さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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私はずっと、あなたのそばにいる。

 人を正しくみるとは、どういう事だろうか。

 見る、観る、視る──当てはめる言葉によって意味は変わっていくが、そのどれもが正解とは思えなかった。

 

 年が明けて、今日で三日目。

 以前陽乃さんから受け取った「もっと雪乃ちゃんを見てあげないとね」という言葉の意味を、俺は今でも反芻する事がある。

 

 真意を紐解いていくならば、それは一個人として正しく向き合うべし、という事ではないかと思う。

 環境も経緯も、情報すら何も無かったものとして扱って、ゼロベースで雪ノ下雪乃という人をみる。それが陽乃さんに言われた事の、最適解なのではないかと思った。

 

 今まで書いた日記を読みながら、それが出来ているかと考える。

 それほどまちがった物の見方はしていないはずだ。彼女の真摯さには真摯さで、優しさには優しさで返し、互いを尊重し合ってきた。彼女の真っ直ぐな視線には、ある意味俺らしくないほど真っ直ぐに見詰め返せていたはずだ。そうしていつしか俺の中に灯る熱は、胸を焦がすほどの温度になっていた。

 本当にもう、どうしようもないぐらいに、惹かれていく。陽乃さんの一言がなくても、俺はそれに抗えなかっただろう。抵抗しようとしていた事すら馬鹿らしく思うぐらいに彼女の想いは大きく、器から溢れてしまいそうなほどだった。

 

 ──コンコン、とノックの音がする。

 書斎の扉を開くと、たった今まで想っていた人が目の前に立っていた。

 

「もう準備できたから、いつでも出られるわ」

 

 ワンピースのイブニングドレスに身を包んだ雪乃は、凛とした立ち姿でそう言った。いつもよりしっかりとメイクをした雪乃のその姿は、今からアカデミー賞の授賞式に行くのだと言われても納得してしまうほど女優然としている。

 すっぴんを知っていると化粧なんてしなくてもいいのではと言いたくなるが、やはりした方が彼女の顔の良さが引き立つのも確かだ。つまり雪乃は何をどうしたって、どこからどう見ても、ひたすらに美しい。

 

「八幡?」

 

 黙って見惚れてしまった俺に違和感を覚えたのだろう、雪乃はそう言って首を傾げた。その仕草も堪らなく愛らしいのだが、いつまでも見惚れている訳にはいかない。

 

「ああ、いや⋯⋯。すげぇ、綺麗だなって思って⋯⋯」

「ありがとう。あなたも悪くないわよ。仕方なく着ている感じが凄く素敵」

 

 ジャケット姿の俺を見ながら、雪乃はそう言って微笑む。

 ほとんど語彙力が死んだまま褒める俺に対して、雪乃は余裕綽々と言った調子なのは、まあいつもの事だ。こと相手の取り扱いに関しては雪乃が一枚も二枚も上手過ぎて、いつもぐうの音が出なくなるまでやり込められてしまう。

 

「そりゃどうも⋯⋯。じゃあ行くか」

「ええ」

 

 そう言ってマンションを出ると、俺たちは最寄り駅へと向かった。真冬の冷たい風に身をすくめると、何も言わずに雪乃の手を握る。彼女もまたそれが当然のように、俺の手を握り返した。

 今日は雪乃の誕生日だ。

 よって今晩はレストランでディナーと洒落込む予定であり、その行き先はまだ雪乃に言っていない。そっちの方が、彼女にとって楽しめるだろうと思ったからだ。

 駅に着くと数駅分だけ電車に乗り、下車した駅を出ればもう目と鼻の先に目的地はある。世界的な有名なホテルの、その最上階。本日のディナー会場を有する巨大な建造物は、どこまでも真っ直ぐ天に向かって背を伸ばしていた。

 

「ここだ」

 

 そのままホテルの前を素通りしてしまいそうだった雪乃の手を引くと、二人して立ち止まる。雪乃はホテルを見上げるとそんなに意外だったのか、目を見開いて驚いているように見えた。

