暁の向こうへ   作:出張族

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落涙は波紋を作るだろうか 12月某日 2221

「ご主人様、大丈夫?」

 

 外では寒々とした風が吹いているようで、鎮守府の波止場周りの海面は何度も叩かれて癇癪を起こしていた。

 

「……なにか、飲み物でも持ってきましょうか?」

 

 ご主人様こと泉提督はずっと項垂れている。

 この時間は定常の勤務も終わり、夜間の見張りと見回りだけのはずで、提督も執務もないはずの時間だった。

 良い子は寝る時間。

 私は少し悪い子で眠れない時は、ふらふらと建物の中を歩き回ったりする。適当に体を動かして、食堂に寄って、適当にお茶とかを飲んで部屋に帰ると、なんとなく眠れる。今日は窓の外が少し騒がしくて寝付きが悪い感じだ。いつもの様に月明かりを頼りに徘徊していると、普段この時間は明かりのないはずの執務室から光が漏れていたから、そっと覗いてみたら――。

 そして冒頭に戻る。

 

「…………」

 

 ご主人様はずっと頭を抱えて動かなかった。私の声もあまり届かない様子で、なにか怯えている子供の様にも見えた。すらりとした細く色素の薄い手首がそんな風に思わせたのかもしれない。

 先日の戦果と同程度に被害も大きかった戦いが記憶には新しく、損傷を受けていた子たちも漸くその傷が癒えようかといった具合だ。その後、敵も目立った動きをしていない模様で落ち着き始めたところ。しかし、彼の覇気は回復には至らず、普段のやりとりも少し上の空だった。それも仕方がないかもしれない。一部の子はまだ復帰するには難しい様子だからだ。

 私は一画の給湯スペースで湯を沸かした。許可も拒否も無いけれど、放っておけないのだから。怒られるなら素直に怒られようと思う。棚のこれまた隅っこに縮こまるように置いてある、ティーバック紅茶を二つ分取り出して、マグカップの中に放り込む。こぽこぽと楽しげな音だけが部屋に響いていて、胸をぎゅうと締められるような気持ちにさせた。

 熱湯へと変わったそれをカップに満たすとティーバックからゆらゆらと温かな色合いが染み出してきた。熱湯3分でそれなりのものが出来上がるのは現代の良いところだ。こういう時、気まずい時間を短くしてくれる。

 

「ご主人様、紅茶だよ」

 

 彼の前にマグカップを置く。反応はない。

 暫く見ていても動きがないことから返事を待つことは諦めて、勝手に応接用のソファーに座り込む。

 少し熱いとも言えるその温度に息を吹きかけて、おそるおそる啜る。じんわりと丁度良い温かさが喉を通りお腹へ熱を分けてくれた。

 何度かそれを繰り返し、ようやく体が温まりほっと息が出るようになった頃合いに、私以外が動く気配がした。

 

「漣」

「なんでしょう?」

「僕は猫舌なんだ」

 

 ご主人様はマグカップを大切そうに両手に包んで、ゆらゆらと立ち上る湯気をじいっと見つめていた。

 

「あらら。 じゃ、ふーふーしてあげよっか?」

 

 少し戯けてみた。

 ジョークを先に言ったのは彼の方からだから、きっとそのくらい許されるだろう。

 

「漣」

「……。なんでしょう?」

「ありがとうね」

「どういたしまして」

 

 そうして暫く、私たちは同じ場所で紅茶をゆっくりと飲んだ。浮ついた気持ちをゆっくり手繰り寄せて、自分の手元に置くために。

 窓ががたがたと揺れる。エアコンが室内を過ごしやすい室温にしようとしてこうこうと暖気を吐き出し、天井の蛍光灯は一定の明度で発光している。日が暮れた後はいつもの見慣れた執務室のはずだけど、何かが白々しく何かが非日常のように感じた。

 

「ご主人様」

「なんだろう、漣」

「やっぱり、夕立ちゃんが心配ですか?」

 

 傷も癒えようかという大半。それから漏れている艦娘が彼女で、ご主人様と馴染みが深いらしいあの子。左脚部を大きく痛めて後、入渠してもバケツを併用しても、なかなかその損傷は完治していなかった。

 そして、その彼女はこの症状に適切な治療を受けるために、今は横須賀の施設にいるところだろう。また、元気に走り回れるようになってくれると良いのだけど。

 

「夕立も。雷も、だよ」

「……そうですね。雷ちゃんも」

 

