日本の誇る大都会・東京。
山手線の駅ともなると、どの駅で降りてもかなりの人出だ。特に今日は日曜日という事もあり、行き交う人々は数え切れないほど多い。
そんな雑踏の中、俺は材木座と共にとある人物を待っている。待っているのだが⋯⋯、それにしてもである。
「なあ、材木座」
「どうした、八幡」
材木座義輝、この男の格好には非常に違和感がある。最近ただでさえ暑くなってきたというのに、何故かトレンチコートを着ているのだ。普段冬でもコートすら着ないというのに。
その姿はくたびれた中年サラリーマンのように見えなくもないが、やはり季節を考えると異様だ。ここ東京は多数の、本当に様々な人間が集まるせいで華麗にスルーされてしまっているが、俺の感覚がおかしくなった訳ではないと思う。
「なんでこの気温で、コートなんて着てるんだよ」
「知れた事を。これが我らの正装であろう」
「我ら⋯⋯?」
「ああ、学生時代は共にこの装束をまとい、世にはこびる悪を駆逐していたものよ」
その言葉に、俺は愕然とした。マジか、こいつ。いや俺は正気だったのか? こんなの厨二病まっしぐら、痛いなんてもんじゃ済まされない。
「⋯⋯嘘だろ?」
「ああ、嘘だ」
「この野郎⋯⋯」
本気で殴ってもいいだろうかと拳を握りしめた時だった。後ろから朗らかな声が届いたのは。
「はっちまーん!」
どーんと背中を押されて前方によろめき、向かい合っていた材木座の腹に跳ね返された。悪戯っぽい声に振り返ると、そこにいたのは一人の女性だ。
女性はカーブパンツに緩めのシャツを合わせ、髪は短い所為でどこか中性的に見える。しかしその笑顔は燦然と輝いていて、活発な女子大生といった印象を抱かせた。
「久しぶりだね」
そう声をかけられるが、全く想像していなかった展開に頭がついていかない。ちょっと失礼、と材木座を引き寄せると、ぼそぼそと事情聴取を開始する。
「おい、今日は男同士の付き合いって言わなかったか?」
「そう言ったが?」
「じゃあなんで女の子が混じってるんだよ」
「女の子ではない。戸塚彩加は男だ」
「はぁ? 彩加って言っちゃってんじゃねぇか。名前からしても女だろ」
「しかし、戸籍上は間違いなく男なのだ」
「んな訳あるか。あんな可愛い男がいるかよ」
「うぬぬ⋯⋯。こいつ面倒臭いな⋯⋯」
彼女を背に小突きあっていると、「あのー⋯⋯」と申し訳なさそうな声をかけられる。
「ごめんね。そういえば、初めましてになるんだよね?」
「あ、はは、はいっ。初めましてっ」
「八幡⋯⋯。貴様は本当にどうしようもないぐらい八幡だな⋯⋯」
上擦った声に材木座の呆れ果てた声がかぶさってくる。仕方ないだろこんなの。例え婚約者がいようと、ここまで可愛い人に笑顔を向けられてしまえば、若干緊張してしまうのが男という生き物なのだ。
「聞こえてたけど⋯⋯僕は男だよ」
「は⋯⋯?」
「えっと⋯⋯証拠見せた方がいい?」
ちら、と彼女は、自分のズボンの方を見る。それは流石に、いざ男説が本当だった時のダメージがデカい。
「いえ、大変ありがたい申し出ですが結構です⋯⋯」
「八幡。その反応はもうよせ。誰も幸せにならぬ」
妙に達観した言葉がかけられると、少しだけ冷静さを取り戻す。現実は小説よりも奇なり。男の娘という存在もまた、現実に存在するのだろう。
「とりあえず、行くか。もう一人は遅れるらしいから現地集合だ」
材木座はそう言って歩き始めたので、俺も彩加ちゃん⋯⋯じゃなかった、戸塚と隣り合って歩き始めた。人の流れにのるように歩きながら、戸塚は早速といった調子で語りかけてくる。
「ごめんね、お見舞い行けなくて。ちょうど海外遠征に行ってて」
「海外遠征⋯⋯?」
「うん、僕はマッサージャー⋯⋯いわゆるマッサージ師をやってて、選手専属で遠征に同伴する時があるんだ」
そう言って戸塚が上げた名前は、俺でも知っているような有名スポーツ選手たちだった。なんとも凄い人脈を持つ人もいるものだ。
俺も今からスポーツ選手を目指して戸塚にマッサージして貰おうかなやっぱ無理だななどと考えていると、材木座が足を止めた。どうやら目的地についたらしいが。
「なんでサイゼリヤ⋯⋯」
「逆にサイゼ以外のどこがあるというのだ?」
道すがらに似たようなファミレスはあったのに、わざわざ少し離れた場所にある店を選ぶ理由はよく分からない。まあ、大した問題ではないけど。
店内に入るとすぐにテーブルに通され、ドリンクバーと喋りながら摘めそうな料理を数点注文した。全員が飲み物を用意し終わったら、ようやく今日の本題だ。
「さて、今日集まったのは物忘れの激しい八幡が自分の価値が分からんなどと人生の迷子じみた事をのたまった為だ。面倒臭いが旧知である我らで、この迷子を救ってやろうと思ってな」
