【完結】もう恋人だと思っているエイシンフラッシュVSそんなことは微塵も考えていないトレーナーVSダークライ 作:かむくら
今回は試験的に注釈機能を使ってみました。実際皆さんから見てどんなものかお聞かせください。
[コレクト・ショコラティエ]エイシンフラッシュ
覚醒Lv2:中距離直線〇
覚醒Lv3:独占力
覚醒Lv4:差しコーナー〇
覚醒Lv5:光芒一閃
ゆらり、と影が揺れる。
ゆるり、と風が頬を撫でた。濡羽色の髪がわずかに空気を含んで膨らんだ。微妙な生ぬるさを持ったそれは、まるで夏の残り香のようだった。
再び影が揺らぐ。地面に映し出された黒い型抜きは、いくら足を踏み出しても追いつかないほど長かった。時刻は黄昏だった。
「……5分42秒のジョギング、終了」
影の足元にいたのは一人の少女だ。赤と白を基調としたジャージに身を包み、揺らぐ尻尾の先は綺麗に切り揃えられている。少女の名はエイシンフラッシュといった。
場所はトレセン学園。トレーニングコースには未だあちこちに他のウマ娘とそのトレーナーと
トレーニングコースの外周に置いたノートやドリンクを手に取って、エイシンフラッシュはそこを後にする。トレーナーとウマ娘が手を取り合っている姿を見ているのが、今はどうにも苦しかった。その理由を、他ならぬ彼女自身は知っている。
いつも見ている学園の景色も。
いつか見ていた黄昏の赤色も。
その全てがいつも通りなのに。
ああ、どうして。
────隣に、貴方だけがいない。
◇◆◇
慣れた手つきで鍵を開けて、いつもと同じようにトレーナー室へと足を踏み入れる。閉まる扉と、長い沈黙。いるはずの
数歩進んで、椅子の前。いつものように鞄を置いて、いつものようにスケジュール帳を取り出し、いつものように記入をする。本日の予定、変更無し。物心ついたときから繰り返してきた一日の振り返り。3年以上繰り返してきた夕暮れのトレーナー室でのルーティーン。
走るペンの音と、規則正しい呼吸音だけがそこにある。それだけしか、そこにはない。時折窓の外から聞こえる誰かの声が耳に入り、抜けていく。空虚な時間。空虚な空間。ただ、虚しさだけが積み上がる。
「はぁ……」
一つ目の溜息。
本日の予定、変更無し。明日の予定、変更無し。不測の事態、適宜対応。秒単位のスケジュールの合間に挟まった変更可能な余白こそ、彼女の3年間の成長の証明。或いは、あったはずのものが抜けた空白。
「はぁ……」
二つ目の溜息。
物憂げな瞳が射止めたのは、誰も座っていないデスクだった。スケジュール帳を閉じて、そちらの方へ。
「はぁ……」
三つ目の溜息。
九月になったとはいえまだまだ暑い。空調を入れたとはいえまだ部屋が涼み切るには遠く、デスクに触れた頬には蓄積された熱が伝わっていた。反対の頬を撫でる空調の音と、冷たい風に追いやられた生ぬるい空気。黄昏の空に漂う、残夏の匂い。この部屋にあるのは、ただそれだけだ。
現在時刻、17時36分。日の入りの予測時刻、17時49分。日が暮れるまで13分。つい最近までは楽しみだった13分。今となっては空虚なだけの13分。
────それは、貴方がいないから。
顔の横に置いた手のひらを無意識に握っていた。もう一度溜息が出た。四つ目だった。
思い出されるのはいつかの記憶。黄昏色に染まったこの部屋で、トレーニングが終わった後にした他愛のない会話の数々。
────いつか貴方が、ファウストの救われた理由について問うた時。
────いつか貴方が、私を
────いつか貴方が、私のことを〝夢〟と呼んだ時。
それだけでよかった。他に何も求めてなんかいなかった。スケジュール帳にある何もない余白。定められた時間の使い道の中で、定めていなかった時間の使い方は、二人だけの世界で語らうこと。
トレーニングの時間と、エイシンフラッシュのスケジュールと、決められた寮の門限。その隙間に僅かに空いた、ほんの10分か20分程度の空白。ミーティングとはまた違う、トレーナーと二人だけの時間。彼女の求めていたものは、ただそれだけだ。
意味なんてない。かもしれない。意義なんてない。かもしれない。
それでも、そんな何もない時間を、彼女は愛していた。
「……どうして」
ぽつりと
空調が効いてきて、生ぬるい空気は冷気に置き換わる。下がる室温にまたいつかの夜を思い出し、あの時隣にいた誰かがいないことに悲しくなった。
あの人がいたら何を言うのだろうか。まだ秋にはならないね、なんて言うのだろうか。熱中症には気をつけてね、なんて言うのだろうか。そんなことを考えた。隣を見ても誰もいないのに、考えてしまった。寝そべったまま手を伸ばす。その指先に触れる人はいない。
「どうして、ですか」
窓から差し込む陽光は次第に翳りを見せる。日の入りまであと何分だろう。太陽が沈むように、時間と共にこの想いさえ沈んでしまえば、好きな人がもういない悲しみも消えるのだろうか。ただ一人、黄昏に身を浸しながら、思い出だけを抱えていく苦しみから抜け出せるのだろうか。そんなことが脳裏に浮かんで、それは寂しいことだと掻き消した。
「どうして、いってしまったんですか」
絞り出すようなその声に、答えを返す者はなく。
「どうして────
────私を置いて出張なんて!」
トレーナーは現在、一週間の出張中だった。
デスクに向けて思い切り叫んだエイシンフラッシュだったが、『どうして』と言いつつ実情は理解している。
事の発端は七月の夏合宿中。URAファイナルズを制し、一気に全国のトレーナーの中でも一目置かれるようになった彼女のトレーナーに対し、講演会の打診が届いた。駿川たづな経由で連絡を受けたそれに対し、トレーナーは快諾。九月の中頃に一週間、岩手トレセンにて講演会及び講習会を行うことになった。
