暁の向こうへ   作:出張族

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ウミネコの水兵さん
朝日の観測方法 12月某日 1516


 わたしはその日上機嫌だった。

 提督の秘書官としての持ち回り当番がわたしだったから。

 わたしはその日不機嫌だった。

 彼は唐突に海に出てしまい、それも海からも空からも砲弾や爆雷が襲ってくるような海だったから。

 そんなわたしの機嫌を表すかのように、窓の外ではためき弄ばれる旭日旗が風の強さを知らせている。

 

「クソ提督、今日こそは聞かせてもらうわよ」

 

 わたしは今日、不機嫌だった。

 ずっと話す機会がなく、曖昧にやり過ごされていたのだから。

 

「……勘弁してくれないか、曙。まだこっちの申請書類が出来上がってないんだ」

「………………」

 

 ぺらりとこちらに向けた紙面の上から下までしばしば見やると、整然と印刷された文字と線ばかりが並んでおり、手書きの文字は何一つ見当たらなかった。

 

「出来上がってないどころか、なに一つ書いてないじゃないの! いいから、さっさと書き上げる!」

 

 簡単な書類一つ迅速に書き上げることもできない、そのやる気のなさもわたしが不機嫌になる理由に追加された。

 わたしの怒声を浴びた提督は首をすくめながらもぞもぞと言い訳を作り始める。

 

「そう言われてもねぇ。やりたくもない合同演習だってのに、なんで僕から申請しなきゃいけないんだか……」

 

 わたしは『それだけじゃなく、そもそも――』と無駄口を続けて叩こうという彼を遮る。

 

「うっさい。そういうもんなんだから、諦めなさいよね」

「……あーあーあーー、面倒臭い事この上ない。この前にそれなりの戦果を計上したんだから、もう少しゆっくりさせてくれないもんかねぇ」

 

 そうやって投げやりに吐き捨てた言種は、今のわたしにはあまりにも無神経に聞こえた。散々、こちらが聞いても答えようとしない癖に、自分が大変になると都合良く引き合いに出してくる。こういうところは嫌いだった。

 ともかく、日没までには書類仕事を全て片付けて、ゆっくりと件の話をしたい私も、目的のためには自分の仕事を終わらせなければならない。弾薬や燃料の帳簿を付けたり、鋼材やボーキサイドの調達依頼書をやっつけたり、他にもまだ数件の事務処理が残っている。

 今日は哨戒や演習もすでに終わっており、護衛などを含む外部からの依頼もない。今ごろ、各員は各々の好きな時間を過ごしている事だろう。この時間に仕事をしているのは私と提督だけのはずだ。

 

「曙」

「なによ」

「少しお茶にでも――」

「さっきも飲んだのにまた飲むわけ?膀胱炎になっちゃうわよ」

「…………」

 

 先程は『15時はおやつの時間だ』とか言って紅茶とスコーンを用意していた。そんな用意周到さは日々の業務に役立ててほしいと思うけれど、この人は中々にやる気を出してくれない。とは言っても、大抵のことは日が暮れる直前には完遂するのだが。さっさとできるなら先に片付けてから休めばいいというのに。

 

「曙」

「今度は何?コーヒーは別腹だとか言うわけ?」

「いや、ここの燃料の記載、確認してくれるかしら。この編成だともう少し消費すると記憶してるんだけど」

 

 それは今しがた終わらせた帳簿のことだった。確認のために目を通して貰っていたが、チェックバックがそこまで速いとは思わなかった私は、受け取るのが一瞬遅れて危うく取りこぼしてしまうところだった。

 

「おっと……。君は小憩を入れた方がいいかな、少し疲れたかい?」

「いや……ごめんなさい、疲れてはないわ。ただチェックが早かったから驚いただけ……、ってまたサボろうとしてる?」

「ふふ、バレてしまったね。まぁ、休憩なくてもいいなら続けようか」

 

