシュはその凛然とした瞳を、先程まで自分が立っていたステージに向けた。

 

「何故砂浜でクイズ大会を?」

 

 もっともな疑問だった。

 

「伝統らしいよ」

「クイズ大会が……?」

 

 当然の反応だった。

 

 当たり前のことだが、砂浜は普段走る芝とは違う。パワートレーニングの際に使用するダートコースのように、脚を取られやすい柔らかい砂が一面に広がっている。硬い足場よりも接地したときの反発が少ないため、素早い動作を行わないと満足にスピードを維持することもできず、バランスを取るのも困難であるからそういった感覚も鍛えられる。

 そんな天然のトレーニング施設のような場所にいれば、その効果に期待したメニューを行うのが自然なところだ。エイシンフラッシュもその旨を伝えたのだが、

 

 ────ダメ。まだこの前の疲れが抜けてないでしょ。

 

 という一言で一蹴されてしまった。

 

 この前。示すところは、つい先日行われた宝塚記念である。

 トレーナーの考えていた通り、ファン投票により決定されたメンバーの中にエイシンフラッシュは入っていた。春の三冠を締め括る王者決定戦(グランプリ)に集った面々は錚々たる顔ぶれであり、当然その戦いも熾烈を極めた。

 その結果は────強いて言うのであれば、F・チャンピオンの称号は伊達ではなかった、とだけ。

 

 疲れが抜けていないというのは実際その通りであり、夏合宿が始まって少し経った今でも、僅かな脚の重さは感じられる。七月後半からはスタミナ重視のトレーニングに切り替える指針とトレーナーは言っていたから、エイシンフラッシュは大人しくそれに従った。こと身体については、他ならぬ自身よりもトレーナーの方が詳しいことを、彼女はこの数年でよく知っていた。

 

 が、それはそれとして。

 

「あのクイズ大会、不思議なんですよね。柄ではないとわかっているのですが、何故か正解すると全力で喜びたくなります」

「ああ、それは昔からの謎だよ。あのナリタブライアンやナリタタイシンでさえ、正解後の大喜びからは逃れられないと評判だからね」

「最早洗脳では?」

 

 クール、無愛想、切れたナイフ。触れれば切るとばかりに剣呑なオーラを放つウマ娘でさえも、このクイズ大会の魔力に呑まれれば両手を上げた全力のバンザイから逃げることはできない。エイシンフラッシュはそれらに比べればノリのいいウマ娘であったが、それでも奇妙な体験には他ならなかった。

 

「というか、誰が考えたんですかあの問題。答えられる人いるんですか」

「君じゃないかな」

 

 理解できないとでも言いたげな表情を浮かべる彼女の言葉を、トレーナーはその一言で両断する。事実彼女のように博識で答えられるウマ娘がこれまでにもいたからこそ、あのような誰が知っているのかもわからないような情報を後出しで提示していく早押しクイズが(まか)り通っているのだろう。ゴールドシップも答えは知っていたようであるから、一部のウマ娘がそういった雑学にやたら強いことも、またこの賢さトレーニングが続けられる理由の一つであった。

 

「それにしても、グレゴール? グレーゴルじゃなかった?」

「Gregorの発音としてはどちらも正解です。発音記号で表記したとき、長音記号をつける場所が二通りあるので、表記ゆれの範疇ですね」

「そう。君が言うならそうなんだろうね」

 

 小さな疑問ではあったが、他ならぬネイティブであるエイシンフラッシュがそう言うのだから、そういうものだと納得した。

 こうしてエイシンフラッシュと海で過ごすのも、今回で三回目。夏の日差しが欧州人らしい白い肌に照っている。日焼け対策はしているのだろうが、三回目となっても海辺の環境にはあまり慣れないようだった。

 

「暑そうだね。ドイツに海はないんだっけ?」

「北に行けばバルト海がありますが、日本のように泳ぐことはあまりありません。北ドイツの海風は強いので、砂浜に屋根のある簡易的なベンチを置いてそこで過ごすのが一般的です」

「なるほど。となると、君にとって夏に海で遊ぶなんてのは馴染みがないわけだ」

「母国にいた頃も海に行くことは中々ありませんでしたから」

 

 海を眺めて彼女は言った。

 青い空と青い海と、そこで水と戯れる乙女の姿。白い砂浜はドイツにもあったが、そこに並んでいたのは〝シュトラントコルプ〟と呼ばれる(ラタン)で編まれた屋根付きの箱のようなものばかり。幼少の頃に見た砂浜は、風と人工物に包まれた灰色の記憶だった。

 

 日本に来て初めて、海の日差しとは暑く、水に触れることは楽しいのだと知った。

 

「俺は生粋の日本育ちだから、海は結構慣れ親しんだものだよ。とは言っても、港町の生まれというわけではないけど」

「島国ですからね」

「そう。俺にとって、海はずっと〝ラ・マール〟だった」

 

 ラ・マール。エイシンフラッシュには聞き慣れない言葉だった。どこかの言語ということはわかったが、それがどこの言葉かはわからなかった。

 

「スペイン語だよ」

 

 トレーナーは言った。

 

「〝老人と海〟で知った」

「ヘミングウェイの?」

「そう。名前くらいは、きっとみんな知ってると思う」

 

