日付の変わった女川湾は引き続きひっそりと夜に包まれている。出島の東側、いくつかの岩礁がぽこぽこと海面に顔を出しているここでは、きらきらと光る星空を穏やかな海面が映し出している。
しばらく、そんなメルヘンで平和な海の上で彼女の砂糖細工のような画策を手伝っていると、東の方からゆっくりと影が二つ近づいてくるのが見えた。北上さんたちが戻ってきているのだろう。無事に敵の殲滅を確認できたのだろうと思うとようやく気が楽になる。
「最後に一つだけ聞きたいんだ」
「なにかしら」
落ち着いた様子から見ると、純粋な興味で質問しているのだろう。
「大井さんがびしょ濡れだったところを見ると、水を被ったのかと思ってるんだけど、実際はどうしてかな」
なるほど、海に浮くのが通常の艦娘としては頭まで濡れるというのはあまりない、疑問に思ってしまうのは自然なことだ。
「爆風を避けるために、一度海に倒れこんだのよ」
「え……。そんなことをすれば沈んでしまうじゃないか。そんな危険なことを――」
「重量の所為で浮きにくいけれど、そんなにすぐには沈まないわよ。魚雷も打ち尽くしたし、主砲も副砲も手放したから装備自体も軽くなっていたし、余計なものを無理やりパージすればなんとかね」
つまるところ、私の火力装備は全て海の藻屑だ。警備府には予備の主砲などもあるとはいえ、主砲はまだまだ使えたのだから勿体ないかもしれない。やんわりと提督から注意されそうではあるが沈まなければ安いというものだ。
「服も装甲の代わりを果たしてくれるけれど、綿や絹なんかの普通の布より少し重いくらいであまり変わりはしないわ。体も人間に似たような体組織のようだし、肺に空気を溜めておけば沈む速度は遅くできるの」
『あとは』と最も重要なことを彼女に伝える。
「私と北上さんの愛に溢れた絆を信頼しているからこそ、成せる業です!ふふふ」
「大井っちー、自慢げなところ悪いけど、次にわざとやったら助けないかんね」
響に理屈を説明しているうちに北上さんたちも戻ってきたようだった。話をしていて気づけなかったことに少し心を痛めたけれど、何事もなくて安心した。
「北上さん! ご無事でなによりです」
喜ぶ私を脇目に、響はというとなにやらげんなりしている。折角有用な情報を教えたというのに。海中に沈んでも短時間であれば助けられるということを知っているのは僅かな艦娘だけなのだから。
ただし、知っているということは戦友が消える一歩手前か、轟沈するところを見た者だけ。そういう戦局の多くでは生き残りも少なく、また皆語りたがらない。語ってしまえばどういう使われ方をするか分からないし、傷を抉るのは辛い。
「そういうことでありましたか……。その情報は大本営にはお伝えしないのでありますか?」
あきつ丸の言うことももっともだ。有用であれば報告するべきなのだろうが……。
私が釘を刺すよりも北上さんのドスの利いた言葉の方が早かった。
「そんなことしちゃだめだよー、あきつ丸さん。奴らがそんなことを知ったらねー」
脳が凍るような殺気が北上さんからほとばしる。戦闘中ですらも日常の延長線上のように深海棲艦を沈める彼女からは想像もつかないだろう、藪蛇をつついたあきつ丸に同情する。
「――糞を煮込んだような戦いが各地で始まるよ」
『だから、絶対に人間に教えちゃだめだよ。提督であっても』と言葉を締めて北上さんはあきつ丸に枝垂れかかるように肩を回した。
「し、しかし……、戦局を有利にできる情報の隠ぺいが露呈すれば軍法会議に掛けられてもおかしくないかと……」
「そうだね。沈んでもすぐに助けられるなら、帰還できる仲間が増えるし有用な情報だと思う。大本営はまだしも提督にも報告しないのはまずいと思うかな」
それはなかなか素敵な考え方だ。素敵すぎて理解されない。北上さんは顔を上げず、表情は分からない。しかし険しい雰囲気を纏っているあたり、ちょっとよろしくない。
私はというと殺気を食らってなお言い下がるあきつ丸の胆力を無駄に見せつけられていて頭が痛くなってくる。響にしても少しは北上さんの言葉尻で察してほしい……。