そのことを聞き、エイシンフラッシュも『トレーナーさんの手腕は誰もが認めるところ。私も誇らしいです』と送り出したはいいのだが、しかし彼女は自覚が無かった。より正確に言えば、自覚する機会が無かった。
思っていたより、エイシンフラッシュはトレーナーのことが好きだった。それはもう、数日離れることすら耐え難いほどに。
たった一週間。されど一週間。常に日常の端にいた恋人がいないという事実は、まるで酸のように彼女の心を蝕んでいた。削れ、消え、溶けて減っていく。まさかこれほどまでに顔を見られないのが辛いことだとは思わなかったと、エイシンフラッシュは初めて別離の苦しみを知った。世の中の遠距離恋愛をしている人々はこんな苦しみに常に耐えているのかとも尊敬の念すら覚えた。
なお、まだトレーナーが出張に行ってから三日である。
「……会いたい」
思えば、これまでの3年間で三日も顔を見なかった日があっただろうか。
大型連休ではどこかにトレーニングかお出かけが挟まり、長期休暇も合宿かトレーニングの日々である。平日は授業の後に顔を合わせていたし、レースのための遠征では基本的に付きっきりだった。それこそ、顔を見なかったのは一日オフの休みの日くらいなもので、考えてみると、ほとんど毎日顔を合わせていることになる。
隣にいるのが当然すぎて、ほんの少しでも離れることなど想像もしていなかった。昨年の有馬記念の後、当初の予定のままドイツに帰っていたらというのを考えて、エイシンフラッシュはゾッとした。
かつての自分の予定に間違いがあるとは思っていないが、それはとても恐ろしいことのように思えた。物理的な長距離を挟んだ向こう側にトレーナーが行ってしまうという事実が何よりも恐ろしかった。想いが冷めることなど無いと断言できるが、燃え盛る炎はいずれ己すら焼き焦がすものだ。自制と理性の怪物たるエイシンフラッシュでさえ、海の向こうの自分が耐えられるかはわからなかった。
スマートフォンを取り出して、アプリケーションを眺める。彼のいなくなった三日前から始めた、トレーニング後の定時連絡。それを送ろうと思って、彼とのトーク画面を開く。
トレーナーが離れたとて、日々の予定に狂いを生じさせることは許されない。彼は自身のいない一週間のためにあらかじめトレーニングメニューをエイシンフラッシュに渡していた。基礎的な能力アップに焦点を当てた無理のないメニューは、万が一にでも目を離している間に彼女が故障などをしないようにという心がけなのだろう。抜け目のないその一つ一つに、大切にされているのだという温かさが見て取れた。
トーク画面に文字を打ち込んで送信を押した。本日のトレーニングは終了しました。怪我や故障はありません。それだけ送ってスマートフォンを伏せた。
自己申告でしかないこの一言二言で終わらせてくれるのは、ひとえに信頼の証だろう。エイシンフラッシュが嘘を言うことなどないと知っているから、トレーナーは彼女の言葉を額面通りに受け取る。エイシンフラッシュにとってそれは嬉しいことではあるし、喜ばしいことでもある。
────それでも。
だが、それでも、と願わずにはいられないのが本音。
一言では終わらせたくない。
二言では区切らせたくない。
三言より先がもっと欲しい。
どんなに他愛のないことでもいい。このほんの少しの黄昏に、愛しい人ともっと話していたい。そんな欲が顔を出すのは不思議なことではないはずだ。それが乙女心というものだろう。エイシンフラッシュはそう思っていた。思っていても、言い出せないこともわかっていた。
きっと彼は忙しい。きっと彼は大変だ。慣れない場所で、ウマ娘ではなくトレーナー相手に何か教えるなんて、今までしてこなかったことをしているのだから。そんな彼の負担になることはしたくない。エイシンフラッシュは賢かった。賢いからこそ、乙女心という名前の恋情を不要と断じてしまえた。
────それでも。
先程送ったメッセージを眺める。
『本日のトレーニングは終了しました』。
『怪我や故障はありません』。
もし、ここから先を続けることができたら。
もし、もっと自分に素直になることができたら。
────少しお話しませんか。
そう打ち込んで、送信は押せないまま。わがままになりきれないのは美点だろうか。アスリートとしては満点かもしれない。けれどきっと、恋する女の子としては0点だ。
そういえば、と思い出す。いつかの夜もこんな感じだったっけ。窓の外で沈み行く夕陽を眺めて、エイシンフラッシュはそんなことを考えた。
夢を見た日。月の綺麗な夜。あの日も声が聞きたいと願って、トレーナーはそんな深夜の申し出を受け入れてくれた。そんな思い出が記憶の底に残っている。既に僅かな懐かしささえある、三月のある日のことだった。
眠気と動転のせいでわがままになりきれたあの日くらい、自分に素直になれたら。そう願っても、理性はそれを許してくれない。なんて面倒な気性だろう。こんな時ばかりは自分の性格を恨んでしまう。
「……はぁ」
五つ目の溜息。
定時連絡も終わったし、寮に帰ってしまおう。そう考えた矢先に、ピコン、と電子音が鳴った。聞き慣れたメッセージアプリの音。伏せたスマートフォンの画面を見れば、そこにはトレーナーのアイコンと『いいよ』というメッセージだけが表示されていて────
「……え?」
いつかの夜と同じような言葉に、エイシンフラッシュは目を丸くすることしかできなかった。
いいよ? 何が? 脈絡なく届いたその三文字に脳が混乱する。混乱して、鎮静して、
確認したトーク画面には、送れなかったはずの『
「誤送信……!」
少し余所見をした間に指が触れてしまったのだろうか。それとも削除を押そうとして、その上の送信を押してしまったのだろうか。いくつか浮かぶ仮説推論と、それら全てが後の祭りだという事実を、エイシンフラッシュは理解していた。
────どうしましょう。
