さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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 一味違った、きっとまだ誰も読んだ事のない八雪をあなたに。
 最初の三話は基本シリアス展開です。
 ストーリーが進むうちに山谷がありますが、楽しめそうだという方は最後までお付き合い下さると嬉しいです。



Prologue

「それでは今日はありがとうございました。また来週、宜しくお願い致します」

「こちらこそ、宜しくお願いします」

 

 俺たちが立ち上がって頭を下げるより先に、担当の彼女は深々と頭を下げた。

 部屋を出て大理石の廊下を歩くと、間も無く式場の裏出入り口に出る。気を付けてお帰り下さい、と綺麗に腰を折った彼女に一言二言言葉を返すと、 夜闇(やあん)に煌々と照らし出される式場を横目に歩き始めた。

 

「ようやくイメージが固まって来たわね」

「ああ」

 

 隣を歩く雪乃にそう返すと、真っ白な息を吐きながら夜空を仰いだ。一月も中旬ともなると寒さは一層厳しさを増し、思わずコートの襟をかき合わせる。

 東京の街はクリスマスシーズンさながらに、未だイルミネーションに彩られたまま。その光景を少しだけ暖かなものに感じられるのは、きっと隣を歩いてくれる人がいるからだろう。

 

「そっちの方は誰を呼ぶか、もう決まったか?」

「ええ。親族の方は、はっきり言って母にお任せね。例え呼びたくない相手がいても、決定権は無いようなものよ」

 

 だからきっと葉山くんも来るでしょうね、と付け足すと、雪乃は苦りきった表情を浮かべる俺を楽しそうに見ていた。

 

 ──俺と雪乃との結婚式まで、あと三ヶ月と少し。

 

 お互い何かと忙しくて中々打ち合わせも進められなかったが、やっとここまで来た。プロポーズをして随分経つというのに、ようやく段々と結婚するのだという実感が湧いてくる。社会人になると同時に同棲を始めたから、生活としてはほとんど夫婦のそれに近いのだろう。しかし籍を入れるとなると、また気の持ちようというのは違うのだ。

 

「なんか、腹減ったな」

「ええ。また、あのお店で食べていく?」

 

 雪乃が言うあのお店、というのは、結婚式の打ち合わせをした後によく行くダイニングバーだ。初めての打ち合わせ帰りにふらりと立ち寄ったきり、飯を食ってから帰ろうとなるとその店にいくのがルーチンになっていた。

 

「そうするか」

 

 そう答えると、週末の忙しない人波を掻い潜るように歩いていく。

 師走も越えたというのに、相変わらず東京の街は人にまみれている。五分ほど歩けば目的の店に到着し、重厚な木製扉を押し開く。カランと高く澄んだ音でベルが鳴り、店の一番奥の席に通される。

 しっかりと暖房の効いた店内では、微かな音量でジャズが流れていた。急に暖かい場所に来た所為か、雪乃の白い頬にはほのかな赤みがさしている。

 

 本当に綺麗になったと、心の底からそう思う。

 

 高校の時から美しさの権化たる存在だった彼女は、歳を重ねる毎にその美貌のピークを更新し続けている。その度に俺は心を差し出し続け、彼女は正しく受け取り続けてくれた。有り体に言えばベタ惚れだ。彼女への慕情は青春時代のそれより尚青く、しかしその気持ちを表現する事が少しだけ上手くなったと思う。あるいは妥協する事に慣れた、とも言えるのかも知れないが。

 

「今日は何にする?」

 

 俺の視線に柔らかな笑みを返すと、メニューをこちらに見えるように滑らせてくる。俺はメニューを九十度回転させて雪乃と顔を寄せると、季節のメニューから確認していく。

 注文が決まると店員の男の子にオーダーを告げ、程なくして飲み物だけテーブルに運ばれてくる。ライムの浮かぶジントニックが二つ。音を立てないように、グラスを合わせた。

 

「お疲れ」

「お疲れさま」

 

 お互いにそう言って、軽くグラスを傾ける。トニックの苦味の後に針葉樹のボタニカルを感じると、ふはっと息を吐いた。

 いつの間にか身体中に張り巡らせていたらしい緊張の糸を断ち切ると、身体中が弛緩する。

 

「あなたは最近、本当に疲れているわね」

 

 その様子を見ていた雪乃は、にわかに気遣わしげな表情を浮かべる。吐息に疲れを混じらせてしまう程、全身を包む気怠さはしつこいものらしい。

 

「今日も取材だったんでしょう?」

「ああ」

 