 〝老人と海〟。

 アメリカの作家アーネスト・ヘミングウェイによるベストセラー。出版の翌年にピューリッツァー賞を、さらにその翌年にノーベル文学賞を受賞し、ヘミングウェイの代表作として今なお高い人気を誇り続ける名著である。

 キューバの漁師である老人サンチアゴと、老人を慕う少年マノーリンは、マノーリンの両親の言いつけにより、不本意ながらも別々の船に乗って漁に出ていた。老人は84日も続く不漁に喘いでおり、そんな中でかかった巨大なカジキと3日の死闘を繰り広げたのち、せっかく捕まえたそのカジキをサメに食い尽くされてしまうというのが、〝老人と海〟の大まかなあらすじだ。

 その執筆期間はわずか六週間ほどと見られており、その六週間は、かつてヘミングウェイが妻のメアリーとのイタリア旅行中に出会った、アドリアーナ・イヴァンチッチという旧家の娘をキューバの居宅に滞在させていた時だった。

 

「海は好きだよ。昔から、夏になるとよく行ってた」

 

 ラ・マールは、海を表すMarに冠詞の女性形laをつけた形である。スペイン語で海を女性扱いしてそう呼ぶのが、海を愛する者の(なら)わしだった。反対に、海を競争相手か、仕事場か、敵のように見なす輩は、海をエル・マールと呼んだ。このエルは、冠詞の男性形のelである。

 

「小さい頃は親と、学生の頃は友人と、そして今は君と海に来ている。俺にとって海は思い出の場所で、縁深い場所なんだ」

「仕事場ではないのですね」

「今は仕事場かもね。それでもきっと、俺は〝ラ・マール〟と呼ぶよ」

 

 トレーナーは、別に港町の生まれというわけではなかった。極々平凡な街の一角に生を受けた、ただの一人の男だった。

 海に特別な思い入れがあるわけではない。夏になると話題に挙がる海派山派論争では海側に立っていたが、それはどちらか片方に特別な思いがあるわけではなく、ただ単に登るより泳ぐ方が好きだというだけの話だった。

 

 幼少の頃、親に連れられてやってきた海は恐怖と好奇心の対象だった。打ち寄せる波は子どもの身には高く、呑まれれば自身が藻屑と消える巨大な影としてそこにあった。

 それでも、楽しいものだった。足はつかない。手は届かない。水平線には辿り着かず、世界はどこまでも続いているように見えた。

 

「子供心に釣りも好きになった。漁師に奇妙な憧れも抱いたよ」

「だから〝ラ・マール〟と?」

「そう。あの頃の気持ちは、今もたまに思い出す」

 

 言って、彼は海を眺めた。視線の先に広がるのは、果ての見えない蒼い空と海の境界線だった。世界の果てがあるのなら、そこはきっと、美しい青色をしているに違いないと思った。

 

「こうして大人になって、立場は違えど毎年海に来られるようになった。海派にとっては幸せなことだ」

「トレーナーさんは泳いでないですけれど」

「仕事だからね。羽目を外すわけにはいかない」

 

 大人だからね、と彼は続けた。はは、なんて笑っていたが、その表情にはどこか一抹の寂しさのようなものが見えた。

 幼年期の終わりは誰にでも訪れるもので、3年間隣にいたエイシンフラッシュも、出会う前の彼を知らないことに今更気がついた。トレーナーが〝トレーナー〟になる以前、どこでどうやって生きていたかなんて、考えてみれば何も知らなかった。

 

「とは言っても、貴方には、貴方が思っているよりずっと子どもらしい一面があるかもしれませんよ」

「そうかな」

「ええ。だって、見てきましたから」

 

 ────それならそれで、構わない。

 

「きっと自分で思っているよりも、貴方は隙が多いんです」

「……ほんとに?」

「ええ。本当に」

 

 最初に出会ったとき、彼は〝大人〟だった。きっと、今も〝大人〟ではある。

 自分より少し年上で、自分より少し物を知っていて、自分より少し頼り甲斐がある。でもたまに下手を踏むことがあって、たまに感極まってしまって、たまに子どもっぽい。それをなんとか隠そうとしているように見えて、気が緩むとふと出てくる一面(カオ)がある。

 

 伊達男のように振る舞うくせに、アドベントカレンダーに何が入っていたか聞いたら、楽しそうに「グミだった!」なんて答えるのだ。そんな一面が見られるようになったことが信頼の証だとしたら、それでよかった。

 

「あなたはサンチアゴにはなれない」

「手厳しいね」

「〝エル・カンペオンのサンチアゴ〟は、きっとウマ娘にも腕相撲で負けませんよ」

 

 小さく笑って、エイシンフラッシュは自分の右腕を差し出した。手のひらを上にして、日の下に晒された白磁の肌を見せつけるかのようだった。

 

「試してみますか?」

「イジワルだよ、それは」

「ええ。誰かさんに似て」

 

 悪戯っぽく、彼女は笑った。眼前の彼のことを子どもらしいと評しておきながら、その笑みの方がよほど子どもらしいように見えた。

 

 トレーナーは彼女の笑みと差し出された手を一度か二度交互に見遣る。そして、その手を握り返した。

 

