外ではちらちらと、雪が舞っていた。
逃げるように病室を出た時から走りっぱなしだった脚は痛いほどに張っていて、冷たい空気を吸い込みすぎた肺は悲鳴を上げている。
できればもっと、遠くに行きたかった。どこにも誰もいない、そんな場所を見つけたかったのに、生来の体力のなさからそれも叶わず、いつしかとぼとぼと道を歩いている。
傘も差さずに降られるががままになっている私の髪に、雪は悲しみのようにまとわりついていた。いっそこの感情も、同じように溶けてなくなってくれればよかったのに。――そんな事を考えても、自嘲の笑みすら浮かんで出てこない。
やがて見知った公園が見えてくると、私は誘い込まれるようにその敷地に足を踏み入れた。東屋に入ると、腰掛けたベンチは今までになく冷たい。
彼が過去を思い出せなくなるのは、これで五度目だった。
その度に入院した彼に会う前に、若しくは会った後に、この公園に訪れた事がある。ある時は泣きに、ある時は物思いに耽りに。あまりいい思い出のある公園ではないけれど、今日が一番悪い思い出になってしまいそうだった。
東屋の壁に背をあずけて、舞い散る粉雪を見上げる。鼻がつんと冷たくなって、私の視界はまた滲んでいく。
『だから、さよならだ』
その言葉がまた胸に響くと、痛みなんて言葉では表しきれない感覚が広がって、溢れた分だけ涙になって転がり落ちた。ポロポロと惜しげもなく、遠慮もなく、いつまでも零れ落ち続ける。
彼の言葉は、酷く一方的だった。独善的で、自己犠牲に満ちたそのやり方は、出会った頃の彼を彷彿とさせて、その事実ですら私の胸を叩き続けている。
「⋯⋯」
上着のポケットに入れたままの携帯がぶるぶると振動して、本当に胸を叩かれたのかと思った。取り出して画面を見ると、そこには『由比ヶ浜結衣』の名前が表示されている。
いつもなら逡巡すらなく通話ボタンを押しているのに、今日の私はそれができなかった。その声を聞いてしまえば、私はすぐにでもその優しさに縋り付いてしまいそうだったから。
その震えが止むまで、私はそっと目を閉じて待っていた。自分から連絡しておいて、不義理だとは思う。それでも私が彼女に慰められてしまうのは、どうあっても避けるべき事だった。
やがて携帯は、振動を止める。
雪はその粒を大きくして、降り止む事はない。私の中に降ってくる彼の言葉もまた、止んでくれはしない。
冷徹なほどの言葉なのに、私の中の熱はその量も熱さも失っていなかった。むしろ火の中に油を注がれたみたいに、轟々と唸りをあげている。
どれだけ突き放されても、彼を知ってしまっているから、嫌いになどなれるはずもない。それが彼の優しさで、言った彼の方だって何も感じないはずがないのは知っている。
きっと彼の決断は、私の心の痛みを慮っての事だろう。そしてそれは半分正解だ。また思い出せなくなってしまって、心は痛いに決まっている。叫びだしそうなぐらい、ずっとずっと痛い。
けれど半分は不正解だ。彼の口から紡がれる『さよなら』の言葉ほど、私を哀傷させるものはない。これ以上の悲哀など、それこそ死に別れるぐらいしかなかった。
賢人曰く、思考が現実を作り上げると言う。望んだものしか、目の前には起きないのだと。
私は繰り返す痛みから逃げたかったのだろうか。もうこんな思いは二度としたくないと願って、より大きな痛みを呼んでしまったと、そう言うのだろうか。
こんな結末なんて、欠片すらも望んでいなかった。何度忘れ去られようと、諦めるつもりはない。周りから何を言われても、依存だと言われようとも、何も関係ない。
ぶるぶるとまた、手に持ったままだった携帯が振動する。
画面を見ると、着信元は由比ヶ浜さんだった。何度もかかってくるのも当然だろう。また彼が倒れたと連絡されて、彼女だって心配しないはずがない。
「⋯⋯もしもし」
携帯が十回以上振動した後、ようやく私は覚悟を決めて電話をとった。出てきた声は涸れ涸れと言っていい程酷いもので、何とか感情をのせないようにと思っているのに、それすらもできない。こんな声を聞かせてしまったら、また彼女に心配されてしまう。
『ゆきのん⋯⋯』
ああ、やはり。
