女川警備府 9月某日 1128
この女川湾の一帯はそれなりに複雑な地形をしている。牡鹿半島の一部を湾岸部に持ち、半島が擁する丘陵は海に浮かぶようにぽっかりと南へ延びてゆく。沖合には出島が残暑の日差しを受けて景気の良い緑で彩られており、自然が織りなすコントラストは美しい。半島にはそこかしこに港が用意され、多くの商船・漁船の出立や入港を穏やかに受け入れようとしていた。
しかし、それも3年も前の話だ。
これら船だまりが息を引き取ることとなったあの夏、それは出現したらしい。異形の海上生物、深海棲艦。今や地球上のシーレーンは潰され、各諸島は占拠されている。埒外の技術で無線の類はジャミングされ続け今日に至るまで国外の動向などまるで分らない。
「『空はあんなに青いのに』ってのは誰の口癖だっけね」
つぶやきの主人は端正な机を足蹴に椅子に深くもたれかかっている。まるで見たくないとでもいうように顔を右に背け、大本営からの通達書類をデスクに投げつけた。
窓枠で切り取られた女川湾の風景を眺めながら、我らが提督は海上自衛隊の帽章があしらわれた制帽をくるりくるりと指で回している。
「仮にも上層部からの通達書類を放り投げるのはいかがなものでありましょうか?」
折角届けた書類を膠もなくぞんざいに扱われ、わたしは憮然とした表情で諫める。
だらしのない態度の彼は、色白の肌と艶のあるショートヘアがよく映えており、几帳面な着こなしの制服は儚さと無骨さが両立する。その姿は調度品の少ないこの部屋に違和感なく溶け込んでいて、いつ消えるかも分からない雰囲気に目を離せなくなってしまう。
「それなら、犬にでもくれてやったらよかったかね、あきつ丸君」
「犬の餌にはあまりにも上品、ということであります。提督殿」
机上にばらけた紙面。その1枚目の文章は『下記の所属の者は大湊鎮守府の指揮する北方海域作戦(仮称)のための偵察を……』との滑り出しだ。下部の連名に埋もれてしまわないよう『女川警備府:泉 晴』の部分だけにマーカを塗ってやった。赤のアンダーラインも一緒に添えて、多少の嫌がらせつもりだ。
机に投げやるのも書類に落書きをするのも同じ程度に行儀が悪いことなのは分かっている。多分、彼も承知の上だろう。
「小言なんて、それこそ大本営様にでも任せたまえよ、君。」
彼は『もう聞きたくない』と言わんばかりに左手のドアを指しながら続ける。
「ともかく、書類の輸送任務は完了、ご苦労なことだ。そろそろ補給が待っているし下がりたまえ」
しかし、わたしは首を横に振った。もう少しお小言に付き合って頂かなくては。今は彼の秘書なのだから。今日こそはわたしの役割をやり遂げなければならない。
「はい、提督殿。いいえ、小職の任務は提督を頷かせることであり、完遂には至っていないのであります」
仰々しい軍人言葉で彼に任務の訂正をした。もちろん書類を届けることがわたしの仕事ではないことなど、彼は分かっていて言っている。これが彼とわたしの遣り取りなのだ。
しかし、それでも、この通達についてはこんな様式美なんかで流されて欲しくなかった。この通達にはこの部隊の存続に関わるいくつもの補足がご丁寧に書き連ねてあるのだから。
曰くーー所定の条件を達成すること。曰くーー所定の戦果を報告すること。曰くーー所定の条件は大本営の作戦本部が独自に判断すること。
条件や戦果が不足した場合は、鎮守府及び所属の部隊の解散であり、指揮する者の降格もあり得る。大本営が悪質だと判断すれば本国防衛に対する反逆行為と看做し、国家転覆を狙う逆賊であると断じて軍法会議にかけるというもの。
わたしたちは戦果を挙げなければならない。いつものような最低限で、有耶無耶に、のらりくらりと躱せるようなそんな条件ではない。『我々の気分次第で潰すぞ』と行間に書き殴られているのが目に見えて分かる。
彼は回していた指の動きを止めた。制帽は重力につられてぱたりと頷いた。
「では、これでーー」
