さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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その祈りは届かない。

 規則的な電子音が、微かに聞こえていた。

 身体は未だ夢から覚めやらぬといった調子で、頭も四肢も酷く重い。ゆっくりと目を開くと、カーテンレールを吊り下げた白い天井が見える。視界の端には点滴スタンドと、恐らくは俺のバイタルを示すモニター。

 

「⋯⋯お兄ちゃん?」

 

 その声に、ようやく俺はすぐ近くに人がいる事に気付く。

 ――お兄ちゃん。

 そうだ。俺には妹がいる。けれどその名前を呼ぼうとしても上手くいかない。涙をいっぱいに溜めたその顔を見ても、その名前は浮かんでこなかった。

 

「よかった⋯⋯目が覚めたんだね。小町、本当に心配したんだから⋯⋯本当に⋯⋯っ! うぅ⋯⋯」

 

 そうだ、小町――だったはずだ。俺の妹の名前は。

 嗚咽を漏らし出した小町を見ても、しかしかけるべき言葉が見当たらない。

 そもそも俺は、何故こんな病室のような場所で寝ているのだろう。余りにも自分の置かれた状況が分からない。ベッドから身を起こそうとすると、それを彼女は慌てて止めに入る。

 

「待って! 目が覚めても動かないように、お医者さんから言われてるの」

「ああ⋯⋯」

 

 そう答えると、酷く(しわが)れた声が出た。まるで何日も寝ていた後みたいに、意識も声も感覚すら朧気だ。

 お医者さん、という事はどうやらここは病院で間違いないらしい。どうしてここにいるのかは、未だに判然としなかったが。

 

「ちょっと待っててね。今着替えを取りに行って貰ってるところだから、連絡してくる」

 

 そう言って彼女は、慌ただしく病室を出ていった。着替えを取りに行っている、という事は、母親の事だろうか。それよりも今この状況を詳しく知りたかったのだが、状況を知っているであろう人がいなければそれも叶わない。

 ベッドサイドのモニターに映し出された、俺の心臓が動いている証を見る。状況から分かるのは、バイタルを常時監視しなければいけないほど、重篤な状態にあったらしいという事だ。

 

 モニターを眺めて、かれこれ五分は経っただろうか。唐突に病室の扉が開くと、その向こうから息せき切った様子の女性が入ってくる。

 

 濡れ羽色の長い髪に、蒼い珠玉のような双眸。歳は二十代前半だろうか。鼻目立ちはおよそ完璧と言っていいほど整っており、思わず見惚れてしまう。

 彼女は入ってくる病室を、間違えたのではないかと思った。ドラマの撮影か何かをしていて、誤ってこの部屋に入っただけなのだと。

 

「八幡⋯⋯よかった。本当、に⋯⋯っ」

 

 しかしその女優は確かに俺の名前を呼び、そしてベッドの端に額を押し付け泣き崩れた。その手には、しっかりと俺の手を握って。

 ズキンと一度だけ強く、頭痛が走った。

 何かを失くしてしまったのだという、酷く、圧倒的な喪失感が心に影を落とす。大切にしていたものが確かにそこにあったはずだという感覚だけが、痛いほどの寂寥感を運んでくる。

 

 だけど俺は、彼女を知らない。

 

 これほどまでの美人、一度会ったら忘れないだろう。しかし彼女は、俺を知っている。

 一体なんだというんだ、本当に。壮大なドッキリでも仕掛けられているのだろうか。

 

「雪乃さん⋯⋯」

 

 開けっ放しの扉から小町が入って来ると、そっとその女性に寄り添った。彼女もまたその双眼に涙を溜め、言葉にならない様子で女性の肩を撫でる。

 

「あの⋯⋯」

 

 俺が声をかけると、滂沱(ぼうだ)の涙に瞳を濡らした女性と目が合う。ドッキリなら、大した名演技だ。本当に大切な人を亡くしかけ、帰ってきてくれたような喜びと悲しみに(まみ)れた表情。俺が映画賞の審査員なら、彼女に最大級の賛辞と最優秀賞を贈るだろう。