 雷ちゃんについては入渠の予後が思わしくなかった。聴力の戻りが遅く、今は補聴器が必要だ。また、三半規管へのダメージの所為か温度の変化が著しい時に軽く目眩が起きるみたいで、多分外圧と内圧の調整が上手くいってないのかもしれない。幸いなことは他の支障は無いことだろうか。しかし、このまま難聴の状態では前線へ向かうにはリスクが重く適正な状態とは言えない。

 少し所属艦が増えてきたとはいえ、二隻分の戦力が減算されることは辛い状況なのは間違いない。戦力の補充を要請しているけれど、今日まで上からは特に指示も連絡も無かった。

 

「君らには苦労をかけるね」

 

 いつになく穏やかに弱々しくつぶやく声が零れ落ちる。

 

「仕方ないよ……。大丈夫、私も頑張るから。提督も元気出そう?」

 

 私はなんだかシュンとしてしまって、おふざけを横に置いて置くことにした。この空気には多分似合わないと思って。

 

「…………」

「提督?」

「……横須賀がレポートを寄越してきてね」

「うん」

「夕立自身の左脚も、その艤装も、疲労と損害が蓄積していたらしい」

「……うん」

「そもそも艦娘の身体構造なんかは分かっていない」

「そうだね」

 

 彼は滔々と言葉を吐き出していく。

 

「人間であれば、安静にすれば自身の治癒能力や新陳代謝の範囲で骨や筋肉を修復するだろう」

「……」

「安静にしろと。……君らの事など分かりもしないのにな。そっとしておけば治るかもしれない、なんてことをね」

「……そっか」

「――どうなんだろう、漣。治るものなのかな」

 

 縋られているように感じた。でも、私には分からない。いや、誰も分からないのだと思う。少なくとも現時点では。

 

「横須賀に置いておいて、修復の方法を模索したいらしい」

 

 それは実験体にしたいということだろうか。戦闘能力のない異形、頼らざるを得ない人ならざる者を研究したいと。修復という響きから何か穿った見方をしてしまう。

 

「……帰ってこないんですか?夕立ちゃん」

 

 きっと喉が震えていただろう。もしかすると、彼女の顔を見ることができないかもしれない。短い間であっても並んで海に出た記憶が思い出となってしまうことは、とてつもなく胸を痛くする。

 

「いや、送還するように返信はしたさ。前線に出られなくとも、執務だって裏方だって手が足りないんだ」

 

 ほっとした。多分あまり良くないことだろうけれど。

 そして、『なにより』と彼は続ける。

 

「パッチワークみたいにされるのは不憫じゃないか」

「……はい」

 

 外の風が先ほどよりも強くガラスへ当たっている。今日の夜間哨戒は体に酷だろうなと簡単に想像させてしまうほどに。雨や雪のないことだけが救いだ。

 

「君らに命を賭けさせて、そりゃ死ねというのは僕らの仕事だが……」

「………………」

「あんまりにも、あんまりじゃないか」

 

 その手が震えているのは錯覚ではないと思う。原因はやるせ無さなのか、怒りなのか。

 

「一体、どれほどの密度で無茶を実現したんだろう。どれほどの期間、その身を鞭で打ったのだろう」

「……他の鎮守府では酷い管理をしている所もあると聞きますが……」

「さぁてね。管理と言えるかどうかも怪しいね。ロハで手に入る鉄砲玉程度の感覚さ」

「それほどまで……」

 

 血が出るかと思う程に握られ続けた拳が解かれる。

 私は手を口に当てて凄惨であっただろう彼女の今までを想像し言葉を失った。

 艤装もその艦娘としての肉体も、治癒が出来ないほどに損傷を受けるなど想像もできない。私たちは入渠時の艦娘用の治癒促進剤に被害と比例する時間を浸ることで、怪我などの肉体的ダメージをケアすることができるし、艤装は妖精たちが集まって修復されて元通りに直すことができる。所謂、バケツと呼称される高速修復材なんかを併用すると、入渠に拘束される時間は殆どなくなるものだ。

 その特徴を利用すれば玉砕覚悟で突っ込んで相手に損害を被らせることも可能で、もしも帰投できれば再利用可能となる。そもそも私や夕立なんかの駆逐艦はそれなりの頻度で海に浮かんでいると話を聞く。徹底的に道具として使われるとなると怖気が走った。

 それを、いや私の想像の倍以上には酷い扱いを夕立ちゃんは受け続けていたのだろう。修復できないほどのダメージだったという事実が、それまでの背景を更に暗く示している。

 

「暁等にも謝らないといけないかもね」

「雷ちゃんのこと、ですよね」

「うん。僕も心のどこかで彼女等を鉄砲玉扱いしていたのかもしれないね」

「それは……」

 

