さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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俺はいつまでも、その手を見詰めていた。

 押し殺したかのような嗚咽が、微かに聞こえていた。

 身体は未だ夢から覚めやらぬといった調子で、頭も四肢も酷く重い。ゆっくりと目を開くと、カーテンレールを吊り下げた白い天井が見える。

 

「⋯⋯お兄ちゃん?」

 

 その声に、ようやく俺はすぐ近くに人がいる事に気付く。

 ――お兄ちゃん。

 そうだ。俺には妹がいる。けれどその名前を呼ぼうとしても上手くいかない。涙をいっぱいに溜めたその顔を見ても、その名前は浮かんでこなかった。

 

「わたしの名前、分かる?」

 

 酷く不安そうな声が、瞳が俺に向けられる。俺は身を起こして彼女を見るが、その問いに答える事ができない。

 

「いや、悪いけど⋯⋯」

「そっ、か⋯⋯」

 

 俺の言葉に返って来たのは、さっきまで聞こえていた嗚咽の続きだった。

 一体なんだと言うのだろう。何故見ず知らずの人間に、こんな反応をされなければならないんだ?

 

「お兄ちゃん、これで何度目か分かる?」

「何度目⋯⋯?」

 

 何度目とは、そもそもどういう事なのか。彼女が俺の妹として仮定するなら、こうやって上手く思い出せない状況を言っているのだろうが⋯⋯思い出せないなんて、本当に彼女は俺の妹なのか?

 

 

 

「──もう、五度目(・・・)だよ。お兄ちゃんが全部⋯⋯ぜんぶ思い出せなくなっちゃうの⋯⋯」

 

 

 

 降り落ちた沈黙に、耳がキンとした。

 全部、思い出せない──?

 言われて俺もこの状況になるまでの経緯を思い出そうとしてみるが、まったく上手くいかなかった。何故病院のような場所にいるのか、昨日何をして、何を食べたのか。家族の顔や名前ですら、何も思い出せない──。 

 

「小町の事も、たぶん雪乃さんの事も、⋯⋯全部忘れちゃうんだよ、お兄ちゃんは。何度も」

 

 小町、と言うのは彼女の名前だろうか。彼女は俺の寝ていたベッドに突っ伏すと、肩を揺らして泣き始めた。

 彼女の口から一つひとつ言葉が溢れる度に、心臓の音がうるさくなっていく。にわかには信じられないが、彼女の反応は真に迫っているなんてレベルではなく、とても演技とは思えなかった。

 

「⋯⋯わたしはね、小町。お兄ちゃんの妹だよ」

 

 小町は一頻(ひとしき)り泣くと、鼻を啜りながらそう言った。彼女は足元の鞄から一枚の紙とカードを取り出すと、俺に渡してくる。

 随分前に取ったらしい戸籍謄本と、彼女の運転免許証。それが偽造でなければ確かに彼女は俺の妹らしかったが、俺にそれを説明するには嫌に手慣れ過ぎていて、彼女の発言の真実味が増していく。

 

「もうすぐ、雪乃さんが来るよ。携帯を見て」

「あ、ああ⋯⋯」

 

 雪乃さんって誰だ、と思いながら身の回りを見渡すと、枕元に携帯電話を見つけた。それを目の前に持ってくると鍵のマークがロック解除を示し、背景には俺と女性のツーショット写真が表示されている。

 

「その人が、雪ノ下雪乃さん。お兄ちゃんの婚約者」

「は⋯⋯?」

 

 俺に、婚約者⋯⋯? 俺は婚約者の顔や名前まで、忘れてしまったというのか?