冷や汗が首筋を伝う。伝うと同時にコールが鳴った。相手は当然トレーナーだった。
エイシンフラッシュは焦ったが、状況的には彼女から持ちかけた話である。出ないわけにはいかない。いかないし、
────お話、できるんですよね。
顔を隠したはずのわがままを受け入れてくれたことが、どうしようもなく嬉しかった。
鳴ったコールは3回。3回目で画面を押す。途端、画面いっぱいに彼のアイコンが表示された。それはいつか見た花火の夜だった。
『あ、フラッシュ?』
声が聞こえる。聞きたかった声が。聞けなかった声が。三日ぶりの愛しい声が。
「お忙しかったら申し訳ありません。お時間は大丈夫ですか?」
『今日の予定は全部終わっているからね。あとは明日の資料をまとめたり雑務しかないから問題ないよ』
声の途中で、
「今どちらに?」
『中庭だよ。風が心地よかったから、ノートパソコンを持って外に出てきた』
こんな風にね、と彼は言った。直後、アイコンが表示されていた画面が切り替わり、向こうの様子が映し出される。どうやらトレーナーはインカメラを起動したようだとすぐにわかった。
見える風景は彼の顔とその背後の夕暮れと、遠くにいくらかの木々があった。時折風が吹いてはその葉を揺らす。暦の上では秋の季節だが、まだ紅葉には早いらしい。
「そちらは北の方ですし、少し寒いのでは?」
見れば、画面の向こうのトレーナーはワイシャツの袖を伸ばしていた。九月は残夏、中央トレセン学園の位置する東京都では平均的に27度前後、晴れの日は30度を超えることもある。しかし、トレーナーの出張している岩手県の九月平均気温は高くて21度ほどにしかならない。風が吹いていれば、体感温度はさらに下がるだろう。
『そうだね。実を言うと、少し肌寒い』
「風邪を引く前に屋内に入ることをオススメします」
『それも尤もだ。でもさ、見てよ』
彼はノートパソコンをくるりと回して、インカメラが外に向くようにしてみせた。エイシンフラッシュの画面に映し出されたのは、透き通るような茜色の空だった。
『あのイーハトーヴォのすきとおった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波』
「〝ポラーノの広場〟ですか?」
『そう。今俺がいるこの岩手トレセンが盛岡市にあるから、ちょうどぴったりだ。そのころわたくしは、モリーオ市の博物局に勤めて居りました、なんてね』
もう一度ノートパソコンを回してトレーナーの方に向ける。彼はまだ空を眺めていた。その表情は、どこか懐かしさすら滲んでいた。
『博物局ではないけれど、〝そのころ〟の俺もここにいたんだ』
「ご縁のある土地なのですか?」
『地元というわけではないけどね』
言って、彼は語った。
『新人の頃の研修でね。何ヶ月かお世話になっていた』
「研修、ですか」
『そう。だからここのトレーナーの人たちは、ほとんどその時色々教えてもらった先輩方だ』
困ったことにね、とトレーナーは笑った。
『昔お世話になった先輩方に、今度は自分が教える側だよ。それも〝中央の敏腕トレーナー〟みたいな扱いで。光栄だけど、変な気分だ』
「それは大変でしたね」
『本当だよ。正直、どんな顔をしていればいいのかわからない』
ある意味では光栄であり、ある意味では心労である。
トレーナーにとって、新人の時分にトレーナーとしてのイロハを教えてくれた先輩方は、皆尊敬すべき先達だ。積み上げた年数と経験はどれだけの時が経っても追いつけない。その時の学びがあるから今の自分があると言っても過言ではないと、彼は考えていた。
だからこそ、そういった人々に対して自分が〝講師〟なんて役柄として接することに気まずさを覚えてしまう。そんなトレーナーの告白に、エイシンフラッシュは小さく笑った。本当に真面目な人だ、と。
「堂々としていればいいんです、きっと」
『そんなものかな』
彼はまた困ったように笑った。きっとわかっているのだろう。立場がどうとか、先輩がどうとか、そんなことは気にするまでもない些事であると。
結局そこは気の持ちように他ならない。言われなければ誰も気にしないようなことなのはわかっている。わかっていても、どうしても心に引っかかるものはあるのだ。
「でしたら、貴方が胸を張れるような言葉を贈ります」
────その心を晴らすのも、
「
ただ一言、それだけを告げる。
ある意味では傲慢。ある意味では強引。端的なその言葉に込められた意味は、『エイシンフラッシュのトレーナーであるならそれらしくあれ』という激励。
エイシンフラッシュは強いウマ娘だ。URAファイナルズを勝ち抜き、頂点に君臨した王者だ。であるならば、そんな彼女を教え導いた者もまた、王者でなければならない。
『……なるほど。それはたしかに気合が入る』
現状、彼に求められる役割は〝王者〟であり。
外套、彼がまとうべき偶像は〝絶対〟である。
トゥインクル・シリーズという夢の舞台においての最高峰。そこに最初に辿り着いた者として、彼は胸を張らなければならない。数多の夢の残骸を踏み砕いた者として、顔を上げなければならない。
エイシンフラッシュの言葉は、そんな意味を含んでいた。少なくとも、彼にとってはそう聞こえた。そんなことを言われたら、悩んでなんていられなかった。
『やっぱり君には勝てないな』
「では、また私の勝ち星ですね」
『してやられた』
「ええ、してやりました」
エイシンフラッシュは悪戯っぽく笑った。それは、彼との3年間で身につけた笑顔だった。
『……まあ、他にも理由はあるんだけどね』
映像の奥で木の葉が一枚舞う。枝から千切れたそれが、風に乗って地に落ちる。
『研修ってことは、勿論当時の俺は新人なわけだよ。そうなるとさ、色々あるんだ。積み重ねた失敗談ってやつが』
そう語るトレーナーは、どこか気恥ずかしそうな表情をしていた。
