さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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祈りにも似た、彼女の願い。

 手を握っては、開いて。開いては、閉じる。

 何かを掴み取るように。何かがすり抜けていくように。

 

 婚約者を名乗る彼女が去ってから、俺はどういう訳か一睡も出来ずに夜を明かしていた。思い出せる事もなければ反芻する事もないはずのに、延々と自分の言葉と、彼女の言葉を繰り返している。

 

 彼女の涙を見た後から、俺はあの答えしかなかったのかと自問していた。しかし何度それを繰り返しても、あれが最善だったとしか思えない。

 だからもう、そこで考えるのは終わりにすればいいのに。なのに彼女の涙が、どうしても脳裏から離れない。

 妹の小町があれほど真剣に願ったのだから、きっと俺と彼女は深過ぎるほどの関係だったのだろう。だから彼女の痛みは、推察する事しか出来ない。それを思うと、心はいつまでも鋭い痛みを抱えて離せなくなる。

 

 きっと俺はもう、彼女以上の人には出会えないだろう。

 彼女の事を思い出せないのに、ただそう確信していた。見た目の話ではなく、一人の人としての話だ。

 けどそれがきっと、正しい事なのだと思う。誰一人としてもう、俺を懸想すべきじゃない。どこか一人で遠くへ行ってしまおうと、本気でそう考えていた。

 このままではきっと、小町はいつまでもこの悲しみからは逃れられない。それは両親にとっても同じで、家族という絆は海底へと引き摺り下ろす錨にしかならなかった。俺はもう自分の事でこれ以上誰かが傷つくのは、許容できないのだ。

 

 トントン、と、優しくノックの音が室内に響く。

 小町が来たのだろうか。今日は夕方以降にしか来られないと言っていたはずだが、予定が変わったのかも知れない。

 

「どうぞ」

 

 俺がそう返すと、躊躇うような数秒の間の後に扉が開いた。そこに居たのは、またも見知らぬ女性だった。

 

「⋯⋯やっはろー。ヒッキー」

 

 不思議な挨拶だったが、あだ名呼びで俺の知り合いだったのだと分かる。可愛らしい顔にお団子にした髪型がどこか(いとけな)く、俺より年下に見えるが呼び方したら同級生か何かだろう。

 彼女は「ああ」とだけ返した俺を見ながら、ベッドサイドの丸椅子に座る。

 

「あの、悪いんだけど、俺⋯⋯」

「うん、分かってるから。ゆきのんから聞いてるの」

 

 ゆきのん、と言うのは、おそらく俺の元婚約者の事を指しているのだろう。小町から聞いた情報と合わせて考えると、どうやら彼女は俺の同級生で間違いないらしい。

 既に俺たちの事情を聞いているという事は、俺が婚約を――関係を一方的に解消したいと言った事は、もう伝わっているのだろう。そう考えると、少し億劫になる。自ら背負った業とは言え、積極的にその責めを受けたい訳じゃない。

 

「あのさ。よかったら外で話さない?」

 

 彼女はぐるりと室内を見渡すと、窓の方を見ながら言った。この寒いのにわざわざ外に行くとは酔狂だが、こちらもずっと病室に居て鬱屈していたところだから丁度いい。

 俺は「分かった」とだけ言って上着を羽織ると、コートを着たままだった彼女と病室の外に出る。彼女はこの病院に来た事があるのか、勝手知ったる様子で廊下を歩いていく。

 

「そう言えば、まだ名前を言ってなかったね」

 

 彼女は階段の踊り場まで来ると、俺を振り返って言った。確かにまだ、俺は彼女の名前を知らない。

 

「あたしは、由比ヶ浜結衣。ヒッキーが高校生の時の部活仲間? かな。ゆきのんと小町ちゃんも、同じ部活だったんだよ」

「へぇ⋯⋯」

 

 小町からは、そこまで詳しい話は聞いていなかった。だからその話に多少の興味はあるのだが、知ってもあまり意味のない事のようにも思う。

 俺はこれ以上、人と関わって生きていくべきではない。その人と重ねた時間が長ければ長いだけ、濃ければ濃い分だけ失望は大きくなる。それにその思い出に触れても⋯⋯また俺は、思い出せなくなるだけだ。

