項垂れた心持ちとは正反対に屋上から背中を逸らして見る文京区の空は真っ青で、僕はちくしょうと呟いていた。
何もやる気が起きない。それはゴールデンウィーク明けに巷に流行る5月病の罹患症状の類ではない。そも、かの長期休暇は1ヶ月後であるし、気力減退については慢性的な持病として頭の中に巣食っている。
「表現の自由、ねぇ」
薄々、勘づいていた。この結末は。
そう、僕の書いていた連載形式の小説の内容は、お上の目に留まり、よろしくないと判断されたらしい。なんらかの圧力など見えざる手によって連載が難しくなったのだった。『お前の記事もそれなりに丁度良かったんだが……、続けると、そのな』と肩を叩いて事務的に伝達する上司の声が耳には新しい。
まぁ、筆を走らせれば勢いが乗り、続く文字の総量は紙面の枠内を倍以上オーバーすることになり、大幅な添削を余儀なくされていたので丁度良いかもしれない。
僕は白地に水色の装飾が古臭いソフトパッケージをくしゃりと潰したが、奥に1本残っていたらしい感触に顔を顰めた。皺くちゃになったそれを改めて広げて、曲がって酷い状態になったそれを、どうせならと咥えて火をつけた――。
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さて、困ったことに今まで集めていたネタはどうやら飯の種にはなってくれそうにない僕は、新たなる獲物を確保するために適当に情報収集をする。
次いでなら横須賀方面の何かでもいいかしら、と神奈川南部の言い伝えや民俗風習、心霊スポットや都市伝説の類の記事を拾い集める。
次いでと言ったのは、去年の秋から互いの都合が合う時に、なんとなく交流を深めるようになった雷姉さんとの一件に端を発する。彼女馴染みの関係から人を紹介して貰うことが出来て、そちらは今は横須賀の所属の御仁だ。アポをとって貰って悪いのだが、例の話は打ち切りとなったことで断るべきかとも考えた。色々考えた結果、それはそれとして個人的な好奇心で話を伺いたいと思い、約束は継続中というわけだ。
「とはいえ、姉さんには謝っておかないといけないな」
10月から3月まで掲載したそれは、錨を上げたところで打ち切りだ。中津海先生の次回作にご期待ください、と言ったところか……。
――文京区に居を構えるこの出版社は所在地を千駄木として、雲見書房と名付けられ、毎月10日を目指して雑誌作りに精を出している。偶にその土地由来の民俗的な内容の真面目な特集を組むなどするが、大抵は根拠の薄い噂話を集めたり心霊スポット特集を記事にするなど、役にも立たず気が効かない内容を綴じていることが多い。別名である唐変木に相応しい出版社だ。
型式遅れから更に三年も経っているとんまなパソコンに、これまた古臭いメンブレンのキーボードをガタガタ言わせてキーワードを入力していると、検索結果のうちに目の付くものがあった。
「道寸祭りか……」
どうやら三浦半島の固有の祭りであるらしく、時期も来月の頃だとディスプレイのカーソルは指し示している。来月の刊行は世間的な休みの影響で幾日かずれるが、祭りの開催の前には書店に並ぶ予定だ。およそタイムリーな記事となりそうな見込みで、時たま顔を覗かせる真面目さを奇特な需要層へアピールするかと手帳にメモをした。
そう言えば、水族館もあったかしらと記憶を辿ってみるも、検索をかければ閉館していたことを知り少し郷愁の念にかられる。自分一人の事務所の薄ら寒い雰囲気にくしゃみを一つしながら、改めて取材するルートをピックアップしていく。
事務所がしんとしているのも実はかなり珍しいことで、普段は無駄口を叩きながら原稿を作ったり、10分に一度の休憩を挟みながらレイアウトをしてみたりと、大いなるサラリーシーフ活動をしているものだ。ところが、今朝に僕の肩を叩いた編集長は営業活動に向かったらしく、『PM外回り、直帰』とウェブ上のカレンダーに登録されている。一度喋ればラジオ代わりにもなる先輩は『夏へ向けての心霊スポット特集を3カ月間連載だ!』と意気込んで、僕の同僚を引っ張って出て行った。今頃は千葉へドライブしているだろう。
その他にも碌でもない連中が勢揃いしているが、そんなものに思いを馳せるなどリソースの無駄であるので、僕は1番効率の良い選択肢を選んで実行に移すことにした。
