酷く晴れた空が広がる。
暑くも寒くもない、暖かくも寒くもなく心地よい風が駆け抜けて雲が高かったのは、その少年が成長途中ということだけが理由ではないだろう。港南区の斎場で父親に手を引かれ、浅黄幕が主張する一室に入るその姿は恐る恐るといった様相で、確かに非日常の象徴的な冠婚葬祭の葬に当たるその場所は、小さな体にストレスを強く与えていた。
「日凪、ここに座りなさい」
優しくテノールの声が響いて隣の席を勧める。それに頷いて父親の示す場所へ座った。何が執り行われているのか分からない彼には、その声を信頼することだけが残された選択肢であり、また電車でそれなりの時間を移動して疲れていたので拒否することもなかった。
足をぶらつかせて俯く少年の背を父親が撫でてしばらく、ふっと視界の明度が下がった。
「お久しぶりです」
「あぁ、ええと……。沢井さん、ですよね?」
「えぇ、そうです。急にお声掛けして申し訳ありません。驚かせてしまいましたね」
「いえいえ、とんでもない。こちらこそ直ぐにお名前を思い出せないのは恥ずかしい限りで……」
どうやら誰かが父親に声をかけていたようだった。立ち上がった父親はなにやらひょろっとした男と会話を始めていた。近くでふらふらと動くスーツの端に手を伸ばし、その少年は弱く摘んだ。邪魔しないようにと考えたその行動に父親は気付かない。
心細くその様子を見ると男の背後には明るい髪がぴょこんと見えて、なんとなく見覚えを感じてそーっとそちらへ顔を覗かせる。
「こんにちわ」
明るくはきはきとした声と満面の笑みを浮かべる女の子がいた。自分よりも幾らか背が高いけれど、彼の覚えている限りでは変化がないようにも思える。とはいえ、子供ながらの朧げ程度の記憶ではある、頭の中の引き出しを色々開けてようやく少し思い出した。
「えと……。いかづちねえちゃん?」
「そうよー。元気にしてたかしら?」
「……ん」
いつの間にかその様子を微笑ましげに見ていた大人の視線に気付いて見上げると、『一緒に遊んでもらいなさい』と父の手が頭をくしゃくしゃとかき混ぜてきた。髪がぐちゃぐちゃになるのご嫌なのか、少年は両手でそれを引き剥がして雷姉ちゃんと呼んだ小女の元へすり抜ける。周りの椅子などに当たらないようになるべくそーっと。
「大きくなったわね、次会うときは私なんか追い越しちゃうかもね」
逃げた先でも撫でられる彼は、しかし、少女の手を振り解くことはしなかった。優しく漉くように撫でるその手は心地良く、少し目を細めて『そうかなぁ』と言葉を返した。
「じゃ、ちょっとお姉ちゃんと遊んでようね」
「うん」
「でね、後でちょっとだけ静かにしなきゃいけないの。手伝ってくれる?」
少年はその意味するところがよく分からなくて様子で、首を傾げて見つめた。静かにすることもなんとなく、厳かな雰囲気を子供ながらに感じ取っていて、ただその疎外感は彼にとって面白くなかった。だというのに、その事と手伝うということの関係性はますます理解できなかった。
「今日はね、みんなで静かにお爺ちゃんが眠ってるのを見届けるの」
「おやすみしてるとこを見るの?」
「そう、起こしたら可哀想でしょう? だから、なるべく静かにしてあげるの。寝てる人を手伝ってあげるの」
「うるさかったらおきちゃうもんね。分かった」
「ふふ、日凪は賢いわ」
「えへへ」
なんて事ない、昨日の夜だって母親が自分が寝るのを見つめていてくれていたのだ。それと同じ事をみんなでするのなら、それは彼の中へとても綺麗にストンと入った。
「今日はしずかにする」
「良い子ね。後でいっぱい遊びましょうね」
「うん!」
この日が彼にとっての水引だった。物心がはっきりしてきた時に、引き合わされたその縁は、結局彼の人生にとって切り離せないものとなるからだ。
天気予報は午後も様相を変えなかった。
体を温めてくれる穏やかな日差しと、少しだけ涼しいくらいの風が擽るその陽気は、煙突からモクモクと立ち上る煙を上へ上へと押し上げて、ついにはぽっかりと浮かぶ雲と同じ高さへ到達した。
それは酷く晴れた日だった。
――――――
――――
――
「日凪くん、改めて大きくなったねぇ」
「やめて下さいよ、沢井さん。もうそんな歳じゃありませんって」
「いやいや、あんなに小さかったのになぁ。大学も無事に出れて、就職先も決まって」