 中庭に出ると、日陰には薄っすらと雪が積もっていた。昨日雪が降ったのは知っていたが、どうりで冷える訳だった。

 

「小町ちゃんからは、どこまで聞いてる?」

「いや⋯⋯ほとんど何も。置かれてる状況ぐらいしか、知らないんだよ」

 

 前を行く彼女は歩幅を狭めると、俺の隣に並んでそう問いかける。俺が答えると、そっかと小さく頷いた。

 

「奉仕部って部活でね、部室で待ってると、たまに何かを手伝って欲しい人とか、相談したいって人が来るの。知る人ぞ知る何でも屋さんみたいな」

 

 それはまた、妙な部活もあったものだ。その説明から察するにボランティア部みたいなものだろうか。今の俺は奉仕精神を持っているとは言い難いし、ひょっとしたら学生の時は意識高い系にハマっていたのかも知れない。

 

「結構難しいお願いとかもあったけど、ヒッキー、いっつも普通じゃない方法で解決しちゃうんだ」

「普通じゃない⋯⋯?」

「うん。なんでそうなるのって考え方して、けど結局は解決しちゃう」

 

 あまりにぼんやりした言い回しで、当然ながらそれがどんな出来事だったのかは分からない。

 しかし分からないと言えば、それは彼女の言動も同じだ。

 

「なあ」

 

 そう呼ぶと、彼女は俺と目を合わせた。清流を思わせるような澄んだ瞳が、俺と冬の空を映している。

 

「俺はあんたのことを、なんて呼んでたんだ?」

「由比ヶ浜、って。一度だけ『結衣』って呼んでくれたこともあったかな」

 

 懐かしそうに遥か彼方の雲を見上げながら、彼女はそう答えた。どこか超然とした様子はいつまで経っても掴みどころがなくて、だから直裁に訊いてしまいたくなる。

 

「由比ヶ浜は、何をしに来たんだ?」

 

 なるべくフラットに訊いたつもりだったのに、やはりその言葉には言った俺ですら棘を感じる。しかし彼女の方はその問いにもどこ吹く風で、表情を崩さないまま小さく首を傾げた。

 

「どうしてその質問が出てくるの?」

「だって⋯⋯ただの見舞いじゃないんだろ。雪ノ下さんと話した上で、来てるんなら」

「雪ノ下さん、か⋯⋯」

 

 彼女は雪の残った地面に視線を落として、どこか寂しそうにそう言った。少なくとも婚約者だった俺が『雪ノ下さん』と呼んでいたという事はないだろうから、きっと彼女にとっては違和感のある呼び方だろう。

 

「お見舞いに来てるのは確かだよ。ただ目的が何かって言われたら、ちょっと説明が難しいかな」

 

 その言葉の通り、彼女は上手く説明できないようで、顎に手をやったまま暫く黙っていた。

 

「ゆきのんから、事情は聞いたよ。けど、それだけ。あたしはただヒッキーと話したいって、話さなきゃって思ったから来ただけなんだ」

 

 そう言って彼女は俺に、微かな微笑みを向ける。

 彼女の話から察するに、二人は高校の時からの付き合いで、昨日あった事もすぐに共有するような親しい仲であるらしい。言うなれば学生時代からの親友というやつなのだろう。状況からすれば一方的に婚約を解消したいと言った俺に非難を向けてもよさそうなものなのに、そんな様子もない。だからより、彼女が何をしたいのか分からなかった。

 

「よく分からないな」

「うん、あたしもよく分かんない」

 

 たはは、と彼女は笑ってまた空を見上げる。昨日までの雪が嘘みたいな、抜けるような青い空だった。

 それっきり、俺と彼女は黙り込んだ。話しに来たのに黙り込んでしまわれては、こちらとしては対応に困る。

 

「⋯⋯あのさ」

 

 結局その沈黙を破ったのは、俺の方だった。

 

「俺と由比ヶ浜は部活仲間だったって言ってたよな。本当にそれだけか?」

 