 

「あんた、誰だ⋯⋯?」

 

 俺の言葉に、二人は目を(みは)った。その表情に俺はいたく居心地が悪くなる。

 

「あなた⋯⋯、婚約者の名前を忘れたの?」

 

 婚約者――。その響きはあまりにも耳慣れていなかったし、俺にそんな人がいれば忘れるはずがない。

 ましてやこれほど綺麗な女性ならばなおさらだ。だから俺を騙すためのドッキリであるはずだし、そうであって欲しい。

 

「お兄ちゃん、本気で言ってるの?」

 

 しかしその声音が、目が、俺のある種楽観的な考えを否定していく。さっきから妙に鼓動は速く、恐れにも似た感覚が背中を奔っていた。

 

「⋯⋯小町さん。まだ手術してそれほど経っていないから、混乱しているのかも知れないわ。先生に目を覚ました事は伝えてある?」

「はい⋯⋯。さっきナースステーションに寄って伝えてます」

 

 その会話が途切れるのを待っていたかのように、トントンと急いだ様子のノックが響いた。小町が「どうぞ」と返事をする前に、慌ただしく看護婦と白衣を来た男性が入ってくる。

 

「比企谷さん、ちょっと失礼しますね」

 

 医者らしき人はモニターを一瞥すると、真剣な顔で俺の目を、全体を見ていく。看護婦は点滴の様子を確かめ、医者の指示の通りにテキパキと手を動かしていた。

 やはりこれはドッキリでも、はたまた夢でもなんでもない現実だ。周りを慌ただしく取り囲む人たちを見て、俺はそう確信を得たのだった──。

 

 

 

 

「クモ膜下出血⋯⋯?」

「名前ぐらいは聞いた事があると思うけど、どんな症状かは知っているかな?」

「確か、脳の中で血管が破裂するとか⋯⋯」

「そう、正しくは血管が動脈瘤(どうみゃくりゅう)という(こぶ)になって、それが破裂する事を言うんだけど⋯⋯。君の年齢で発症するのは、非常に珍しい例だね」

 

 俺の主治医を名乗った白髪の男性は淡々と、しかし穏やかにそう俺に告げた。病室には俺の微かな息遣いと、バイタルを示す電子音だけが流れている。

 

「一般には高血圧が引き金になる事が多いんだけど、自分が血圧高かったかどうか、覚えている?」

「いえ⋯⋯」

「そうか⋯⋯。やはりそういう記憶も、思い出せなくなっているんだね」

 

 先生は電子カルテに何事かを入力しながら、僅かにその表情を暗くさせた。

 信じられないという気持ちも、もちろんある。しかしありとあらゆる出来事は、これは現実に起こった事なのだと、頑然たる事実を突きつけていた。

 

「まあ普段血圧が低くても、血圧サージと言って急激に血圧が上がる症状もあるからね。後は喫煙歴⋯⋯は無かったようだから、ストレスや家族歴、つまり遺伝的な要因だけど、親近者に脳卒中になった事がある人は⋯⋯覚えてないかな」

「はい⋯⋯」

 

 意識がはっきりとしてからも、俺は妹の事や婚約者の事を思い出せていなかった。彼女たちから知人たちの名前や両親の名前を聞いても、さっぱりと何も思い出せない。

 昔の事を思い出すと何があったかはぼんやりと覚えているのに、そこに誰が居たのかが分からないのだ。断片的な記憶の中で顔は白く塗りつぶされ、その人物を思い浮かべようとしても雲を掴むかのように上手くいかなかった。

 

「こんな事、あるんですかね⋯⋯。記憶が失くなるなんて」

「無い、とも言い切れないね。後遺症の一種としてもあるし、君の場合は気を失った時に強く頭を打っているから、外傷性の可能性もある。それと一つ訂正するなら、君は恐らく記憶を失くした訳ではないよ」

 