 そう言って彼はまた申請書と睨めっこしていた。何故、こっちのチェックはこんなに早いのにそっちは手付かずなのか理解に苦しむ。

 

「たかが申請書にどのくらい時間をかけるつもりなの?」

 

 あまりに進んでいない彼の手に苦情を入れながら、わたしは指摘のあった項目の数値と、報告に上がってきた数字の合計を照合するために電卓を叩いた。

 

「そりゃ、数字は嘘をつかなくてよろしいけど、こういった機微を伺うようなものは嘘をつかなきゃ書けないときもあるだろう?」

「なにそれ」

「帳簿については、各編成のパターンと航行距離から予め試算して、リスト化していてね。それと照らし合わせれば大それた数値は簡単に割り出せる」

 

 喋りながら確認していると確かに、見落としていた数字があった。

 

「……本当みたいね」

「ふふん、お役に立てたかしら?」

 

 わたしはイージーミスに気が付かなかったバツの悪さを棚に上げた。そして、その為のダブルチェックなのだから、と開き直りながら、『ほらほら、どうだい』と言わんばかりの提督のドヤ顔を、取り敢えず終わらせるために悪態をつく。

 

「いいから、申請書書きなさいな」

 

 私がそういうと下がり気味の眉根をさらにハの字にさせて、しょんぼりと俯き書類との睨めっこに戻った。少し可哀想だったかな、と心に留めて謝るべきかを悩んでいるところで『ううううう』と唸り始める提督に、やっぱり放っておこうと思い直し、わたしは帳簿を訂正しにかかる。

 ――結局、彼とその書類との格闘は1時間と少しの時間が費やされ、TKOで書類の勝利となった。私が『クソ提督!』と叫ぶのは誰が見ても仕方ないことだと思う。

 

――――

――――

 

 時間は1630を丁度差していた。窓に切り取られた女川湾も黒い影を落としており、既に一日が終わったかのようにアピールしていた。

 提督は憎き敵とも言わんばかりの粗雑さで申請書を机の端へ追いやっていて、一頻りデスクの上の整理が済むと、ぎいと軋む音をさせ席を立つ。その向かう先は部屋の一スペースにある応接用のソファだった。

 重厚な黒い革張りのそれは沈みすぎず、程よい弾力で腰回りを支えてくれる。パッと見ただけでもそれなりの調度品であろう代物だと分かるそれに、尻を落ち着けた提督はわたしの方を見て手招きをしている。どうやら話をしたいらしい。

 今日こそはこの納得できない気持ちをぶつけるのだと、わたしは手招きに応えてソファーへ向かった。提督と対面する位置ではしたなくならないよう、スカートを押さえて座面を陣取ったわたしは、何故だか手に力が入っていた。それはこれから話すことのためなのか、提督を真正面に据えた事が初めてだったからなのか、理由の分からない緊張がわたしの背筋を支えていた。

 提督の瞳はじっと私を捉えていた。まじまじと見るそのブラウンは落ち着いた色味で、彼の色素が薄い事を強調している。少し目に疲労が溜まっているせいか、奥二重のまぶたが重くなっているようで、眠たげな印象を受けた。そうして暫く、じいっと観察していたことに気づいたわたしは気恥ずかしくなって頭を振った。

 そして改めて単刀直入に話を始めようと口を開こうとする前に、提督は言葉を切り出した。

 

「聞きたいっていうのは、この前のことかい?」

 

 意地の悪いタイミングで、意地の悪い質問を飛ばす提督。この前のこととは11月の洋上での敵3艦隊との戦闘のことだ。その記憶は新しく、まだ1ヶ月も経ってない。

 

「……そうよ。1人漁船を操作して戦闘のあるかもしれない海域に出るなんてどういうこと?」

 

 彼は微動だにせず、黙って見つめてくる。話を続けても良いようだった。

 