「なら、今はこれで」

 

 繋がれた手にわずかに力が入る。接した手のひらから奇妙な熱が伝わる。体温とは違う何かが、その間にあった。

 

「勝負となったら君には勝てないからね」

 

 言って、彼は手を解いた。

 

「和解……友好? 握手はそういうものだろう」

「ここでの意味は白旗ですよ」

「ならそれでいい。君に勝ちを捧げるよ」

 

 解いた手を、また触れ合わせる。握るのではなく、下から重ね合わせるように。さながら淑女のエスコートをするかのような、紳士の振る舞い。

 

「ああ、でも。君にとって、勝利は捧げられるものではなく掴み取るものだったかな」

「貴方が私を勝たせてくれるという意味なら、たしかに貴方に捧げられるものではありますが」

「それもそうかもね。君に勝ちを捧げ続けてきたし、」

 

 彼は触れ合わせた手を軽く上げた。

 

「この手で、その足で、君と掴み取ってきた」

 

 そう言う彼は砂浜を見ていた。その目に過去が映っていたのを、エイシンフラッシュは見た。

 

「懐かしいね。スマートファルコンに連れられてどこかの砂浜へ行ったのも、もう一年半前だ」

 

 一年半前、シニア級に上がりたての、一月の出来事。

 エイシンフラッシュが走るはずのシニア級GⅠ戦線に突如として名乗りを挙げた歴代の強豪ウマ娘たち。クラシック級でのジャパンカップと有馬記念に始まり、直近のレースでは出走を控えていた面々がどういうわけか立ちはだかった。

 形容するならば、まさしく〝壁〟。中には過去に同レースの優勝経験があるウマ娘もおり、厳しい戦いになることは目に見えていた。それほどまでに、彼女らの参戦は強烈なものだった。

 

 そして、それに対して当時のエイシンフラッシュが選んだ道は────GⅠ戦線の回避。

 

「勝てる勝負に勝つのではなく、理想に挑んで掴み取る。君とここまで駆け抜けた道の過程に、あの砂浜がある」

 

 だが、それが彼女の為になるとは、トレーナーには思えなかった。

 『勝てる』から『勝つ』、そうして得た物に何の意味がある。

 完璧を求め続けたエイシンフラッシュが。

 理想を求め続けたエイシンフラッシュが。

 自ら定めた完璧な理想(スケジュール)から目を背けることを、彼は許容できなかった。

 

 だからこそ、当時のトレーナーが選んだ道は────エイシンフラッシュに挑み、負けること。

 ただの人間がウマ娘に勝てるわけがない。そんな当然を叩きつけて、それが嬉しいのかと訊いた。彼女から返ってきた答えは、当然のように否だった。

 

「……恥ずかしいですね。過去の愚かな自分が、まだ貴方の中にいるのかと思うと」

「俺の中にいるんじゃなくて、俺の記憶の中にいるんだ。三年前、君と出会ったときのことだって昨日のように覚えているんだから、たった一年半前のことなんて忘れるものか」

 

 青い海を見るたび思い出す。白い浜を見るたび思い返す。あの日の勝負を。100バ身差つけられて負けた、なんて言って息を切らしたあの光景を。そうして彼女から『負けるのが恐い』という本音を聞き出したときの、震える声を。

 

「君との記憶は忘れない。これまでも、これからも。ずっとずっと先までね」

 

 触れ合った手が離される。二人の体温の間にあった熱が、夏空の下に溶けていく。

 拠り所を失ったエイシンフラッシュの右手は、まだしばらく下ろされることはなかった。少しして、右手を自分の左手で胸元に包み込むようにして下ろした頃には、既にトレーナーの瞳は過去を映していなかった。

 

「まあそれはそれとして。勝てる可能性のある勝負に挑まないのはダメだけど、最初から勝てない勝負に挑むのはまた別の話だよね」

「台無しですよ」

「誰かさん曰く、俺は子どもっぽいらしいから。そういうことを言ってしまうときもある」

 

 それこそ、本当の子どものように小さく舌を出して。

 トレーナーは笑った。無垢な笑顔がエイシンフラッシュに向けられていた。

 

「さすがにウマ娘相手に力勝負を挑むのは、俺みたいな一般人には無理がある」

「勝てるかもしれませんよ?」

「ほら、またイジワルだ。勝てる見込みがあるなら俺だってちゃんとやるけどね。……君相手には、力でも頭でも、勝てる気はあんまりしないな」

 

 右腕に力を込めて、力瘤(ちからこぶ)を作ってみる。たしかにただの成人男性としては立派に見えなくもない山が二の腕の上にできていたが、それでウマ娘に敵うとは思えない。「ね?」と、肩を竦めておどけるように彼は言った。

 

「それも当然かもしれませんね。何せ、私は貴方が育てたウマ娘ですから」

「そう言ってもらえると誇らしいね」

「私も負けるつもりはありませんよ。これからもずっと、貴方との勝負があるのなら勝つつもりでいますから」

 

 事実、エイシンフラッシュの言葉に嘘はなかった。

 同様、トレーナーの言葉にも嘘はなかった。

 