 携帯の中で笑う女性は、美人なんて言葉では足りないぐらいの麗人だった。女優顔負けの美貌を持つその人が俺の婚約者とはとても信じられないが、写真の中で俺と頬をくっつけて笑っている。そうする事が堪らなく幸福だとでも言うようなその顔は、優美が故にどこまでも俺を追い詰めるようだった。

 こんな美人と会って、こんな風に写真を撮って、忘れるはずがない。けれど教えられた名前だって合っているか分からないぐらいに、彼女の事が思い出せなかった。小町の話した全てが、置かれている状況と合致していく。

 

「本当に忘れちまったのか、俺⋯⋯」

 

 画面をスワイプすると、写真のライブラリが開いていた。俺とその雪ノ下雪乃さん(・・・・・・・)の写真がほとんどで、最新のものほど親密さが分かるぐらいに距離は近く、時間を遡るほど離れていった。そしてまた恋人同士のようなツーショットが並び、また付き合いたてのカップルみたいにぎこちない笑顔になっていく。

 

 ──もう、五度目だよ。

 

 信じたくなかった。そんなはずがないと叫び出したかった。

 けれどそうする事は無駄だと、どこか冷静な自分が囁いている。頭の方はもう、諦めてその事実を認めてしまったのだろう。五度目というその意味が、ずっしりと肩にのしかかっている。

 

「雪乃さんが来たら、きっとこう言うと思う。⋯⋯あなたにはまた好きになってもらう、って」

 

 どういう訳かは分からないが、小町はそう言って瞳を潤ませていく。戦慄(わなな)く唇が、何か決定的な事を言わんとしていた。

 

「──でも、断って。絶対に断って。じゃないと雪乃さん、ずっと、何度も傷つくことになっちゃうんだよ」

 

 そう言って小町は、はぁぁと震える息を吐いた。彼女が瞬くと、一雫の涙が転がり落ちる。

 悲しみに濡れていたはずのその瞳は、いつの間にか強い意志が宿っていて、まるで俺を睨んでいるようだった。

 

「何度も、何度も⋯⋯っ! そうして来たんだよっ。諦めずにまたお兄ちゃんと一からやり直して、上手くいったと思ったらまた何も思い出せなくなっちゃて──! その度に、雪乃さんは泣いてたよ。苦しんだんだよ。お兄ちゃん⋯⋯っ!」

 

 小町は俺の手を取ると、痛いほど強く握り込んでくる。その痛みは、きっと今彼女の感じているものの比ではないのだろう。

 長年一緒に過ごした相手に忘れられてしまう悲しみは、小町もまた同じのはずだ。少し想像してみただけで、無力感と喪失感に苛まれる。そんな事を⋯⋯繰り返して来たのだろう。

 

「ごめんね⋯⋯。お兄ちゃんが何も悪くないのは分かってるの。⋯⋯それでも、お兄ちゃんは雪乃さんとの関係を、ちゃんと終わらせるべきだと思う」

 

 きっと小町はそんな事を言いたくはないのだろう、苦悩の表情から随分無理をしているのが分かった。

 例え家族であろうと、他人の人間関係に口を出すなんて傲慢だ。けれど彼女もそんな事は覚悟の上だと、その目が言っている。だから取り違えの余地を一切与えずに、主張する、意見する。強い意思をもって介入しているのだ。

 震える声も、肩も、全部誰かを想うが故で、その思念の強さは俺にもしかと届いていた。

 

「雪乃さん、もう三十歳になっちゃうんだよ。お兄ちゃんが手放さないと、雪乃さんはずっと自由になれない。幸せになんか、なれない、よ⋯⋯」

 

 また嗚咽だけが、病室を満たしていた。鼻を啜る音が聞こえる度に、悲しみが雪のようにしんしんと降り積もる。

 

 ──幸せになんか、なれない。

 

 その言葉は果たして未だ見ぬ彼女に向けたものだったのだろうか。太い針のような言葉が、俺の胸に深く刺さって抜けていかない。

 まるで天罰でも受けているような気分だった。けれど罪人にはその罪の大きさを推察する事は出来ても、自覚の一つすらない。

 そんな俺の様子を見ていた小町は、手を握ったまま、懇願するように呟く。

 

「だからお願い、お兄ちゃん⋯⋯」

 

 涙を湛えた小町の瞳には、酷く悲壮な表情を浮かべた俺の顔が映っていた。

 

 

 

 