「しかも、無線も封鎖せず……。そんな事をすれば、ここに本丸がございますって宣伝してるようなものじゃない。狙われたらどうするのよ?」

 

 その出現から、世界的に海を渡る規模の連絡手段が途切れていることから推測すれば、奴らも情報の伝達ということが重要なものだと理解していると考えられる。ならば、無線の傍受によるこちらの状況を把握されることも危惧するべきで、その考えは当初の無線封鎖に表れているはず。

 だからこそ、あの日の大井さんと響の離脱時に迎えに行くことなど、無線で言うべきではないことだし、そもそも提督を狙われて失った場合、私たちは戦略的敗北を喫するかもしれなかった。そうなれば残されることになったわたし達の作戦行動など、瓦解の一途を辿ることになるだろう。

 どう考えてもその行動は軽はずみで自身を危険に晒すような行動は、ただの死にたがりにしか思えなかった。死にたがりの面倒などごめん被りたい。ただでさえ、今際の際に愛する彼らを害することとなったわたしには、到底耐えられるようなことではない。

 今こうして現人として形を与えられて立っているのだから、今度こそわたしはわたしの在るべき姿を成し遂げたい。

 

「僕は大丈夫だと踏んだんだがね。君や彼女ら、艦娘たる存在を信頼しているからこそだよ」

「信頼なんて概念的であやふやな言葉を使って煙に巻こうとするの、やめてくれないかしら」

 

 そういういつもの口上は飽き飽きとしていた。今も『煙に巻こうだなんてことは――』なんて誤魔化すために言葉を綴ろうとする態度に、とうとうわたしの我慢は限界を超えて弾けてしまった。

 

「あんたたち人間が海に出て何ができるって言うのよっ!」

 

 しん、と部屋が静まり返る。

 わたしはどくどくと激しく鳴る鼓動を抑え、提督を睨めつけた。まるで敵を見るかのように睨めつけている私の目線に、提督はたじろぐことなく見つめ返してくる。交差する視線は徐々にその温度を下げつつ……、いや、熱くなっていたのはわたしだけであり、わたし自身が落ち着いてきただけなのかもしれない。

 

「きちんと、守らせなさいよ。お願いだから」

 

 結局のところ、わたしが言いたいのはそれだった。わたしが守るべきなのは、人でありこの国に住む人たちだ。決してコンクリートや鉄骨などで形作られた中身の空いた箱などではないはずだ。

 ――いつの間にかわたしは応接用の座卓の持つガラスでできた天板へ目線を落としていた。半透明なわたしの顔が歪んで見えるのは屈折率の関係ではなかった。

 

「曙くんは何を守ろうというんだい」

 

 ゆったりとわたしによく聴こえるように提督は問うた。

 

「そんなのは――」

 

 『決まっているでしょ』とも言わせないで彼は答えた。

 

「僕なんかは君に守ってもらえるような対象ではないよ」

 

 訳が分からなかった。いきなり真っ暗な迷路に放り込まれたような気分になる。

 きっと顔を上げたら、先ほどと変わらない透き通った茶色い瞳が私のことを射殺すように見つめているのだろう。それは想像でしかないけれど。わたしは俯いたまま顔を覆うことしか出来なかった。

 

「…………明日は非番だったろう。今日はもうゆっくりして欲しい。考えるのはじっくりで構わないから」

 

 『答え合わせはいつでも出来るように、ちゃんとお茶と請菓子を用意しておくからね』と言い残す気配は私の目の前から立ち上がったようだった。

 

「少しタバコを吸って工廠の様子を見てくるとするよ。部屋はこのままでいいし、好きなように使ってもらって構わないからね」

 

 そう言って出入り口へ進む声は私を置き去りにしてとうとう扉を閉めてしまった。

 わたしは端なさなどを気にする相手も居なくなり、ぽつんと残されたソファの上で膝を抱えた。暖房が効いているはずだけれど、東北の寒さは壁越しにも暖かさを奪い去っていくもので、ゆっくりと冷えが侵食する感覚にそうせざるを得なかったから。