 ウマ娘と人間の間にはほぼ隔絶していると言っていいほどの膂力の差がある。人間はトン単位の重量のトラックを持ち上げられないが、ウマ娘なら可能である。また、ウマ娘が日頃筋力トレーニングで使用している超巨大タイヤは約5トンの重量があり、それを胴体に縄で括り付けて引いてしまうのだから驚きだ。単純な力勝負となったら、トレーナー程度であれば片手で抑え込めてしまう。

 

 が、それは単純なフィジカルの話。頭脳面でなら出し抜けるかもしれないが、エイシンフラッシュに限ってそれもまた期待できない。彼女の頭脳は他のウマ娘や人間と比べても抜きん出ていて、知恵比べであっても勝ちの目は薄いのである。

 

 もっとも、彼女がそこまで至ったのも、一人では成し得なかった偉業だ。

 

「よくもまあ、そんなに強くなってくれて」

「ええ、頂点に立てるくらいには」

「言うね。たしかに、今の君は挑戦者(チャレンジャー)ではなく応戦者(ディフェンディング・チャンピオン)だ。挑まれる気分はどう?」

 

 かつてのような勝者たちに戦いを挑む立場から一転して、今のエイシンフラッシュに与えられた肩書きはF・チャンピオンである。

 中距離部門の頂点。数多のレースを乗り越えて、幾多の勝利を積み重ねて、たった18人集った史上最高の舞台。彼女の脚はそれを制した。時間にして3分足らずの戦場を、永遠の結果にした。刻みつけられた蹄跡に変えた。ただ、エイシンフラッシュという名前だけをそこに残した。

 

 敗北したこともある。一度や二度ではない。怪我をしたこともある。予定の修正を余儀なくされた。

 もっと、ずっと、多くの苦汁を舐めてきた。挫折の数なら、あの舞台に立ったウマ娘の中でも上位だろう。それでも、立ち上がることだけはやめなかったから、ここにいる。

 

「これから先、君は憧れられる側だ。君のようになりたい、という()もきっといる」

「そして、そういう挑戦者の前に、私は立ちはだかるのでしょう」

「そういうこと。きっと恐いぞ。予定に厳しい頑固者の魔王だ」

「魔王は挑まれるものではなく子を攫うものですよ。少なくとも、私にとっては」

 

 ゲーテならそうですから、と彼女は言った。

 

愛らしくも心ひくそなたの美しき姿よ(Ich liebe dich, mich reizt deine schöne Gestalt;)

 進みて来ずば、力もて引き行かん(Und bist du nicht willig, so brauch ich Gewalt.)。」

「腕が疲れそうだ」

「ピアノを弾くのであればそうでしょうね」

 

 トレーナーの脳裏には激しく鳴らされるピアノの音が響き渡っていた。「お父さん! お父さん!」と叫ぶ少年の姿を幻視する。その背後からは、王冠を被り裾を棚引かせる魔王(エイシンフラッシュ)が追い縋っている。想像すると奇妙な光景だった。

 

「君に魔王は似合わないね」

 

 脳裏に浮かんだ姿は、魔王というには可愛らしすぎた。子どもを誘うのに甘いお菓子を手に持っていそうなイメージの中の彼女は、さながらハロウィンの仮装のように独特の〝ゆるさ〟がある。これでは命を持っていくことなど出来ようはずもない。

 

「まあ、挑まれる立場であることは変わりない。君も、あるいは俺も」

「貴方も魔王になってみますか?」

「サンチアゴの次は魔王か。似合う?」

「いいえ、全く」

 

 即答だった。精一杯顔を顰めて悪い表情をしようとしたが、エイシンフラッシュはそれを「似合ってないですよ」と一言で両断する。誰より近くで見てきた彼女がそう言うのだから、きっとそうなのだろう。トレーナーはそれで納得することにした。

 

 もう一度海を見た。どこかの岩間で波が弾ける音がした。

 

「……俺は、いつまで挑まれる立場でいるのかな」

 

 ふと、視界が未来に向いた。

 

「いつまでトレーナーをやっているんだろう。50年後の俺は何をしているのかな」

 

 溢すような言葉に、大した意味はなかった。

 ただの疑問。真剣なものではない。ふとした瞬間に脳裏を(よぎ)るような、いつかの話。何となくで想像したくなる、漠然とした未来像。

 

「君が現役である限りは、俺は挑まれる側だ。でも、君と約束した10年を通り過ぎれば、そこから先の未来は想像できない」

「私が走る内はそうではないと?」

「そうだね。少なくとも、君をずっと応戦者(ディフェンディング・チャンピオン)でいさせるつもりだよ」

 

 10年。エイシンフラッシュと約束した、残された時間。

 遠いように見えて、案外すぐに過ぎるかもしれない時間。彼女と出会ってから既に3年が経っている。これをあと3回繰り返せば、終わりが見える。

 そこから先、自分がどうしているかなんて、わからなかった。

 

「君みたいに何年も先まで見通しているわけじゃない。大人になって……トレーナーになって叶えたい目標(ユメ)は、君が全部叶えてくれた。11年後にまたこの海を見に来られるのかは、今はまだわからない」

 