私の心根に刺さった悲しみは、彼女にまで伝わってしまったのだろう。彼女だけの私の呼び名は、聞いた事もないぐらいにもの悲しい。
『立って。振り返ってみて』
一瞬、その声はどこから出てきたのだろうと思った。一拍だけ遅れて重なる声に振り返ると、そこに彼女の姿はあった。水色の傘を広げた彼女は私に向けて手を振ると、通話を終わらせて東屋に入ってくる。
どうして、ここが分かったのだろうか。思わず立ち上がったけれど、次の言葉が出てこない。
「ねえ」
閉じられたばかりの傘が、彼女の手を離れてぱたんと倒れる。その音が耳に届いた次の瞬間には、私の身体は彼女の腕の中にあった。
どこまでも深く、暖かい。いつの間にか止まっていた涙がまた溢れてしまいそうで、私は瞬きをするのを堪えていた。
しんしんと、雪が舞っている。
彼女は何も言わない。何も話さない。それはまちがいなく彼女の優しさで、それでよかった。ただ口から漏れてしまいそうな嗚咽を止めて、震える身体を抱きとめていてくれるだけで、それだけでよかった。
やがて震えが止まると、彼女はゆっくりと身体を離していく。そして私の顔を正面から見ると、彼女の唇が開く。
「うちにおいでよ。久しぶりに、お泊まり会しよ」
どこか
△ ▽ △ ▽ △
アパートの玄関扉を開けると、誰もいない部屋の中に向かってただいまを言う。
部屋に入ると急いでお風呂にお湯を張って、まずは彼女に入ってもらうことにした。彼女の長い髪は雪に濡れて寒そうだったし、何よりその心の中まで冷え切っているように見えたから。
続いてあたしもお風呂に入ると、二人してパジャマになる。あたしのアパートに置きっぱなしにしていた、彼女のパジャマ。彼女がそれに袖を通すのは、ずいぶん久しぶりだった。ヒッキーがあんなことになっちゃってからは、中々こうして二人きりにはなれなかったからだ。
思えばこうしてずっと黙ったままなのは、流石に初めてかも知れない。いつもならあたしが何かと喋りかけてしまうけれど、今日はそんな気にはなれなかった。
キッチンで紅茶を淹れると、ローテーブルの隣に座っている彼女の前に置く。あたしもクッションを引き寄せて彼女の隣に置くと、ベッドを背もたれにして座った。
こうして彼女に紅茶を淹れるのも、きっと初めてだ。うちにある紅茶はいつも彼女が選んでくれていて、買って来たついでに淹れて貰ってたりしていたから、全然あたしが淹れて出してあげた記憶がなかった。
「ゆきのんに淹れてもらったのと比べたら、あれかも知れないけど」
「⋯⋯いいえ。ありがとう」
ようやく交わした言葉は、そんなぎこちないもので。それでもいいやと、あたしは思った。温かい物を飲んだら、きっと気持ちもほっこりすると思うから。
あたしが先に一口飲むと、彼女はいつもと比べてゆっくりした動きでマグカップを傾けた。不味そうな表情をしていないかな、なんて心配しながら、ちらりと横目で彼女の反応をうかがう。
その瞳も、表情も、まるで氷漬けになったみたいに寂しそうだった。大きな迷い猫を保護したみたい、と言ったら、怒られるかな。
彼女は悲しみの深さの分だけ、いつもより儚く、綺麗に見えた。こんな時に何を考えてるんだって自分でも思うけど、それが正直な感想だった。
できればそんな綺麗さは、見たくなかった。ただただ幸せそうに笑って、びっくりするほど素敵な彼女の笑顔を見ていたかった。彼女の周りの人は、あたしも含めてみんなそう思っていたはずだ。
「⋯⋯話を」
「うん?」
何かを言いかけた彼女は、コップの中で揺れる紅茶を見ていた。彼女はそっとテーブルにマグカップを置くと、あたしの方を見る。
「聞いてもらってもいい?」
「もちろん」
そう言うとあたしも、マグカップをテーブルに置いた。彼女の方から話そうとしてくれたことが、少しだけ嬉しい。そんな思いを込めて、あたしは彼女の手を握った。
「⋯⋯また、彼は全部思い出せなくなってしまったの。これで、五回目」
うん、と小さな声で相槌を打つ。そうなんだろうなと思っていたけど、やっぱり辛い。あたしのことも、彼女のことも、彼の中では全部なかったことになってしまうなんて。
何回経験しても、その事実は胸にじくじくとした痛みを呼んでくる。きっと彼女の感じている痛みに比べたらなんて思うけれど、それで痛みが紛れるわけでもない。
