皿を洗っているとふわんと小さなシャボンが飛び、ステンレスのシンクに張り付いて消える。かちゃかちゃと皿同士が音を立て、それはまるで時を刻んでいるようだった。
時刻は午前七時半。
音も香りも、朝食のメニューまでいつも通りの朝だ。スリッパが床を叩く音がダイニングに入ってくると、その音の主は俺に声をかけてくる。
「八幡、行ってくるわね」
「おう」
洗い物がちょうど終わったところだった俺は、蛇口を閉めてしっかりと手を拭いた。玄関に向かうと、先に行っていた彼女は靴を履いて俺を待っている。
天使の輪を描く、黒く艷やかな長い髪。化粧なんかいらないんじゃないかと思うほど白く抜ける肌。そして今まで見た中で一番の美人が、俺に向けて微笑みを浮かべていた。
「行ってきます」
「ん。いってらっしゃい」
そっとその髪を撫でると、彼女は笑みを深くしてから俺に背を向ける。玄関の扉を出る瞬間にこちらを振り返ると、胸の前で小さく手を振った。
がちゃん、と扉が閉まると、振り返していた手を下げる。そのまま俺は書斎へと向かうと、部屋に入るなり俺は床を転がり回った。
「だあぁぁぁ⋯⋯!」
くっそ、なんだあの可愛い仕草は、あの笑顔は。飛び抜けて美人なのに死ぬほど可愛いとか俺を殺しにかかっているのか? 毎日抱き枕にされているだけでも可愛さ全開お腹いっぱいなのに毎朝なんなんだよぉぉ!
俺は誰もいないのをいい事にひたすら床を転げ続けると、顔を覆っていた手を下ろして天井を見上げた。いくら一人とは言え、ちょっと気持ち悪すぎる。うん、一旦落ち着こう。
俺は床から身を起こすと、服を正して机に向かう。開くのは仕事道具のパソコンではなく、一冊の日記帳だ。栞紐を引いてページを開くと、昨日書いた分の日記を眺める。
俺が過去を思い出せなくなり、雪ノ下雪乃と一緒に暮らすようになって、五ヶ月が過ぎた。
俺がこうなったのは、今回で二度目であるらしい。一度目はクモ膜下出血で、二度目の原因は不明だが倒れた後。今でこそ普通に雪乃と生活できているが、病院で目覚めた当初は酷い混乱だった。
俺の心のうちのざわめきはともかく、こんなにも穏やかに過ごせているのは、ひとえに雪乃のお陰だと思う。二度目という事もあってか俺の扱いも慣れたもので、正直手玉に取られているのではないかと思うぐらい、彼女に惹かれる気持ちは日に日に強くなっていく。
『あなたにはもう一度、私を好きになって貰うわ』
あの日雪乃は、目覚めたばかりの俺に向けてそう言った。泣き腫らした目で、強い覚悟と決意をもって。
最初は何言ってんだこいつと思った。しかし雪乃の口調も表情も、俺に全て真実だと知らしめるのに十分過ぎるほど真剣で、それは後から来た小町も一緒だった。
未だにこれでいいのかと思う事はある。彼女に甘えてしまって、言われるがままに惹かれていって。俺は彼女の愛した俺じゃないというのに、本当にいいのかと。
そんな事を由比ヶ浜に話したら、呆れられながら怒られた。いや、あの時の由比ヶ浜のマザー味からすると、叱られたと言った方が正しいかも知れない。
時々辛辣だったり怖かったりするが、一緒に生活していると分かってくる。完璧さの中に同居する隙であったり、大人の女性然としているのに内在する少女らしさ。何より俺への純粋過ぎるほどの気持ちは、直視できないほどに眩しい。
凍えるほど冷たい冬は彼女の温かさに救われ、春が訪れれば花弁のように綻んだ微笑みに癒される。一歩いっぽ季節が進むたびに、俺の中に芽生える感情は明確な名前を持っていくように思えた。
ピンポーン、と。
今日の日記の書き出しは何にしようか考えていると、扉の向こうから呼び出し音がなった。今日は担当編集がくる予定だったから、きっとあのクセの塊が来たのだろう。案の定モニターの中の人物は材木座で、俺はぽちぽちと機器を操作して彼を部屋へと招き入れた。
「調子はどうだ、比企谷八幡」
「ぼちぼちだな、材木座」
芝居がかった口調に一応テンションを合わせてやると、材木座は「邪魔するぞ」と言って我が家に上がる。書斎に入ると、いつものように材木座は自分でクッションを用意してどっかと座りこんだ。
「さて、原稿の進み具合はどうなのだ」
「あー⋯⋯。まあ、それもぼちぼちだな」
原稿、というのは俺が倒れる前から書いていた地下アイドルに焦点をあてたノンフィクション小説の原稿の事だ。俺はその紙束を材木座に渡すと、彼はふむふむと唸りながらそれ確かめる。
ほとんど執筆は終わっていたものの、全体の推敲が残っており、これが非常に厄介だった。誤字脱字の修正などは誰でも分かるが、本当にこの表現がベストなのか、構成上の演出は最適なのか、思い出せない所為でさっぱり分からない。結果として重要そうなところは再取材するという二度手間になり、先日出版予定が延期されたばかりだ。