「北上さん、落ち着いてくださいな。誰だってそう思いますよ、体験しなくちゃ分からないことですから」
「大井っちはそっちをかばうんだ?」
「私がかばうのは北上さんだけですよ」
私と北上さんとの会話も妙な雰囲気を纏っているのを感じてか、響とあきつ丸は顔を見合わせている。というか、あきつ丸は少し危機感を持って欲しい。
「北上さんは危惧しているんですよ。特攻部隊に組み込まれたり、練度の低い子が盾にさせられたり、艦娘を消耗させるような戦術が広まる可能性を」
「し、しかし、そんなことをしてもジリ貧になるのは、流石の大本営も承知していると思うのでありますが……」
「響もあきつ丸も前線らしい前線には配属されてないでしょう? 貴方達は目の前で沈んだ戦友を見たことはありますか」
二人は口をつぐんでいる。
「では、沈んだ経験はありますか」
同じく黙したまんま顔を横に振る。
「それはそうでしょう。3年は……経っていないでしょうが。この国、日本の深海棲艦へ対する侵攻は止まったまま。いえ、北の前線に至っては後退し最小限の範囲で防衛を続けている模様です。攻勢から防衛に転じた、その意味が分かりますか?」
「……小職が聞き及んだ戦闘教義では防衛と侵攻では必要な戦力が違い、侵攻は防衛線力に対し最低で3倍は必要であります。
であれば、戦力が不足しているとなれば防衛に徹さざるを得なかったと」
「確かに、ソ連でも地点攻略の際は6~10倍の戦力を集中するように要求していたはずだよ」
「そうですね。環境や状況、政策や士気などの流動的で不確定な要素もあるので杓子定規は収まりませんが、兵力を集める目安としては分かりやすい指標の一つです。でも、私が尋ねているのはそういうことではない、と分かりますか?」
私が聞いているのは意味だ。その中身の話。何故、攻勢には3倍の兵力を要求されるのか。
こんな話はあまり話さないだろう。使われる側には関係のない話であって、大局的な戦術や戦略を練る時に意識することであり指揮する側の考え方だ。彼女たちの様な新兵扱いの艦娘はまずは戦術や戦法を叩き込まれる。無駄なことを考えさせずに必要な資質、手駒としての性能を求められる。
そう考えれば、私の部隊を率いていた提督は優しかったのだろう、世間話程度ではあるけれど教えてくれたのだ。私は手駒であって無関係だとは思っていたけれど、『いつか必要になるもんやで』とけらけら笑っていたのが昨日のことのよう。
「攻勢をしかける側はある程度の消耗を前提としている……」
「おー、大正解だねー。響は頭がいいね」
「しかし、我々は戦場にいるのであります! 命を捨てる覚悟など――」
やはり、ピンと来ないみたいだ。
「貴方が命を捨てるかどうかではないんですよ」
北上さんの腕を振り払ったあきつ丸の覚悟を弁じようとした熱も、私が邪魔をしてすぐさま冷え込んだようだ。誰に向けてか分からない敬礼をしながらきょとんとしている様子は可愛らしいが、ともかくそんな覚悟は要らない。
「消耗なんて言葉で表してますが、要は隣の仲間が死ぬ、ということです」
私の言葉の後、あきつ丸の手は力なく落ち、響も佇まいをしゃんとした。説教くさくなってしまうが、少しお話しておかなければならないのかもしれない。北上さんは私に頷くと静かに別の岩礁へと向かった、あまり積極的に聞きたい話ではないだろう。きっと北上さんの方が酷かったのだから。
「私と北上さんはそういう作戦に出ていたんです。北と南で、離れた戦線ではありますけど。あの時はまだ日本に攻め入る勢いがありました。小笠原諸島に近づく敵を撃破し、東京湾の安全を確保し、製油所地帯に船を通し、瀬戸内海を掃除しました。私が海に降り立ったのは、このまま元の平和な海を取り戻してやろうと活気づいていた最中のことです」
少し風が強くなる。波間のささやきが数を増していた。
「私は佐世保から出て、東シナ海へ派兵されました。沖縄諸島沖を取り戻すためです。取り戻すぞと息を巻いている大本営は艤装にしろ鋼材にしろ、あらゆる物資を用意してバックアップしました。私達も今までの戦果がありますし、何度か死線を潜り抜けた戦友としてお互いに信頼していて、気分は高揚したまま抜錨したんです」