「……帰るか」
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4月の夜は肌寒く、僕はポケットに手を突っ込んでドブ板通りを歩いている。待ち人が指定するバーを探すためにいくつかの異国情緒を感じさせられる外観を眺めては、メモした店名のスペルと見比べて先へと進んでいた。待ち合わせにはまだ早く、街の雰囲気を楽しむことも一興だと徘徊することにしたのだが、思った以上に店探しに難儀している。
「やっぱり、文明の利器に頼りましょうかね」
諦めて上着の内ポケットから多機能なポータブルデバイスを取り出してホーム画面を表示する。とりあえず、メッセージアプリには新着マークは付いていないことを確認して、地図案内のアプリケーションを起動させる。
件の待ち人は雷姉さんの紹介してくれた、天龍さん。いつも足を運ぶ店があるらしく、そのままそれを待ち合わせ場所にしようとのことだった。
「……あぁ、こっちの方だったのか」
アプリの指し示すルートは一つ入った道を示して、普段よりも使われた脚部が文句を言いそうな距離のようだった。
疲労を感じる脚の理由は、今日の午前中に記事のネタ探しに三浦半島の油壺付近へ繰り出したことだ。4月の穏やかな気候を移ろう景色に眺めて移動すること約2時間。周囲の散策や地元の人との会話を通じて、三浦氏の壮絶とも言える最期のエピソードを写真とメモに詰め込んでいた。
穏やかな湾内は時間がゆったりと流れており、芽吹く蒼さと時たま顔をのぞかせる石竹色はいつまでも見ていられる風景だった。伝承にあるような血溜まりなどというおどろおどろしさなど全く感じることなく、今では釣り人とヨット達の憩いの場のよう。そうして日が暮れようかという時間まで目一杯に脚を動かした後、予約をした横須賀中央駅から歩ける程度の場所にあるホテルへ荷物を置いて今に至る。
ミリタリーグッズの店やアメリカンテイストな飲食店を通り過ぎていくと、最終地点に辿り着いたらしくアプリケーションが自動的に案内を停止した。
「お二階でしたか」
僕は何度も出し入れしたせいで皺くちゃのメモを取り出して、その看板に重ねてみる。光源で光る文字とインクの文字は両方とも古いジャズのタイトルが書かれていた。どうやらここへ来たかったのだと確認して、飲食店がひしめくビルの階段を探し出して2階へと足を進めることにした――。
扉を開けると程よい照明に照らされた内装が出迎えてくれる。艶のある遊び心が落ち着いたインテリアに包まれていて洒脱だ。ジャズライブバーを体現しているともいえる店内の奥にはいくつかの楽器が見受けられた。
キョロキョロするのも恥ずかしいと思った僕は、柔らかい雰囲気のマスターに勧められるがままにカウンターチェアの一つを占有して待つことにした。
「いらっしゃいませ、ご来店は初めてで?」
「えぇ。人と会う約束をしてまして。ここにと」
「なるほど、後程お見えになるのですね」
さりげない所作で僕の隣に"Reserve"の札を置いていた。
「4月になってもこの時間は少し肌寒いでしょう」
「そうですね、風が冷たいですし」
気遣いながら差し出して貰ったおしぼりを受け取る。それは程よく温められており、じんわりと手指に熱を伝える。また、会話を途切れさせず、心遣いともてなしを絶えず行う所作はとても粋な心持ちにさせてくれた。
「なにか、お好みはありますか?」
そうして、並ぶ酒瓶を披露するように示してくれた。
僕はこういうところで飲むときは、いつも決まった銘柄を決まった飲み方で始めることにしているのだが……。
「お」
丁度よくマスターの指先に配置された瓶のラベルがそれだった。スカイ島はスコットランド、英国に属する島に建てられているタリスカー蒸留所で作られるウィスキー。ブレンデッドではなく、所謂シングルモルトとのそれは、アイランズ系の特徴的な味から多くのファンを獲得している。
「タリスカーをハイボールで」
「分かりました、こちらでハイボールですね」
マスターはボトルを持ちカウンターテーブルに静かに置いた。
「黒胡椒って……置いてあります?」
「ございますよ」
「では、最後に振りかけてもらえると嬉しいです」
にこやかに頷いて『お待ちください』と言い残し、バーツールを操って指定のモノを用意し始めた。