「なんだ、これっぽっちしか進んでおらぬのか。仕事をしろ、比企谷八幡」
「中々取材の予定が合わないんだから仕方ないだろ⋯⋯」
俺の力ない抗議に材木座も気が抜けたのか、ふっと笑って後ろ手をついた。担当編集から旧知の顔になると、材木座はさっきより幾分トーンを落とした声で言う。
「話は変わるが⋯⋯。どうなのだ、最近。雪乃女史とは」
「え? ああ⋯⋯」
なんとも神妙な声音と言い難そうな様子に、違和感を覚える。まるで誰かから訊いてこいとでも言われたみたいな口ぶりだ。どうせそんな事を言い出すのは、小町ぐらいなものだろうが。
「まあ、なんだ。言ってみりゃよくできた嫁みたいな感じだな」
「まだ結婚しておらぬだろう」
「だから言ってみりゃ、って言っただろ。なんか、お見合いですげぇいい相手に当たったような感覚だ」
その説明の仕方もどうなのかと思ったが、大きく間違ってはいない。まるであらかじめ用意されていた幸福のような、そんな感覚はいつまでも残っている。
いくら由比ヶ浜が「みんなちゃんと今のヒッキーを見てる」と言われても、どうしても考えてしまうのだ。過去の俺があったから、こんなにもみんな良くしてくれるのだと。二度も記憶を失くした俺を諦めずに一緒にいてくれようとするのは、今の俺に価値がある訳ではなく、過去の俺の遺産なのだ。そんな事を言ったら、間違いなくまた由比ヶ浜に怒られるが。
「なんでここまでして貰えるんだろうってのは、よく考えてる。二回も顔や名前まで思い出せなくなるなんて、普通は呆れ果てて見放されてもおかしくない」
「⋯⋯八幡」
材木座は胡座をかいている両膝に両手をつくと、しかつめらしい顔を作る。俺を真っ直ぐに見ると、重々しく口を開いた。
「呆れておるに決まっておるだろうが。少なくとも我は『何忘れとんじゃボケ』と百回ぐらい思ったわ」
「お、おう⋯⋯」
なんかいい事でも言ってくれるのではと期待した俺がバカだった。こいつはこういう奴なんだった。
はあぁと気が抜けた息が漏れると、材木座はごほんと咳払いする。
「しかし、それでも変わらず貴様の周りには人が集まっている。その意味は分かるな?」
「⋯⋯ああ」
それはもう、痛いほどに分かっている。きっとみんな、記憶を思い出せなくなっても、俺は同質だと思っているのだ。比企谷八幡はどこまで行っても比企谷八幡なのだと、誰もが盲信している。そんな保証は、どこにも無いというのに。
「それだけの事を、してきたのだ。比企谷八幡という男は」
やはりそうなんだな、と俺は諦念にも似た気持ちで材木座の言葉を受け止める。
みんな、
「まあ、我は巻き込まれた記憶しかないがな」
「なんか、⋯⋯悪いな。迷惑ばっかりかけてたみたいで」
「よせ、素直に謝られると気色が悪い。謝るならちゃんと思い出してから謝るのが筋というものだろう」
材木座の言う事はもっともだった。俺が謝ったところで、呆れるぐらいに意味がない。
だから俺は、知りたいと思った。
みんなが求めている俺は、何者であったのか。俺の価値はどこに、どれほどのものがあるのか。俺が雪乃を想う気持ちは、どれほどのものだったのか──。
「どうやったら、思い出せるんだろうな」
天井を仰ぎ、そう呟く。それにつられるように、材木座も腕を組みながら天井を見上げた。
「思い出したいか、全てを」
「そりゃな。できるなら、それが一番だろ」
「貴様の場合は、思い出せない方がいい事も多分にあると思うがな」
「⋯⋯それでも、だ。どんな過去があったって、元々は全部俺のものだろ」
もし材木座の言う通りの過去だったとしても、それは俺の欲求を止める理由になりはしない。どんな過去であろうと、知らなくていいはずがなかった。
「前に由比ヶ浜に言われたんだよ。しっかりしろ、って。思い出せたらなんとかなるなんて期待せずに、ちゃんと今の俺として、雪乃と向き合えって。これ言うの二回目だって言われたから、きっと前も同じ事してたんだろうな、俺は」
そう言うと材木座は、天井から俺に視線を戻した。問い質すような目が、その言葉の続きを促してくる。
「それでも俺は、思い出したい。別に思い出したら全部が上手くいくとか考えてる訳じゃないけど、ただ知りたいんだよ。俺が作り上げたものはどんな物だったのか。俺の価値ってのは、どれほどのものなのか」
どこか青臭い独白めいた言葉が、書斎に響いて消えていく。しんと静まり返ったその部屋の中で、材木座は沈黙に耐えかねたように息を吐いた。
「我に貴様の記憶を思い出させる事はできぬ。しかし貴様の価値というのなら、教示する事はできる」
材木座はむふん、と大仰に胸を張ると、やたらと格好いい声で俺に告げた。
「いいだろう、比企谷八幡。久々に男同士の付き合いといこうではないか」
お読み頂きありがとうございました。
次回、男子会開催です。
残念ながら(?)戸部は出ません。