リノリウムの床、等間隔でならぶ部屋、見覚えのないサインプレート。
かつては俺が、そして雪乃が何度も歩いたであろう廊下は閑散としていて、来客用のスリッパが床を擦る音だけが響いていた。
「また君たちとこんな風に歩くなんて、想像もしていなかったよ」
俺たちの前を歩く女性──平塚先生は、顔だけで振り返りながらそう言った。
「ひょっとしたらこうして君たちを案内するために、私は戻って来たのかも知れないな」
「私も驚きました。電話口で聞き覚えのある声だと思ったら、平塚先生だったなんて」
歩く度に揺れる黒く長い髪は、後ろ姿だけ見ると姉妹のように見えなくもないが、彼女は俺たちの所属していた部活、つまり奉仕部の顧問であったらしい。数年前に転勤でこの総武高校を離れたが、今年の春からまた戻って来たのだそうだ。
奉仕部での活動については雪乃からだったり、由比ヶ浜や一色が家に遊びに来た折に聞いた事はある。平塚先生の事も当然聞き及んでいたから、こうして会うと物語の登場人物に巡り会ったかのような、不思議な気分だった。
「さて、どうする。部室からにするかね?」
「いえ⋯⋯。いきなりは刺激が強いかも知れないので、まずは学校を見てまわれたらと」
雪乃の答えに、平塚先生はうむと頷いた。雪乃と俺は平塚先生に先導をお願いして、まずは一階を、次に二階をと、ぐるぐる回るように歩いて行く。
この総武高校は中庭を囲むように建造されており、本校舎と特別棟と呼ばれる校舎は東側の通路と西側の空中廊下で繋がっているらしい。歩いているうちに本校舎と特別棟を行き来する事になるのだが、その間に見覚えのあるものは何一つとして見当たらなかった。
「何か思い出した?」
雪乃はそう言って立ち止まって振り返ると、俺にそう問いかけた。見上げたサインプレートには二年F組と書いてある。J組まであるらしいから、中々大きな学校だ。
「君が二年の時に過ごした教室だ。きっと思い出深い場所だと思うんだが」
平塚先生に言われて教室の中に踏み入れると、どこか懐かしい感覚を覚える。しかし教室なんて、ほとんどどこの学校も同じようなものだ。その郷愁は果たして高校の時のものなのか、はたまた中学時代のものなのかも分からない。
その空気を味わうように深呼吸をすると、ふっと小さな笑い声が届いた。平塚先生はどこか母親じみた声音で、俺に語りかける。
「私が君を見ると、大体一人だったな。寝たふりをしていたり、本気で寝ていたり。けれどクラスに大きな波風が立つ時は、大体君が関わっていたものだよ」
そう言って細められた目と眼差しは、底なしに優しく感じられた。きっとこの人にとっても、思い出深い場所なのだろう。
──ああ、まただ。
そんな風に懐かしい顔を、大切な思い出に触れた安堵を見てしまうと、俺は渇望してしまう。その思い出に、ただ触れたい。欠片でもいいから欲しい。それこそ喉から手が出るほどに、求める気持ちが止まらなくなる。
「君が奉仕部に入部した経緯は、誰かから聞いたか?」
「雪乃から、少しだけですけど」
「そうか。では私からの目線で話をしよう」
平塚先生は教壇に立つと、そっと黒板に触れた。机の間に立った俺たちに振り返ると、そっと白衣のポケットに両手を突っ込んで黒板に背を預ける。
「君は随分捻くれた物の見方をする生徒でな、つい構いたくなってしまったんだ。今でも君の作文を思い出すよ。書き出しは『青春とは嘘であり、悪である』だったかな」
「はは⋯⋯」
本気で書いていたなら笑えない。いや、笑うしかないか。雪乃も隣でひっそりを息を漏らして、口元に笑みを浮かべたのが分かった。