目を閉じてあのひと時の情景を取り出していく。
「士気は高い。美しい浜辺を抱く沖縄本島も、自然豊かな石垣島や宮古島も、全て取り返すはずだったんです。なにより、救援を待つ人も居るはず・・・・・・。
かの海を取り戻し、人々の生活を取り戻し、日本だけじゃないですよ、台湾や南シナ海に浮かぶ諸外国も含めて私たちが取り戻して見せると」
楽しかった。平和とは正反対の概念から生み出された私たちが、争いの手段としての私たちが、今度は完全に単純に平和を取り戻すために呼び出されたのだと確信して憚らなかった。嘗ての水兵たちが守りたかったこの国を、敗北主義に染まることを良しとせず世界でも有数な先進国の仲間入りをした力のある日本を、誇りを持って守るのだと。
「会敵はすぐでした。最初は良かったんです。偵察部隊や防衛部隊だったから。エリートやフラッグシップも居ない。順調にスコアを伸ばす私達はさらに活気づきました、何よりこのまま侵攻を進めれば良いのだと安心できた」
しかし、それは甘い考え方だったのだ。
「いつの日か戦力は拮抗し始めました。深海棲艦も愚かではなく、重巡や軽空母、なんでもなかった軽巡もエリートが混ざり、戦術を駆使して防衛してくる。無傷だった部隊もいつの間にか小破、特に護衛を目的とする私の部隊は中破も日常となっていきました。もちろん経由する島々を一時の拠点とし本土からの物資の補給も受けてはいました、戦線を押し上げるうえで兵站は重要ですから大本営も怠るはずもありません。ですが、日々侵攻することで距離は伸び、補給の頻度も少なくなるのは予想に難しくありません」
二人分のシルエットは話の続きを待っていた。北上さんは岩礁に腰かけて髪をくるくるといじっている。
「丁度、今ぐらいでしょうか。年の瀬から始まっていたその計画も山場を超えたはずでした。私たちは傷つきながらも沖縄本島を奪い返して、もう少しで敵を追いつめられるといったところ。私達の艦隊は3部隊で主力艦隊が一つ、私の部隊ともう一つからなる護衛の2艦隊です。敵の主力部隊をやっとの思いで退けた主力部隊と私達は、那覇で少し骨休めをしながら、補給船に付き添っている護衛部隊が来るのを待っていました」
一呼吸置く。私の大事な記憶を彼女達に託すために私は口を開いた。
「那覇で待機をして二日ほど経った夜です。突如連絡の入った無線、『敵打撃群ノ襲撃アリ』の言葉。敵の戦略は補給線の断絶が目的でした。しかし、みすみす同胞をやられるわけにもいかない私たちは救出に向かうことにしました。主力部隊は本島の安全確保のために待機、代わりに私が率いる隊が助勢に向かいました」
穏やかな夜の海に繰り出す度に思い出すあの事。
「彼女たちも奮戦していましたが、海に散り散りでした。補給部隊は本土寄りの島へ引き返させ、殿として防戦に徹していたと聞いています。しかし、空母を主力とする敵打撃群の艦載機の勢いは強く、部隊は半壊。彼女たちは主力の護衛艦を沈めるだけでも手一杯の模様でした。なんとかポイントに辿り着いた私達は敵艦隊の横っ腹を殴りつけてなんとか助けようと目論見ましたが、奴らもそう易々とやられてくれることもありません。追加の敵水雷戦隊も応援に間に合ってしまったことで乱戦模様の海にはオイルや硝煙の匂いが充満していました」
今でも吐きそうになる。天龍みたいなセリフは私には一生言えないと思う。重油と火薬の匂いを嗅ぐとフラッシュバックしそうになってしまうから。
「私は向かってくる砲雷撃を避けるのに必死でした。その時の旗艦だったというのに、自分のことしか考えられず、フォローまで回ってやれませんでした。空母は撃沈させましたよ、主砲は拉げ副砲も手放してボロボロの艤装を纏いながら、勝利の余韻に浸って後ろ振り返りました。『ようやく、駐屯所へ帰れますね』って。誰もいないというのに」
『いえ』と私は続ける。