『あるだろう? 過去の失敗を思い出して、どうしようもなく恥ずかしくなるときが。要するにそういうこと』
「そういうものですか」
『その内わかるよ、君にも』
その内ね、と繰り返す。その言葉はきっと、歳上である彼だからこそ言えるものなのだろう。
『君はペスタロッチーを知っているかな』
トレーナーは夕暮れを見上げて言った。
「初めて聞く名前ですね。どちらの国の方ですか?」
『スイスだね。君が知らないのは当然のことだよ。教育学で名前を見る人でね、多分トレーナーならみんな知ってるんじゃないかな』
「何故今その名を?」
『それはね────』
『──────、────────」
『あ、ごめんフラッシュ。ちょっと待ってね』
突如として中断される会話と、
たちまちエイシンフラッシュの表情が陰っていく。それはトレーナーが自分以外の誰かと楽しげに話しているということも一因であったが、もう一つ。会話が途切れる直前に聞こえたものにある。
まるで二人の会話に挟み込まれるようにして聞こえたそれは、たしかに誰かの声だった。マイクから遠かったのか小さくしか聞こえなかったが、それはどうやら若い女性のもののように思えた。それも、何やら『トレーナーさん』と呼んでいたような────
────まあ、向こうも地方トレセン学園ですし、そんなものでしょう。
若きウマ娘が集う園で女性の声がすることに不自然さはない。中央からやってきた若手トレーナーが黄昏時の中庭にいれば話しかけてみようという気になるのも道理だ。エイシンフラッシュは当然、そのようなことは理解している。
理解していても、飲み込めない思いだってある。
もし、トレーナーと話している『誰か』が彼の知り合いだったらどうしよう。エイシンフラッシュの知らない彼の一面を知っていたりするのだろうか。かつてそこにいたとき、何か教わっていたりしたのだろうか。
それに、せっかくお話できる時間だったのに。二人きりだと思ったのに。そんなことを思って、ふと口から言葉が飛び出る。
「……彼は、私の」
言いかけて、ゾッとした。自分の口から出そうになった一言が信じられなかった。それほどまでに、その一言は重かった。
────今、私は何を言おうとした?
ああ、信じられない。信じていいはずがない。エイシンフラッシュは咄嗟に口を押さえる。続く言葉を続けないように、その動きを自制する。
なんてこと、なんてこと。まさか、
────彼は、私のものなのに。
ふつふつと湧き出た仄暗い独占欲が心の内側に満ちていく。満ちて、満ち足りて、抑えられなくて、溢れ出てしまいそうになる。
口から吐き出せそうなほどに胸の内に溜まったこの感情に色があるとしたら、それは何色をしているでしょうか。黒でしょうか。赤でしょうか。なんて、場違いで見当違いな思考までも湧いてきてしまう。画面の向こうで誰かと話しているトレーナーを見るだけで、その瞳が自分の方を向いていないことが、まるで棘のように心に刺さる。
わかっている。エイシンフラッシュはわかっている。中央から地方に訪れた彼は、向こうの誰にとっても興味の対象だ。他の誰かと一緒にいれば別なのかもしれないが、その現場には彼一人しかいない。興味の赴くままに他のウマ娘が彼に話しかけることは充分に想定できた事態である。
それでも、この胸を締め付けるような痛みを知らないフリはできなかった。
はやく。はやく。はやく。
彼と誰かの話はまだ続いている。なまじ良識があるだけに、エイシンフラッシュにそれを中断するよう言うことはできなかった。
できないから、まだ胸は苦しいまま。
吐き出してしまうのはみっともないとわかっているから、ずっと喉元に溶けない『何か』が詰まったまま。
そんな息苦しさを抱えたままで、時間だけが過ぎていく。計っている余裕なんて、無かったけれど。きっとそれほど経っていない。だってまだ、日は沈んでいないから。
「……いじわる」
それが理不尽な呟きだということは承知の上で。それでもなお、
もしこれがロマンス小説なら、可愛らしく頬でも膨らませてみせるのだろうか。それとも『不服です』と言わんばかりにアピールしてみせるのだろうか。
そんなことができたらどれだけ楽だっただろう。できないから、きっとこんなことになっている。
しばらく画面を眺めていると、トレーナーはどうやら向こうの誰かと話し終えたようで、その視線をインカメラに戻した。やっとミュートが解除された
表情は変えないように。思っていることが表に出ないように。取り繕ったその顔で、いつも通り、変わらぬように。
『お待たせ……って、どうかした?』
エイシンフラッシュの顔を見た彼は、口を開くや否やそう尋ねた。
「いいえ。どうもしませんよ」
『そう? 少なくとも俺には、何か言いたいことがあるように見えるけどね』
「……」
失敗。トレーナーにはエイシンフラッシュが何か抱えているのがわかったらしい。
そんなに取り繕うのが下手だっただろうか。ポーカーフェイスは得意だと、自分では思っていたつもりの彼女は、ぽつりと一言「わかりますか?」と口にした。
『わかるよ。君のトレーナーだからね』
────そういうところが、ズルいんです。
彼の
『言いたくないなら聞きはしないけど。君が隠そうとするってことはそういうことだろう?』
優しい言葉と、優しい心遣い。その声が聞こえるたびに、心の奥に溜まっていた何かが霧散していく。喉に詰まった何かが融解していく。息苦しさは無くなって、心が軽くなっていく。
言いたくないなら言わなくていい。話しにくいこともあるだろう。秘めておきたいこともあるだろう。それをわかった上での、大人の対応。
「……いえ。少しだけ、聞いてください」
その上で、エイシンフラッシュは話すことを選択した。
「先程お話されていた方はお知り合いですか?」