 入り口に立っていたドアマンに行き先を告げると、続いてコンシェルジュに案内されてエレベーターに乗り、扉が開けば待ち構えていたレシェプショニストに迎えられて店内へと導かれる。窓際の席に座るまで驚くほどスムーズに事が運び、その仕事ぶりは敬意を払うべき一流のものだった。

 

「こんなところ、よく知っていたわね。前にも来たことがあるの?」

「いや、実を言うと初めて来る。調べてたら、良さそうだなと思ってな」

 

 飲み物を注文し終えると、雪乃は淡すぎる程の照明の下でそう問いかけた。薄暗い店内にはオールディーズのジャズが流れ、誰も彼もが密やかに言葉を交わしている。

 有り体に言ってしまえば、ここは高級イタリアンと呼ばれるレストランだった。当然よく利用する類のものではないし、初めて来るところだったからもっと戸惑う事もあるかと思っていたが、今のところ全くそんな様子もない。それを感じさせないのもまた、プロの仕事なのだろう。

 

「とりあえず、乾杯するか」

 

 飲み物が届くと、グラスを軽く上げてそう言った。雪乃は頷くと、同じようにグラスを持ち上げる。

 

「誕生日おめでとう」

「ありがとう」

 

 グラスを目の高さまで上げると、ジンジャーエールを一口飲んだ。ドライジンジャーのぴりりとした感触が、舌に広がる。

 

「あなたにこうして祝って貰えるのは、久しぶりね」

 

 雪乃は感慨深げにそう言って、ふと口角を上げた。薄暗い店内では、それが妙に蠱惑的に見えてしまう。

 

「去年はそれどころではなかったし。綺麗さっぱり忘れられていたから」

「あー、うん⋯⋯ごめんね? なんか色々⋯⋯」

 

 こうやって意地悪く揶揄するのも、雪乃なりの優しさだ。こうして謝りたい気持ちを上手く消化させてくれるあたり、本当に俺をよく理解してくれていると思う。

 届いたばかりのアンティパストを一瞥して、では俺はどれだけ雪乃の事が理解できているだろうと考える。

 常に美しく気高いが、それを決して鼻にかけたりしないし、そこにかける情熱を人に見せようとしない。完璧主義者のようでいて、どこかでボタンを掛け違えたみたいな独特のずれがある。睨みを効かせれば相手を恐怖に陥れ、微笑めば女神のようにその心を包み込む。そして猫が好きで、その次ぐらいに俺の事を──。

 

「食べないの?」

 

 雪乃の言葉にはっとして顔を上げる。彼女の手にはフォークが握られており、目の前のカプレーゼとスモークサーモンはゆっくりとその鮮度を落としているところだった。

 

「いや。食べるか」

 

 かぶりを振って、俺もフォークを握る。今日は彼女の誕生日なのだ。いくら頭の中が雪乃でいっぱいであったとしても、目の前の本人を疎かにしていい訳がない。

 しかしこの後の事を考えると、やはり平静ではいられないのか。

 そう言えばトマトは嫌いなんだよなと気づいたのは、カプレーゼを口に入れた後の事だった。

 

 

 

 

 会計を済まして店外に出る直前、キャッシャーの女性に「よければもう少し夜景をお楽しみ下さい」と提案され、俺たちは展望室へと足を向けていた。

 ホテルの利用者だけが入れるその場所は、下調べしてあったから知っている。先ほどまで居た店内とは反対で東京湾に背を向ける格好になり、眼下には息を呑むほど壮麗な光の海が広がっている。

 

「綺麗ね」

 

 ゆっくりと歩く雪乃の足元を、淡く青い間接照明が照らしていた。ミディ丈のスカートから伸びた脚は幻想的なまでに蒼白く、夢か現か分からなくなるほどだ。こんな時は君の方が綺麗だなんて三文芝居でも打った方がいいのかと考えるが、彼女の趣味でもないだろう。