「一人だけ、私の後ろに下がって貰った補給護衛部隊の旗艦の子がいました、海の中ですけどね。その沈み方はゆっくりで手を伸ばせば未だ間に合うと思ったので急いで掴んで引っ張り上げたんです。実際、沈み方は鉄の塊を身にまとっているとは思えないくらい遅くて、だから手をつかめたんです。なんとか海面に顔を出せるくらいひっぱりましたけど、彼女はボロボロでした。顔にはなにか艤装の破損から飛び散った鉄くずが突き刺さっていて、綺麗でまっすぐだったグリーンの髪も焼け焦げて縮れ、耳からは血が出ていました。顔だけでそれなら、体はもう、ちぎれていたのかもしれません」
泣きそうな目に喝を入れて気丈を保つ。震えそうな口に静かに力を込めて声が震えないように躍起になった。
「彼女はあきつ丸みたいに固めの口調でしたし、何より同じくらい勤勉でまじめでした。響のように聡明で、私とは比較にならないほどフォローが上手な駆逐艦で。当時、新参者の私とも仲良くしてくれたんです。少し口うるさいけれど屈託なく笑う笑顔も、いざ戦闘になると凛と引き締まる頬も、何より信念を持った所作が美しい子でした」
消耗が前提ということはそれが日常になるということなのだ。助けたいのに助けられない。そも作戦に従事した時点で仲間に看取られる覚悟も必要だが、仲間を看取らなくちゃいけない覚悟をも要求される。
「昨日、隣で笑いあった子が気づかないまま背中で爆ぜていた。一昨日、健闘を称えあった仲間が目の前で海に引きずり込まれていった」
『なにより』。そう、なによりも。
「信頼し尊敬していた戦友が、『少し疲れた』と自ら海に身を沈めるところを、看取らなくてはいけない」
あのシーンが、夢で何度も見たシーンが、死んでしまった後でも忘れられないんだろう。
『残存勢力がいるかもしれない。私はもう荷物だ、意味がない。一人で行くんだ』とか弱い声で掛けられた言葉が耳に痛い。ああ、戦争をしているんだなと思う。
「あのあとどうやって帰ったか分かりません。それでも戦闘詳報は書かなくてはなりません。戦友の死を記憶し、記録することは正気じゃできませんよ」
あきつ丸は軍帽の鍔を強くつかみ、顔を隠すように深くかぶっている。
「でも……、泉司令官なら……何か違うかもしれない! ほら、突拍子もないアイデアできっとそういうことが起きないよう――」
まっすぐでわがままな子だ。響は食い下がるように私に詰める。
「練度が高い艦娘が沈むのはよくないって言っていたのを聞いたよ。だから、司令官ならそれを伝えてもそうならないようにしてくれるはず――」
「甘ったれるな、響」
その優しさと無邪気な信頼を、そのまっすぐな気持ちを忘れないでいて欲しい。それでも、だからこそ私は彼女を否定しなければならない。
「泉提督は必要となったら実行する、目的のための手段を択ばない人です。知ったとして、それ以外の策でなんとかなるなら、分かりません。けれど、その方法でしか突破できない事態になれば、ましてや大本営からの命令であれば、五分の慈悲もなく私達にそう命令します」
それは私や北上さんはともかくとして、提督自身にとってよくない。彼にこれ以上どす黒い過去を背負ってほしくない。
「私達が私達を守るための隠蔽、その側面もあります。けれど、私と北上さんが思うのは、信頼に値する泉提督にそういう選択をさせたくないということです」
北上さんと再会して暫くした頃、『提督をあんな顔にさせたやつを私は許してやらない。それが私自身であっても』と悲痛な意思を持って私に吐露したことを覚えている。泣きそうな彼女を私は抱きしめることも出来なかった。強く拒絶されたから。
『大井っち、ごめん。でも、私を慰めることはしないで欲しいんだ』
淡々と言い放つその言葉に私はより一層その痛ましさを感じた。優しい北上さんはきっと割り切ることを良しとしないだろう。生きている限り、引きずって這いずって、それでもその思いを運ぶのだと思う。
彼女は甘えることを自分に良しとしなかった。今も決してその姿勢を崩さない。多分、そんなことをすれば自分の信念も溶けて消えてしまうことが分かっているのかもしれない。