 小町が病室を後にしてから、俺はずっと携帯に残った婚約者との軌跡を見ていた。

 写真、メッセージ、通話履歴。そのほとんどが雪ノ下雪乃という名前で埋められていて、俺と彼女はとても閉じた関係だったのだと分かる。

 彼女からのメッセージは絵文字も感嘆符もなく一見冷たく見えるが、その言葉の中身自体は柔らかく温かなものだ。言葉の奥にある傾慕も、写真を見ていれば分かってくる。

 そんな彼女を、小町が言うように俺は何度も傷つけて来たのだろう。不可逆で圧倒的な力の前に、彼女や周りの人ばかりが痛みを抱えてきたのだ。

 

 ──トントン、と。ノックの音が病室に響いた。

 どうぞ、と思っていたよりずっと低い声が出ると、からりと静かに音を立てながら扉が開く。そこから姿を表したのは、予想通り雪ノ下雪乃その人だった。

 彼女は俺と目が合うと、はっと息を吸い込んだように見えた。少しだけ早足で近づいてくると、さっきまで小町が腰掛けていた丸椅子に座る。

 

「目が覚めたみたいね。私のことは分かる?」

 

 小町から状況は聞いていないのか、それとも分かっていて聞いているのだろうか。彼女は痛いほどに真剣な目で俺を見詰めてくる。

 

「雪ノ下雪乃さん⋯⋯だよな」

 

 名前を呼んだ瞬間喜びに開かれた瞼が、続く言葉でゆっくりと伏せられていく。期待させたみたいで悪いとは思うが、知らないものを知らないと言っていいほど、楽観的な状況ではなかった。

 

「⋯⋯私のことを、覚えているわけではないのね」

「ああ⋯⋯。悪いんだけど⋯⋯」

 

 彼女はそっと顔を俯かせて、その表情を隠す。その表情が俺を責める事になると思っているのか、悲しみすら秘匿しようとしていた。

 

「いいえ⋯⋯。仕方がないわ。あなたにどうこう出来る問題ではないもの」

 

 そう言って彼女は笑おうとしたが、ちっとも上手く笑えていなくて、こちらまで悲しい気分になってくる。

 本当に、酷い話だ。俺は思い出せないというショックはあるが、記憶の中から居なかった事にされるという憂いを知らない。知りようもなくて、それが今の俺には一番辛かった。

 

「小町さんにはどこまで聞いたの?」

「今回で五度目、ってことは聞いてる」

「そう⋯⋯」

 

 短くそう呟いた声は、諦念に濡れていた。まるで自然災害にでも遭ったかのような、どうしようもないやるせ無さが滲み出ている。

 きっとこんな風に期待して諦めて、何度も繰り返してきたのだろう。きっと良くなると信じて。また忘れ去られてしまうかも知れない恐怖を胸に抱えたまま、ずっと。

 あまりにも、残酷だ。

 神様の仕業だというなら、何故こんな血も涙もない事をするのだと糾弾したいぐらいの所業だった。これじゃまるで、賽の河原ではないか。

 積み上げて、完成したと思った途端に突き崩される。とても生身の人間が耐えられる事じゃない。もしそんな地獄のようなループが終わらせられるとしたら、それは──。

 

「私はあなたがそうやって思い出せなくなる度に、言っている事があるの」

 

 今にも泣き出しそうな目で、彼女は俺を見詰めていた。その視線はまるで俺の中に残っている、過去の俺(・・・・)の残りカスを探しているかのようだった。

 

「私はあなたの婚約者で、それは今この時でも変わっていないわ。あなたにとって会ったばかりの私に、なんの感情もないでしょうけど」

 

 慰めるような、労るような、そんな声。

 その奥にある強い意志も、触れただけで壊れてしまいそうな儚さも、全部を込めて、彼女は言う。

 

「あなたにはもう一度、私のことを好きになってもらうわ」

 

 彼女はそう言い切ると、勝気に笑った。──否、笑おうとした。やはりちっとも彼女は上手に笑えていなくて、瞬きをした瞬間に涙が頬を伝い落ちる。

 嗚呼、どうしてここまで小町の言う通りになってしまうのだろう。せめて彼女の意見が今まで違うなら、別の答えだって出せていたかも知れないのに。けれどそんな考えは責任転嫁でしかなく、俺は決めたばかりの覚悟を発露しなくてはならない。