 そう言うと先生は電子カルテを操作してメモ帳らしきものを立ち上げると、いくつかの丸を書いてそれを線で繋いだ。幾何学模様を切り出したみたいな絵は、ニューロンの説明に使われる物とよく似ていた。

 

「記憶とは、神経同士の結びつきなんだ。結びつきが強ければ強固な記憶となってすぐに思い出せるし、弱ければ中々思い出せない。断定は出来ないけど、君の場合はところどころでその結びつきが弱くなったり、信号のやり取りのエラーが起きている可能性が高い」

「⋯⋯じゃあ、思い出す可能性もあるって事ですね」

 

 俺がそう訊くと、さっきまで饒舌だった先生はすぐに答えてはくれなかった。じっと俺の目を見つめると、短く息を吐く。

 

「可能性としては、否定できない、としか言えない。エピソード記憶の中で、特に人物記憶を中心に症状が出るのは、極めて珍しい」

「珍しい、って事は、過去にあるにはあるんですよね?」

「一応、だけどね」

 

 先生はそう言うと、電子カルテのページを繰った。映し出された画像は、どうやらCTとかMRIで撮影されたものであるらしい。

 

「ここが右側頭葉で、影があるのは分かるね? ここが今回手術した箇所だ。君の言うように人物記憶を無くした症例は過去にもあって、その場合は同じ部位に萎縮が見られた。けれど原発性のものだったし、君の病状とは明確な違いがある」

「⋯⋯つまり、どうなるかは分からない、と」

「そういう事になるね。僕は余り楽観的な言い方はしたくないんだけど、一時的な健忘なら数時間で記憶が戻る事もある」

 

 答えてから先生は、音もなく溜め息をついた。憂うような、言遣方無(いいやるかたな)しと言った表情を浮かべている。その青色の吐息は、暗にその可能性が低い事を示唆していた。

 

「君は、思い出せるようになりたいかね?」

 

 不意に訪れたその問いに、俺はすぐに答えられなかった。医者がそんな事を言い出すなんてという、多少の驚きもある。

 

「それは、⋯⋯分かりません」

 

 答えは『はい』が正解だと分かっているのに。

 俺はそう答える事ができなかった。婚約者だと言った彼女の表情を見れば、どれだけ俺が大切に思われていたのかが分かる。

 だから分からないのは、俺の心の内だ。俺にとって彼女の大切さが、分からない。ただそれが酷く悲しいとも感じている。けれどその感情の出処ですら、元々自分にあったものなのか、それとも世間一般の状況に当てはめてそう感じているのかが分からない。

 

「忘れていた方がいい記憶も、あるのかも知れません」

「⋯⋯ずいぶん正直で悲観的だね」

 

 先生は目を細めて微かに笑うと、丸椅子の上から立ち上がった。

 

「そろそろ回診の時間だから行くよ。何かあれば、コールボタンを押すように」

 

 分かりました、と俺が答えると、先生はうんと一つ頷いて病室を後にした。

 静寂の中に、また電子音が等間隔に響く。

 大変な事になった、という実感だけはあるのに、不思議と焦燥感はなかった。彼女への心持ちと一緒だ。非常事態になったという事だけは分かっているのに、その非常さすらも分からない。

 

 先生が病室を去ってから一分とせず、コンコンと小さなノックの音が入口の扉から聞こえてきた。どうぞ、と答えると、静かに扉は開かれる。

 

「大丈夫?」

 

 ベッドサイドまで来てそう訊いたのは、婚約者の彼女だった。大きな瞳に整った鼻梁。薄桃色の唇。その相貌は愁いの混じった表情の所為で、薄幸の佳人という言葉を連想させた。

 

「⋯⋯ああ」

 

 どう答えるかしばし逡巡し、呟くようにそう答えた。彼女とどう喋ったらいいのか、どう扱っていいのか、未だに決めかねている。

 そしてそっと、何気なく。

 先程病室に入ってきた時と同じように、俺の手は彼女の手に握られていた。その瞬間、とくんと心臓が跳ねる。

 