 きっと、〝トレーナー〟という職業ではあるのだと思う。

 エイシンフラッシュとの契約が終わって、全盛期を過ぎた彼女がターフを去った後、自分はまだ指導者でいる。新たなウマ娘をスカウトして、煌びやかな舞台に立つ手伝いをする。どうやら自分はこの仕事が性に合っているようだから、きっと、ずっと、立てなくなるまでそうなのだろう。

 そうは思っていても、何となく、その未来像には靄がかかっていた。

 

「それが普通なんです」

 

 エイシンフラッシュが言った。彼女は至極真剣な目をしているように見えた。

 

「私だって未来が見えているわけではありません。『この時にこうしたい』を決めて、それをなぞっているんです。たとえば10分35秒後、私は海に入る予定ですが、それは未来を見たからそう決めたのではなく、決めたからその通りの行動をするだけ。もし何かあればその通りではなくなるでしょう」

 

 確定していないものを、予定という形で限りなく確定に近づける。見えない未来が見えるフリをして、その通りに動く。物心ついたときからずっと続けている、エイシンフラッシュの生き方だ。

 だが、それは必ずしも予定通りに遂行されるわけではない。不測の事態は往々にして起こり得るもので、事実、今まで幾度となく予定の修正を行ってきた。

 

 勝つはずだったレースで負けた。修正。行うはずだったトレーニングができなかった。修正。尻尾の手入れが上手くいかずに睡眠時間が短くなった。修正。

 ────どこかの誰かにひと目惚れされた。修正。

 

「元より困難な話です。特に貴方には」

「ひどいな。これでも、君と出会ってからは時間とか気をつけるようにしてるんだよ」

「私といるときは、でしょう。何もなかった休日の翌日、眠そうにしているの知ってますよ」

 

 トレーナーがエイシンフラッシュとの予定に遅れたことは一度もない。必ず待ち合わせや指定された時間に誤差なく到着し、彼女の予定に狂いを生じさせないように行動している。それは、エイシンフラッシュがどういう性格かを彼自身よく知っているからこその、最低限の配慮だ。

 が、そういった彼女が関わる場面以外ではどうなのかと言えば、また別の話である。

 

「月曜日の朝、私がいないとたまに欠伸(あくび)をしているでしょう」

「……よく知ってるね。君の前でしたことはないと思うんだけど」

「偶然見てしまいました。ほら、案外隙が多いでしょう?」

 

 してやったりとでも言いたげな彼女の言葉に、トレーナーは一つ息を吐いた。敵わないという降参の意思表示だった。やはり、身体能力以外でも簡単には勝てないらしい。黒星がまた一つ増えたな、なんて小さく呟く。

 

 エイシンフラッシュが関わる事柄や、公的な場面で時間を遅らせたことはない。しかし、誰とも関わることのないプライベートまで一分一秒を気にして過ごせるほど、彼は厳格ではなかった。それこそ、たまに夜ふかしをして翌日に眠気を引きずる程度には。

 

「参ったよ。どうやら勝てそうにない」

 

 トレーナーは両手を上げて首を振る。白星と黒星など数えていない──そもそも、勝敗がつく何かを行なっていない──が、こうした競い合いで勝てる気はしなかった。それがたった今証明されてしまったようだと、非力な己の身を恨んだ。

 

 それを聞いて、エイシンフラッシュは笑っていた。蹴鞠で戯れる童女のような笑みだった。

 

「……ああ、そうだ。思いついた。一つだけ、いつかやりたいことができた」

 

 彼の視線が、エイシンフラッシュへと向いた。

 彼の視界が、ここではないどこかへと向いた。

 

 未来を見ているように見えて、過去を見ている。ひどく曖昧な瞳の色に、エイシンフラッシュは首を傾げた。その色のまま、彼は続けた。

 

「いつか、本を書きたいな」

 

 しかし、たしかにその瞳に、エイシンフラッシュだけが映っていた。

 

「エッセイ、というのかな。君と過ごした日々を、いつか形にしたい」

 

 エッセイ。随想録、随筆ともいう文学の一形式。筆者の体験や経験などをもとに、自由な形でそれに対する感想や思想を表現するジャンルのことを指す。

 日本で馴染み深いのは清少納言の〝枕草子〟や鴨長明の〝方丈記〟、吉田兼好の〝徒然草〟だろう。現代に近づくにつれ、文筆家に限らず様々な職業の人間が、自身の心に浮かんだ思索を文字に起こした。世に出ているものを探せば、きっとトレーナーという職業の誰かが書いたエッセイもどこかにあるのだろう。

 

 彼はそんな、いつかの未来を口にした。

 

「今までの3年と、これからの10年。アスリートとしての君と過ごした13年。その記録を、俺の手で作りたい」

「……それは、どうしてですか?」

「さあ、どうしてだろう。URAファイナルズ初代チャンピオンの記録だから、心のどこかで『これはウケる』という打算があるのかも……冗談、そんな顔しないでよ」

 

 エイシンフラッシュの表情が少し険しくなったのを見て、彼は苦笑した。そんな打算は天に誓って有りはしない。

 ただ、少し思ったことがあるだけだ。眼前の少女の、それまでの軌跡を。挫折と苦難に満ち、しかし駆け抜けた蹄跡を。振り返るべき勝利の轍を。

 ────自分だけが知るのはもったいない、と。

 