「他にも変わる事は逃げだとか、専業主夫になりたいから職場見学の行き先は自宅がいいとか調査希望に書いていたな。懐かしいよ」
「まあ、作家業は働きながら主夫をやっているようなもんですが」
「では半分夢は叶ったな。まずまずの結果じゃないか」
少しだけ意地の悪い笑みを浮かべた平塚先生に、俺は苦笑を返す。専業主夫志望とはなんとも高校生らしくない将来の夢だが、今の生活は意外にしっくりきている所為で、妙に納得してしまった。
「まあ、そんな調子だから君たちは面白い生徒だったんだ。雪ノ下は真っ直ぐ過ぎるし、君は真っ直ぐに捻くれていた。そんな君たちがどんな化学反応を起こすか楽しみにしていたんだが⋯⋯まさか婚約するところまでいくとはね」
結婚とは言わずに婚約と表現したあたりに、平塚先生の気遣いを感じた。その言葉の通り、結婚の約束は未だ有効であるものの、結婚した訳ではない。
平塚先生はベストのポケットに手を突っ込むと、くしゃりとその中で音を立てて、ついでにくしゃりと表情を潰した。
「久々にタバコを吸いたい気分だが、近頃は学校も厳しくてな。敷地外でしか吸えなくなってしまった」
いや、厳しくなる前でも教室でタバコはアウトだろ⋯⋯。
同意を求めて雪乃を見るのだが、平然としていて平塚先生の言動に違和感を覚えている様子はなかった。流石に教室で吸ったりはしていないだろうが、結構学校内で吸っていたのかも知れない。
「その捻くれっぷりは君の本を読む限り大して変わっていないようにも思えるが、あの頃に比べたら随分真っ直ぐになったものだよ。しかしあの作文を書いた人間が今や賞作家とは、人生は何が起こるか分からない。君には随分作文やレポートを書き直させたが、ひょっとしたら才能をつぶす行為だったのかも知れないな」
「いえ⋯⋯。そんな舐めた作文は突き返していいと思いますが」
「⋯⋯やはり変わったな、君は」
その一言は俺にとって、珍しい種類のものだった。いつも俺を知る人に会っては、やはり俺は俺なのだと妙に納得されていたからだ。
だからその言葉は、俺の中に重く響いた。俺は俺であって、以前の俺とは隔絶的に違う。平塚先生にそんな意図はないだろうが、どうしてもそう受け止めてしまうのだ。
「そして変わったのは雪ノ下、君もだよ」
「⋯⋯私も、ですか」
まさか自分にまで話が及ぶとは思っていなかったのか、雪乃は少しだけ目を大きくして平塚先生を見詰め返す。しかし次の瞬間には、平塚先生と同じように、親しげで優しい笑みが浮かんでいた。
「それは、そうかも知れません。八幡に関わっていると、彼曰く少しずつ歪むんだそうです」
「不思議な表現だが⋯⋯、『変わる』という言葉を忌避するあたり、実に比企谷らしいな」
平塚先生がはは、と短く笑うと、珍しく雪乃も少しだけ声を出して笑う。そうやって笑みを交わす姿は、やはりどこか姉妹のように思えた。
そんな柔らかな時間が流れ切ると、平塚先生は教壇から下りる。そして俺たち二人に向き直ると、酷く
「そうやって少しずつ歪んでいく君たちが、私は堪らなく愛おしかったんだ」
特別棟に向かおうとすると、平塚先生はタバコが吸いたいと言って校舎を後にした。どうやら昔話をしていて無性に吸いたくなってしまったらしい。
雪乃と二人、通い慣れたはずの廊下を歩く。彼女が立ち止まったのは、真っ白なサインプレートのかかった教室だ。雪乃は平塚先生から預かっていた鍵でその扉を解錠すると、その感覚を反芻するようにそっと扉に手を当てる。
「もし調子が悪くなるようだったら、すぐに言うのよ」
「⋯⋯ああ」
