この女川湾の一帯はそれなりに複雑な地形をしている。牡鹿半島の一部を湾岸部に持ち、半島が擁する丘陵は海に浮かぶようにぽっかりと南へ延びてゆく。その生命の営みは猫柳色を彩って新たなサイクルを始めようと芽吹き始めている。
それは私達も同じだった。発足から1年と3ヶ月という極めて短い期間で一帯の安全を確保することに成功した。この女川湾内であれば海産物を得ることが出来、今では安定して魚介類が食卓に上るのは瀬戸内海と東京湾、そしてここくらいのモノだろう。各所の報告によると有明海はまだちらほらと敵影が見えるようだ。
「やはり、朝方はまだまだ冷え込みますね……」
日の出も未だなのだから寒いのも当然のことながら、やはり北の地域だからか覚悟していたよりも水場近くが冷え切っている。
私は非番の朝にこの調理場に赴くのが一つのルーティンだった。朝餉の仕込みをし、そう多くない警備府の皆さんに振る舞い、食事の感想を頂くことが数少ない私の趣味である。
今朝のメニューはタラの煮付けとアサリの味噌汁、そして山菜も手に入ったのでその炊き込みを主食に据えて、多少の漬物を切って出す予定だ。
こうして艦娘だと言うのに、献立を考える時間を取ることさえ出来るのはとても幸せなことだと噛み締めている。つい最近までは休む間も無く近海警備と深海棲艦の掃討をし続けていたのだから――。
『諸君らの身を粉にする奮戦で女川は平和を取り戻せた。感謝の限りを君たちに表そう、本当によく頑張ってくれた』
提督はそう言って警備府の規律を大幅に変更した。戦時から平時へ移り変わったようなスケジュールに最初は体や頭も上手く馴染めず、何をしていいやら分からなかった。しかし、ようやく見つけたこの楽しみは今では私の支えとも呼べるのもので、ここまで余裕のある生活を提供してくれた提督には頭が上がらない思いだ。
『今、やりたい事をやるべきだ。君たちはそれが許される』、そんな言葉と共に提督は他の子の分も含めて、趣味や余暇を楽しめるものを全て経費で準備した。
戦争行動には不用な品々ばかりの要求を大本営に流すことになり、提督が処罰対象にならないか不安だったが、戦果を上げたことへの褒賞だとして無理矢理に押し通したのだ。その内に代償を払うことになるかもしれませんよ、と諌めると『その代償は未来の僕がなんとかしてくれるさ』と、後先考えない様子の提督に呆れつつも感謝を差し上げた。
調理場の中、誰もいない食堂を眺めると静謐な空気を纏っており、これこそが私達に与えられた掛け替えの無い褒賞だと感じる。いつでもここに立つ度に身が引き締まる思いだ。
深海棲艦との勢力争いは酷い状況だった。朝と夕のみの食事、出るは当然の如く固形食糧で風呂に入る暇もない。昼出撃しては補給、そして再出撃。夜は防衛策として一帯は全て消灯しお互いの顔を近づけなければ見えないほどの暗闇の中、交代制で見張りを置いていた。
時たま、提督が味のある食事や状況の判断から適宜休暇を命令していたが、そのような折では多少の心の余裕には繋がるが、存分に楽しむことはできなかった。
また、私達艦娘は人と比べればかなりの無理が効くものだが、提督はその艦娘のスタミナに食らい付くように共に行動した。決して偉丈夫に見えない体のどこにそんなエネルギーがあったのか、不衛生な極限状態といった環境では見る見る内に窶れていく。その様は、最早乞食と呼ばれても仕方がないほど。夜間の見張りは私達に任せて体を休めるように進言するものの、提督は『兵や下士官を酷使している人間がのうのうと休んでいるわけにはいくまいよ』と最後の一夜まで作戦を共にしてくださった。
とはいえ、将校という立場なのだから、有事の際には咄嗟に動けるようにして貰わなければならず、無理をしようとする提督にほとほと困り果てたものだ。
『君らが早く海域を解放してくれれば、その分だけ僕の寝室も近くなるんだからね』
そうやって冗談まじりに声を掛けてくるのも堪ったものではなかった。当時の私達、部隊は死に物狂いで海域突破を目指さざるを得なかった。状況が膠着すればするだけ、過労で倒れてしまうと思えたから。
唯一、北上さんだけは相も変わらずといった調子だったがその戦働きは中破程度では留まらず、大破に至って入渠を余儀なくされた時以外は全ての出撃に名を連ねていた。