『頷いたことにしておこう』なんていつもの冗句が聞こえる。
それでは駄目だ、そんな曖昧な返事では。確実に正確にこの通達を実行に移さなければと、その認識を持って貰わなくてはならない。
わたしは今までの不誠実な彼に我慢がならなかったのだろうか、果たしてこの気持ちに答えを見つけることのないまま口が動いてしまう。
「提督殿、此度の偵察任務は北方海域の脅威を排する目的であります。 ひいては我らが安全を担う、この女川湾を始めとする太平洋沿岸一帯の安全を確保するためのもの……。
今までの通達とは比べることのできないほど重要な意味合いを持つものということを、今回ばかりはご承知して頂かねば。
ーー不敬ではありますが、そのような冗談を宣うには適さぬ状況であると愚考するのであります」
語気が荒れてしまう自覚はある。だけれど止められない。彼は上官だ。わたしの態度は己を律し精神を強く持つ軍人として、ましてや目上の方へ向けるには適さない。それでもわたしは気持ちを押さえつけられないでいる。
暴発しようとしているわたしを目の前に、彼は困ったような様子で二の句を待っていた。
「かような態度で臨まれれば配下の部隊の士気に関わるのであります。
よもや、この警備府の解体をちらつかせられている中、通達無視などもっての外であります」
「そんなそんな。通達無視など恐れ多いこと、出来るわけないだろう。今までだって一度たりとも無視したことはーー」
ああ、そうだ。無視してはいない。けれど、今までの通達に対して実質的な軍事行動に移さず、口八丁と周囲へのポーズだけで誤魔化してきていたのをわたしは知っている。
お道化る彼にわたしはついに頭が真っ白になってしまった。
「必要最低限の行動目標しか成さず!あまつさえ戦果を他に取られている!! 無 能 な ! 鎮守府だと侮られているのでありますよ!?」
ああ、違う。そうじゃない。そういうことが言いたいのではなかったはずだ。そういうことをぶちまけるつもりではなかった。
自制を振り切ったわたしの口は騎手を失った馬のように見当違いな方向へ話を走らせてしまった。
「わたしは嫌であります!提督殿がこのようなところで閑職を営んでいることも!
戦友たちと離れ離れになってしまうことも!!これではあんまりな仕打ちであります!!」
後悔に満たされた肩で息をしながら捲し立てたわたしとは対照的に、彼は静かだった。
ここは執務室のはずだというのに、まるで海の底だ。わたしと提督は、海溝のあちらとこちらに立っていて永遠に触れ合うことはないのだろう。もう2年も立つのにーーその溝が埋まる実感はない。事実埋まっていないのだろう。
「わたしは!! わたしの提督は! 泉 殿だけだと…… 。わたしは、離れたく、ない、と……」
懇願なのか我儘なのか分からない澱んだ言葉に返事をしてくれるのは、窓から滑り込んでくる海猫の自己主張ばかりだった。
それがただ只管に空しく永く、わたし自身が沈んでいくように感じてーー。
「少しは弁えたまえよ、君」
『軍属として目に余る』と、叱りつける声が耳に入ってくる。頭から水をかけられたように感じた。
提督の発する語気に、今更にも彼を誤解していたことに気付いた。すっきりとした顎周りや体躯から華奢な印象を受ける彼のことを、少し下がり気味の眉から柔和ささえ伺わせる彼のことを。そう、彼もまた暴力を背景とする軍人と呼ばれる人間なのだ。
この瞬間、それを嫌というほど再認識させられていた。
「ーーあきつ丸君は活躍の場が欲しいのかな、それとも仲良しこよしがしたいのかな」
今までの慣れあうような雰囲気はそこには一切なかった。幼稚な甘えはばっさりと切り払われ、わたしは生きた心地がしないままその場に立ち尽くている。
1秒だろうか1時間だろうか、胸を刺さされるような時間の中にいるわたしに、ゆっくりと彼は唇を開く。
「自分でも疾うにわかってるんだろう? 大本営所属の大淀でなく、陸軍所属の君がこの泊地に秘書艦として配属されてきた、その意味を」