「言ってしまえば単なる思いつき。でも、きっと悪くないものだと思う」

 

 いつか、自分が老いたとき。〝老い〟の兆候が身体を蝕み始めたとき。しかし、まだ〝老い〟に絡めとられるには早いとき。この思いつきが実現すればいいと思っている。彼は、ただ口にしただけのその漠然とした未来(ユメ)を、存外真剣に考えていた。

 

「振り返るべき君との13年。筆を執るそのときが来ても、君との思い出を忘れはしない。今日、砂浜で君の手を握ったことさえ、その日の俺は覚えている」

 

 目を()かれている。脳を()かれている。強すぎる光に目が(くら)んでいる。

 忘れることなどない。いつまで経っても、刻み付けられた閃光は消えはしない。それほどまでに、エイシンフラッシュという輝きは、トレーナーにとっての劇物だ。

 

 その邂逅を覚えている。

 その会話を覚えている。

 その契約を覚えている。

 その心情を覚えている。

 その敗北を覚えている。

 その勝利を覚えている。

 その落涙を覚えている。

 その笑顔を覚えている。

 その挫折を覚えている。

 その決意を覚えている。

 

 その全てを、まるで昨日のことのように思い出せる。

 

「どれくらいかかるかな。俺が老人になってから、いったい」

「13年の記録なんて、文字にしようと思ったら膨大ですよ」

「そうだね。でも、そんなに時間はかからない。何万文字書こうとも、きっとね」

 

 時計の針は、随分と進んでいた。

 

「ヘミングウェイが日頃なんて言ってたか知ってる?」

 

 太陽が照りつける。海風が吹きつける。空と海はどこまでも蒼く、棚引く雲はヴェールのようだ。

 彼の瞳が現在(イマ)を映す。その中心に、エイシンフラッシュがいた。

 

「〝いちばん筆が進むのは恋をしているときだな〟、だよ」

 

 どこかの岩間で波が弾けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

「ん。ごめん、たづなさんから連絡だ」

 

 潮騒が響く。浜と海の境が水を吸って色を変える。その境界線を目で追っていけば、その先で何人ものウマ娘が水と戯れている。

 太陽はただ燦々と照り輝いて、遠くに見える水平線を煌びやかに映し出している。その光の下で、エイシンフラッシュはまるで、大切なトレーナーと二人だけの世界にいたような気分だった。

 

「……呼ばれた。ちょっと行ってくるね」

 

 その二人だけの世界が終わる。慣れた手つきでスマートフォンを仕舞って、彼は言った。二人っきりの空間と外を隔てていた見えない壁が取り払われて、エイシンフラッシュの世界に喧騒が戻る。

 

「まだ時間はあるんだし、君も休めるときに休むんだよ」

「……あの、今の言葉は……」

「今の言葉? ……ああ。君には、以前にも言ったことがあると思うけど」

 

 それじゃあね、と軽く手を振って、トレーナーは一歩踏み出した。向かう先は合宿中トレーナーが使用している施設の方角だった。たづなさんから、という言葉から察するに、何か業務に関することだろうというのは簡単に推察できた。

 

 段々と遠ざかる背中をずっと見ている。陽光に照らされて、頬を流れる汗の一滴を拭うことすら忘れていた。トレーナーの姿が見えなくなってからも、エイシンフラッシュはただ呆然と、彼が去った方角を見つめていた。

 

 それが終わったのは、波が寄せては返す音が6回ほど聞こえた後のことだった。呆然としていた意識がコントロールを取り戻す。彼が去ってから今までずっと自分の右手を左手で握りしめていたことに、今ようやく気がついた。

 その右手には、まだ先程の熱が残っていた。気がした。少なくとも、エイシンフラッシュにはそう思えた。トレーナーが〝君に勝利を捧げる〟とこの手を取ったその時から、ずっと────自分の体温以外の何かが、そこに残留していた。

 

「……いちばん筆が進むのは、恋をしているとき」

 

 ヘミングウェイが〝老人と海〟をたった六週間で書き上げたというのは前述した通りである。

 漁師は老いていた、という最初の一行を書き始めたとき、ヘミングウェイは51歳だった。〝老い〟を感じてはいるものの、まだ〝老い〟に絡めとられてはいない時期。このとき彼は、とある恋に落ちていた。

 アドリアーナ・イヴァンチッチ。妻のメアリーとのイタリア旅行中に出会った、旧家の娘。彼は執筆にいそしむキューバの居宅に彼女を招き、滞在させていた。〝老人と海〟が執筆されたのは、彼女がいた期間のことである。

 

「ひと目惚れ、ですもんね」

 

 ヘミングウェイは妻がいる身でありながら、会食や文通などを通じてアドリアーナとの仲を深めていった。アドリアーナにとってヘミングウェイは〝優しい高名な小説家のおじさま〟でしかなかったが、当の彼は妻メアリーのことも忘れて、本気で結婚まで考えるほどのめり込んでいたという。

 そして、そんな彼のアドリアーナに対する思いの始まりこそ、文字通りのひと目惚れだった。〝雷に打たれたようなショックを受けた〟と、後にヘミングウェイ自身が語っている。