当然、部隊の士気は上々で当時の私も『やるときは、やるのです!』なんて勇ましく艦載機を発艦させて深海棲艦に航空攻撃を仕掛けたり、残存兵力をしらみ潰しに偵察しては先制爆撃で仕留めたり。人の形を取ってから意識がある中で1番血の気の多い時期だったのは確実だ。
「いけませんね、気が緩んでしまいそう」
思い返せば少し恥ずかしくなるモノで、顔が少し赤らんでしまうのを寒さのせいだと誤魔化そうとしてみる。そも、落ち着いたとはいえ戦中なのだから、完全に気を緩めてはいけない。
私は手早く準備を整えるべく蛇口を捻り手を洗い、続けてお米を研ぎ始める。未だ熱り続けている心にひんやりとした水が心地よい。窓の外では東雲の空が今日の営みを始めようと明るさを増していく。
ボウルでお米が水を吸うのを待ちながら、山菜を切ろうと俎板を出しているとからからと食堂の扉が開く音が混ざった。レザーソールが小気味良い響きを部屋に鳴らす。
私は予定を変更し、予め火にかけて温めていたやかんから急須に少し冷めた湯を注ぐ。煎茶の香りが早朝の空気を程よく彩った。
「おはようございます、提督」
「おはよう、鳳翔君。今日の当番は君か、これは献立が楽しみになったね」
わざとらしく確認するけれど、私が非番じゃない時はいつも執務室で自らお茶を淹れているのを知っている。
「余り物の煎茶ですが、そんなに悪くないモノでしたよ」
私はそんな女垂らしなこの人に湯呑みを渡す。
「うん、良く香りが立つ。福が増すってのはあながち嘘じゃないね」
そうやって格好をつけても、『あちあち』と茶を啜る姿は幼なげで、不恰好な弥次郎兵衛のようにバランスが悪い。
そんな様子に私は口元に手を添えながら笑いを零した。
「おや、鳳翔君にも福が来たかい?」
「ふふ、提督が少しおかしかったもので。お茶を熱がる姿が背伸びをした少年のように見えましたよ」
「あらまぁ、そんなに幼く見えるかい? 僕も少しは若さを取り戻せたかしら」
「まだまだお若いですよ、提督は。私からすれば少年そのものです」
「そりゃあ、そうだろう。逆立ちしたって勝てないよ、亀の甲と年の劫には」
『まあ、なんにせよ笑って貰えれば冥利に尽きる。福の神も見目麗しい女子を放っておくまい』とキザな台詞を私に送ると、一言感謝をして湯呑みを持ったまま執務室に向かっていった。
辿り着く頃には冷え切っているだろうお茶のことを思い、『バカな人ね』と独り言ちた。
昨日から砂抜きしておいたアサリを流水で洗い、予め昆布を浸しておいた鍋に投入する。弱火にしてじっくりと旨味が出るのを待ちながら、水で濯いだ山菜を俎板に寝かせて、とん、とん、と包丁でリズムを刻む。
「こんなことしてて良いのかしら、私」
頬を緩ませて自問自答する。
非番の朝はいつも特別な想いを浮かべている。この二言三言の間だけだけど、私が提督を独り占めできる時間。
ぷつぷつと泡が逃げようとするのを見ているととても贅沢なことをしている気になる。
「みんな、残さず食べてくれるかしら?」
お釜に浸水したお米をそのまま明けて山菜をその上に転がし、酒と醤油と味醂を加えて火にかける。最初は強火だ。
朝の早い子であればもう少しすれば姿を表すだろう、今日は誰が最初に顔を出すのか。時間は0543。あと30分もすれば食堂が賑わい始めるはずなので、その頃には丁度よく炊き上がるだろう。
この女川警備府では泉提督と部隊の艦娘が私を含めて6名、門衛の陸自の方が2名ほど所属している。一部では炊事を担当する一般から採用した方や卸業者が出入りをするくらいで、軍事設備としての規模も小さい。
本来であれば関係者以外の出入りは固く禁じられているものだが、補給の部隊も一月に1回あるかないか、給糧艦の配属もされない状況が続くので、提督が根回しと交渉をかけて無理矢理に整えたのだ。
当初は軍事機密が流出しかねないという懸念により大本営は許可しなかった。それは当然とも言える結果なのだが、提督は業を煮やしていた。
『兵站をどうこうできないアマチュア戦争屋はよっぽど気楽なようだね』