『まあ、そうだね。昔研修に来たときに、少しだけ関わったことがある
ああ、と合点がいった。彼がその『誰か』と話していたときのあの表情に納得がいった。
結局エイシンフラッシュの考えは当たっていた。旧知の仲で、エイシンフラッシュと出会う前の彼を知っている誰か。彼を親しげに『トレーナーさん』と呼ぶような誰か。声の正体は、エイシンフラッシュと出会う前に関わりのあったウマ娘。
『歳は君と同じだったかな』
「……貴方は」
『ん?』
「貴方は、私のトレーナーさんですよね」
それは先程と同じ言葉。激励のときの言葉と同じものを、エイシンフラッシュは再び口にする。
『……ああ、なるほど』
そこで、彼は納得したように言った。エイシンフラッシュの言いたいことというのも、彼女の様子が違ったのも、全て理解したような声色だった。
『妬いちゃった?』
それは、確信を持って放たれた、核心を突く一言。少し悪戯っぽく告げられたその言葉に、エイシンフラッシュの顔が赤く染まった。それは黄昏の色ではなかった。
こくん、と小さく頷く。やっぱりね、と彼は言った。
『これは喜べばいいのかな』
「改めてそう言われると……その、恥ずかしいですね」
『それはそうかも。俺も、大体君が何を思っているかはわかるから
悪戯っぽい表情から、照れたような表情に変わる。彼の頬に差す朱色もまた、黄昏の色ではない。
『さっきの話の続きをしようか、フラッシュ』
その赤い色を誤魔化すように、彼はそう続けた。
『ペスタロッチーの著作に〝隠者の夕暮〟というものがあってね』
〝隠者の夕暮〟。
スイスの教育学者ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチーの手になる一作。ペスタロッチーの著した作品は、その半生や経験から編み出された教育手法、あるいは教育思想が色濃く反映されたものであり、トレーナーの挙げた〝隠者の夕暮〟もまたその一つである。
『まあ、〝隠者の夕暮〟は物語的なものではなく教訓や心得を書き連ねたものなんだけどね』
ノイホーフ*1を運営していた当時の様々な体験から得られた教訓を、バーゼルの書記官イザーク・イーゼリンの支援のもと189ヶ条に渡って書き連ねたものが〝隠者の夕暮〟だ。ノイホーフにおけるペスタロッチーは、農場経営の他に貧民学校の運営も行っており、〝隠者の夕暮〟に記された事項にはそこでの経験が反映されたものも少なくない。
『その中の一つにこういうものがある。────五五 しかし汝は地上において自分一人のために生きているのではない。だから自然は汝を外部との関係のために、また外部との関係によって
ペスタロッチーの教育は、単純な読み書きを教えることに
それは当時の情勢的に、貧民の子どもが溢れ、誰かと繋がることも普通に生きることも許されずに非行や物乞いに堕ちるという、そんな悲惨さを知っての彼の道徳がそうさせたものである。故に、彼は学ぶことを知らない子どもたちに字を教え、糸の紡ぎ方を教え、人との関わり方を教えた。
だが、教科書を読むだけではわからないこともある。ただ黒板を見ているだけでは知らないこともある。友人の作り方は教科書に載っていないし、隣人との話し方は参考書に書いていない。草の匂いを文字列は教えてくれず、頭上に注ぐ木漏れ日の暖かさは紙に触れても伝わることはない。
故にこそ、それを知るために人は繋がりを求めたのだ。
『新人のときにここに来て、自分が如何にモノを知らないか思い知らされた』
滔滔と彼は語った。
『大学の教科書で見たウマ娘の知識は、実際の彼女たちにそのまま当てはまるものじゃなかった。それぞれ体型も違えば走り方も違う。メンタルケアなんてマニュアル通りにできるものじゃないし、知ったような口ぶりでその場をやり過ごすなんて
当時のことを思い出して、苦い思い出を噛み潰すように彼は言う。
教科書の内容を暗記して、テストで百点を取れても、人の心の機微はわからない。
参考書を完璧に理解して、レポートが評価されても、人の情の仔細はわからない。
そんな当然のことを思い知って、経験という名前の失敗を重ねた。
『知らないことをそこで知って、一度した失敗を二度としないようにと心に刻んで、そんな日々の記憶が残っている』
「先程の彼女とも、何かそういう失敗談が?」
『トレーニング終わった後、栄養補給のためにハチミツレモン持っていったら、レモン嫌いって言われた。どうやら、個人の好みは教科書に書いてないらしい』
そう言った彼はおどけるように笑っていた。つられて、エイシンフラッシュも笑っていた。「私はレモン好きですよ」と、フォローするように言葉を重ねた。「
『全部覚えているからこそ、
「そういうものですか」
『
しみじみと、どこか遠くに届かせるかのような声音だった。
学生時代。エイシンフラッシュのそれは〝現在〟と呼ばれていて、きっと彼のそれは〝思い出〟と呼ばれている。子どもでいられる時間が終わって、そこから先の長い旅路。学生時代を終えた彼は、今度はいくつもの学生時代を見届ける立場になった。
まだトレーナーの記憶に見届けるべき数年間を刻んだのは一人だけ。それでも、きっとこれから増えていく。時間と共に、思い出を残していく誰かが、エイシンフラッシュの後にも現れる。
そう考えると、なんだか不思議な気分になる。エイシンフラッシュの素直な感想だった。
『生徒のことも、失敗のことも、いくつもこれから増えていって、忘れられないものになる。きっとペスタロッチーもそうだった』
「それは、何故?」
『〝隠者の夕暮〟は、貧民学校経営の失敗の後に書かれたものだからね』
現代の教育学に名を残すペスタロッチーではあるが、その道のりは決して順風満帆なものではなかった。