僕はチェアをゆっくり回転させ、カウンターを肘置きにして店内を改めて眺めた。木製の備品やレンガ造りに見せる壁の装飾など、古いアメリカのシーンに出てきそうなイメージを沸かせる雰囲気に居心地の良さを感じていた。部屋の隅から流れるジャズミュージックは程よい音量でもてなしてくれている。
「お待たせしました」
音もなくテーブルの上へ置かれたハイボールグラスには淡い檸檬色の彩りが満たされていて、炭酸特有のぷつぷつとした泡が下から上へ忙しない。
そっと手に持ち一口含むと、泥炭を多く含む地質由来のスモーキーさが、奥行きのある芳醇な甘味と共に口の中で発泡しながら広がった。肉肉しいとも思える分厚い味わいは荒波のようでいて、僕は無意識に頷いてしまう。そして、波が引くようにして潮味と爽やかなスパイシーさを残し、最後にはさらりと喉奥へ引っ込んでいく。
酒の良い所は、見知らぬ土地や初めての場所であったとしても変わらない味で出迎えてくれるところだと、僕は信仰している。
そうして舌鼓を打ちながらぼけっと寛いでいると、入り口の方から誰かが入店する合図が飛び込んできた。迷いのない開き方はここが目的地であることを示しているようで、目をやるとショートボブの女性がこちらに近づいて来ている。
白いハイネックに黒いジャケットはさっぱりとした印象を与えていて、折り返した袖元では右の手首にシルバーのブレスレットが光って見えた。脚部を黒いスキニーパンツで包みこみ、足先の黒いジョッパーブーツは本革ならではの質感を放っている。
木目を反射させるフローリングの上でこつこつとした足音を響かせながら、まずはマスターに挨拶をする彼女。
「今日も来ちまったよ」
「昨日ぶりですね、いらっしゃいませ」
「今日は人と会う約束をしてたんだが……」
そこでようやく彼女の目線が僕を捉えたかと思うと、そのまま流れてゆく。恐らくは先ほどの札へ焦点を合わせたらしい。
「あんたが中津海って人かい」
改めて目線を僕へと戻して彼女は問うた。砕けた物言いをしながらも、驚くほど機微に聡い感性を持っていることに舌を巻いた。そして、分かったことは、この竹を割ったかのような第一印象の女性が僕の今日の目的たる人物であったということ。
失礼のないようにと、僕は左足から床面へ足を下ろした。
「はい、雷さんから紹介いただいたかと思います、中津海と申します」
「ん」
短く返答を返す彼女は右手を差し出した。恐らくはハンドシェイクであろうそのサインに、欧米文化に馴染みのない僕は一瞬たじろぎつつも、友好の証に応じることが出来た。
「まま、話はとりあえず乾杯してからにしようぜ」
握手を解きながら暗に座れと伝えてくる彼女に勧められるままに改めて腰をかけた。
マスターは気付かぬうちに予約の札を引っ込めており、代わりにカシュッと発泡する音を立て、彼女の前へバドワイザーの瓶を差し出した。
「今日はよろしくな」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
足を組みながら片手で傾けられた瓶に、僕はほんの少し中身の減ったグラスの頭を触れさせた。
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同寸祭りとは三浦半島に続く5月の伝統行事として長い時間に守られてきた祭りで、穏やかな風景と過ごしやすい気候の中、油壺湾では地域の人々に親しまれている。
この一枚の絵画を切り取ったように見える湾内を覗く景色は平和的であり、どこか忙しなく社会の歯車として動き回る私たちに、心の清涼剤として映るものだ。しかし、この美しいキャンバスの裏側に当時、この土地に根差した一族の鮮烈な最期が隠されていた。
本誌はこの春のひと時に忘れがちであったものに思いを馳せながら、自然と触れ合える場所として読者の皆様に紹介をさせて頂きたい。
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――ガタガタとキーボードがソフトタッチを要求する中、僕は記事を作ることに忙しい。一文作っては写真を見、二文作ってはレイアウトに合わせ、うんうん言いながら作業してると『うるさいぞ』と文句を言われた。無視するのだが。