そうなる予感が今のところ何一つないのが、残念なところだ。雪乃は俺の答えを聞き届けると、がらりと扉を開いた。
「⋯⋯あの頃から、変わってないのね」
空き教室なのか、机や椅子のたぐいは後方に積み上げられている。部屋の中ほどには長机が一つと、椅子が三つ。雪乃の口ぶりからすると、ここが奉仕部の部室であるらしい。
この部屋での出来事。そして思い出。
雪乃から、あるいは由比ヶ浜と一色から、そして先日の彼らから話を聞き、しかし直に触れるのは初めての場所だ。
聞けば聞くほど、ここでの出来事はありふれているようで、どうしてそうなるという話が多かった気がする。そのほとんどは俺の所為で、時々誰かと誰かの相乗効果で拗れ、中々普通の青春とは呼べない出来事ばかりのようだった。
けれどここには、間違いなく俺の青春が詰まっていたはずだ。雪乃という大切な人を見つけた場所が、その時間が、ここにはある。それに触れるのが少しだけ怖く感じた。触れてしまえば壊れてしまうような、そんな儚さや繊細さを、伝え聞いた話から感じ取っていたのかも知れない。
「ここが⋯⋯」
一歩その部屋に踏み入れると、さっき二年F組の教室に立ち入った時とは違う、胸が痛いほどの懐かしさを感じた。香りか、それともその光景にか、どちらなのかは判然としない。
ただこの空気を俺は知っているような気がした。肌に馴染み、心に染み入る、漠然とした感覚。今日ここにきて初めての感覚に、思わず心臓が騒ぎだす。
「ここが、私とあなたが出会った場所」
雪乃はそう言って、一番窓際の席に座った。きっとそこが彼女の席だったのだろう。
吸い寄せられるように、俺は長机を挟んで雪乃と向かい合う。そして机につっと指を滑らせた瞬間──一つの言葉が、頭の中に降ってきた。
「⋯⋯本物」
呟いた瞬間、俺は頭に何かが突き刺さったみたいな、鋭く重い痛みを覚えた。
「──っ」
耐えきれずに膝を折ると、雪乃はがたっと慌てた様子で椅子から立ち上がり、駆け寄ってくる。
「八幡っ!」
「だい⋯⋯じょうぶだ」
そう答えるが、未だ痛みは引かなかった。なんとか顔を上げると、酷く心配そうな表情をした雪乃と目が合う。
「俺は⋯⋯ここで『本物』がどうとか、話をした事があったか⋯⋯?」
「あなた──思い出したの?」
雪乃の口ぶりから、俺は確信に似たものを感じ取る。やはりこれは、俺の記憶の中にあるものだ。触れたくて触れたくてあがき続けた、その先にあるもの──。
しかしその言葉の意味を探ろうとすると、頭痛は更に酷くなる。もう一度頭を抱えた俺に、雪乃は背中を撫でながらかぶりを振った。
「もう、やめておきましょう。⋯⋯あなた、凄く辛そうにしてる」
雪乃は有無を言わせない勢いで俺の腕を掴むと、引きずり出されるようにして奉仕部の部室を後にする。廊下に出ると幾分頭痛はましになったが、何かを思い出せそうな感覚も薄まっていく。
「なぁ⋯⋯」
「今日はもう帰りましょう。あなたにとっても私にとっても、ここ以上に思い出深い場所はないと思うわ」
俺の言葉を遮ると、雪乃は腕を掴んでいた手で俺の手を握ってくる。
握り返したその手は細かく震えていて。
──だから俺は、それ以上何も言えなかった。
帰りの道すがら、俺は『本物』という言葉に関わる話について雪乃に尋ねた。渋る彼女から聞き出した話は、しかし実に曖昧なものだった。
『本物が欲しい』
何故そう言ったのかは、口伝された状況だけでは分からない。言った本人が思い出せないのだから当然と言えば当然だ。
家に帰りついても、俺はずっと『本物』というキーワードについて考え続けている。