 わたしは何を守ればいいんだろうか――。

 

――――

――――

――――

 

 あの日わたしが部屋に戻れたのは何時ごろだったのか、今も覚えていない。この1週間ほどわたしはずっと宿題に向き合い続けている。いや、答えの出ない現状を鑑みると向き合ってる風を装っていたのかもしれない。今もまだ。

 夜は寝つきが悪くなった。真っ暗な部屋に薄気味悪さを感じるようになり、常夜灯の光と戯れながら寝返りを打つことに忙しい。まだ、日々の哨戒任務や演習などでは致命的なミスを犯してはいないものの、どこかでこの不調が露呈するのは時間の問題のような気がした。

 次に来る朝は非番の朝だ。

 以前であれば、非番などというシステムはここで初めて経験したこともあり、何をしようかどう過ごそうかとワクワクして眠れなかった。しかし、今夜、寝付けない理由は全くの対極で、切れ掛かったフィラメントが橙の明滅を繰り返す部屋は殊更に寝つかせまいとする。

 

「はぁ……」

 

 終いに、鬱陶しく感じるストレスに負けたわたしは上体を起こしてリモコンで室内灯を付けた。暖色に設定した明かりとはいえ、眠ろうとしていた目には眩しく感じて明度を低く変更する。

 なんとなく、わたしは辺りを見回す。

 収容人数と居住区の規模との兼ね合いで大抵の基地では相部屋となることが多いけれど、ここは人数も多くなく部屋が余り気味のこともあって、希望がなければ次の人員追加までは一部屋を宛てがわれている。多分に漏れずわたしが占有することになった部屋は、東寄りに取り付けられた扉から入ると左右に長方形に広がった空間だ。南北に仕切られている壁をよく見ると恐らくは元々2つに分かれていた部屋を改装したのか、壁際とはいえ不自然な位置に柱が通っている。狭い2人部屋よりもスペースを広く使えるように、と意図されたのだろう。

 収容人数は4名の部屋。

 壁を挟んだ壁の真ん中あたりにはロフトベッドが据え付けられており、その両脇には個人用に用意された机と椅子が置かれていた。その内3つのセットは元々用意されていた木製のものだけど、一組だけ白の基調に天板面が水色に塗られている。

 それは思い入れのある一品で、とびきり大切なものだ。

 私物を置き部屋を彩る許可を貰えることもあまり例の見ないことだと言うのに、提督は更に『なにか不満はないか?』と聞いたことがあった。そのような事を聞かれるなんて全くの埒外だったわたしは上手く回らない口で答えた事を覚えている。

 十分に良くしてもらっていると伝えつつも、何かあるだろうと意見を乞う彼に、『強いていうならば部屋が殺風景に見える』と伝えた。なるほど、と得心した提督はなにかを企むように口角を上げた顔で『明日、出撃のない子達を寮の前に集めておいてくれ』と返事をしたのだった。

 次の日に頼まれた通りに皆を集めて外に出ると、運動用のスペースに塗装用のペンキとスプレー、ニスとクリアラッカー、ハケやヤスリなんかをどこからか用意して店を広げて提督は待ち構えていた。何故か柱間さんも隣に立っていて、年齢さから親子のような雰囲気だった。どうやら、調達を依頼するなどしては時間が掛かるだろうとのことで、『やってしまった方が早い』と柱間さんを巻き込んで突如DIYの計画を打ち立ていたらしく、わたしは大層なことになってしまったと焦った。そこまでしなくても満足していると伝えるも、巻き込まれた側の柱間さんに『びでっこがあんなさとぜんだ部屋さいるのは良くない』と、快活な笑顔を返されたわたしは、ぽかんとしてしまったのであった。