 あまりにもあけすけな質問だとは思う。しかしそう問いかけなければ何も分からないし、どこか気持ち悪いのだ。

 人は行動する時、達成したい目的がある。だから彼女が俺と話したいという事は、俺と話す事で何かを得ようとしているという事だ。それが何か。知っても仕方がないというのに、それを明らかにできない事には、どうにも気持ちが落ち着かない。

 

「それだけ⋯⋯じゃないよ。うん⋯⋯」

 

 彼女はそう言って俺を見ると、いたずらっぽく笑う。

 

「昔ね、ヒッキーのこと好きだったんだ。恋愛的な意味でね」

 

 解釈違いの余地を残さないその答えに、俺は再び黙り込むしかなかった。その答えも少しは考えたのが、こうも言い切られるとは思わなかった。

 しかし二人は親友同士で、時期的な話は分からないが同じ男を好きになって、そのまま仲良くなんて出来るものなのだろうか。恋に破れた方が傷心のまま去っていったり、酷い仲違いを起こしてさよならなんて場面しか思い浮かばない。

 

「だから悔しくて来ちゃったのかな。ゆきのんとヒッキーには、絶対に幸せになって欲しかったから。これじゃあたしの為って思われて仕方ないね」

 

 幸せになって欲しい──。

 その言葉は祈りにも似ていて、彼女の瞳はあまりにも純真だった。

 

「⋯⋯凄いな、由比ヶ浜は」

 

 本当に心底、そう思う。どうすればそこまでの境地に辿り着けるのだろうか。

 自分の所為で雪ノ下に幸せになる道を途切れさせたくない俺と、幸せになって欲しいという彼女。その意思は交差する事はあっても、同じ方向を向く事はない。

 ただ根本にあるものは、一緒なのだろう。俺も彼女も、雪ノ下に幸せになる事を諦めて欲しくないのだ。幸せになれる権利を、俺と関わり続ける事で放棄して欲しくない。それが雪ノ下自身が選び取った決断だとしても。

 

「そう、かな。そうなのかも」

 

 彼女はそう言って、どこか疼痛を覚えているような、ひっそりとした笑みを溢す。そのぼんやりとした笑顔は、薄い雲越しに見る満月のようだった。

 

「ヒッキー、一つお願いしていい?」

「お願い⋯⋯?」

「うん、お願い。絶対に叶えて欲しい、お願い」

 

 念押しするような言い方に、俺は少し身構える。そう言われても、俺はいつまた過去を思い出せなくなるのか分かったものではないからだ。

 

「ゆきのんがこれからどうするかは分かんないけど⋯⋯。もし、もしね? またヒッキーと会うことがあったら、また思い出せなくなるかもとかそんな状況は置いといて、ちゃんとゆきのんと向き合って欲しいの」

「それは⋯⋯」

 

 俺を見つめる目が僅かに潤みを増したように見えて、思わず言葉に詰まってしまう。

 それは俺が受けるべき願いではなかった。俺の導き出した答えと、真正面からぶつかる願いだ。だからはっきりとそれは出来ないと告げるべきなのに。

 

 

「⋯⋯お願い。ヒッキーならきっと、叶えられると思うから」

 

 

 ──祈るような彼女の言葉に、俺は何も返せなかった。

 

 

 

 

 数日が経ち、退院の日がやってきた。

 結局精密検査の結果からは、未だに記憶を思い出せなくなった原因は分からないままだ。クモ膜下出血の後と思われる影が変わらずに在り続けているが、それが原因とも言い切れないらしい。

 

 トントン、と病室の扉が叩かれる。

 きっと小町だろう。忙しい両親の代わりに、彼女がこれから暮らす家まで案内してくれる事になっている。

 

「どうぞ」

 

 そう返すと扉は静かに開かれ扉の向こうにいた人物は、俺に微笑みかける。

 ――どこか勝ち気で、とても上手な笑顔で。

 

「迎えに来たわよ」

 

 部屋に入ってきた彼女は――雪ノ下雪乃は、まるで約束を履行するかのようにはっきりとそう言った。

 

「は⋯⋯? なんであんたが⋯⋯」

「だって、あなたの帰る場所は私と住んでいた家しかないじゃない」

 