「胸を張れるようなとこじゃぁないですけどね……」
小さいとはいえ出版社に勤めることとなった僕を何故か沢井さんが個人的に祝ってくれることになった。父親が仲良くなったことをきっかけに、ちょいちょいと目を掛けてくれるこの人はもう50も半ばくらいだったかしら。まぁ、似たような年代であることと、父も沢井さんも本好きが嵩じて友好を深め、音楽にしろスキーにしろ、類似する項目がそれなりにあったらしく、機会は少ないとはいえ友と呼べるような間柄となっていた。
今日はその個人的なお祝い。彼がよく行くというバーへ連れ出してもらい、普段じゃ踏み越せないと思っていた敷居を簡単に跨いだのが先ほどだった。
『大人になるんだから、酒の嗜み方の一つ、会得するもんだよ』と言ってくれたのは、多分大学のサークルでの飲み方があまり良くなかった噂を聞いたのが発端かもしれない。強くもないのにちゃんぽんして、酔いの回るふわふわとして感覚が楽しくてよく前後不覚になっていた。
「まずはね、ビールを飲もうよ」
「ビールですか? でも、苦い感じが苦手で……」
「まぁまぁ、ちょっと任せてみてよ」
そうしてカウンター越しに彼は何かの銘柄を伝えた。
「小さめのグラスも一つ貰えるかな? 今日は彼にちょっとお試ししてみようかなって」
「かしこまりまし。 酒の沼にどっぷりハマって貰いましょう」
にやりと表情をやり取りする2人の横顔に僕は少し早まった気がした。
とはいえ、折角祝ってくれている席なのだから、元々拒否権もないしなんだかんだこの非日常な感じが楽しいのは本当だった。
「そういえば、雷さんはお元気なんですか?」
子供の時によく相手をしてくれていた女の子。僕が中学を卒業できた頃合いから少し疎遠になっていて、ちょこちょこと会うこともあったけれど、この2〜3年は殆ど会っていなかった。
丁度、沢井さんに初めて会った日に一緒に来ていた事を思い出して、何も考えずに尋ねた。
「あぁ。雷さんか……。どうしようかな、ちょっと……。うん」
なにやら歯切れの悪い物言いとさん付けで呼称する沢井さんの彼女との距離感に僕は頭を捻った。とはいえ、ただの世間話なのだから特に掘り下げることもないだろうと、『言い難いことなら大丈夫ですよ』と助け舟を出して、それよりも先ほどの銘柄のことを掘り下げようかしらと質問を切り替えた。
「そう、そうだな。まだちょっと伝えるには難しいんだけど……」
「あー、ええと。ここに出てくるまで内緒的な感じですか?」
「あぁ、いや。ごめんごめん、それはね、デュベルってビールでね。普段の飲むようなビールより口に合うと思うよ、それでね」
「え?あ、はい、ええと……」
「いや、雷さんのことなんだけどね」
僕はかなりテンパっていたらしく、あまり噛み合わなかったこの状況に恥ずかしさを我慢できずに、顔が赤くなるのを自覚した。
「……なんか、すみません。少し舞い上がってしまっていたみたいで……」
「いやいや、僕の方こそ、ちょっと思うところがあってね」
「…………思うところ?」
伝えたいし伝えるべきだと、思う。特に君には。でも、ちょっとね、僕の職業的にね。あとで詳しく教えてあげるよ、落ち着いたところでね。とりあえずは彼女は元気だよ」
つまるところ、防衛省の絡む都合があるようで、沢井さんは言い淀んでいたのか、と察すると共に僕が思っている以上に彼女は年上だったのかと気付く。しかし、おしめを替えたこともあるのよ、と言っていたことも思い出して、じゃあどれ程の差があるのか皆目見当もつかなかった。
……ほんの少しだけ引っ掛かることはあった。年齢に差が生まれてしまうような事態に繋がる噂話があることを、脳の引き出しに仕舞い込んでいたような気がした。
とはいえ、後で詳しく話そうと言うのだから、追求するのは今ではあるまい。
「気を遣わせてしまってすみません。とかく、元気そうなら言うことはありません」
『ありがとうございます』と付け加えてその話題はお開きにした僕は、改めて酒の嗜み方を教示願うことに頭を切り替えた。
「しかし、こんなワイングラスみたいなもので飲むんですね。ビールと言ったらジョッキかと思いましたが」
