さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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私は婚約指輪を、そっと外した。

 年の瀬を迎えた病院の廊下は、酷く慌ただしかった。

 以前彼が運び込まれたのと同じ病院とは思えない程そこで働く人々の脚は忙しなく、外から聞こえるサイレンの音はうるさい程に近付いては消失する。着の身着のまま救急車に乗った所為で、暖房があまり効いていない廊下は少し寒く感じた。

 

 からから、という担架が引かれる音で私は床から目線を上げた。彼だろうかと思って見ては期待を裏切られてきたけれど、担架に仰向けに寝かされている人物の顔を見て、今度こそ間違いないと立ち上がる。

 

「あの、先生。彼の容体は⋯⋯」

 

 担架と一緒に早足で歩く白衣のその人の隣を、置いて行かれないように歩き始める。当直の医師なのか見覚えのない男性は、私を一瞥してから早口に言う。

 

「ご家族の方ですか?」

「⋯⋯そうなる予定の者です」

「結果から先に伝えますが、身体に特に異常はありません。CTでは前回の術後から残っている影が依然としてありますが、出血の再発は認められませんでした。他の検査については、主治医に引き継ぎたいと思います」

 

 余程急いでいるのか拙速な説明だったけれど、取り敢えずは彼の無事が確認できた。思わずその場でへたり込んでしまいそうな身体に鞭を打つと、そのまま担架について歩いていく。

 

「すみませんが次がありますので、私はこれで」

 

 そう言うと医師は立ち止まった担架をそのままに、廊下の向こうへと歩いて行く。残された担架を看護師さんたちが病室に運び込み、せーのの掛け声で彼はベッドに移された。

 ベッドに横たわった彼の顔は、いつもの寝顔と変わらない。思わずベッドに縋り付くように、私は膝を折る。看護師さんは私の肩をぽんぽんと叩くと、「気を確かにね」と言って病室を後にした。

 

 それから、どれだけ時間が経っただろう。

 ベッドに縋りついたその姿勢のまま、指一本すら動かす事ができなかった。また彼が手術を要するような大事には至っていないというのに、未だ意識を失ったままという事実が重くのしかかってくる。

 思えばあの夜も同じような心持ちで、私たちは過ごしていた。訪れる明るい未来を疑いもせず、幸せの最中に身を置いていたはずだった。

 それがどうして、こうなってしまうのだろう。もうあの頃の彼を返して欲しいだなんて、思ってもいない。ただ同じ時を歩んでいけさえすれば、それ以外は何も要らなかったのに。

 けれど今は、強く願っていた。彼が目を覚ましてくれる事を、それだけを強く強く願っている。

 

「⋯⋯ん⋯⋯っ」

 

 その祈りが、通じたのだろうか。彼はゆっくりと目を開けると、すぐに私に気付いてくれる。それにどこまでも安心して、思わずベッドに顔を伏せた。

 

「よか、った⋯⋯」

 

 これでもう最悪の事態は──このまま目を開けてくれないんじゃないかという最後は、もう訪れない。

 思わずこみ上げてきそうな嗚咽を抑えて、顔を上げる。彼は置かれた状況が分かっていないのか、身を起こすと不思議そうな顔をして私を見ていた。

 

「気分はどう?」

 

 そう言いながら手を伸ばすと──彼は上半身を僅かに傾けてその手から逃れる。ひょっとして、どこか痛いところでもあるのだろうか。しかし私がその疑問を言葉に変えるよりも早く、彼は(かす)れ気味の声を出した。

 

「⋯⋯あんた、誰だ? なんで俺は、病院⋯⋯? にいるんだ?」

 

 彼はそう言ってぐるりと病室を見まわして、最後に再び私と目を合わせた。その初めて会う人を見るかのような他人行儀な視線に、私の心に酷い疼痛が広がる。

 

「なにを⋯⋯言っているの? 私のことを、また忘れてしまったの⋯⋯?」

 

 私の問いかけに、彼は額に手をやり俯く。痛みを抱えるような仕草に、思わずまた手を伸ばしかけ、先程の反応を思い出して引っ込める。

 

「悪いんだけど⋯⋯思い出せない。どこかで会ったことがあるのか?」

 

 その言葉に息をするのも忘れて、心臓も止まってしまうんじゃないかと思った。声も言葉も出て来ないのに、押し止め切れない涙だけが出てこようとしてくる。

 

