「ありがとうございましたぁ」
綺麗に腰を折り、しかし
季節は進み、秋も深まった時分。
今日は俺の新しい本の発売を記念したサイン会である。⋯⋯が、それだけではない。
出版と時を同じくしてメジャーデビューしたカラフルゆめみ改め一色いろは。彼女がメジャーで初めて発売するCDとの、同時購入者限定合同サイン会だ。会場が大型CDショップなあたり、俺の方がオマケである感じは拭えない。
なんでも俺の出版した本の先出し記事が起爆剤になり、一色のデビューが決まったらしい。彼女のマネージャーさんからいたく感謝されたが、記事を書いた当時の事を思い出せないのでどうにも反応に困った。
本来俺が関わった事で一色の人生が一歩でも先に進んだなら、それは純粋に喜ぶべき事だ。しかしデビューに合わせて芸名を本名にするぐらいの覚悟を彼女に決めさせた事は、少し恐ろしく感じた。ほとんどの芸能人が芸名を使う中、その意味が持つ重さは計り知れない。
「今日は来てくれてありがとー☆」
一色はそう言いながらファンの差し出したCDのケースを開ける。ペンを握り直すと、目の前に立った女性ファンに飛びっきりの笑顔を向けながら問いかけた。
「お名前教えてもらってもいいですかー?」
「──ハルでお願いします」
「はーい。ハルさん、これからも応援よろしくお願いしまー⋯⋯す?」
一色は何故か語尾にクエスチョンを付けると、あれと小首を傾げる。
まじまじと目の前の人物を見るが、その女性は誰かに見られるとまずいのだろうか、マスクにサングラス、それにキャスケット帽子という出立ちだった。帽子も目深に被っている所為で、より怪しさを増している。
「ありがとうございましたぁ」
しかし後ろの行列を思い出したのだろう、一色は宛名付きでサインを書き終わると、両手で女性にCDを返した。続いて俺の目の前にやって来て本を差し出したが、その後のやり取りは大して変わらない。
確かに普通ではない格好だが、ひょっとして一色の知り合いだったのだろうか?
そんな事を考えながら俺はサインを書き込むと、本を閉じて目の前の女性に差し出した。
「お疲れさまでしたー⋯⋯」
控室代わりに通されたバックヤードに入ると、一色はさっきとは打って変わって素の声でそう言った。その顔にはもう笑顔は貼り付けられていないし、疲労を隠そうともしない。だるーんと肩から力を抜いて、全身で疲れましたと言っている。
「いやー、中々疲れましたねぇ。今日だけで二百回以上サインしたらしいですよ、わたしたち」
「通りで腕も手も疲れるわけだな」
そう言いながら一色はお茶のペットボトルを目の高さに掲げたから、俺も貰ったばかりのペットボトルをそれにぶつける。キャップを開けてそれを飲むと、『ありがとうございます』の言い過ぎで枯れた喉に染み入るようだった。
「しっかし、まさかメジャーデビューまでいくとはな」
「わたしもビックリです。いきなり大きなステージに立てる訳じゃないので、あんまり実感ないですけど」
MVもローカル局でしか放送されないんですよねー、なんて言いながら、一色はまんざらでもない表情を浮かべていた。彼女が頑張っていたのは、ずっとアイドル活動を通じて見て来たから知っている。その努力が実る事はきっと彼女にとっても良い出来事のはずだし、椅子に座ったままぷらぷら揺れる足が犬の尻尾じみていた。
実際、凄い事だと思う。グループアイドル全盛の時代にソロデビュー。彼女の可愛さは本物だと思うが比較的に言って若いとも言い難いし、ましてやデビューと同時に今までの芸名を捨てるとは中々思い切った事をさせて貰っているなと感じる。事務所もよくオーケーを出したな⋯⋯とか謎のP目線になってしまった。
「けど今日は驚きましたね。先輩も気付きました? ⋯⋯あ、いえ、すいません。何でもないです」
「え? お、おぅ⋯⋯」
その言葉に俺が目を向けると、彼女は何でもないとでも言うようにかぶりを振る。
一体何の事を言っているのかさっぱり分からなかったし、訊く前に話を切られてしまった。驚く事、と言われたら沢山あってどれの事なのか。
一色にはカラフルゆめみ時代の衣装を自作したという女性ファンが居たし、俺には以前出した処女作を十冊買ったと言った中年男性も居た。俺も若い女の子の方が良かったとか言ったら、相当あれだし一色にも呆れられるだろうが。