差し出されたビールのグラスは柔らかな曲線を描いており、飲み口へ行くにつれ少し窄まるようなの形状だ。グラスの底は脚で高さを伸ばすことでテーブル面からは5cmほど浮いており、内容物の温度への影響を抑えたいという意図を感じた。
「良くある喉越しを楽しむものじゃないのさ。 あっちはピルスナーって言って、割と苦目な味。 こっちは……、そうだねぇ試しに香りを確かめてご覧」
「香りを……?」
勧められるがままにグラスと一緒に置かれたビール瓶の口を嗅いでみる。
ふわりと爽やかで、しかし濃い甘さが鼻をくすぐる。アルコールの匂いや、麦の発酵臭を抑えて香るそれは、匂いの種類は全く違うが、もぎたての完熟トマトを切った時を思い出させた。
果実、それも濃厚な果実を思わせて口の奥の方からじわりと唾液が広がった。
「凄く、香りが鮮やかですね。果実のような……」
「だろう? 甘さがあるのさ。 エールビールって言ってね、味わう酒さ」
沢井さんがそう蘊蓄を伝授しながら、左手にグラスを持ち上げる。僕もそれを見て自分のを手に持つ。
「そうそう」
いよいよ乾杯だと思うと、右の人差し指を立てて一つだけ、と言葉を続けた。
「こういうところのグラスは華奢なのさ、だから乾杯は傾けるだけ。 ぶつけないようにした方がスマートだよ」
「なるほど……」
「じゃ、改めて。日凪君の新たな一歩に」
「「乾杯」」
そうしてやっと口の欲求に従い、煌びやかな黄金色のうち少量を含む。
まろやかに広がるのは嗅いだときと同じ甘さ。しかし、甘ったるいだけでなく引き締める程度の苦味がそこに絡みつき、独特の味わいが口を楽しませた。奥にいる麦の風味がなんとなく焼きたてのパンを思わせながら喉奥へ流れ込みたそうにする。ごくりと飲み込む。するとアルコールが弱く鼻から立ち上るけれど、それは嫌味な感じではなかった。それよりも十分な満足感を胃に覚えると共に少し青みのある後味が糸をひき、口内の幸福度が保たれる。美しく味わい深い、そういう表現が相応しい試飲だった。
「これは……、美味しいです。 びっくりしました、ビールって感じはあまり……」
「そうだろう。ごくごく飲むって言うより、じっくりと味わうのがいいのさ」
「ですね、こんなビールなら僕も飲めますよ」
「気に入ってくれたなら良かったよ。同じのを一杯、改めて頼むかい?」
「頂きたいです! や、これは美味しい……」
不思議な経験ではある。同じ名前を持つものだと言うのに、中身は全然違うからだ。ビールと言えば、苦くてごくごく飲んで喉を潤すみたいな、そして炭酸で膨らんだ腹と飲み過ぎて回るアルコールに苦しむようなものだと思っていた。しかし、それは一部分だけであってこんなにも甘く味わい深いものがあることは衝撃的なほど、強く記憶に残りそうだった。
「ま、ゆっくり飲みなよ。度数はそれなりに高いし、今日は美味しいものを楽しむ方法を覚える日さ」
「はえ、そうなんですね。すいすい飲んじゃいそうです」
「良いものはゆっくり、大切に味わう方がいい。特に酒とタバコはね。度を越すと体にも心にも悪い」
「確かに、酒は飲んでも飲まれるな、ですもんね」
「そういうこと。あと、今日は気にしなくてもいいけど、こういうのをぽんぽん頼んじゃうと……、ね?」
そう言って、メニューを見せてくれた。デュベルの言葉の右、点線を目で追いかけると……。
「なるほど、これは財布も飲まれそうです」
「だろう? でも、嗜好品なんだから、どうせ安いものより、少しだけ、一杯だけでも高いものさ。こうやって奢ってくれる人がいるならなおさらね」
「そうなんですか? まぁ、居酒屋で飲みまくるよりは体に優しいかもしれませんね」
「それもあるけど、自分の格ってものを少しでも上げるべきさ」
「格、ですか」
沢井さんは大きくうなづく。
「落ちることは簡単だけど、上げるには苦労が伴う。なんでもそうさ。スポーツなら体づくりを、仕事なら下積みを、アーティストなら逆境の克服を、それぞれ苦労して一つずつ積み重ねて格が上がる」
「まぁ、そうですよね」
頭では分かっているけれど、生来の怠癖から僕は少し眉根を落とした。これからの事を考えると大変そうだと言うのもある。
「その中で1番簡単なのはお金で解決する方法だよ」
「お金で?」
「少しだけでいいのさ、自分のいるランクから一つ二つ上のステージに、楽しみを見出すこと」
「はぁ」