 エイシンフラッシュとトレーナーの関係の始まりもまた、ひと目惚れだ。以前にも言ったことがあるというのは、そういうことだろう。

 

 しかし、止まない雨がないように、変わらない心もない。愛は燃えるものであっても、恋とは冷めるものだ。慣れきった感情は起伏を無くし、いずれ平坦な更地に変わる。新鮮な恋情はいつかその熱を冷ましていって、(ひび)割れた残骸へと堕ちていく。いつか訪れる感情の終わりは、恋する少女が最も恐れる末路だ。

 

 だが、その終わりが訪れないというのなら。

 もし、ずっと恋情が熱いままというのなら。

 数十年の未来でさえも、ひと目惚れしたままの気持ちを持ち続けているというのなら。

 

「何十年経っても私のことが大好きってこと……!?」

 

 エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。メジロドーベルの固有継承しようと思ってたけどやめるね。

 

 そもそも、トレーナーが自身をヘミングウェイに重ね合わせているのなら、ひと目惚れされた自分はアドリアーナである。その恋情を信じるのなら、彼は将来的に結婚まで考えていると見ていいだろう。

 

 ────いえ、そんな、たしかにいつかはするものですが……!

 ────そんなプロポーズを受けるには早いというか……!

 

「予定では3年後というか……!」

 

 君今日随分掛かってるね? これが夏の魔物の恐ろしさか。

 

 エイシンフラッシュは自分の頬がどんどん熱くなっていくのを感じていた。軽く手を当てるだけできっと真っ赤になっているのだろうとわかるほどに体温が上がっている。太陽のせいではないことだけはたしかだった。

 

「……本当に、ずるい人」

 

 勝敗がどうとか、勝てる気がしないとか、そんなことを言っていたけれど。

 当のエイシンフラッシュからしてみれば、そのどれもこれもが見当違いもいいところだ。

 勝敗を決めるのなら、とっくのとうに負けている。不意の一言で何回ときめいたことだろう。何回惚れ直したことだろう。先に惚れたと言ったのは向こうでも、思いの強さなら負ける気はしない。

 ずっと前にこの心は掴まれていて────その時から、エイシンフラッシュは惚れたら負けの勝負に負けている。

 そして今日も、また黒星を一つ積み重ねた。自覚あってのことか、それとも無自覚か。何度も何度も心臓が跳ねるような言葉を吐くものだから、この鼓動はいつになってもうるさいままだ。

 

「……また、好きになるじゃないですか」

 

 彼のことを子どもらしいと評したけれど、そんな一面さえ愛おしい。たまに見せる無防備な表情(カオ)に、彼女の心は躍っている。伊達男のように見えても、しかしそれが完璧を装っているだけの見栄であることが嬉しくなる。だって、見栄を張ってもらえているということだから。

 

 ────私の前ではそういう姿でいたい、ということでしょう?

 

 そういうところもまた、可愛らしく思える。

 お菓子を作ると美味しそうに食べてくれるところも。

 朝に少しだけ眠そうにしているところも。

 必死に弁解しようとしているところも。

 

 取り繕った鍍金(メッキ)が剥がれて、彼が見えるその瞬間に胸が弾む。惚れた弱みとはよく言ったものだ。

 

 現にほら、こういうように。

 

「……海に戻る予定を2分13秒超過……2分13秒、貴方を想う時間に変更ですね」

 

 かつての自分では考えられない言葉。でも、今はそうではない。

 予定を変更しても構わないと教えてもらったから、そう言える。自分が一番優先したいことを決めればいいと教えてもらったから、そう思える。

 

 ああ────なんて、幸せな脆弱性。

 

「全部、全部、貴方のせいですからね」

 

 また一つ、どこか遠くで波が弾けた。

 

 

 

◇◆◇

 

 

 

 まるで、光の雨のようだった。

 

 陽光。太陽の輝き。天岩戸に隠れもしない現代の天照は、容赦のない光を遍く地上に降らし続けている。その下にいるのはトレーナーも例外ではなく、彼は頬を伝った一筋の汗を乱雑に拭った。

 

 一歩足を踏み出すごとに、(さざなみ)の音が一歩分遠ざかる。振り返りはしないが、また後ろで()()と鳴るたびに、過去のどこかに置いてきた子供心が少しずつ戻ってくるような心地になった。

 

 過去だとか、未来だとか。これまで通り過ぎた地点と、これから通り過ぎる地点。確定した事実と、曖昧とした虚像。またひどく不安定な話をしたものだと、彼は数分前を振り返った。

 

「いつかやりたいこと、か」

 

 これから先自分が何をしているのかなんてわからない。エイシンフラッシュと約束したから、そして何よりも自分が引き留めたのだから、10年は確実に彼女の共に歩むことになる。では、11年後はどうなのか。トレーナーを続けていても、果たしてどんな自分になっているのだろう。それがどうしてもわからない。

 

 エイシンフラッシュが言うには、それが普通らしい。他ならぬ彼女からそのような言葉が出てくることにわずかな驚きはあれど、未来像が浮かばないことは、どうやら不思議なことではないようだ。

 

「……まあそんなもんだよな!」

 