 そんなわたしを尻目にわーきゃーと騒がしいBGMを背に、予備に余っていた机や椅子なんかを目止めする様はきびきびとしていて、手慣れている様子を窺えさせる。そして、その間に所属する子達のオーダーを取っているツナギ姿は、警備府の外観には、それはそれは全く似合わない光景だった。

 そんな机から目を離して部屋の中央に目線をやる。そこにはソファとローテーブルが安置されていて、時たま訪ねてくる子達と寛ぐ場所と化していた。今日も響が来訪していて、彼女のために借りてきたコーヒーセットが広がっていた。セットと言っても本格的なものでもなく、無垢の白いマグカップと電気ケトル、インスタントコーヒーの瓶にスプーンが、今となっては無機質に置いてあるだけ。

 

「……片付け、忘れてたわ」

 

 結局、東寄りの一画のみが私のスペースとして彩られているだけで、このだだっ広い空間を埋めるにはわたしの存在は余程小さくて、この呟きも頼りなく消えてしまった。

 水分を奪われた喉は早急な補充をわたしに要請してくるので、体温が移ったベッドから抜け出してフローリングの床に裸足を下ろした。冷え切ったハードメイプル材にびくっとしたわたしは、急いで室内用のルームシューズに足を突っ込んで、マグカップの片付けついでに温かい飲み物を求めて食堂を目指した。

 各階に談話室と給湯室は用意されており、そこで湯を沸かすなども出来るが、わたしの部屋は食堂の方が程近い。

 自室の扉を閉め切った廊下は月明かりと非常灯のみで照らし出されており、深夜の時間も相まって不気味な雰囲気を醸し出す。最後に見た記憶では時計が0453を指し示していたはずで、月明かりが建物を冷やしているからか吐いた息は白く口元から立ち上った。

 お盆に載せたそれらを音が立たないようにそろそろと運んでいく。とりあえず、その運搬作業に集中することで他の事を考えないように努めた。

 抜足と差足を左右交互に行なって進んでいると左前方の床に色味が浮いているのが見てとれた。控えめな光の出所は目指していた食堂の扉、手が入る程度に見えるその隙間かららしい。一瞬、訝しむものの怪しい人間は入り込むことはないだろうとそのまま近づいていく。そもそも、人間程度の膂力ではわたし達を取り押さえたりすることなど出来ない。

 また、人感センサーなどのセキュリティ類が建築物に含まれるこの施設には、一般人などの無関係者の立ち入りを固く拒絶している。感知すれば通報と同時に緊急体制の連絡とサイレンが敷地全体に響き渡るようになっているし、敷地であることを示す塀とは別に、さらにその外側にもフェンスが建てられていて、そっちは警備のための人員が割かれている。わたしと漣がここに運ばれたルートは陸路で、鉄格子の走った車窓からそれらしいものを見たものだ。

 そろりと扉をスライドさせて中の様子を窺うとこちらに背を向けて、窓を眺めるようにして座っているシルエットを観察できた。それはわたしの記憶の中でよく見た背中に一致していた。

 なんだか白けてしまったわたしは特に気にする必要もないと判断して、いつもの調子で戸を引いて中へ侵入した。

 

「中々にロマンチックな趣味ね」

 

 提督は月の明かりがよく差し込むところを陣取って、なにやら紙を捲る音をさせていた。その手元にある何かのサイズ感から文庫本の類だろうとすぐに分かる。

 

「なんだ、君か」

 

 彼は開いていたそれを無造作にひっくり返して机に置きながら、わたしの方へ振り返った。その目元は半目と呼ぶにふさわしく、力の入っていない瞼からは覇気を全く感じさせない。『貴重な読書の時間を邪魔された』とでも言いたげな感じは、いつもの飄々とした態度とは打って変わって内気な性格と見える雰囲気だった。

 

「なんだ、とは言い草ね」

「……うん、まぁ、ちょっと嫌な言い方だったね。ごめん」

 