「朱に交われば赤くなるって言うだろう。同じ色でも、良い色を持つ人が来る場所へ行けば、それだけ君も良い態度と節度を学べるさ」
「友達は選べと似た様なことですかね」
「そういうこと。あと、生活にしろ出費にしろ、コントロールが必要になる。自制を覚えることにも繋がるし……。まぁ、ちょっと鬱陶しい話かもしれないけどね」
「いやいや、そんな」
「ま、おじさんの持論ってだけさ。頭の片隅にでも置いておいてくれればいい。取り敢えず今日は楽しんでくれればいいさ」
そんなものかと思って僕は頷いた。きっと沢井さんなりのアドバイスとして、人生経験から教えたかったことなのだろう。言われた通りに頭の隅にその言葉を包んで置いておき、まずは目の前の状況を楽しむことに注力することにした――。
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宴もたけなわ、と言うには人数が少なかったが、それでも沢井さんとマスターを交えての酒席は楽しかった。お酒の銘柄にしろ、地方の食べ物のことにしろ、それぞれ人生経験にしろ、僕に取ってはどれも濃く、また世界を広げてくれるような話で有意義なものだと確信できた。
あれから1週間ほどが経っている。僕は就職に伴って引っ越すことを決め、不動産屋で物件探しや、部屋の整理を始めて、新たな生活の段取りを進めているところだった。20余年を過ごしたこの家を出ることも感慨深く、自室でごそごそとしてみたり、アルバムや集めた小説や漫画をぱらぱらと巡ってみたり、散らかしているのか整えているのか分からない様相を作り出していた。少なくとも自分にとっては思い出に一つ一つ区切りをつけているつもりだが。
そんな折にドアからこんこんと合図が聞こえる。続けてノブが回る音が大人しく響く。
「日凪、あなた宛てよ」
「うん、ありがとう」
長いことあぐらで座っていたせいか、少しぴりぴりとする脚をしゃんと立てて僕宛だという小さめの封筒を受け取った。便箋を入れるための横が長いタイプの白い封筒。
裏を返して差出人に目を移す――。
「雷姉さん……」
「珍しいわよね、急に。良くしてくださったのは覚えてるけど」
「うん、この前沢井さんに祝って貰った時にちょっとね」
「そうだったの。まだ覚えていてくださってるなんて、良かったわね」
謝意を母さんに伝えて、とりあえず机に置いた。『これじゃ散らかしてるようなものじゃない』と、少しお小言を貰いながらも、任しておいてくれと部屋を出て行ってもらった。別に姉さんからの手紙を開けることが恥ずかしいわけではないけれど、部屋を片付けたりするのには1人じゃないと難しいから。
兎も角、僕は改めて椅子に落ち着けて封をしているシールを剥がした。丁寧に折り畳まれた便箋を広げて読む。並んだ文字は可愛らしく彼女の様子がなんとなく目に浮かんだ。
『彼女――雷さん――は、職業上の同僚でね、どこにいるとかは言えないけれど元気にしているようなんだ――』
沢井さんがそうやって教えてくれた。
本当は門出祝いに会いたいと言っていたこと、今は外出することが難しいこと、色々。そして、あの時引っ掛かっていたそれと、線がつながったこと。繋がってしまったとも言うべきか。
『どうした方が良いとかは……僕からは何も言えない。言う資格もない。まぁ、関わるなというのは簡単だけれど、それも寂しいと思う。君にとっても彼女にとっても』
艦娘。
都市伝説的な噂。
僕が直接的に関わっていたことがあったのは驚きで、でも思い返せば納得してしまう。僕と彼女の違い。
『――良ければ手紙でもやりとりして欲しいと、個人的に思ってね。君が良ければだが……』
そんな風に恐る恐る言う沢井さんに食い気味に、『是非に』とお願いをしたら大層驚かせてしまった。その驚き様が少し面白くて2人して笑ったのがあの日の最後だった。
「拝啓、ね――」
暫く、僕は手紙を読んだ。
ゆっくりと読んだし、繰り返し読んだ。
書いてあることは当たり障りもなく、就職についてのお祝いや、昔の思い出や、書ける範囲での現状。それでも、何か彼女の思いが行間に溢れている様な気がした。
「人じゃない……人じゃないねぇ」