『あぁ、勘違いしないでくれたまえ』と提督が言う。
「持ち回り制にしたのは君が無能だからなんかじゃない。君は十分に有用で僕なんかには勿体無いほど優秀な艦だよ」
白々しくフォローをする彼の言葉は受け止めるには耳が千切れそうな程に冷た過ぎる。やはりわたしは不要なのだろうか--。
「君が功を焦っていることも分かる。所属違いであるからこそ、仲間思いな一面も分かる。殊更、君たちの出自を考えれば海を取り戻そうとする熱意が溢れてしまうことも当然のことだーー」
彼は一度言葉を区切ると、次に紡ぐべき思いを探すように小首をかしげた。
わたしはいっそ耳を塞いでしまおうかと迷うほどで、続く話を聞きたくなかった。
「上層部の派閥争いが発端である作戦など、ましてや戦力の乏しいこの女川から徒に威力偵察に部隊を派兵するなど、僕には『死ね』と言われているようにしか聞こえないね。関係のない僕らを巻き込むなんて正気の沙汰じゃない。
そんなことは死んだり殺したりってのが好きな連中が、気違い同士で仲良く存分に遣り合っていれば済むことだと僕は思うし、君も分かっていると思っていた」
淡々と聞かされる彼の言葉は耳に重く残る。やっぱり、手を当ててしまえばよかった。後悔に後悔を重ねてわたしの意識は遠くなっていくのに、それを手放すことは許されなかった。
「それなのに、そういう手合いの思いつきに生真面目に取り組めと勧める君は、僕らを犬死させようとしているんだろう。
そうか。僕らが死ねば、君は目出度くあの高慢ちきな気違いどもの仲間入りを果たせるというわけだ。違うかい?」
意地の悪いことに彼は、『こういうときこそ、陸軍としては海軍の提案に反対である、と言うべきじゃないのかね』なんて皮肉をかぶせてくる。
わたしはせめて『犬死させようとしている』という決めつけに弁解をしたかったけれども、抑揚のない表情を見つめることにも耐えられず、口元を震えさせまいとして押さえつけることしかできなかった。
ーーふと、椅子から軋むような音が聞こえたかと思うと、彼はおもむろに立ち上がり執務机の背後に並ぶ本棚へ近づいていった。
「僕はね、君たちのような『有能』な部下たちを、赤紙よろしく薄紙一枚っぺらで死地へ追いやろうとするのは御免被るんだよ」
納められているのはこの警備府の受け持つ海域の資料や私たちの提出する戦闘詳報を綴った報告書などで、それらは執務机の背後を守るように築き上げられていた。彼は一つ一つ冊子の背表紙を指でなぞり見つめている。
「それともなにかい。 折角、諸君らとこれだけの戦果を挙げ女川湾の安全を取り戻したというのに、それを認めようともしない無能どもと仲良くしろと? この僕に、かの高級将校殿らと同じ列に並べと、そう言うのかね」
ゆっくりとこちらへ振り向く彼は怒るでも悲しむでもなく、ひどく失望したと言いたげな面持ちだった。そうして今度は彼がわたしから目線を外すようにして俯き、ため息を一つこぼす。
そして、吐いた分を取り戻すように大きく息を吸うと、『お茶を入れようか』と落ち着いた足取りで部屋の隅にある給湯スペースへ向かった。
一方で、勧められるがままに一人、座り慣れないソファーに腰を下ろしたわたしらひどく憔悴していた。
ーー会話のない執務室の中、ケトルがコンロの上でコトコトと炙られている。 彼は戸棚から取り出したカップ二つとティーポットを温めようと電気ポットから湯を注ぎながら、一つの問いを投げた。
「君たち艦娘は何のためにいるのだろうか」
ケトルの汽笛が湯が沸いたことを相槌代わりに知らせると、彼はコンロの火を弱める。ティーセットの湯を流し捨てたことによって、湯気がシンクから迷うようにして立ち上った。
わたしはまだ口元が震えている。
「僕ら提督の存在意義は一体なんなんだろうか」
続けざまに呟く彼はティースプーンで二人分の茶葉を測る。あまりにも静かに紅茶の準備が進められていく。