 ああ、と小さく返事を返しながら、展望室の中に目を向けた。正月の三が日というのは利用客も多いらしく、俺たちの他にも何組か夜景を楽しんでいる。できれば人が少ない方がよかったが、幸い誰もが夜景に、若しくはパートナーに夢中で、俺たちの方を気にする様子はない。

 

「ちょっと座らないか」

 

 俺が提案すると、雪乃は「ええ」と頷いて窓に向けて(しつら)えられたベンチに座った。俺は彼女が座った方とは反対側にハンドバッグを置くと、静かにそれを開ける。底にしまっていた二つの箱の大きい方を取り出すと、自分の膝の上に置いた。

 

「僭越ながら、誕生日プレゼントを用意しております」

「作家とは思えない言葉選びね」

 

 いえ、作家だからかしらと続けながら、雪乃は口元を綻ばせた。夜景よりもずっと輝いている笑顔に、思わず見惚れてしまいそうになる。

 しずしずと両手で細長い箱を差し出すと、雪乃もそれを両手で受け取った。

 

「ありがとう。開けてもいい?」

「ああ」

 

 雪乃は周りを気にしてか、音を立てないように白い包装紙を剥がし取っていく。けれど見立ての通り、誰も俺たちの方など気にしてはいない。やがて現れたボックスの蓋を開けると、雪乃は微かに息を吸い込んで止めた。

 

「⋯⋯綺麗ね」

 

 夜景に向けた感想と同じ言葉だったのに、その声はずっと陶然としていて、見惚れるように雪乃は俺からのプレゼントを見ていた。そっと持ち上げられたネックレスの先では、ティアドロップ型のペンダントトップが揺れている。

 雪乃はしばらくそれを眺めた後に、そっとボックスに戻した。彼女は身につけていたパールのネックレスを外すと、俺に微笑みかける。

 

「あなたが着けてくれる?」

 

 頷いてボックスを受け取ると、彼女がそうしたようにネックレスを持ち上げる。永遠の輝きが閉じ込められたペンダントトップが、俺を急かすように揺れていた。

 引き輪の口を開くと、両手を雪乃の首裏にまわす。中々引き輪がプレートにかかってくれずもたついていると、くすりと彼女は笑った。生温かい息が鼻先にかかって、思わずとくんと心臓が大きくなる。

 

「着けたぞ」

「ええ。ありがとう」

 

 そう言って離れようとした瞬間、雪乃はちらと周りを窺うと、逆に俺の頭に手を回して引き寄せた。互いの柔らかい部分が触れ合って、脳が痺れるほどの浮遊感が訪れる。思いもよらなかった行動に、身体も思考も停止してしまう。

 

「⋯⋯すごく嬉しい」

 

 顔を離すと、まるで少女のように雪乃はそう言った。ここが薄暗くなければ、きっと頬を染めた彼女が見えただろう。

 鎖骨が見えるほど横に開いたイブニングドレスに贈ったばかりのネックレスがワンポイントとして加わると、神秘的なまでの美しさを感じる。瀟洒(しょうしゃ)にて華やか、不可侵の美が、確かにそこに在った。

 俺たちはベンチに座り直して距離を詰めると、どちらともなく手を握り合う。隣り合って座ると必然的に宝石箱を撒き散らしたみたいな夜景の方を向く事になるが、俺が見ているのはこの世でたった一つの宝石だった。

 

「気に入って貰えたか?」

「もちろん。あなたのセンス、嫌いじゃないわ」

 

 雪乃はそういいながらキュッと手を握り込んでくる。彼女の横顔を見詰めていると、その口元が緩むと同時にこちらを見てきた。

 

「それにしてもあなたのプレゼントは、身に着ける物が多いわね。そんなに私を一人占めにしたいのかしら」

「⋯⋯そうだったのか?」

「ええ。私の持っているアクセサリーの半分は、あなたから贈られたものよ」

 

 くすくすと笑い漏らす雪乃に対して、俺はなんとも曖昧な笑みしか返せない。よく言われる事がある。八幡はどこまで行っても八幡だと。言われているこっちとしては、苦笑するしかない。