 さっぱり彼女の言っている事が分からない。俺ははっきりと婚約を解消しようと、関係を終わらせようと伝えたはずだ。

 あまりのショックで、おかしくなってしまったのだろうか? そう思って彼女の顔を覗き込むが、正気としか思えない力強い瞳に迎えられただけだった。

 

「ちゃんと小町さんとあなたのご両親から了承は得ているわ。⋯⋯まあ、小町さんと話した時は喧嘩みたいになって泣かしてしまったけれど。私も泣いてしまったから、お相子ね」

「けど、俺は――」

「悪いけど、あなたに選択肢はないわ。生活道具一式も、全部うちに置いたままよ」

 

 さあ手を取って、とでも言うように、彼女は俺に手を差し出してくる。まるで内気な少女をダンスパーティに誘う、物語の主人公のように。

 

「⋯⋯どうしてそこまでするんだ?」

「前に言ったでしょう。私、負けず嫌いなの。それに⋯⋯」

 

 すっと彼女の視線が、自らの手に落ちる。

 未だ掴む者のいない、差し出されたままの手。何かを掴み取ろうとしている手だ。

 

「やっぱり私はあなたのことが好き。だから、諦めない」

 

 彼女は真っ直ぐに俺を見ると、殊更にはっきりとそう言った。迷いも憂いも見せないその瞳は、朝日のような強さを湛えている。

 ふと由比ヶ浜のお願いを思い出す。ちゃんと彼女と向き合って欲しいという、彼女の願い。

 

「やってること、ほとんど脅迫じゃねぇか⋯⋯」

 

 これが彼女の願いを叶える事になるのかは分からないし、俺にとって正しい事だとも思わない。しかし選択肢を限られてしまった以上、そうする他ないのだろう。一人で生きていくにしたって、一旦の生活基盤は必要だ。

 

「例え一緒に住んだって、答えは変わらないと思うぞ」

「どうかしら。試してみないと、分からないわ」

 

 どこまでも勝ち気に、彼女は俺にそう返す。まるで未来を確信しているかのような、そんな自信に満ちていた。

 

「あなたはきっと、私を好きになる。何度でも」

 

 どこか芝居がかった台詞を、彼女は本気で言っていた。

 さあ、と急かすように、差し出されたままの手が揺れる。しかし俺はその手を取る事なく、ベッドから立ち上がった。

 

「⋯⋯あんたは本気なんだな」

「あんた、は止めて欲しいわね。雪乃と呼び捨てにしてくれて構わないわ」

「⋯⋯いや、俺にそう呼ぶ理由がない。そうだろ、雪ノ下さん(・・・・・)

 

 俺がそう言うと、今日初めて彼女の表情が曇った。彼女にしてみれば酷く他人行儀に聞こえるだろうが、由比ヶ浜との約束を守るなら今この場で彼女を名前呼びはできない。ちゃんと彼女を見てもいないのにそう呼ぶ事は、承伏できないのだ。

 

「そう⋯⋯。でもせめて『雪ノ下』にしてくれないかしら。あなたは出会った時から、呼び捨てだったから」

「⋯⋯ああ、分かった」

「では私も『比企谷くん』に戻そうかしら。出会った時みたいに」

 

 (おど)けた調子の言葉もどこか悲しげで、浮かべた笑みも自嘲のように思えた。けれど彼女が自分の意思を譲らなかったのと同じように、俺にも譲れないものがある。

 

「では改めてよろしくね、比企谷くん」

「⋯⋯こちらこそ、雪ノ下」

 

 そう言った俺たちの間に握手も無ければ、それ以上の言葉もない。

 そして恐らくは⋯⋯明るい未来もまた、ないのだろう。

 

「あなたにまた、名前で呼んで貰えるようになるわ」

 

 けれどそんな事はないとでも言うように、彼女は俺に向けた笑顔の照度を上げた。

 まるで燦然と輝く太陽のように、瞳の奥には火が灯っている。

 

「よく言い切れるな」

「言い切らないといけないのよ。私は嘘をついたりなんかしない。だから現実にする必要があるの」

 

 行きましょうか、と続けて彼女は歩き出す。

 ああ、と呟き俺もその後に続く。

 

 開け放たれた扉から陽の光が差すと同時に、吹き込んできた冷たい空気が頬を撫でていった。

 

 

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