 多分、使命として受け止めて実行したことならば、彼女達はきっと許すだろう、誇りにさえ思うと、そう声を掛けようと思った。でも、二の句を告げるには私の胆力は貧しすぎるようで、結局口をつぐむしかなかった。

 

「あと少しだけ、ほんのもう少しだけ、上手くやれればよかった。なんてね、どの口が言うんだってね」

 

 後悔は先に立たない。やればやるだけ、決断することが増えるたびに、その心に引き摺るものが増えて後ろ手にして、引き倒そうとするのだろう。

 単純な気持ちで、それでも真心から励ましたくなった。どうすることもできない理不尽に打ちのめされている様を否定したかったから。

 

「でも、ちゃんと迎撃しました。本土に近づけさせずに、フラッグシップを擁する3艦隊を撃沈させました。その戦果に胸を張らなければなりません」

「……」

「僭越ですが、私が見ても泉提督の予測と決断に間違いはないかと」

「そう言ってもらえると嬉しいね」

 

 その平坦な声色はいっそ恐ろしかった。感情のないありがとうは拒絶に似ている。私はそれを悲しく思いつつも無理矢理にでも話題を変えることを試みた。

 

「でも、提督。なんであの日に侵攻されると予測できたんでしょうか」

「…………なんでっていうのは?」

 

 我ながら唐突な切り出し方だった。いつもの冗句と同じくらいに上手く口に出せればよかったのに。

 提督は少し目をパチクリとさせていて、でも、その表情は少し和らいだように見えた。

 

「いえ……、偵察域もそこまで広げていないのに、あそこまで早く出撃が決定できたのは、そこになにか理由があるからですよね?」

「……そうだねぇ――」

 

 どうやら私の目論見は功を奏したようだった。いや、提督がわざわざ乗っかってくれたに過ぎないのだろう。何れにせよ、私は胸中に喜色を湛えながらも彼には分からないように胸を撫で下ろした。

 

「まずは、地形と海流と考えていたんだけど」

「地形と……?」

「島が点在していて近いだろう? ここらを制圧して島一つでも攻撃の拠点にしてしまえば、まぁ性能にもよるがこちらへ砲撃も容易い」

「……集積地とすれば、補給箇所としても使える……」

「その通り。そして、海流だ。親潮と黒潮がぶつかり合うけれど、上手くすれば北からも南からも艦隊を派遣できそうじゃない?」

 

 こつこつと机を指で叩きながら、『当てずっぽうだけど』と予防線を張る提督。しかし、私の頭でも想像に容易く感じた。潮の流れに乗れば長距離の航行に使う燃料を減らすことは出来る。

 

「あり得そうですが……、別の海域を狙うことも考えられるのでは?」

「そう、別にここじゃなくてもいい。けど、ここであっても良い。条件に当てはまればどこだって良いのさ」

 

 一つ咳払いをして彼は説明を続ける。

 

「多分、1月に近づいてた奴らは半分くらいは親潮に乗って来たと思う」

「北方から来た、と」

「恐らくね。部隊の規模や状態、岩場に隠れるようにしていたことから、前の残党とかじゃなく、て十中八九偵察と見て良いと判断した」

 

 『響の詳細にレポートをまとめてくれたおかげかな』と何故か自慢げだ。

 

「しかし、半分とは?」

 

 そう聞くと、『それは追々ね』とはぐらかされる。思わず眉を顰めて少し睨め付けると、彼は手をひらひらと振り返した。

 

「偵察隊の派兵元。その拠点の判断や別拠点への連絡、そして艦隊の編成。そこら辺を考えても少なくとも3ヶ月後から、間が空いて半年くらいそこらの猶予はあるかなと思ってね」

「えらく自信ありげな数字ですね」

「僕がやるなら最短でそのくらいかなってね。そしてなにより――」

「なにより?」

「海流が蛇行しそうな傾向があった」

「蛇行……」

「黒潮続流の方だが、ここが蛇行すると大きくこの海域近くに海流のルートがせり出てくることがある」

「海水の温度や密度で発生する蛇行と……、渦状の潮流も発生する」

「そう、それでちょうど良いところで流れが途切れたりすれば、目標の座標に行き着くまでに航行の負担が減るんじゃないかとね。奴らだって長距離を移動するなら、無駄な出費は増やしたくないだろうと睨んだ」

「航行に有利な時期になってから動くと予想した、と」

「その通り。なるべく海流の変化をチェックしながらね、夏も過ぎて秋に差しかかり始めたころ、良い感じに蛇行をし始めた」

 