苛立つ提督は女川湾解放を一つのケースとして論文を書き始めた。食事の程度や休暇の有無と、昼戦・夜戦に於ける艦娘のパフォーマンスの遷移と戦果の程度を関連付けるデータをまとめ上げ、艦娘も人間と同じように兵站が重要であることを訴求した。
電話口で『君らが出来ないから僕がその責任を肩代わりしようと言ってるんだ、この戦争で勝ちたければ黙って押印したまえ』、などと偉そうな口を叩かれた大本営の方々は苦虫を噛み潰したかのような顔をしていただろう。さぞ悔しかったに違いない。
さらに追撃を仕掛けるかのように、後方部隊を現地調達すると言う荒唐無稽にも思える泉提督の発案を呉鎮守府が支持した模様だった。その影響力は計り知れない。
給糧艦の間宮さんは横須賀、伊良湖さんは佐世保に、それぞれが所属して動くことはできない。陸自の一部を補給部隊として連携するような動きも結局、各地の復興支援や太平洋側の海岸線に防衛設備を建築する必要があるなど、人員不足が大いに目立ち先送りにされていた。そんな状況では各所も1人でも多く戦線に投入したいのだが、所属する艦娘の一部は補給部隊に回される体たらくだった。
そして、思うように海域突破や治安維持の穴埋めが出来ないことに苛立ちを抱えている泊地や前線基地が、呉鎮守府の姿勢表明を皮切りに一斉に声を上げたのだ。
――ちなみに我関せずといった舞鶴は日本海側がそれほど大変な状況ではなく、桂駐屯地の輸送科と需品科の皆様が輜重兵として動けるくらいには余裕があるようで、横須賀に次いで充実していたというのは北上さんの談。
佐世保は佐世保で南方方面への補給線の維持が重く、伊良湖を前線基地に動かせるならばと、実はやんわりと支持していた。声を大きくしなかったのは給糧艦がいる故にバッシングを恐れていたと推測される。
とまぁ、なんとも足並みが揃わない状況に提督が愚痴をこぼすのは無理もないと思う。
気付けば十分に出汁が取れたことを知らせる香りが手鍋から立ち上り鼻をくすぐるので、火を止めて静かに味噌を溶かし入れていく。入れ替わりに昨日に仕込んだ煮付けをトロ火で温める。蒸らしを終えているお釜の蓋を開け、ご飯さっくりと混ぜておく。
時間は0616だ。多くの基地では皆、そろそろ朝食も終えてこれから各自の段取りや艤装の手入れをしている時間だろう。
「おはよう、鳳翔さん」
いつの間にやら食堂へ来たのか、声が聞こえるので調理場と食堂を繋ぐカウンターへ顔を出す。
「おはようございます、龍田さん」
「あらあら、今朝はなにか良いことでもあった〜?」
今日の一番乗りは龍田さんだったようだ。顔が緩んでいたことを気付かれて少し気恥ずかしい。
「良いことだなんて、そんな風に見えますか?」
「とっても嬉しいことがあったって顔に書いてあるわ〜」
『いま、朝ごはんをお出ししますね、少し待っててください』と裏へ引っ込んで顔を隠す。『は〜い』と間延びした声にはいたずら好きな響きが隠れている。
私は誤魔化すように丁度よく蒸らしを終えた山菜の炊き込みを茶碗に盛った。
「おお、龍田ちゃん。今朝もはえぇなぁ」
野太いけれど人懐っこさを感じる声の持ち主は門衛の柱間さん。仙台の出でこの警備府の安全が確保されてから陸自から所属となった方だ。短く切った髪に少し釣り上がった太眉、そして可愛らしさを演出する団子鼻がチャームポイントで、愛嬌を感じさせる顔立ちだ。身長は176cmでずっしりと大きい体にふさわしい肩幅をしている。
1日おきのローテーションで今日の担当は彼の模様だ。相方の沢井さんはきっとお休みなのだろう。2人は共に仙台駐屯地から派遣されており、柱間2等陸曹は警務隊から、沢井3等陸曹は衛生隊から助勢して頂いている。
「龍田ちゃんなんて、やめてよ〜。柱間さんより年上だって会うたびに言ってるのにぃ」
「そうはかだってもやっぱし見えねぇよ。めんこいんだもん」
「あら〜、めんこいだなんてありがと。うれしいわぁ〜」
和やかな2人は微笑ましく、私も嬉しくなってしまう。
「お二人ともお待ち遠様」
「今日はカレイの煮付けなのね〜」
「豪華な朝食だべ」
彼らは思い想いの感謝の言葉と引き換えにお盆に並べた朝食を受け取り仲良くテーブルに向かっていった。
今では私達と砕けた会話をするくらいに打ち解けられた柱間さんだけれど、初邂逅ではかなり訝しげな表情で対面されたことを憶えている。やはり、女子の見た目では信用されないのかと気落ちしたこともあるが、交流を深めるたびにそうではなかったと判明した。