なんて言い草だと思ったが、残念ながら俺が言い返せる事は何一つなかった。いつもより目を腐らせた俺を見て、戸塚は苦笑を浮かべている。
「えーっと⋯⋯とりあえず、昔の話をしたらいいのかな? 八幡がどんな人だったか」
「であるな」
材木座と戸塚が目を合わせると、戸塚だけうんと頷いた。そして俺の方を向き直ると、やはりどう見ても可憐な女の子にしか見えない顔で語り始める。
「じゃあ、僕の知っている事から話すね――」
以前、材木座は言った。
思い出せない方がいい事も多分にあると思う、と。
戸塚と材木座の話を聞き終えた俺は、思わず頭を抱え込んでいた。
なんと言うか⋯⋯千葉村の話は小学生相手に容赦がないし、文化祭の話に至っては自分に対して容赦がない。やり方がストイック過ぎて、高校生らしくない解決の方法だった。
ただ、俺らしい、とは思った。過去は思い出せなくても、原体験とも言うべき感情や思考の癖は残っている。その解決策がどんな帰結を示したとしても、過去の自分に対して否定するつもりはない。
だが今の俺ならどうするだろう、と考えると、きっと同じ手法は取らないだろうと思った。解決のベクトルは大きく変わらないだろうが、もう少しマイルドな方法を考えるはずだ。そう考えると俺は過去を思い出せないながらも、重畳されてきた性格は変わっていないと類推できる。
「僕たちから伝えられるのは、こんなところかな」
「そうか⋯⋯。ありがとな、色々教えてくれて」
俺はそう言って、戸塚に向かって軽く頭を下げた。正直戸塚には、要らぬ心労をかけてしまったように思う。俺の言動に対する感情をオブラートに包みながらも間違えないように伝えるのは、中々難しい事だっただろう。
しかし顔を上げて目が合った戸塚が浮かべていたのは、疲労ではなく微笑みだった。
「僕の印象は、あの時から変わってないな。一人でも、強さが揺るがないっていうか⋯⋯格好いいなって、ずっと思ってる。雪ノ下さんと一緒になってからも、それは変わらないよ」
きっと戸塚は、ずっと俺を近くから、あるいは一歩引いた場所から俺を見続けてくれたのだろう。瞳の奥に住む慈しみのような感情が、それを物語っていた。
思わず「戸塚ぁ⋯⋯」と泣きむせびそうになっていると、どこかから携帯電話の振動する音が聞こえた。その音の出処は戸塚の携帯らしく、ポケットからそれを取り出すと画面を見る。
「隼人くん、もうすぐ着くみたい」
「左様か。思ったより早かったな」
二人にしか分からない会話に疑問符を浮かべていると、戸塚が立ち上がっておーいと手を振った。軽く手を上げ返してこちらに向かって来たのは、爽やか過ぎるぐらいのイケメンだ。
「はじめましてだな。ヒキタニくん」
「あ、ああ⋯⋯」
俺の前の前に座った男は、張りぼてみたいな言葉を投げかけてくる。どこか底意地の悪さを感じさせるようでいて郷愁に満ちた、そんな口調と声音だった。
それにしてもどういう組み合わせだ、とテーブルを見回して思う。爽やかイケメンの隣には、女子大生風の男の娘、それから厨二臭の漂う中年サラリーマンとヒキコモリ生活の文筆家。どう見たってチグハグな組み合わせだ。特に隼人と呼ばれた男が来てから若い女性客がこちらをちらちらと見ていて、妙に目立ってしまっている。
「俺は葉山隼人。君とは親友と悪友を足して二で割ったような関係だったかな」
「言い得て妙であるな」
葉山隼人の自己紹介に、材木座はぬふんと大きく頷いた。こんな日向しか歩いてこなかったように見える人間とそんな関係になるとは考え難いのだが、見た目で判断し過ぎだろうか。
「えっと、今日来てもらった理由だけど⋯⋯」
「ああ。自分の価値が分からないという迷える仔羊を救えばいいんだろ?」
葉山はそう言って俺に笑みを向ける。どうやらやはり、俺は見てくれの印象だけでこの男を定義しようとしてしまっていたらしい。
なんとなくだが、彼には深淵な闇があるように思える。理解される事などまるで望んでいなければ、その闇を見せようともしない、そんな濁りを俺は彼から感じ取っていた。
「どこまで話したんだ?」
「千葉村での事とか、文化祭の事とかかな」
「そうか。ならあの件は、俺から話すべきだろうね」
そう言って葉山はテーブルの上で指を組んだ。どこか祈りにも似た仕草に、机を囲む誰もが意識を吸い寄せられる。
「修学旅行の時の話だ」
葉山はそう切り出すと、先程までとは打って変わって硬度の高い声で語る。
彼のグループ内で、ある男子から女子へと告白したいと相談を受けた事。その手伝いを俺と雪乃、由比ヶ浜が属していた奉仕部に頼んだ事。――そして俺が解決策として見出したやり方と、その後の不和。