 耳に慣れない喋り方に、プライベートな時間だったかとわたしは改めて気付いた。

 

「……いや、わたしこそごめんなさい。邪魔しちゃって」

 

 なんとなく彼に近づいてしまっていたわたしは、ごちゃついたお盆を近くの机に置きながらその場に留まっていた。特に喋ろうだとか思っていなかったけれど、物の流れでそうしてしまった。

 

「邪魔ってことはないさ、少し驚いたけど。寝付きが悪いのかい」

「そうね、少し目が覚めちゃった」

 

 そう言うと彼はわたしの近くの椅子を指差して、『温かいミルクでも入れるよ、少し待ってて』と席を立ってしまった。片付けたらすぐ戻ってしまおうと思っていたわたしだけど、折角の好意を不意にすることもないかと素直に座って彼を待った。

 なるほど、こうして座って窓の方を見ると落ち着く光景だった。夜の黒さと海の黒さは濃淡で表れており、月桂は海面に一筋の煌めきを描いている。4枚の大窓越しからはなんとなく潮騒が聞こえるような気がした。提督が戻るまで、わたしはこの静かな情景を前に徒に星の瞬きを数えながら提督の戻りを待った。

 その時間が短かったか長かったのか、どっちだったかは分からないけれど、提督が対面に戻ってくるまで私の目線は夜の海にあった。『おまたせ』の一言でホットミルクを待っていたのだと思い出し、そこでようやく感謝の言葉を返すことができた。

 

「答えはまだかかるかな」

 

 そう問うた提督は背もたれに深く背を預けながら、『あら、茶請けを忘れていた、申し訳ない』と場違いな謝罪をする。

 

「わたしが守るべきもの……ね」

 

 彼はただ黙ってわたしを見ていた。

 

「――ずっと、考えてた。でも、守りたいものはたくさんあるけど……」

 

 そこまで口にして言葉に詰まる。

 真っ黒の中できらきらと輝く月明かりはわたしの方には届かない。

 

「……優先順位なんてつけられないわ。それも、守るべきものなんて、わたしには多すぎる」

「そう」

 

 首肯とも否定とも分からない相槌を彼は打つ。

 静寂を長く保ち、わたしは絡まった考えを一つ一つ解いて口に出した。

 

「……この国の人たちを守ることは、わたしにとって大切なの……」

「……」

「同じくらい、この警備府も」

「そっか」

「あと、この1年あまりの時間に育った思い出も」

「うん、うん」

 

 ゆっくり、ゆっくりと、わたしは想いを紡ぐ。一言、一単語、一音ずつ重ねるごとにふわふわとした心持ちになり、それはまさに夢の中のような感覚。

 

「――そして。あなたのことも――」

 

 するりと出た言葉への相槌はなかった。

 さっきまで微かな明かりに照らされて見えていた彼の顔は、影に落ちよく見えない。

 

「全部、守りたい」

 

 冷える指先をマグカップの温度で温める。じんわりとしたその温かみは、あまり感じられなかった指へ通う血の流れを感じさせてくれる。

 

「ありがとう」

 

 その提督の口が発する音はそう聞こえた。

 

「……でも、僕も守りたいものがあってね。国とか大それたものじゃないけども」

「…………」

「僕は目の届くところ、近しい人たちを守りたいと思ってる。関東にいる家族や親戚も。この地域に住む人たちとか」

「それは――」

「君らも含めて、ね」

 

 『それが僕の答え』と言葉を溢し、提督はマグカップに口を付けた。

 なるほど、"答え合わせ"だ。正誤に帰結するところじゃなくて、お互いの答えをつき合わせているだけ。

 

「――そして、僕はそのためにならなんでもベットしようと思ってる」

「ベットって……」

 

 ギャンブルの掛け金を指し示す言葉にわたしは薄寒さを感じる。

 