 ゆっくりと息を吸って、音もなく、絞り出すように吐き出した。俺にその言葉の重みは分からないのに、思わず声が震えてしまいそうになる。それでも俺が口にできる言葉はもう決まっていて、彼女をループから救い出すにはその答えしかなかった。

 

「いや⋯⋯。もう止めておこう」

 

 言った瞬間、刻の律動が止まった気がした。

 互いに見つめ合ったまま、指先ひとつすら動かせられなくなる。浅い呼吸の音が耳に戻ってくると、じわじわと時間は流れ始める。

 

「どう、して⋯⋯?」

 

 さっきまでと違う、(しわが)れた声が疑問を紡ぐ。心底分からないといった様子が、目に焼き付いていくようだった。

 

「多分もう⋯⋯俺は治らないと思う。それにいつまでも付き合わせる訳にいかない」

 

 決別の言葉は、その声音は、あまりにも虚ろだった。自分の言葉であるはずなのに、どこか他人事めいた響きを持っている。

 本当に酷い話だと思う。言われた方はこの上なく傷ついて、言った方はその痛みすら分からない。俺たちにとって迎える結末は同じなのに、決定的にそこだけが違っていた。

 

「雪ノ下さん⋯⋯。俺と別れてくれ。もう俺の回復は、待たなくていい」

 

 そう言い切ると、心も感情も、何もかもが抜け落ちていくような気がした。後に残ったのは空っぽな自分だけ。記憶も愛も、何もかもに別れを告げた、俺だけだ。

 彼女は唇を震わせると、その形のいい口を引き結んだ。痛みに耐えるような表情が、俺の言ってしまった事の重みを伝えてくる。それでもその言葉をなかった事にはできない。

 もう俺も彼女も、どこにも戻れはしないのだろう。メッセージのやり取りのように心を通わせる事も、写真のように頬を寄せ合う事も、きっとない。

 

「あなたは知らないのね。今は当然かも知れないけど、私のこと」

 

 いやいやをするようにかぶりを振ると、彼女は強い意志を瞳に込めていた。何故こうも、彼女は強いのだろう。こんな事を繰り返していたら、とっくに心が壊れていたっておかしくないというのに。

 

「私、負けず嫌いなの。あなたはまた、私の事を忘れてしまうのかも知れない。それでも私は、その運命に抗うわ。絶対に負けたりしない」

 

 その声は涙に濡れて、悲しみに震えていた。目にはまだ力が残っていたけれど、それはまるでぼろぼろの仮面だった。崩れていきそうな内面すらそこには滲み出していて、まるでその役目を果たしていない。

 彼女の意思は、尊ぶべきものだ。ありがたくて、温かで──そしてそれに反するように、現実は冷酷だった。

 

「違うんだよ、雪ノ下さん」

 

 彼女から視線を外すと、俺はゆっくりと頭を振った。

 

「あんたが辛いだけじゃない。俺も辛いんだ。⋯⋯俺のせいで幸せになれる可能性を奪ってしまうのは、俺自身が許せないんだよ」

 

 それが、俺の本心だった。

 小町に言われた事も、もちろんある。けれどその答えを決めたのは俺で、冷酷なのは俺だった。

 この厳しい現実に立ち向かうのは、俺一人でいい。今は痛くても、傷はいつか癒えるだろうと、そう思う。

 叶うならば、彼女の元に本当の幸せを届けられる誰かが現れますように。何年か経って、痛みが懐かしさに変わるぐらいに、彼女の将来が幸福であって欲しい。甚く身勝手だろうが、俺はそう祈る他なかった。

 

「⋯⋯だから、さよならだ」

 

 ぎっ、と丸椅子が軋む音がした。

 立ち上がった彼女を見上げると、その瞳が雫を落としたところだった。

 

「──っ!」

 

 彼女が駆け出すと、勢いよく出入口の扉は開かれ、冷たい空気が吹き込んでくる。

 僅かな音を立てて扉が閉まると静寂は完全なものになって、今度こそ時が本当に止まったような気がした。

 

 力なく下げられた手を、ただ見詰める。その手はきっと、もう誰の手も掴む事はないだろう。

 だから俺はそうやって、いつまでもいつまでも。

 失くしてしまったものの大きさを推し量るように、その手を見詰めていた。

 

 

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