 確かに海の流れに沿った方が効率よく移動できるし、北方海域と太平洋の南側では移動距離は桁違いだ。 より遠い距離を航行するなら海流は無視できない。

 しかし、黒潮の流れに乗っているとすると先月の奴らは太平洋側近海を移動したことになる。そこに疑問を思い浮かべた私はそのままそれを口にした。

 

「しかし、南側の拠点は幾つもあります。太平洋を巡る潮の流れに乗って来るなら、それこそ、横須賀や呉が動くのでは?」

「そうだねぇ、まずは呉からかな」

 

 言葉を紡ぐ準備をしているのか、提督は紅茶で舌を潤した。

 

「呉は瀬戸内海に位置するだろう? そして、沖縄の方へ佐世保と共同で戦線を張っていることから、動員数にも限りがある」

 

 そういえばそうだ。南西方向へ伸びる諸島の海域を奪われれば、そこに住む人々は一溜りもないだろう。 そこは守らなければならない戦線の一つだ。

 

「その上で黒潮の流れの幅は広い。もしも太平洋側の方を移動するなら、そちらに目を飛ばすにしても穴は空くと考える」

「確かに、曲線の内側のほうが移動距離は小さく済みます」

 

 ならば、航路として太平洋側を取るのは道理だ、と頷いて納得した。

 

「じゃあ、横須賀はどうかと言うと、青ヶ島の件を念頭に置く」

「南方25kmの位置に集積地がどうとかのですか?」

「そう。夏にはあそこは空っぽだったという報告が上がっていてね」

 

 空っぽ? わざわざ作っておいて利用しないとは……。

 

「でも、その方向からの侵攻があったんですよね」

「隊列を組み直したりはあったんじゃないかしら、何かをしたという痕跡はある……。 でも、長期利用はなんかすれば資材だって量の多少は考慮するにも、幾らかは残るはずなのに、ない」

 

 ハリボテの島。そして、その方角からの深海棲艦。 きな臭いといえば、そう感じる動き方だ。

 

「囮……、でしょうか」

「……どうかなぁ。デコイにするしかなくなった、行き当たりばったりに……と考えてるかな」

「デコイにするしかなくなったって……」

「横須賀はそれなりに群として分厚いし、ちょっかいかけたら思いの外、固かったんじゃないかな」

「そんな、本当に安易な考えだったんでしょうか」

「……考え、と言うほどのものじゃないと思うんだ」

 

 私はその含みが理解できず首を傾げた。

 彼はそんな様子を見て目を細めながら答えを導いていく。

 

「基本的に彼らは本能で動くし、本能に依らない行動は殆どがゼロベースから始めざるを得ない。 経験なりドクトリンなり、そういうものは積み重ねだが彼らにはその蓄積はなかったはずさ。シーレーンを奪ったのも、そこを人間が通過することが多いからだろう。 ただし、知性はある。 トライアンドエラーを繰り返す程度には」

「はぁ」

「人が多そうだ。 拠点を作ってそこから悪戯をしよう。 でも、思った以上に近づけない」

「じゃあ、別の場所から?」

「かもしれない。――とりあえず、海流に乗って行こう。 東へ北へ……そら、どうだ? 北から自分達の乗る流れとぶつかるところがあるぞ。 良い塩梅の岩場や小島が点在しているみたいだ」

「まさか――」

「良さげな場所があったぞ、でも南からは遠い。海流に乗れば行けるけど、頻繁にちょっかいは出せない。ましてや、短期間での応援なんかは望めない。 じゃあ、ちょっとここで待っておくから北の方から応援を寄越してよ」

 

 『飽く迄も想像、適当なストーリーさ』と彼は戯けてみせた。

 

「なるほど、それが半分だと」

「そう。そして、全部を僕らが沈めた。そうすると、その本隊、南にいるのか北にいるのかはわからないけど、親玉は何かしらを考えそうだよね」

「何かしら……。少なくとも偵察隊やはぐれ艦隊程度は蹴散らせることが出来そうだと?」

「そうだねぇ、少なくともそれなりの集団がいて、そこに防衛の拠点があることは分かるだろうね」

 

 帰ってこないこと、或いは連絡のないことから戦力の分布の一部が予測されてしまう。

 口元に手を当てて考え込む。 そのストーリーは分かったが。

 

「では、何故今回は南から来たのでしょう? 北方から来てもおかしくないですよね」

「太平洋の方が面積が広いから……、とかね」

「なんだか、適当な感じですね」

「海から生まれるなら面積が広い方が沢山生えてきそうだろう? 余剰の兵力があるんじゃないかしら。 実際に南西は押されて気味だろう」

「生えてくるって」

 