 能天気だなお前。

 

 トレーナーはあれこれ考えることをやめた。これ以上無闇に考えても詮無きことであるのはたしかであり、事実どうしようもないことである。

 

 エイシンフラッシュと駆け抜けた後の未来が想像できないのも当然だ。それは単に、11年という歳月が経った後のことなんて誰も知らないしわからないというだけのこと。

 いつか必ず訪れる時の流れではあっても、実際そこに立っている自分がどのような姿で何をしているかなんて簡単には想像できない。就活前の大学生のようなものである。考えるだけ無駄な漠然とした不安でしかない。

 

 とはいえ、彼がエイシンフラッシュに語ったことの全てが無駄骨かといえば、そうというわけでもない。少なくとも、いつかの未来(ユメ)として浮かんだ『君との思い出を本に書きたい』というのは事実である。

 

 偉大な成功を収めた名手が自身の半生をエッセイに残すことは珍しくない。URAファイナルズという輝かしい舞台に立ったエイシンフラッシュの存在は、見事その栄光を手にすることで広く世間に知られることとなった。当然、彼女と共に歩んできたトレーナーも一緒に語られることが多い。何十年先になろうとも、『初代F・チャンピオンのトレーナーが語るもの』に人々は価値を見出すだろう。

 別に名声に興味はない。どれだけ担ぎ上げられようと、その栄光を掴み取ったのはエイシンフラッシュの脚によるものだ。だからこそ、多くの人に知ってほしかった。彼女の強さがどう培われたものか。どのようにして彼女はそこまで至ったのか。誰よりも近くにいた、トレーナーという視点から見た彼女の姿がどんなものだったか。

 

 語りたいことなんていくらでもある。書きたいことなんていくらでもある。それがトレーナーというものだろう。自分の担当のことならいくらだって話すことができるのだ。

 

 ────〝一番筆が進むのは恋をしているときだな〟

 

 ヘミングウェイの言葉。アドリアーナ・イヴァンチッチに恋をしていた、1950年のクリスマス。〝老人と海〟を六週間で書き上げたように、きっとトレーナーの筆も速いことだろう。

 

 そう、何故なら────彼もずっと、恋をしている。

 

「……ひと目惚れしてたからかな」

 

 懐かしい言葉だ。いつかの日、彼女にかけた一言。

 

 ────ああ、本当に素晴らしい。

 ────どんな苦難にもめげず。

 ────どんな艱難にも挫けず。

 ────ただ己の信念のために進み続けた。

 

 たとえその時の結果がどうであろうと、たしかに自分は見惚れていた。そこに可能性を見た。彼女しかいないと、運命の出会いだと思った。

 

 本当に、綺麗だと思ったのだ。心が震えたのだ。ひと目惚れしてしまったのだ。

 

「────彼女の走りに」

 

 トレーナーとしては合格だけど男としては落第だよ。

 

 当然、エイシンフラッシュ個人がどうとかそういう話ではなく、彼女のアスリートとしての資質の話であった。

 誰も目をつけなかった才能の原石。いずれ大成する器を早々に見出したことはトレーナーとしての彼の才覚を表してはいるのだが、それはそれとして一回くらい殴られても文句は言えないだろう。乙女の純情と初恋を弄ぶな。自覚がない分余計にタチが悪いよお前。

 

 今までの発言がエイシンフラッシュの実力に向けられたものだとするならば、その全てが軒並み意味を変える。

 初担当でダービーと天皇賞と有マ記念を勝利し、かつてない栄光の舞台で輝いたのだから、当然彼の今後の基準はエイシンフラッシュになる。いつになってもその走りは忘れられないだろうし、それこそ何十年経とうが彼の指導の下地に彼女の存在は在り続ける。恋とはある意味で正しく、もし本当に老後のトレーナーがエイシンフラッシュについて本を書くのだとしても、その時まであの舞台で味わった高揚を忘れることなどできないだろう。

 彼がトレーナーである限り、その心は常に仕事に向けられている。エイシンフラッシュが可哀想になるね。ずっと片想いだよ。君との忘れられない思い出は全部仕事カテゴリーだ。

 

 ────11年後、俺は何をしているのだろう。

 

 青い水面に陽光が跳ねる。目に入った光に目を細めた。眩しくなって手を翳せば、指の隙間がわずかに赤く透けた。

 きっと、何も変わらないのだろう。もっと多くのウマ娘を担当して、相も変わらずトレーナーとして働いている。チームなんてものも持たされるのだろうか、と数々の先輩トレーナーの顔が浮かんだ。手に負えるかはわからないが、上手く(こな)せるといいな、なんて思った。

 

 しかし、止まない雨がないように、変わらない日々などない。激動の3年間を乗り越えて、今は安定しているが、自分とその周囲の関係は着々と変化を続けている。もう新人とは名乗れない身の上であるから、それに関してはどうしようもないのだ。

 例えば、駿川たづなから来た、一つの連絡のような────

 

「……九月、岩手トレセンでの講師のお願い、ね」

 

 そんな小さな独り言は、淡い潮騒に消えていった。




 んこにゃ様よりファンアートをいただきました。ありがとうございます。
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この戦いの最終的な勝者は?

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  • トレーナー
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