客観的に聞くと、何故それが起こったか推察する事はできた。雪乃はきっと、愛とか恋とかの一歩手前の感情を、あるいは友情のようなものを抱いていたのではないか。それ故に俺の行動は彼女の理解を越えてしまった。その当時の俺が、嘘の告白の結果をどう感じたのかは分からない。しかし雪乃たちからすれば、俺が傷を負う事で葉山たちグループの崩壊を止めたように見えるだろう。
「その少し後に、君に言った事がある。君は誰かに助けて欲しいから、誰かを助けるんじゃないのかって。そうしたら君は珍しく感情を顕わにして怒っていたよ。そんな君の姿を見るのは、本当に珍しい事だった」
葉山の語りがそこで止まると、沈黙が場を支配していた。そこかしこから飛び交う話し声の中、ぽっかりと俺たちだけ宙に浮いているような気分になる。
「俺は君の事を、勘違いしていたんだろうね。きっと自分と同じように考えているだろうなんて、尊大に考えていたんだ、俺は」
葉山はじっと目を逸らす事なく、俺を見ていた。
言葉とは裏腹に、そこに後悔の念などない。ただ強く、裁判官が判決を下すように、彼は言い放った。
「君は誰かの為に身を粉にできる。それが君の価値だとは言わない。ただみんなを惹きつけた理由は、そこにあったんだろうね」
茜色の空の下をとぼとぼと歩いて、俺は見慣れた高級マンションに吸い込まれていく。
エレベーターに乗っても、カードキーを玄関扉にかざしても、俺はずっと同じ事を考えていた。俺の価値は何か。過去ではなく、今の俺に何があるのかを。
「ただいま」
扉を開けると、玄関まで夕食のいい匂いが漂って来ていた。何かを炒める音に引き寄せられるように、俺はダイニングキッチンに入る。
「おかえりなさい」
雪乃は半身で振り返ると、そう言って視線をフライパンの中に戻した。彼女の後ろに立つと、思わず息を止める。
「今日は楽しかった?」
まるで母親が子どもに問いかけるような、優しい声だった。しかし俺は、その問いには答えない。
「⋯⋯雪乃」
そっと俺は、後ろから雪乃を抱きしめた。彼女の細いからが一瞬強張り、すぐにその力は抜けていく。
こんな風に彼女を抱きしめるのは、初めての事だった。許されるのか否かと言えば、許されてしまうと分かってやっているのだから、俺も
だがこうせずには、いられなかった。
「俺、やっぱり思い出したい。雪乃との事を。みんなとの事も」
野菜が水分を失っていくじゅうじゅうという音が、やけに耳にうるさい。
雪乃は俺に抱きしめられてから、一切の動きを止めていた。微かな息遣いを耳元に感じながら、俺は彼女の答えを待ち続ける。
俺は今の自分が無価値だとか、今のままでは雪乃に愛される資格がないとか、そんな事は考えていない。愛する価値があるかどうかなんて、彼女が決める事だ。
ただ俺は、純粋に知りたかった。彼らが俺に教えてくれた過去を、類推するしかない感情を、全てを取り戻したい。大切なものの大切さを知らずに生きていく事は、もうこれ以上耐えられそうになかった。
「八幡」
雪乃はコンロの火を消すと、そっと俺の腕を撫でて抱擁を解いた。俺に向き直ると、その白い手で俺の手を握る。
「ついてきて」
雪乃はそう言うと俺の手を引いて、彼女の自室へと入った。ここにはほとんど入った事がない。掃除も自分でしてしまうから、部屋で仕事をしている彼女に飯が出来たと知らせる時に入るぐらいだ。
雪乃は俺を棚の前まで連れてくると、日除けのカーテンを開けた。棚の正体は本棚であったらしく、まるでピアノの鍵盤みたいに本が敷き詰められている。
「あなたが昔の記憶を思い出せるようになるにはどうしたらいいか、私も考えた事があるの」
そう言って雪乃は、収まった本の背表紙たちを撫でる。その一角の本の題名を見て、俺は目を見開いた。
記憶、脳科学、健忘症状、脳外科、神経科学――まるで専門医の本棚のように、見慣れないタイトルが並んでいる。それは彼女から俺への想いであり、熱量だった。
「主治医の先生にも推奨はできないと言われていたから、まだ試していない事があるわ」
雪乃は別の段にあった一冊の本を取り出すと、その表紙を俺に向けた。タイトルには厳かな金文字で、大きく『総武高校』と書いてある。
雪乃からその本を取り出してページをめくると、それは卒業アルバムであるらしかった。数ページめくって過去の級友たちの顔を見ても、やはり俺が思い出す事は何もない。
本から目線を上げると、雪乃と目が合う。しかし雪乃は元からそれで思い出すとは期待していなかったのか、覚悟を決めた声で俺に告げた。
「――行ってみましょうか。私とあなたが出会った、あの場所へ」
という事で男子会の回でした。
次回、総武高校に向かう二人に何が起こるのか。
引き続きお楽しみ頂けたら幸いです。