上手く立ち行かなくなってしまったクリスマスのイベント。葉山から聞いていた、不和と言って差し支えない状況。そこで高校生の俺は何を感じ取り、何故その言葉を選び取ったのか。求めた『本物』とは、一体何の事だったのか。
しかし酷い頭痛からの解放と引き換えに、記憶は遠ざかって行ってしまった気がしてならない。ひょっとしたら、我慢してあの部屋に居続ける事ができたら、もう少し掴めるものがあったのだろうか。
「大丈夫?」
声をかけられるまで、俺は立ったままだった事に気づかなかった。薄闇に覆われていく東京湾を見ながら思案に暮れると言えば聞こえはいいが、現実は暗中模索だ。
雪乃はそっと背後から腕を回すと、俺の身体を抱きしめた。背中に感じる柔らかさと熱さは俺の心臓を蹴り上げるのに充分な衝撃だったのに、今日はその行動に浮かれる事もできない。
「⋯⋯本物って、何だったんだろうな」
俺の一言に、雪乃の身体が固まったのが分かった。何故そんな反応をするのかまでは、分からない。本当に俺には、分からない事だらけだ。
本物の強さ、本物の自分、本物の絆、本物の──本物が、何だって言うんだ。
絶対に、大切な事なのに。
どうして何一つとして、その先を思い出せない?
俺はそっと雪乃の腕を下ろさせると、彼女に向き直った。真正面から俺と目を合わせた雪乃は、浅く唇を噛んでいる。
こんな表情を見たくて、母校を訪れた訳じゃない。もっと屈託のない、憂いの一つもない笑顔が見たかっただけだった。それなのにどうしてこうも、上手くいかないのだろう?
「────」
悔しさで俺まで唇を噛みそうになったその瞬間だった。
そんな事はさせないとでも言うように、俺の唇は雪乃の唇によって奪い去られていた。
「⋯⋯雪乃?」
「分からないわ」
雪乃は唇を離すと、額を俺の肩口に当てたまま小さく頭を横に振った。今度は細い腕が俺の背中を引き寄せ、二人の間に僅かな間隙すら許さないように、身体を密着させる。
「分からないのよ、私には何も」
いつだったか材木座たちは、俺を人生の迷子だとか、迷える仔羊だと揶揄した。まったくその通りだ。
俺も、彼女も、迷える無力な仔羊だ。
「⋯⋯すまない。俺の所為で、雪乃まで悩ませちまったな」
俺の言葉に、雪乃はまた小さくかぶりを振る。そんな仕草ですら、俺の胸はしくりと痛む。
「そんな事はいいのよ。ただ思い出せない事で、自分を責めないで。私はあなたを責めるつもりなんて、一切ないの」
雪乃はゆっくりと身体を離すと、もう一度俺を正視した。
神話の中から出てきたみたいな美しい顔を見て、そう言えば初めて雪乃とキスをした事に気付く。きっと彼女とは、何度もそうして唇を重ね合わせたのだろう。感覚だけは妙に懐かしくて、くすぐったくて──叫びだしそうな程に、切ない。
「本当はね、思い出せなくてもいいの。あなたさえ、そばに居てくれれば」
その言葉は俺に向けられているようで、その実誰に向けられたものだったのか。
言い聞かせるような、確かめるような。その言葉はきっと、彼女だけのものだった。
「⋯⋯それだけで、いいの」
──そう言うと雪乃はもう一度、優しく俺に口付けた。
お読み頂きありがとうございました。
総武高校で思い出を辿るお話でした。
平塚先生は台詞を考えるのが難しいのですが、八幡たちよりも更に大人の目線から語れるところが書き手としては重宝する登場人物ですね。
さて何故平塚先生は、途中でタバコが吸いたくなったのでしょう。色々あるのですが、想像してみると楽しいかも知れません。
それではまた次話でお会いしましょう。