「正しいことを正しい手続きで行うっていうのは、砂糖細工のように甘くて綺麗に見えるかもしれない。でも、私達がしているのは対極に位置するほどに、不細工で汚らしくて醜悪な戦争なんです。そしてその中で、生きている者としての矜持を持ち続けなければなりません。人が人でなくなれば、艦娘が艦娘でなくなってしまえば、提督を含めて私達は暴力を操るだけの装置になります。いとも容易く命を壊し殺め食い散らかす獣になることでしょう」
「矜持……でありますか」
「私達が私達であるために、私達の敬愛する提督が畜生道に落ちることのないように。私は艦娘や軍人である前に"大井"という分を弁えたいと思ってます」
とは言ったもののきっと提督は知らないフリをしてくれているだけ。あの時の奇襲作戦の時も同じようなことをした私は濡れ鼠そのままに警備府への帰途へ着いた。
その時は誇らしかった。ほとんどが練習艦だった私が、南の島で失敗したこの私が警備府を守るための一助になったことが本当に嬉しかった。
興奮冷めやらぬまま提督の前に出たとき、彼は顔を顰めてしまった。
『大井くん、すぐに入渠を。そして、次からは濡れて帰ってくることは許さない。北上、秘書艦の仕事は不要だ。お前の妹分なんだろう、良く見てやりなさい。以上だ』
折角の勝利に水を差された私は提督に食って掛かろうとしたところ、北上さんに止められた。私は北上さんに謝られてばっかりだ。『怒られちゃったね』なんて言いながら、後悔の念を瞳に湛えていた彼女を見てやる瀬なくなってしまった。今も胸を張れるようなことは出来ない。
――私が言うべきことは全て語れたと思う。凄く惨めだ。分を弁えていないのは私だと思う。それでも恰好つけなければならない。その痛みは彼女たちに不要だと思うから。
「なにより、提督は濡れた姿があまり好きではないみたいですから。煽情的に見えるのかもね」
無様でも冗談を飛ばさなければやっていられない。煽情的に見えるはずがない。北上さんと提督だけが記憶している何かがあるからこそ、『濡れるな』なんて含みのある表現をしたのだろう。
そして、それは優しさなどという甘ったれたものなどではない、おぞましい何かなのだろう。一度堕ちたら二度と這い上がることのできない何か。
「なんにせよ、私達は貴方達にあんな思いをして欲しくありませんから、私と北上さんからは話さないで欲しいと願っていますが……、あとは貴方達の心の向くままに任せます」
私は一つ拍子を手で鳴らした。もうお小言は終わりだ。
「さぁ、帰りましょう。髪も乾いてごわごわするし、早いところシャワーを浴びたいわ」
北上さんの方を見ても彼女はどこか遠くへ体を向けたまま。そっとしておいた方がいいみたいだ。
傷ついた左腕を庇いながら帰るために海へ立つ。
「北上さん、私達は先に戻っていますね」
「うん、もう少し警戒しておくよ」
本当はすぐにでも隣に寄り添いたいくらいだ。私の心は未だに砂糖細工のようで、この不甲斐なさゆえに胸がじくじくと痛んでいるみたい。
「さ、あきつ丸、響。帰投しますよ、戦闘詳報は響に任せようと思います。手伝いはするからもう少し頑張りましょう」
「う、うん、分かったよ」
「……小職も微力ながら助力するであります」
北上さんの様子をちらちらと見る彼女たちは不安げだ。それもそうだろう。単独で残すことなど危険が伴う、とはいえ警戒する人員は必要なので彼女の提案も筋は通っている。なにより、彼女へ何か言葉を掛ける資格は私達にはない。同じ部隊の命を預ける仲間とは言えど、彼女の戦友は私達ではないのだろうから。
「皆、大井っちの曳航は任せたよー。ちょっと引きにくいけど、気を付けて帰るよーに」
背を向けたまま彼女は手を振る。
私が砂糖細工なら、北上さんはガラス細工なのかもしれない。この満月より美しく、孤高なその心に私はいつか並ぶことが出来るだろうか。
「はい、北上さん。さ、帰りますよ。着いて来なさいな、二人とも」
それでも、私は前を向かなければならない。目指すは警備府の方向へ、好候。
そうだ、帰ったら北上さんのベッドをメイクしておいてあげよう。戻ってきたときにすぐ眠れるように。
あぁ、今日は少し、疲れました。