「──っ!」

 

 気付いた時には彼の元から駆け出し、病室を出ていた。

 廊下をかけて行く私に看護師さんが何かを言いかけるが、その言葉が出てくる前に走り抜ける。

 談話室の中、電話をする為の通話ボックスに入ると、私は思わず(うずくま)る。久々に走った所為で脚が痛いし、息切れも酷い。でもそれよりももっと心の奥の方が痛くて──痛くて堪らない。

 

「あぁ⋯⋯」

 

 情けない声と一緒に、止めどなく涙が溢れてくる。拭っても、拭ってもパンクしたホースみたいに雫が溢れて、ポタポタと床に染みを作っていく。

 

 どうして、彼は忘れてしまうのだろう。

 どうしてこんなにも大切な事を、無かった事に出来てしまうのだろう。

 

 誰に向けていいのか分からない嘆きばかりが頭の中を巡って、どこにも行けなくなってしまう。

 彼に非がない事は、分かりきっていた。誰かを責めるとしたら、私自身にすべき事だ。

 もし以前のクモ膜下出血の原因がストレスだったなら、きっと私にはできる事があった。根を詰めすぎないように諭したりはしたけれど、それだけでは不十分だったのかも知れない。彼の上梓に向けた情熱を抑える事はできなくても、もっと彼を癒やす事はできたはずだ。

 

「う⋯⋯、あぁ──っ」

 

 そう考え始めると、後悔と涙が止まらなくなる。ここが外界から隔たれているという事実もあって、声を抑えて泣くことすらできなくなっていた。

 一体この部屋の中で、何度泣いたのだろう。もう泣かないと決めてここを出て、一年もしない内に帰ってくるなんて、誰が想像できただろう。

 彼が生きてさえいればちゃんとやり直せると、あの日私は自分に言い聞かせた。事実、もう一度彼からプロポーズを受けるぐらいに、私と彼の心は通い、重なり合っていたはずだった。

 彼のプロポーズの言葉を聞いた時、ようやく私はあの日に戻れたのだと感じていたのに──神様がいるのだとしたら、どうしてこんな事をするのだろう?

 曰く、人生に訪れる試練というのはその人がクリアできる事しか起こらないという。確かに私は与えられた試練を乗り越えられたと思った。けれどそんな矢先に同じ試練を突きつけるなど、無情に過ぎる。

 

 ようやく嗚咽が収まり始めると、ポケットの中の携帯電話が震えた。先程届いたばかりのメッセージを開くと、小町さんから『今どこですか?』とだけ書いてある。通話ボックスから出ると、ちょうど小町さんが談話室に入ってくるところだった。

 

「雪乃、さん⋯⋯」

 

 私を見るなりくしゃっと崩れた顔を見て、もう彼に会ったのだと分かった。小町さんは駆け寄ってくると、私の胸に飛び込んでしゃくりあげる。小さな肩は細かく震えて、全ての感情を堰き止めているのだと分かった。

 

「お兄ちゃんが、お兄ちゃんが⋯⋯また⋯⋯っ!」

 

 私がそっと肩を抱くと、今度こそ小町さんは声を上げて泣き始める。

 今日病院に来て、初めてよかったと思えた。ちゃんと私が泣き切った後で、ちゃんと彼女の涙を受け止められる人がいて。

 肩口に押し付けるように小町さんを抱きしめると、その震えを全身で感じる。また出て来そうになる涙を必死に押し止めると、彼女をあやすように肩を撫で続けた。

 

 きっと私と同じぐらい、長く泣いていたと思う。

 時が流れているのかどうかさえ曖昧になってくるぐらいの時間が経って、ようやく小町さんは泣き止み顔を上げる。可哀想なぐらいに目が真っ赤になっていたけれど、それは私も変わらないだろうと思った。

 

「ごめんなさい⋯⋯。一番辛いのは、雪乃さんなのに⋯⋯」

「⋯⋯いいえ。辛いのに一番とか二番はないわ」

 

 気丈に振る舞おうとする小町さんが痛々しかったけれど、それは私も同じかも知れない。悲嘆に暮れたくなる気持ちは、確かにある。けれどそれだけでは、そのままではいけない。一緒に泣いてくれる人が居て、私はそうやって強く在る事ができた。

 座りましょうか、と声をかけると、小町さんは肩を落としたまま小さく返事をする。私たち以外だれもない談話室は、慌ただしい病院の中で異質な程の静けさを保っていた。

 