ノイホーフを立ち上げた彼はそもそもの農場経営に失敗し、次いで貧民学校の経営にも失敗する。1780年以後に執筆された彼の著作は、生活の糧を得るために必要に迫られてのものでもあるのだ。
しかし、そのような逆境の中に立たされても、ペスタロッチーは子どもの教育への熱を失うことはなかった。理論を組み立て、数多の教育方法を著し、フランス革命によって情勢を大きく変えた1798年、学校整備を課題とした新政府の設立した施設において教員に抜擢されるまでになった。
『どんな苦難があっても、生徒のことを考え続けた。より良い方法はないかと模索し続けた。それはね、フラッシュ。本当に生徒のことを想っていないとできないことだ』
事業の失敗と学校経営の失敗が、ペスタロッチーの人生にとって大きなターニングポイントであったことは間違いない。生活に困った彼の著した〝リーンハルトとゲルトルート*4〟は一躍彼の名声を押し上げることになり、後の〝ゲルトルート児童教育法*5〟もヨーロッパで広く評価され、様々な教育学者がペスタロッチーの教室を訪れたとも言われている。
小さな農場から始まった試みが、やがてヨーロッパの、そして世界の教育の根源を築き上げるまでになった。そんな偉大なる教育者の心の中には、きっとそれまでの教え子たちが住んでいたんだろうと、トレーナーは語った。
『そんな偉人でも間違えることはあるし、見違えるほど変わることもできる。そう考えると、案外新人未満だった頃の初心に戻ってみるのも悪くない』
それに、と彼は続けた。日はもう沈みかけていた。
『そうやって失敗と反省を繰り返したからこそ、君のトレーナーになるという光栄が貰えたんだったら、俺はそれが嬉しいよ』
「……貴方はまた、そうやって」
『ああ、それと』
エイシンフラッシュの言葉を遮るように、トレーナーが言葉を挟む。聞こえているのかいないのか、その真意はわからない。
わからずとも、きっと何かが通じている。歯の浮くようなキザな台詞も、それが本心からのものだと知っているから、エイシンフラッシュはそれ以上言うことはなかった。
『少しだけヤキモチ焼きな君に、これだけは弁明しておくよ』
蒸し返すようなその言葉と、しかし巫山戯た様子のない優しげな彼の
それはカメラと電波を介した故の映像の乱れか、それとも恋慕のレンズに覆われた彼女の瞳の誤作動か。もしかしたら、元よりトレーナーがそんな顔をしていたのかもしれない。エイシンフラッシュにはどれが真実なのかは判別がつかない。────だが、
『過去に誰と出会っていても、これから誰と出会っていっても』
────それでも構わないと、彼女は思った。
『俺の一番は君しかいないから』
しん、と音が消える。
赤く染まった空は次第に
さん、と葉が揺れる。
イーハトーヴォのすきとおった風が一筋吹き抜けて、沈黙の空が終わりを告げる。
果たして何秒黙っていただろう。脳が言葉を理解して、口先に伝えるまでにどれだけの時間がかかっただろう。
0.2秒。反射神経の平均値。0.1秒。反射神経の限界値。
「……え?」
7.5秒。エイシンフラッシュが一言吐き出すまでにかかった時間。
「それは、どういう────」
────
それは再び聞こえたすきとおった風の音。
画面の向こう、どこか遠くから虫の声が響いた気がした。
日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。
秋は夕暮れ。枕草子のとある一節。そんな言葉を思い出して窓の外を見てみれば、すっかり日は落ちてしまって、手元の時計の短針は、とうに6の数字を過ぎてしまっている。
トレーナー室に来た時刻、17時36分。日の入りの予測時刻、17時49分。間にあったのは13分。現在時刻、18時02分。
「……時間が」
『ああ、たしかに。もう結構遅くなってる』
言われて気がついたのか、トレーナーも左腕を確認した。伸ばした真っ白なワイシャツの袖から腕時計が覗いていた。
『そろそろ切り上げようか』
「そうですね」
『ああ』
カメラに近づく彼の手が、この
ただ一瞬、赤いバツ印にカーソルを合わせる。それだけの動きが厭に寂しく感じるのは、果たしてエイシンフラッシュの胸に燃える恋心のせいだろう。
『それじゃあ、またね』
◇◆◇
そのたった一言だけを最後に、軽快な電子音と共に音が途切れる。風の音と虫の音は消えて、トレーナー室にはただ、静寂とエイシンフラッシュだけが残った。
「はぁ……」
映り変わった画面を見てみれば、先程まで開いていた彼とのトーク履歴と、その一番下にある通話終了の表示。すぅ、と指を滑らせて、そのやり取りをアプリアイコンの中に押し込む。ホーム画面に戻ったスマートフォンを眺めて、一抹の名残惜しさを溜息と一緒に吐き出した。
欲を言えば、もっと話していたかった。会わなかった三日分。これから先の四日分。今は隣にいないあの人の声を聞いて、心に募る取り留めもない
残念ではあるけれど、しかしほんの20分程度であってもわがままな想いに付き合ってもらったのだから、文句なんて言ったら
────それに。
風が木々を揺らす中で聞こえた彼の言葉を思い出す。最愛の彼が〝弁明〟と称した、とある言葉を。
────〝俺の一番は君しかいないから〟
ただの会話の流れの一つでしかないのかもしれない。その言葉にどれだけの価値があったのかは測れない。しかし、ただの空気の振動でしかない、ただの電波に乗って届いた機械音声でしかないその言葉が、エイシンフラッシュの心を揺らして仕方がない。
「一番……」
順番。順序。序列。先頭に立つモノ。何よりも前にあるモノ。ウマ娘にとっては、何よりも価値があるモノ。
過去に誰と出会っていても、エイシンフラッシュが一番。
これから誰と出会おうとも、エイシンフラッシュが一番。
何度も頭の中で言葉が回って、その度に顔から火が噴き出しそうになる。鏡なんて見なくてもわかるくらいに、彼女は自身の顔が赤く染まっていることを自覚していた。