「あ、そう言えばなんですけど、ひょっとしたらフジの番組に出られるかも知れません」
「え。マジかそれ。ローカル局だけじゃなかったのか?」
「MVはそうですけどー、なんか情報番組の食レポ、みたいなので」
一色の話題転換は妙にわざとらしい気がしたが、こうなってしまったら真実を掘り出すのも骨が折れるだろう。
だから今は彼女の躍進を祈って、その話に耳を傾ける事にした。
サイン会の会場を出た瞬間、色なき風が頬を撫でた。
近頃はぐっと気温も下がってきたから、そろそろダウンジャケットを着るべきだろうか。道行く人々は俺よりずっと暖かい格好をしているように思えた。
「⋯⋯⋯⋯」
そう、だからその人も、とても暖かそうな格好をしていた。
枯葉色のチェスターコートにマスクとサングラス。肩にかかるぐらいの長さの髪が、秋風に吹かれてさらさらと揺れている。キャスケットを深めに被ったその人は、ついさっき会ったばかりだからよく覚えていた。
まさか俺の出待ちか? と身構えていると、その人はつかつかと俺の目の前までやってくる。そしてマスクとサングラスを外すと、俺を正視した。
「え⋯⋯」
思わず、声に出していた。妙に胸騒ぎがして、酷く落ち着かない気分になる。
それは彼女が掛け値なしの美人だっただけではない。俺の知っている顔だったからだ。
口元に浮かべられた笑みは雪乃とよく似ているようで、しかし同質とは言い難い。目鼻立ちは瓜二つなのに、
「ごきげんよう、比企谷先生」
凛と鈴が鳴るような声で、俺の名前を呼ぶ。
グロスに輝く唇で弧を描くと、彼女は慇懃に言った。
「わたし、あなたのファンなんです。よければお茶して行きませんか?」
雪ノ下陽乃と名乗った彼女は、席に座るとアールグレイを頼んだ。俺はブラックのホットコーヒーを頼むと、レトロな雰囲気の喫茶店には静かに流れるクラシックの音しか聞こえなくなる。
注文した飲み物が届くまでの間、一言の会話も生まれない静謐な時間が流れていた。天井のシーリングファンが店内の空気をかき回し、やがて芳しい紅茶の香りが漂ってくる。
「君とこうしてお茶するのは、いつぐらいぶりかな」
陽乃さんは届いたばかりのティーポットを見ながら、俺に分かるはずのない質問を口にした。俺は無言でその答えを返すと、彼女は瞳に笑みを浮かべて続ける。
「それで、どう? 雪乃ちゃんとは上手くやってる?」
その質問に、この人が何をどこまで知っているのだろうと思った。
雪乃の姉だという事は、つい先程聞いたから知っている。以前雪乃から姉がいるとは聞いていたから、ああやっぱりという感想しかない。
だが雪乃からはあまり陽乃さんの話を聞いたことがなかった。俺の知らないところで連絡を取り合ったりしているのかも知れないが、少なくとも今年倒れてから一度も会っていないから、仲良し姉妹という感じではないらしい。
「まあ⋯⋯それなりに、ですかね」
実際には、それなりなんて言葉で込められないほどの感情はある。街を歩けばカップルに見えるぐらいには、雪乃との距離は近づいているはずだ。
しかしその芽生えた感情の名前を陽乃さんに伝えるのは何か違うと思うし、伝えるべきは雪乃だろう。
この数ヶ月の間に、色々あった。
彼女は掴めそうで掴めない記憶に歯噛みする俺に寄り添い、ちゃんと今の俺を見ようとしてくれていたように思う。そこには確かに諦念のようなものもあったし、淡い期待のようなものもあった。俺の心が揺れ動くのと同じように、彼女もまた揺れている。あるいは俺よりも、ずっとその心の動きは激しかったのだろう。
それでも彼女は、一貫していた。俺と共にある事を決して諦めず、常に前を向いていた。
その姿勢は健気だと、
「それなり、ね。ならいいんだけど」
陽乃さんはティーポットから紅茶を注ぐと、香りを確かめてから口に含んだ。その優雅な所作は、やはりよく雪乃に似ている。
俺もそれに倣うようにホットのコーヒーを飲むと、まだ熱すぎた所為で舌を火傷しそうになった。かちゃり、とソーサーにカップを置くと、さっきからずっと気になっていた事を口にした。