「あの⋯⋯雪乃さん」

 

 小町さんは机に視線を落としたまま、悲哀に枯れた声で言った。

 

「兄の後遺症は、もう治らないかも知れません。一緒に居ても、また忘れちゃったり、するんだと思います⋯⋯」

 

 彼女が何を言わんとしているか、よく分からなかった。確かにそんな可能性もあるのだろう。けれどこの場では、もっと前向きな話がしたかった。しょうがないよね、あの人は、あの兄はと言って、未来の話をしたかったのに──。

 

「だから雪乃さんは、兄を待つ必要はないと思ってます」

 

 冷たい、温度を殺した声が、私の胸を射抜いたみたいだった。

 まったく、こんなところは彼とよく似ている。いつも誰かの事を優先して、痛みに鈍感な振りをする。そんな優しいところは嫌いじゃないけれど、小町さんには彼の真似をして欲しくなかった。

 

「⋯⋯小町さん」

「こんなこと言ったら怒るかも知れませんけど⋯⋯。雪乃さんが幸せになる道は、兄と一緒になることだけじゃないと思います」

 

 生気を失った色の唇が、力を入れすぎて震える拳が、彼女が無理をしている証左だった。彼の周りで、誰よりも彼の幸せを願っていたのは、小町さんだったはずなのに。

 彼女の文字通り心をバラバラにしてしまうみたいな心配りが、ひたすら胸に痛い。そして僅かでもそんな未来を想像すると、途中で考えるのを放棄してしまうぐらいに恐ろしかった。

 

「⋯⋯いいえ、それは違うわ」

 

 自分でも驚くぐらい硬質な声が出て、小町さんの肩がぴくっと震える。まるで喧嘩の最中みたいな空気だと思って、私は一度深呼吸してから続けた。

 

「幸せはなるものじゃなくて、そこに在るのに気付くことだそうよ。⋯⋯私はもう見つけたから、手放したくないの」

「雪乃さん⋯⋯」

 

 自分に言い聞かせるように言いながら、これは依存だろうかと考える。端的に言えば、私の幸せには彼が必要不可欠だと宣言しているに過ぎない。

 けれどそれは事実だ。彼なしの人生なんて考えられないし、彼が彼である事を捨ててしまわない限り、私が彼を見放す事はない。──否、もしそんな事が起きても、私はあがき続けるだろう。

 彼に贈るクリスマスプレゼントを買った日の事を回顧する。あのプレゼントを、日記帳を贈ろうと決めたあの時の気持ちを思い出して、私は自分を奮い立たせた。

 

「私は、大丈夫。もう一度彼と、歩いていくわ」

 

 諦めない、絶対に。

 私たちが見つけた本物(・・)は、こんな事で壊れたりしないのだから。

 そんな決意を込めて、私は贈られたばかりの婚約指輪をそっと外した。

 

 

 

 

 コンコン、と病室の扉をノックすると、酷く沈鬱な声で「どうぞ」と返ってくる。音を立てないように扉を開けると、酷く居心地の悪そうな表情で、彼は私を見ていた。

 

「さっきは急に飛び出したりしてごめんなさい」

 

 ベッドサイドの丸椅子に腰掛けると、私は彼に微笑みを向ける。きっと目は充血したままだし、腫れていると思う。その事実が彼を責めてしまわないように、努めて冷静に優しく声をかける。

 

「私の名前は雪ノ下雪乃。いきなり言われても驚くかも知れないけど、あなたの婚約者」

 

 左手をかざして、一つだけ残った婚約指輪を彼に見せた。彼は自らの左手を見て、同じデザインの指輪が薬指にはまっている事を確認する。僅かに開かれる目。本気で言っているのか、とその瞳が問いかけてくる。

 

 だから私は、彼の目を真っ直ぐに見詰めて言う。

 信じられない事を、信じて貰えるように。

 私は虚言など吐く事はないと、もう一度知ってもらう為に。

 

 

「あなたにはもう一度、私を好きになって貰うわ」

 

 

 




ここまでお読みくださりありがとうございました。
ようやくこの物語も後半編、と言ったところです。

高評価の方もありがとうございます。
たまにランキングに入ったりして、読んで頂いている方も増えてきたようです。

小説情報にてお知らせしている通り必ず最後まで書き切りますので、引き続きお付き合い頂けたら幸いです。
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