────ええ、まあ、はい。
────そうですよね。そういうことですよね。
言葉が回って、目が回る。呟くように、漏れ出すように「一番……」と口から言葉が飛び出ては、それをまた吸い込んで心の内側に染み込ませていく。トレーナー室にはイーハトーヴォのように風なんて吹いていないから、上がる体温は冷めないままに、その心の内側にまで恋の熱を蓄積していく。
────きっと、これは彼なりの表明。
そう、つまりは。
そんなもの、彼女の脳裏には一つしかなかった。
「────間違いなくプロポーズですね」
エイシンフラッシュは恋愛模様になると途端に掛かり気味になるウマ娘だった。自制心*6取っておけばよかった……。
エイシンフラッシュは久しぶりにトレーナーと話せたという事実にかなり浮かれていた。ただでさえ普段と恋愛絡みで思考能力に差が出るタイプである彼女は、実のところ、三日間もの間トレーナーに会えていないという現状にかなりのストレスを抱えていた。
そんな中で、ほんの少しの時間とはいえ仕事より自分を優先してくれたという歓喜は、エイシンフラッシュが舞い上がるには十分な刺激であった。途中、トレーナーが他の女の子と話すという予期せぬアクシデントがあったが、それもまた許容範囲。自覚すらしていなかった独占欲が顔を出したりしたような気もしたが、結局そんなものは不要なのだと彼女は断じた。
────それは、トレーナーさんは素敵な方ですし。
────魅力的なのはすごくすごくすごーくよくわかります。
────でも、まあ。
「彼は私のこと大好きですからね……!」
もしかしてバグった?
とはいえ、エイシンフラッシュがそう思ってしまうのも無理はない。彼女ら二人は3年間を共に駆け抜けたパートナーであり、互いに気心の知れた二人三脚の仲である。そうは見えないけど。
彼女がそんな関係を恋人だと誤認してしまうのは、ドイツと日本の文化の違いであったり、トレーナーからかけられ続けた言葉といった要因が大きく、決してエイシンフラッシュが一人だけ先走って勘違いを深め続けているのが原因ではない。本当にそうか?
エイシンフラッシュを勘違いさせた発言は、例えば「ひと目惚れしてたからかな」*7とか「きっとこうなる予定だったんだよ」*8とか「あの日の君は本当に美しかった」*9とか「もちろん、グリュックリッヒ!」*10とか……。
あいつ前科多すぎるだろ。
そんな言葉をかけられ続けて関係性を誤解した一人の少女が、大好きな彼と会えない時間が続いて少しナイーブになったところに
「いえ、でも、まだです。結婚の予定は3年後……卒業してしばらくしてからでないと……!」
なんでそこだけ常識的なの?
頭を横に振り、火照った頬を無理矢理冷やす。力を入れていないと緩んでしまう口角に何とか下がってくれるよう命令をして、いつも通りの凛々しい表情を取り繕う。どうにか戻ってくれたかとスマートフォンのインカメラを起動すれば、そこに映っていたのはまだ若干頬に赤みを残した恋する乙女の姿だった。
「……貴方がいるから、私はこうなんです」
独白。誰に聞かせるでもない、拡散的な感情の発露。
きっとこれは、柄でもない。柄なんかじゃない。かつての自分に聞かせたら、信じられないとでも言いたげに、仏頂面で『有り得ない』なんて口にするのだろう。エイシンフラッシュという少女はそういうモノだった。そういうモノであろうとした。散逸したかつての自分は、もうわからなくなってしまったけれど、きっとそういうカタチをしていた。
誰かと三日も会えないだけでここまで取り乱すなんて、それこそ3年前のエイシンフラッシュでは有り得ない話だ。一人であってもやることは変わらない。一人で遂行できるスケジュールを
窓の外を見る。黄昏時はもう過ぎた。赤く染まった空は地平線の向こう側へ行ってしまって、黒く染まった夜空の反対側からは月が優しく街を照らしている。
帰寮予定時刻、超過。予定にない通話をしなければ、きっと守られていたはずのスケジュール。
後ろへとズレた今後の予定に、エイシンフラッシュは一行書き足した。トレーナーさんとお話する時間、追加。その筆先は弾んでいた。ズレた予定の隙間には、小さな幸福が挟まっている。少なくとも、彼女はそう信じていた。
筆を止めて、手帳を閉じる。きっとこれから予定が詰まる。少しだけ忙しなく動いて、できるだけ修正が効くように。それでよかった。その代わりに、何か幸せなものを胸の中に詰め込めたから。
────トレーナーさんが戻るまで、あと四日。
きっと、普通の人にとっては短い時間。それでも、恋する乙女にとっては長い時間。その数日を、今受け取った幸福を消費して生きていく。仄暗い水の底で肺の中の酸素を取り込みながら泳ぐように、
彼が戻るまでにお菓子でも作っておこうか。以前喜ばれたグミを、また何か一つ。そうやって考えるだけで胸が熱くなる。近い未来を夢想して、仄かな期待を抱いている。エイシンフラッシュの
スケジュール帳を閉じて、誰もいないトレーナー室を振り返る。いつもは見送ってくれる誰かがいるこの部屋も、今はただ
「それでは、また明日」
その一言だけを置き去って、エイシンフラッシュは灯りを消した。
◇◆◇
景色など見慣れればありふれたものでしかなく、心を落ち着ける虫の音も、
────
一際強く吹き下ろすような山風が髪を揺らすものだから、トレーナーは片手で額の辺りに手を当てて目を覆った。月明かりは流れる薄雲に覆われて見え隠れしていた。
「……戻ろう」
岩手の気温は東京より低く、残暑の九月といえども肌寒いものがある。ワイシャツだけで出てきたのは失敗だったかもしれない、とはためく袖を押さえながら踵を返した。出張用として充てがわれたホテルを目指し足を踏み出せば、何やら爪先に小さく当たるものがあった。