「さっきはどうして、変装なんてしてたんです?」
「ん? ああ⋯⋯だって本当は声をかけるつもりなんてなかったから」
ならどうして、と口を
「君とあの子の様子だけ見て、帰ろうと思ってたんだ。けどそれが当たり前なのに本当に私だって気付かなくて、気が付いたら君を待ってたんだよ」
僅かばかりのやるせ無さを笑みに混ぜて、陽乃さんは俺を見ていた。陽乃さんからしたら、悔しい事この上ないだろう。
陽乃さんが雪乃の事をどれほど想っているかは知らない。しかし曲がりなりにも血の繋がった姉妹だ。妹の結婚が保留となり、あまつさえ自分の事すら思い出せなくなってしまう。その現実をはいそうですかと、受け入れられるはずがない。
「ねえ、そんな事よりこの前、総武高校に行ってみたんでしょ? どうだったの?」
何故この人がそんな事まで知っているんだと思ったが、雪乃が伝えたのだろうか。だとしたら、思ったよりも仲はいいのかも知れない。
しかし俺から言える事は、たった一つしかない。そんな答えを聞いても、陽乃さんを困らせるだけになるような気がする。
「⋯⋯部室に行った時に、一つだけ思い出しました。『本物』って言葉だけですけど」
俺が言うと、陽乃さんは予想に反して目を少し開いて驚きを見せた。ひょっとしたらそのキーワードに対して、彼女も何か関わっていたのだろうか?
陽乃さんの反応を窺っていると、彼女は紅茶の水面に目線を落として言う。
「⋯⋯そっか」
そして返ってきたのは、その一言だけ。
しかしその言葉には、一つでは済まない意味が込められているような気がした。
「ちゃんと見つけられていたのにね。君も、雪乃ちゃんも」
静かに流れるクラシックの曲間を縫うように、陽乃さんはそう言った。感情を押し殺した声音は激しさの一つもないのに、俺は責められているような気分になる。責めている人間がいるとしたら、それは自分自身なのかも知れない。
「ねえ、まるでドラマみたいだと思わない? 君は薬か手術で記憶を消されて、目を覚ましたら周りは知らない人ばかり。実は全員仕掛け人で、君はそのドラマの主人公なのよ。そして壮大なエンターテインメントとして、君の様子は世界中で放送されているの。トゥルーマン・ショーみたいに」
「もしそうなら、商材の宣伝が足りてないんじゃないですかね」
ずいぶん気の利いた冗談だった。むしろそうであってくれた方が、どれだけ良かったか。
婚約者に忘れ去られてしまう薄幸の美人なんて居なかった。その苦悩は無かったのだとしたら、きっと俺はその嘘を許せるだろう。
「やっぱり君のそういうところ、好きだな」
陽乃さんはそう言って、今までで一番明るい笑みを浮かべた。驚くほど素敵な笑顔で、捉え方によっては
「そのドラマの中で、君は妻を
しかし次の質問には冗談では済まない重い響きがあって、背中にぴりりと電気が流れた気がした。
本当にどうなるのだろうか、このドラマは。だが今求められているのは、ストーリーの展開予測じゃない。物語の主人公がどうするか。どうしたいかだ。
「きっと、そうするんでしょうね」
過去の出来事を思い出せないままでも、嵐のような感情に揺さぶられ続け、きっとその答えに行き着くのだろう。婚約しているからとか、そんな事は関係なしに、ただひたすらに自分の意思で。
俺の答えを聞き届けると、陽乃さんは安心と少しの憂いを瞳に込めた。
「それなら比企谷くんは、もっと雪乃ちゃんを見てあげないとね」
どこかで誰かが言った言葉のリフレインが、俺の中を満たしていく。
それに対する答えなんて、もう決まっている。いくらでも正面から見てやろう。ぶつかり合っても擦り切れそうになっても、きっとエンドロールには、二人の名前が並んでいるはずだ。
「嘘か真か。偽物か本物か。君ならそれが、分かると思うから」
陽乃さんはそう言うと、カップに残ったアールグレイを飲み干した。
ここまでお読み下さりありがとうございました。
八雪なのに雪乃が出て来てないぞって?
私も書き終わってから気付きました。
陽乃さんは平塚先生とは別の視座から登場人物たちを見られるキャラで、この話において結衣と立場的には似ているようで全く違う意見になるところがキーですね。
それではまた次話をお待ち下さい。