 

「指輪、ネックレス、イヤリング。ブレスレットも貰った事があるわ。全部、自分でも似合うと思うものばかりだった。きっとたくさん悩んで、選んでくれたのね」

 

 雪乃の体重が、僅かに肩にかかる。もう彼女は周りを気にする様子すらなく、俺の肩に頭を預けていた。

 雪乃の口から思い出話を聞くのは、嫌いじゃない。触れたくても触れられない歯痒さを感じる事はあるが、いつも俺の中に残るのは胸が窮屈になるぐらいの愛しさだった。

 ──だから。

 俺がそんな質問をするのも、必然で当然の事だと思うのだ。

 

「なあ⋯⋯。俺はどうやって、雪乃にプロポーズしたんだ?」

 

 それはいつものように。

 雪乃に昔語りを頼むのと同じトーンで、同じ響きを持っていたはずだった。

 

「──」

 

 しかし雪乃から返ってきたのは身体の強張りと、失われてしまった言葉だ。その反応に、どうしようもないぐらいの動揺を感じ取ってしまう。

 ひょっとして俺は、触れてはいけない琴線に手を伸ばしてしまったのだろうか?

 けれどどこを探しても、その答えはない。彼女の口から紡がれない限り、俺にそれを知り得る手段はなかった。

 

「八幡」

 

 どこか諭すような響きをもった声が、俺の名前を呼ぶ。光の粒を閉じ込めた雪乃の瞳が、俺を捉えていた。

 

「⋯⋯焦らなくてもいいの。私はずっと、あなたのそばにいるから」

 

 その言葉が、それが持つ意味が、俺の中に走り抜けて行く。

 分からない。

 俺にはちっとも、──これっぽっちも分からない。

 もう一度私を好きになってもらうと、俺が目覚めたあの日に雪乃は言った。婚約者という関係も、何一つ変わっていない。

 思い出せなくても構わないと、俺が居てくれるだけでいいと彼女は言った。それに甘えて、俺の中で答えを出した訳じゃない。ちゃんと向き合って、雪乃をただ見詰めて出した答えは──どうしようもないぐらい、まちがっていたのだろうか?

 

 不意に陽乃さんが言った、夢想のような冗談が脳裏に蘇る。

 俺は記憶を消されてしまっていて、周りはみんな仕掛け人。俺の人生は他人の娯楽。悲しく滑稽なトゥルーマンは、舞台の上で踊り続ける。

 

「そう、だな⋯⋯」

 

 無理矢理出した声は、酷く(しわが)れて俺の声ではないみたいだった。なんて馬鹿らしい考えに囚われているのだろう。そんなはずなんてない。俺の中にあるものも、彼女の中に灯った熱も、まちがえようもないぐらいの本物だ。だからきっと、彼女の言葉の意味は──。

 

「そろそろ行きましょうか」

 

 そう言って雪乃が俺の手を離すと、先に立ち上がった。ああ、と掠れ気味の声で答えて、俺も立ち上がる。

 

「──」

 

 眩暈(めまい)のような感覚を覚えて、俺はすっと目を閉じた。

 瞬間、平衡感覚が抜け落ちて、鈍い音が身体の真ん中を揺らした。

 

「⋯⋯八幡?」

 

 目を開いてもどういう訳か、展望室の真っ黒な天井と、夜景にぼんやりと照らされた窓しか見えない。

 目の前にいたはずの雪乃が、酷く狼狽えた様子で俺の上から覗き込んでくる。

 

「──八幡っ!」

 

 目を瞑ってもいないはずなのに、視界は白くぼやけていく。

 身体から何もかもが──確かにあった熱ですらも、抜けていく感覚。

 

「ねえ、八幡──! ──⋯⋯ん!」

 

 混濁していく意識の中で、聴覚もやがて鈍く消えていく。

 

 完全に意識を失う、その瞬間まで。

 もう聞こえなくなった彼女の叫びだけが、俺の頭の中を木霊していた──。

 

 

 

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