拾い上げてみると、それは生徒手帳のように見えた。顔写真を確認すると、それは先程声をかけてきたウマ娘のものだった。
────落とし物。
無視するわけにもいかない。わずかについた土を払い落とすと、トレーナーは落とし物を届けるべく職員室の方向へ足を向けた。とりあえず、ホテルに戻ることよりも、肌寒い中庭にいたくないという気持ちの方が強かった。ウマ娘の寮はトレーナー立ち入り禁止であるから直接届けることはできないが、明日になれば教室の担任か彼女の担当トレーナーが届けてくれるだろう。
そう思った矢先、スマートフォンが震えた。エイシンフラッシュからメッセージが届いていた。
『今日はありがとうございました』
律儀な子だ、と笑みがこぼれる。こちらこそ、と返信を打つ。そのほんの小さなやりとりを、きっと『日常』と呼ぶのだろう。トレーナーの脳裏には、彼女と交わした言葉の数々が浮かんでいた。その中には、先程の中庭でのものもあった。
通話越しでの会話は、考えてみればあまりしていなかったような気がした。大体の場合エイシンフラッシュとのやりとりはメッセージか、あるいは会って直接というものばかりだった。たまに音声通話を繋いでも業務連絡ばかりで、ああいった取り留めもない世間話に花を咲かせることは、それこそいつかの夜に月を見たあのときくらいではないだろうか。
そんな珍しい出来事は、彼の記憶によく刻まれていた。その中で自分の発した言葉と、彼女の反応もまた、忘れることのない思い出の一つとなって積み上がっていくのだろう。
例えば、らしくもなく吐露した不安のこととか。
例えば、らしくもなく嫉妬した彼女のこととか。
────それこそ、珍しい話だ。
トレーナーは通話越しのエイシンフラッシュのことを思い返していた。これまでの記憶を振り返っても、彼女が何かに嫉妬しているところは見たことがない。少なくとも、彼自身は見たことがない一面だ。
嫉妬とは即ち比較の心理である。彼我の大小、対象との優劣。単純なレースにおいての力量差であるとか、そういう話ではない。精神的な劣等感と優越感の差異、そういったものをエイシンフラッシュがしているところを、トレーナーは見たことがなかった。
────そんなの、不要なのにね。
一見すると完璧で、3年間で精神的にも成長していて、大人よりも大人びたウマ娘は、しかして未だ少女である。そんな一面を垣間見た気がして、なんだか笑えてしまうような気がした。
トレーナーから言わせてみればおかしな話である。そもそも比較なんてする必要がない。彼にとって、エイシンフラッシュはどうしようもなく特別な存在であることに変わりはないのだ。
────〝過去に誰と出会っていても、これから誰も出会っていっても〟
────〝俺の一番は君しかいないから〟
だからこそ、彼のかけたその言葉に偽りはない。
何故ならエイシンフラッシュは、トレーナーにとって一番の────
「まあ、
そうはならんやろ。
残念ながらそうなってしまった。トレーナーの告げた『一番』とは、女性としての一番ではなくトレーナーとしての順番でしかなかった。それはたしかに過去に誰と出会っていてもこれから誰と出会っていっても変わりはしない。初担当ウマ娘がエイシンフラッシュである事実は決して消えることはないのだから。
「なんか嫉妬してたみたいだけど……まさか他の子と話してたからとか、そんな理由でもないだろうし」
実はそんな理由なんですよ。お前は知らないだろうけど。
彼にとってエイシンフラッシュが嫉妬した理由は、自分の担当トレーナーに、初担当だと思っていたのにそれ以前の知り合いがいたから、ということとして解釈されていた。
半分正解、半分答えが出ていない。トレーナーの脳内にはエイシンフラッシュから向けられた恋愛感情なんてものの存在は一切介在していないので、それが恋する女の子の可愛らしい嫉妬心であることを全く察することができない。
精々が『トレーナーさん初めての担当だって言ってましたけど、もしかして他のウマ娘も見てたなら嘘になるんじゃ……』のような、割と見当違いの心理推察を
故に『君が(初めて担当した)一番(最初のウマ娘)だよ』という意味合いのあの発言に繋がるのであるが、これでは恋愛回路オーバーヒートの恋は盲目ウマ娘に通じるはずがない。ある意味では当然の帰結だった。
振り返って、後ろを見た。歩いてきた廊下と、遥か後方に中庭に続く通用口があった。地面に木の葉が一枚落ちていた。それが
見慣れた光景、見慣れた風景、見慣れたいつもの空模様。秋の空は移ろいやすいと言うが、どうやら今は、ずっと晴れたままらしい。
そのままで在ってくれればいいと、ぼんやり心に浮かんだ。ひょう、と優しく風が吹いた。そのままで在りますよと、秋の空が答えた気がした。
「……それじゃあ、また明日」
そうやって、誰に向けるでもない挨拶だけを置き去った。
んこにゃ様よりファンアートをいただきました。ありがとうございます。
浴衣姿のエイシンフラッシュを描いていただきました。Twitterのリンクはこちら。
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この戦いの最終的な勝者は?
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エイシンフラッシュ
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トレーナー
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ダークライ
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その他