どうして忘れちゃうんだろうって、何度も思った。はじめましてを繰り返して、その度に胸が窮屈になる。けど話したらやっぱり彼は彼でしかなくて、少しだけ安心する。そして彼らしい分だけ⋯⋯切なくなる。
「もう、別れようって言われたの。回復は待たなくてもいいって。そうしないと、私も彼も辛いままだからって」
その言葉の強さに、あたしは思わず彼女の手を握り込んだ。思っていたよりずっと強く握ってしまって、それでも力を緩めることができない。
彼らしい言葉だな、とは思う。けれど、言っていい言葉じゃない。
彼の方だって辛いのは、分かっているつもりだった。幸せだったはずなのに、失くしてしまって。失くしたものがどれだけ大事かすら思い出せなくて、ただ周りの人が悲しんでいる姿を見るしかない。それはとても、辛いことだと思う。
それでもあたしは彼にも彼女にも、幸せを諦めて欲しくなかった。押し付けがましいし、身勝手な考えだ。けどもちろんそれを強要することなんてできないし、するつもりもない。
「そっか⋯⋯」
そう呟いた言葉は、紅茶から立ち上る湯気みたいに、宙に溶けて消えた。
ぼんやり部屋の壁を見つめながら、あたしに何ができるんだろうって考える。たぶん、そんなに多くはない。それでもあたしは彼女にしてあげられることなら、全部したい。
「ゆきのんは、どうしたいの?」
だからあたしは、彼女に向けてそう言った。答えはすぐには、返ってこない。
ゆっくりでもいいよって、そんな気持ちを込めてあたしは彼女の手を握るのをやめると、そっとその手の甲を撫でた。
「⋯⋯分からないの」
小指にできたささくれみたいな声で、彼女はそう答える。あたしは小さく、うん、と頷く。
「彼と離れるなんて、考えられない。⋯⋯けど、どうしたらいいのかも、分からないの」
ぽつりぽつりと溢れる言葉を、あたしはゆっくりと拾い上げていく。
ああ、やっぱり。
何がどうなっても、どんなことが起きても。
あたしは彼女には、彼女にだけは幸せになって欲しい。ならなきゃいけない。彼女がそうならなくて、誰がなるのってぐらい、強く強くそう思った。
彼女の痛みも、気持ちも、あたしには手にとるように分かった。彼女よりずっと前に、あたしの中にあった感情だから。
苦しくて、痛くて、辛くて、──どうしようもなく愛しくて。だからどうしていいか分からなくなる。まちがいも正解も、きっと誰にも分からない。
──けどね、ゆきのん。
「それでいいよ」
そう言ってあたしは、崩れ落ちてしまいそうな彼女の身体を抱きしめた。ちょっとでも力を込めたら折れてしまいそうなぐらい彼女は細くて、どこまでも儚くて、まるで夢の中の登場人物みたいだった。
いいんだよ、それで。
分かるはずなんてない。だってまだ誰も正解に辿りついてなんていないから。ずっとずっと悩んでたっていいし、迷うのが普通なんだから。
懐かしいなって、そう思う。もう十年以上にもなるんだ。あたしと、彼女と、彼の物語は。
ずっとずっと前に、諦めた恋だった。だからその痛みは色褪せていて、どこかぼんやりしていて、それだけ長い時間をかけて思い出になっていたのに。
「ずっと前に、あたしが言ったこと、覚えてる?」
そう聞くと彼女は潤んだ瞳に、おんなじ表情をしたあたしを映していた。
「あたしはね、全部欲しいんだ。本当に、全部」
色を失くしていた思い出が、痛みが、彼女と一緒に歩み寄ってくる気がした。その胸を貫く想いは、本当に泣いてしまうぐらいに、ただただ痛い。
それでも、あたしはもう一度その痛みが欲しかった。それが今彼女の為にできる、ただ一つの事だったから。一緒にそれを受け止めたら、半分になる気がしたから。
「あぁ⋯⋯──」
彼女の吐息が、溢れる。悲しみの声が、漏れる。
だからあたしは我慢しなくていいんだよって、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「う⋯⋯っ。ぁあ、あぁぁ⋯⋯っ!」
そうやって泣いて、泣いて、泣いて。
声がかれてしまうまで、泣き続けて。
あたしは、あたしたちは、初めて本当の親友になれた気がした。