一昨日に撮ったその風景写真は我ながら上手に撮れたと、まさに自画自賛だ。相模三浦氏のエピソードは戦国時代であることもあり、何が本当で何が脚色か分からないが、しかしまぁ、壮絶とも言える最期であることは間違いない。
土着の祭りとして笠懸なども見られたりするものだが、恐らくは領主としては民に愛されていたのではないだろうか。
ふっと頭に沸くイメージを元に、僕はまた文句を言われながら、生活の足しを稼ぐ作業に戻った―――。
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――――時は永正13年(1516年)三浦半島の湾を一望できるこの新井城は用意周到にこれを攻め落とさんとする北条早雲の猛攻に耐えていた。籠城の主は相模三浦氏、
7月10日、太平であれば海を眺めて酒でも楽しめる風色であろう。今や男どもは盃に酒を盛りそんな景色などではなく、自分達の行く末にそれらを煽り士気を燃やしている。『落ちるなら落ちろ、討って後世に名を残すならまぁ、好きにしろ。とりあえず、今は食って飲め』そう言うや否や、出せるだけのモノを出してやった。食糧はもはや尽きたも同然なのだから、今日だろうと明日だろうと変わらぬ。寧ろ、3年もひもじい思いをさせたのであればこれでも足りぬかも知れない、そう思いつつも蔵はからっぽなのだ。詫びいる気持ちを抱いていたのかも知れない。
また、同寸は縁者を逃した。我が子を宿す自分の女にどうか無事でいてくれと送り出したのだ。城主として、皆の頭として、自分は残らなければならない。防戦の道中に落とし物をし過ぎた。恥ずかしながら生き延びざるを得なかった俺には過ぎた女だったと、胸中に渦巻く思いは顔に影を落とした。
目の前では息子の荒次郎が7尺5寸の体を揺らしいる。もはやこれが最期の酒盛りになろうことは言葉を交わさずとも分かっていた。辞世の句を詠む。介錯を任すこととなってしまった俺を恨んでくれ。願わくば――――。
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――同寸は家臣と共に枕を並べていた。畳に、壁に、血のしぶいた跡が新しく、それを背中に見て荒次郎は金砕棒を片手に悔しさと忸怩たる思いとを弾けさせんと床を踏む。その足音は重厚だった。
「討つ者も 討たれる者も
砕けて後は 元の
親父の句を口に出しつつ。
――85人力の勇士たる荒次郎のその風貌は今や鬼とも見紛うほどだ。北条の兵どもなど稚児のようなものだった。徒に振り回し、打ち殺した人数など50から先は数えるのを辞めた。周囲には味方などもはや居らず、大暴れしたそれたちは敵の功績になるくらいならばと、血と臓物を散らしながらもこの湾内に身を投げた。落ちろというのはそういうことではなかったんだが、『全くバカな奴らだ、可哀想に』と溢してしまう。
どす黒く、血と脂と糞尿で海が染まっていた。地獄だった。
荒次郎は恐らく最後のひと時であろうこの自然の音に聴き入った。満足したのだ。どうせ奴らはまだいるのだ、本当の最期は追いつかれてからでも構わない。これだけ殺してやったのだから、討ち取られても良い……。
いや、疲れたのかも知れない。あれだけ美しく季節の彩りに溢れていたここも赤黒い染みが転々とし、心地よかった潮風も今や仲間の残り滓が放つ異臭を運ぶだけの存在だ。
仕方あるまい。土塊は土塊らしく、もとの土に帰らねばならない。そうだ、辞世の句も用意せねばなるまい、死は逃れられないのだ、考えるには丁度良い。さぁ、足音が微かにする。どうしてやろうか――。
しかしまぁ、死ぬのは厭な気持ちになるもんだなぁ…….。
――相模三浦氏はこうして一族もろとも根絶やしにされた。
鬼は結局、早雲の軍勢らに討たれたものだが、自ら首を掻き切った。怨みという怨みを募らせて、ようやく土塊に戻れたのはそれから三年の後だという。
早雲のひ孫はその甲斐あってか、何年も先の同日に自害することになった。
油壺の景色に荒次郎の墓であろうものがひっそりと残っている。85人力の偉丈夫、英雄たる戦果も、死んでしまえば無いも同然ということか。それともこの穏やかな海を眺めて、鬼はひっそりとしていたかったのかも知れない。
「君が代は 千代に八千代に