立場も種族も出自も、僕と全く違う存在だとして、それでも良いかと問うた沢井さんは、彼なりに悩んだのだろう。それでも、そんな事は僕には些細な問題で彼女のことはいつでも思い出せた。酷く晴れた空はいつだって彼女との出会いの象徴だった。
「よし」
そうして僕はペンを取った。部屋の片付けをそっちに退けて先に返事をしようと思い立ったのだ。色々とあるのだろう、あの見た目の変化の無さを考えれば、それは寂しい思いをしてきたに違いない。良くしてきてくれたのだ、文字を書く事で幾らかの恩返しとなるならば――。
背景、冬の足音もすぐそばまで――。
――――――
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――
「――てことは、艦娘達にも?」
「久方ぶりに会いましたねぇ。相変わらず可憐ですけど、全員僕より年上のおばあちゃんです」
そう、おばあちゃん。見た目には分からないだろう。姉さんは勿論、あきつ丸さん、蒼龍さんや扶桑さんも皆美人だ。
縁は異なものだ。そんなところに人間関係――艦娘だが――に繋がるとは思いもよらなかった。そもそも、この話を掲載しようと思い立ったのも1番仲の良い雷姉さんが発端ではない。この夏に沢井さんが好意で引き合わせてくれたあきつ丸さんとのやり取りが僕を動かした。
姉さんの過去を知りたいと伝えると自分の知っていることを教えてくれた。それなりに理由や動機なんかを確かめられたが、その時は単純に姉さんが心配だと言う事だったからこそ、恐らくは許されたのだろう。
そうして僕はあきつ丸さんの物語と、何冊かの手記を預かった。
『あまり良いこととはありますまい。しかし、泉提督の血縁で雷さんも懇意にしているというなら……、或いは預けるべきは貴方である方が相応しいでしょうな』
そんな堅苦しい言葉と共に、彼女たちの想いと軌跡が綴られたものを託された。それはシンプルに僕と泉さんが似ていることも少しあったのかも知れない。
そうした文字や記憶たちとして残るこの物語を、何も知らないままで世の中が回るのは間違っている気がした。僕らはなんとも仮初のというか、得体の知れない不透明な何かの上に立っていて、他の誰かを泣かせたまま知らんぷりをしている様な状況と思えた。そして、それはとんでもない罪の様に感じる。そもそも、何故彼女たちが諦めた様な色を瞳に湛えなければならないのか。僕は自分でも驚くほどに憤慨し或いは落胆し、この事態を強く否定せねばならないと、ある種の強迫観念に取り憑かれた。
この命の重さに等しい手記を手に持って、僕は急いで連絡を入れた。多分、都市伝説的な戯言だと思われれば鼻で笑われるかもしれないにせよ、この世の中に一端を見せることができるような気がして。相談し、説得して、噂から作り出された創作物であることを盾に、言論と表現の自由の範疇で執筆することの許可をなんとか取り付けた――。
「ふぅ……」
今月分の記事をまとめ、先輩に押し付けられたレイアウトについてもなんとか形にして、仕事から解放された僕はため息を吐いてぐぐっと背伸びをする。
「お、漸く終わったか」
「お陰様で。いやはや、付き合わせてしまったようですね。すみません」
「うんにゃ、どうせ家に帰ったって暇さ。動画なんてここで見てもあっちで見ても変わらん」
「あははは――」
僕は会話をしつつも手早く帰り支度をする。職場で動画を見て惚けるのもどうかとは思うが、職務態度は兎も角面倒見は良いタイプの人で良かったと思う。
「じゃ、気をつけて帰れよ。鍵は閉めとくから、忘れ物しないように」
「ええ、ありがとうございます。お疲れ様でした」
「おつかれさーん」
さっきまでも彼女たちの物語を書いていた。それで給料を貰うのも少し疑念が首をもたげたけれど、ウェブの片隅で永遠に見向きもされないよりは、誰かの目に映る機会は多いような気がした。
戦いとも言えないかも知れないけれど、僕に取っては使命のようにさえ感じる。
――外へ出るとすっかり夜だった。最近は冷え込むと言うのに、今日はさらに雨が降っていたようで、体感温度もぐっと下がる。幸いなのは雨は降り止んだことくらいか。
確かめるように空を見ると雲ひとつなく、月が静かに光り輝いている夜空であっても、晴れている事は分かるものだなと無駄に感心した。
雫が落ちてきて、メガネの表面に跡を引いた。
雨が完全に上がっていた。
それは酷く晴れた空だった。