 雑草のような表現に奇妙な感覚がして、どんな顔をすればよいか分からなくなる。そんな風に表情の落とし所を探す私を横目に『最後は勘だよ。 当てずっぽうさ』と宣う彼は、少しだけいつもの飄々とした雰囲気を取り戻したように見えた。

 

「あとはねぇ。 大湊には後藤さんって人が居てね」

「後藤殿ですね。なにやら豪快な方だと」

「僕はここに来る前はあの人の隷下だったのさ。 だからさ、ちょっとした信頼」

「信頼なんて、ご主人様が口に出すのはなんだかむず痒いですよ」

 

 彼は抗議するように眉を顰めて私を見つめる。でも、やっぱりその童顔には威圧感がなくて、まるで駄々をこねている子供のように見えて可笑しかった。

 一頻り私がくすくす笑っているとぎぎぃと軋む音が響いた。天井を見上げる姿の彼は空白に向かってつぶやく。

 

「信頼……、信頼ねぇ」

「……ご主人様?」

 

 時間の流れが滞ったかのような室内は居心地の悪さを押し付けて、何故か鼓動の音だけが耳の奥で強調された。部屋に入ってきた時と同じ、いやそれ以上に空間が沈み込んでいて、その姿に釘付けになる。なんとか、場を和らげたくて、もう少し提督の気を紛らわすことを願って、目的もなく呼びかけようとする言葉は途中で遮られてしまった。

 

「ていと――」

「大丈夫、大丈夫さ。心配をかけた、申し訳ない」

 

 その表情から嘘をついたことが分かった。けれど、濁った目がこれ以上は何も言ってくれるなと語りかけている。何か言わなくてはと開けた口に彼は手の平を披露して沈黙を要求した。

 

「ありがとう、漣。少し頭を整理できたし、紅茶も美味しかったよ。……もうじき日付も変わる頃合いだ。良い子は寝る時間さ。漣も要がなければ帰るといい」

 

 矢継ぎ早に話の終わりを伝える提督は執務机から立ち上がり、私に背を向けて自室へ続く扉へ向かった。 そのまま取手に手を触れたかと思うと彼はふと立ち止まる。

 

「カップとかはそのままにしてくれ、明日にでも片付けよう」

 

 自身の左手に広がる窓の向こうへ視線を投げながら、見守るだけの私へ言い残す。

 彼は『おやすみ』と返事も待たずその扉を閉めたようで、いつの間にか何もできない空間が広がっていた。扉の向こうを見ていた目は、自然と空っぽのマグカップへ戻る。底に薄く残った色合いは乾涸びていた。

 耳奥で鼓動の音を聞き入ることしばらく、残しても良いと言っていたカップ達を放っておくのも可哀想に思い、片付けるために腰を上げた。

 提督の机の上、冷たくなったマグカップを拾い上げようとして目に飛び込んだのは、彼宛のレポートだった。さっき聞いた夕立のこと。帰ってきてもらえるように要請を出すことで返事としたそれは、一見して綺麗なようだった。けれど、所々に乾いてほんの少しだけ膨らんだような跡が残っていた。

 一つ二つとそれらが私の視神経から飛び込んで心の中へ落ちてゆく。漣猗を立てて複雑に重なり合い、それらが私の面持ちを複雑にさせる。

 奥歯を噛み締めることでその紙面から意識を引き剥がす力を強めて、改めてマグカップを手に取る。両手に持ったそれをシンクの中へそっと置いた。私の分も持ってきて蛇口から水を出し、念入りに洗った。染みが残ることのないように、なるべく時間をかけて。外は相変わらず風が喚き散らしていて、流水の音と混ざり合ったノイズは質量を持って耳に飛び込んでくる。

 五月蝿いと思えるくらいに影響力を持つそれに少しだけ嫉妬した。小波である私は、実力も包容力もない私には、彼へ作用することが出来ない気がした。この夜の無力さはきっと忘れることはない。

 水栓を閉めて水を止めた私は手の水切りをして、手拭いで湿気を拭き取り、帰巣本能に従って廊下へつながる取手に手を掛けた。電灯のスイッチを切ると仄暗い部屋が広がって、窓が軋む音を尚更強くさせた。

 静かにドアを閉めようとラッチを沈み込ませる最中、響いたのは雫がぴちょんと立てた音だった。廊下の闇に溶け込んだ私には、その着地点などは見当も付かない。

 それでも、私はその一滴の出所を必ず見つけ出そうと決心して踏み出すことを決心した――。

 

 

 

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