『実際、警務隊の俺が深海棲艦さ敵うことはできねぁし、歩兵んとこの火器じゃ豆鉄砲だっちゃ? 剰え特科の地対艦誘導弾だべど足止めにもならねぁ。おめぇらにおんぶに抱っこじゃおしょすいこどだべ』
こちらの言葉でしょんぼりと話す背中は遣る瀬無さに丸まっていて、私達もどう励ませば良いか分からなかった。
そんな柱間さんが前を向き始めたのは提督が依頼をした時からだ。
本土への被害は無いものの沿岸部の損傷は少ないなりに瓦礫が散らばるところもあった。そこで施設科での経験もあった柱間さんに重機を使っての撤去など復興の一助への旗振り役をお願いした。勿論、私達もその一員として柱間さんと作業を行なった。
『貴方がここに来てくれたのは幸運でした。私達は壊す術しか知りませんし、築き上げることの出来る貴方達こそが、この女川には必要ですから』
そう言って『大役を務めていただきありがとうございます』と頭を下げた提督は軍人らしくさの無い振る舞いではあるものの、上に立つ人間としては一等相応しいと今でも私は思っている。
少し物思いに耽っているところへ可愛らしい声が聞こえた。
「
自然に下ろした青みがかった長髪に白い制帽がちょこんと載っているのが視界映る。
「おはようございます、響さん。今日は少し早めなんですね」
「うん、自然と目が覚めちゃってね。二度寝するには勿体ないくらい良い天気だから、起きてしまおうって」
彼女のはんなりとした笑顔に釣られて私も同じように嬉しくなる。彼女が『良い天気』と言う理由は一つしかない。
「おはよー、響ー、鳳翔さん。この時間にここに来るってことは、響が秘書艦の当番?」
「おはようございます、皆さん。響きは今日の午前中はもしかすると少し忙しいかもね。昨日の執務が少し残ってたと思うし」
続けて雷巡のお二人も朝食を摂りに来たようだ。
「おはようございます、北上さん、大井さん」
朝食をカウンターに並べるのが少しだけ忙しくなるにつれて、私の楽しさも少し高まる。
「およ、今日はわたしが最後尾でありますか。皆様方、おはようございます」
あきつ丸さんが揃いこれでこの鎮守府の提督以外の方が全員この食堂に集まったことになる。
「おはようございます、あきつ丸さん」
「おはおはー」
「おはようございます」
「ふふ、今日は私の勝ちだね」
「むむ、わたしももっと精進せねばなりませんな」
陸軍から海軍預かりとなりここへ配属になった特殊な事情の彼女も、最初はかなり肩身が狭そうな雰囲気だったが、今ではこの暖かくも優しい環境に馴染めてリラックスできているようだ。怯えたような瞳の色も消え去り一安心といったところ。
各自、自分のお盆を受け取って思い思いのテーブルに向かっていった。
「さ、北上さん、行きましょう」
「どこに座ろっかー」
「お、柱間殿!おはようございます」
「あらー、響ちゃん、一緒に食べましょ?」
「すぱしーば」
賑やかな食堂、何気ない挨拶、このカウンター越しに眺められるのが今日の私の特権なのだ。
私は残り2人分の食事をお盆の上に配膳する。
「今日も揃うのが早いね。やる気に満ちてて良いことだ」
「先程ぶりですね、提督」
「あぁ、改めておはよう、鳳翔君。今日もよろしく」
「はい、よろしくお願いしますね」
これで全員分だ。私はカウンターから出て提督と一緒にお盆を持つ。少し後ろについていきながらテーブルへ歩みを進める。
「本当に、なんて芽出度いのでしょう」
何か特別なことがあるわけでもないこの光景が私の宝物だ。私達が勝ち取った戦果なのだ。
私の呟きはこの賑やかな食卓にすっと溶け込んでいく。
提督がテーブルに現れて全員が朗らかに挨拶をする。
「皆、おはよう。食事の後に今日の通達をするので、食べ終わった者はお茶でも啜って待っていてくれたまえ」
いつもの朝だ。幸せな一コマ。私と提督は両手を合わせる。
それは――。
「「頂きます」」
今日も良い日であることを願うための祈りを込めているかもしれない。
春のひと時に相応しい穏やかさ、食堂に溢れる和やかさの中、この警備府の屋根から何かが空へ羽ばたく音が聞こえた気がした--。