「なに、大尉程度の価値で一世一代の大博打ができるんだ、コストパフォーマンスに優れているじゃないか」

「自分が死んだとしても?」

「僕は水兵だぜ。明日の身諸共、波間に揺蕩う船乗りさ」

 

 その思想は全然理解できなかった。

 

「だからといってあなたが海へ出る必要はないわ」

 

 真正面から提督である彼を否定した。否定したかった。そして、否定せざるをえなかった。

 

「女性とデートできると言うのに、必要がないからと出向かないのは男が廃ると言うもんさ」

「言うに事欠いて"デート"だなんてっ」

 

 思わず騒ぎ散らかしそうになったわたしの口元に細くたおやかな人差し指が当てられる。

 

「深海棲艦はね、人を優先して狙うんだ。習性さ。どうしてかは知らない」

 

 トーンを下げた声で矢継ぎ早に真意を詳らかにしていく。

 

「僕は思ったね、これは面白い、と。どのタイミングで出ても、姿形か臭いか魂か、どう判断しているのかは置いておいて、絶対にこちらを向くんだ」

 

 抑揚もなく機械のように彼の口は言葉を発した。

 

「さて、どうなっているのだろう? いや、それよりも敵がその横っ腹を向けるんだ。目の前に向けられた主砲や、魚雷で狙う相手が居ても、100%僕を狙って無防備になる。さあ、そうすると、君はどうする?」

 

 そっと唇から指が離れてようやくわたしは声を発することを許された。

 

「それは……、チャンスと捉えて攻撃するけど……」

「百点満点だ、曙」

 

 気付けば提督の背中からは太陽が頭を出しており、空を押し上げてゆっくりと東雲へ近づけていた。

 そして、外の明るさが増すごとに彼の表情は黒さを深めていく。

 

「僕が表に出ればそれだけ敵を沈められる。敵の戦力を減らせば当然、国土も守れる。君たちの消耗も抑えられる。なんだ、良いことづくめじゃないか」

 

 『そうだろう?』と彼は頷くことを暗に強要する。

 

「……それはそうだろうけど、でも――」

 

 わたしはもう一度否定を試みる。

 

「――わたし達を指揮するあなたがいなくなってしまえばい、わたし達は瓦解してめちゃくちゃになって……」

 

 『しまうわ』の言葉を遮って、彼は言葉を重ねる。

 

「死なないよ。君が守ってくれるんだろう?」

「何を言って――」

「君は僕を守りたいと言った。それが本心だと。だったら守ってくれ給え」

 

 ようやく見えたその表情はいつもの飄々とした顔だった。

 

「虫けら…….そう虫けら同然の僕には選択肢なんてない。ないのさ、何一つ。でも、出来ることはなんでもしなくちゃだめだ。横須賀にいようと北の海に出ていようと、この湾内を守るとしたって、利用できるならそれがなんでも、誰でも、有効利用しなくちゃいけない」

 

 彼は椅子を膝の裏で押して立ち上がる。ぎぎぎ、とゴムが床を擦る汚い音が発せられた。

 

「それが僕の朝日を見る方法、そのはずなんだ」

 

 そうして彼は、半ば独白染みた答え合わせに一方的にピリオドを打って、『代わりに片付けておくよ』と部屋から戻しに来たおぼんとその他を引ったくって行った。

 大きな窓に切り取られた風景は既に曙へと移り変わっている。見える日の出の陽光は、強くわたしを刺し、射止めるように動けなくさせた。

 拳に力が入る。今でははっきりと自分の脈動を感じることができる。

 

「――絶対に……」

 

――――

――

 

 わたしはその日から、いつも不機嫌になった。

 勝手なことをしでかし、勝手なことをする提督に手を焼かされるから。

 わたしはその日から、内心上機嫌になった。

 提督の挑戦通り、彼を守ると決めたから。

 

 今日もわたしは旭日の旗を上げて、この朝を迎える。

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