 頷いて、もう一口ジントニックを飲んだ。全くこの俺が取材を受けるなんて、柄じゃないし専門外だ。むしろ取材をするのが本業だというのに。

 

「いくといいわね。ミリオンセラー」

「いや、まだまだそんな数字じゃないし⋯⋯。仕事の話はもうやめようぜ」

 

 今日も今日とて慣れない事で疲れているのは確かだ。上手い事やれたかというとそう言い切れる自信もないし、つい雪乃と喋っていると仕事の話になりがちだ。そういう部分は俺たちの出会った、あの陽だまりのような部屋に居た時から変わらない。

 

「そう。色々訊きたかったのだけど、記事が出るまでの楽しみにしておくわね」

「そうしておいてくれ」

 

 肩から力を抜くと、背もたれに背を預けて身体を逸らした。ぼけっと天井から吊り下げられたエジソンバルブを見ていると、不意に雪乃はテーブルの上で手を握ってくる。テーブルの向こうからこちらに身を寄せるその姿は内緒話をしたがっているかのようで、俺もまた彼女の方に身体を傾けた。

 

「ねえ、八幡」

 

 目だけで返事を返すと、薄く引かれたルージュが弧を描く。

 

「私、今が一番幸せよ」

 

 とくんと一瞬、心臓が跳ねる。しかし次の瞬間に訪れるのは、この上のない平穏と、遥かな心地だった。

 

「⋯⋯俺もだ」

 

 ああ、ここが店でなければ、何も気にせずにキスできたのに。

 そんな事を考えながら、俺はその手を握り返した。

 

 

 

 

「ううっ、さぶっ」

 

 店を出た途端に俺たちの間を寒風が駆け抜け、思わず身を縮こまらせた。店の中が暖か過ぎた所為か、寒暖差にやられて頭が痛いほどだ。薄手のスラックスなんてものを履いている所為で、太ももがじんじんするほどに寒さを感じる。

 

「本当、この頃冷えてきたわね」

 

 雪乃はそう返しながらも、そこまで寒がっている様子はない。細身のその体型は昔から変わらないが、彼女がぶるぶる震えているところなど見た事はなかったから、元々寒さには強いのだろう。

 駅に向けて歩き出すと自然と雪乃の腕が絡み付いてきて、指を互い違いにして手を繋ぐ。触れ合った手は温かく、その奥には確かな熱を感じられた。

 

「なあ──」

 

 明日の朝飯、何にしようか? と、そう訊くつもりだった。

 突如として脳を直接ハンマーで叩かれたかのような激しい頭痛を感じ、思わず声を失って脚を止め、その場に(うずくま)る。しかしその痛みは数秒と経たずに消え、痛覚だけが名残惜しそうにその感覚を覚えている。

 

「ちょっと、どうしたの? 大丈夫?」

「いや⋯⋯」

 

 なんでもない、と答えるには、余りに鋭い痛みだった。飲み過ぎたかと思ったが、たかだか二杯の酒で頭が痛くなった経験はない。かぶりを振って、首の調子を確かめる。やはり何もないし、身体も動く。

 

「少し頭痛がしただけだ」

「⋯⋯本当に少し? ずいぶん痛そうだったわ」

 

 そう言って雪乃は隣にしゃがみ込むと、さっきまで繋いでいた手を俺の額に手を当てた。彼女の手の方が幾分温かく感じるから、熱はないはずだ。

 

「熱はないみたいだけど⋯⋯。やっぱり今日は相当疲れているのね」

「かもな⋯⋯。今日は帰ったらすぐ寝るわ」

 

 立ち上がり、肢体の感覚を確かめる。大丈夫。何も問題はない。

 そう思って一歩踏み出した瞬間──再び激しい痛みが、頭どころか全身を突き抜けた。

 世界が傾き、平衡感覚が消失する。頭蓋骨を貫通して脳にピッケルでも刺したみたいな痛みと、スローモーションの視界の中でゆっくりと近づいてくる地面。強い衝撃、鈍い音、声にならないほどの痛み──。

 

「──八幡っ!」

 

 暗転した視界にはもう何も映っておらず、彼女を見る事は叶わない。指一本すら動かせず、酷い痛みだけが神経を支配していた。

 

「八幡──じをして⋯⋯! 八幡──⋯⋯」

 

 混濁していく意識の中で、聴覚もやがて鈍く消えていく。

 

 完全に意識を失う、その瞬間まで。

 もう聞こえなくなった彼女の叫びだけが、俺の頭の中を木霊していた──。

 

 

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