「あ⋯⋯。ごめんなさい」

 

 びくっと手が反応したのが分かったのだろう。彼女はそう言うと、そっと顔を伏せる。

 もしこの場に謝るべき人間がいるなら、それはきっと俺なのだろう。忘れてはならないはずの人の事を、忘れているのだから。

 

「今のあなたにとってみれば、赤の他人だものね。浅慮だったわ」

「いや⋯⋯」

 

 俺がそう言うと、細長く開けられた目に囚われる。憂愁に彩られたその瞳は取り込まれてしまいそうなほどに澄み、空恐ろしさを感じるほどに美しかった。

 

「私の名前は⋯⋯まだ思い出せない?」

「ああ、悪いんだけど⋯⋯」

「⋯⋯いえ、何も悪くないわ」

 

 彼女はそう言うと「んんっ」と声の調子を確かめる。椅子に座り直すと、俺の方に向けて居住まいを正した。

 

「私の名前は、雪ノ下雪乃。⋯⋯不思議なものね。初めて出会った時は、名乗らなくても私の名前を知っていたのに」

「そう⋯⋯なんだな」

 

 俺が言うと、雪ノ下雪乃は綺麗な笑みを浮かべて頷いた。不意に訪れた笑顔に思わずどきりとして、そして少しだけ安心する。悲しげな表情ばかり浮かべていては、美人が台無しだ。

 

「俺は、その⋯⋯。なんて呼んでいたんだ?」

 

 さっきみたいに「あんた」と呼ぶのにも違和感を感じて、そんなふわっとした質問になってしまう。しかし察しがいいのか、その中途半端な問いにも詰まる事なく彼女は答える。

 

「雪乃、と呼んでいたわ。出来ればこれからも、そう呼んで欲しい」

「えぇ⋯⋯」

「そんなに嫌がらなくてもいいじゃない⋯⋯」

 

 直裁な願いに思わずそう口に出してしまうと、恨めしげな目が俺を捉える。僅かに尖らされた唇が、妙に可愛らしい。

 俺からしてみれば、出会ったばかりの美人さんだ。いきなり名前呼びにしろとか、ちょっとハードルが高すぎやしませんかね⋯⋯。

 

「まあ、無理にとは言わないけれど⋯⋯」

「あ、いや⋯⋯。まあ、⋯⋯雪乃がそれでいいなら」

 

 わざとそう名前を呼ぶと、俺の感じるムズムズした感覚とは裏腹に、雪乃は満足そうな微笑みを浮かべた。やはり華やかな顔立ちのこの子には、笑顔が似合う。

 

「ではそろそろ面会の時間も終わるし、帰るわね。また明日も来るわ」

「ああ。⋯⋯その、ごめんな。雪乃の事、忘れちまうなんて」

 

 俺がそう謝ると、雪乃は一瞬だけ驚いたような表情をした。しかし次の瞬間には、その顔に悪戯っぽい笑みを浮かべる。

 

「⋯⋯気にしなくていいわ。忘れたのなら、思い出してもらうまでよ」

「⋯⋯そうなるといいけどな」

 

 浮かべられた笑みは勝気なものに変わるが、俺には彼女が無理をしていると分かった。何故そう感じたかは分からないが、きっとその感覚だけが彼女との絆の証左だった。

 

「おやすみなさい」

「⋯⋯ああ。おやすみ」

 

 耳馴染みのある言葉だけを部屋に残して、彼女は病室を後にした。

 後に残るのは、途切れることのない電子音だけ。俺はリモコンスイッチで部屋の灯りを落とすと、暗闇に包まれた天井を見詰める。

 本当に今日は、色々ありすぎた。術後というのもあるのだろう。身体はさっきよりも重く感じられ、一人になったのをきっかけに強烈な睡魔が訪れる。

 

 目が覚めたら、俺が忘れ去った全てが思い出せていますように。

 そんな祈りを捧げながら、俺は意識を手放した。

 

 

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