ガラス製のティーポット中で、勢いよく落とされたお湯に翻弄される茶葉はこの質素な部屋に華やかな香りを放ち、ゆっくりと開いていった。
「君たちの思いはこの海を守ることだ。あの異形の化け物どもに相対し、肉薄し、装備されている兵器で殲滅することで、海の安寧を取り戻したいと言っていたね」
「では、僕らの仕事は? ……僕はね、僕が思うに、誇りと高慢を取り違えた人間という化け者どもから、理不尽に振るわれる権力という暴風から、君たち艦を守ることだと思っている」
カップに注がれたミルクはポットに満たされている鮮やかな赤色が注がれることを静かに待っていた。
わたしは、彼の自問自答に耳を傾けながら、紅茶を淹れる所作を見守るほかなかった。
「権力はね、怖いよ、君。人間が化け者になってしまうんだからね。他ならぬ旧陸軍にお勤めをしていた君のことだ、よくわかるだろう?」
「ーー僕はそれが一番怖い」
彼は蒸らし具合を確認すると小さく頷いて、ポットから紅茶を注いだ。
紅茶が4、ミルクが1。その比率で出来上がった紅茶は優しいブラウンで、まるで彼の瞳の色を思わせる。
『ほら、お飲みよ。今じゃ手に入らないウバの紅茶だぜ』なんて得意げに言いながら、彼はティーカップを一つ私の方へ追いやった。
さっきまで癇癪を起こしていたわたしはとてもじゃないけれど、こんな歓待を受け入れることが出来る胸中ではなかった。
「そんな高級なもの、小職にはあまりに贅沢が過ぎるのであります……」
今すぐにでもこの部屋を走り去ってしまいたい衝動に駆られた。見るものすべてがぐちゃぐちゃで、どうしようもなかった。今までは曲がりなりにもなんとかしてこれた。けれども、今回の通達がちらつかせる上層部のメッセージは、わたしの心を断頭台に送るには十分すぎるほどだったのだ。
さらさらとグラニュー糖を落とし込む音が聞こえる。見えるのは、混ぜるには長すぎるくらいに紅茶の上で踊っている彼の手元ばかり。
彼ははたとその仕草をやめた。それはかける言葉を見つけたかのような、なにか考えをまとめたかのような雰囲気を持っていてーー。
「馬鹿だねぇ。高級か低俗かなんて考える前に、出されたものは飲んでやらなければ可哀そうだろう?」
ハッと顔を上げて飛び込んでくるのは、秘密がばれてしまった子供のようにバツの悪そうな表情。
「丁度、一人で飲むのは味気ないなと思っていたところなんだ、僕と一緒に共犯になってくれたまえ」
提督がそんな表情をする人だとは全く思いもしなかったので、真一文字に固まっていたわたしの口は意図せずぽかんと開いてしまっていた。
そして、ようやく緩んだ唇をなんとか動かすことができたところで、わたしはその言葉に確かさを求めた。
「ーーそれは……上官命令でありましょうか?」
「そうだ、上官命令である。さぁ、飲め」
そんな偉そうな口ぶりの彼はカップを少し掲げてから静かに口をつけた。命令には逆らえず、慌ててわたしもミルクティーを口に含んだ。
爽やかな香りとフルーツを思わせる甘味が、この胸に折り重なった澱みと混り合う。居心地が悪いのか良いのか分からない。
所在なさげにカップを持つわたしを満足げに見つめる彼を遣り込めることは、この先もずっと叶わないのであろう。ーーそれはずるい遣り方だと知っている。脅し罵倒し落ち着けさせたかと思うと、諫め慰め褒める。それが分かっていても、なお、縋ることしかできない。彼の手元で使ってもらえなければわたしは『無能』のままなのだから。
「僕らは最低だろう?」
畳みかけるように種明かしをして、今度は信頼を得ようとするのか。 そうして、あなたはわたしから何もかもを奪って、何もかもを与えるのか。
無能な鎮守府で出来損ないの秘書艦をなんとか鼓舞しようとする彼に、目一杯の虚勢をこぼさないようにわたしは答えた。
「稀代の詐欺師でありますな」
願わくば、海の藻屑と消えるまでどうかわたしをだまし続けてくれますようにーー。