皿を洗っているとふわりと小さなシャボンが飛び、ステンレスのシンクに張り付いて消える。かちゃかちゃと皿同士が音を立て、それはまるで時を刻んでいるようだった。
時刻は午前七時半。
音も香りも、朝食のメニューまでいつも通りの朝だ。スリッパが床を叩く音がダイニングに入ってくると、その音の主は俺に声をかけてくる。
「比企谷くん」
雪ノ下は海外ブランドのスーツをぱりっと着こなし、肩には黒いショルダーバックをかけている。薄っすらと引かれたリップが、彼女の健康的な唇を彩っていた。
「行ってくるわね」
「ああ、気をつけてな」
雪ノ下はそう言って頷き返した俺に目を向けると、どこか悲しげに微笑んでリビングを後にする。開きっぱなしにしていた蛇口を締めると、廊下の向こうからカチャンと微かに玄関の閉まる音が聞こえた。
俺は洗い終えた食器を並べると、手をしっかりと拭いてから書斎へと向かう。これもまた、いつも通りの朝のルーチンだ。
雪ノ下雪乃と暮らし始めて、一ヶ月と少しが過ぎた。
最初は慣れない事ばかりだったが、これだけ一緒に居れば大体の事に慣れてくるし、分かってくる。俺と彼女がどんな生活をしていたか、俺が何を生業に生きてきたのか。少なくない彼女との対話で、ようやく様々な事情が飲み込めていた。
俺の仕事は職業作家らしく、机の上には二冊の長編と、二冊の短編集が並んでいる。本の印税と細々としたコラムでの稼ぎ、それにコンサル企業でそこそこのポジションにいるらしい雪ノ下との収入を合わせると、人並み以上の生活を送る事ができていた。
一見すれば、大抵の人が羨むような生活だとは思う。誰もが振り返るほどの美人との共同生活など、お金で買えるものでもないだろう。
しかしその状況に浮ついていられるほど、現実は楽観的ではない。俺が過去を思い出せくなってからというもの、沈鬱な気分が続いていた。
雪ノ下雪乃は、無理をしている。
彼女に対して抱いた感想を一言で述べるのなら、それに尽きた。
意図して俺に話しかけ、距離を詰めようとする。しかし俺の張った予防線を乗り越えてくる事はない。きっと彼女の中でもここまでと思ったところがあって、そこで踏みとどまっているのだ。
そんな事を繰り返すうちに、雪ノ下の笑顔は徐々にぎこちなくなっていった。ふとした時に見せる表情には哀愁が漂い、ぞっとするほどの美しさを見せたかと思えば、真夜中に彼女の嗚咽で起きる事もあった。
正直、それが一番辛かった。
雪ノ下の悲しみに直面する度に、やはり彼女の申し出を受け入れるべきではなかったと感じる。それでもこの生活を続けているのは、由比ヶ浜のお願いがあったからだ。あの切なる願いがなければ、俺は今頃一人で暮らしていただろう。しかし一旦受け入れた以上は、中途半端な事もできなかった。
しかし、もう既に俺は半端をしてしまっているのかも知れない。一緒に住む事を了承したというのに、彼女の気持ちに素直に答えられているとは言えないだろう。
俺の心持ちは、彼女に別れを告げた時から大きく様変わりした訳ではなかった。やはり俺は、彼女の人生に居続けるべきではないと、そう思う。彼女の魅力を知るほどに、その思いは強くなっていった。
惹かれてはならない、惹きつけてもならない。つまり俺たちは、どこにも行けはしない。
そうして雪のように降り積もった悲しみは、寒々しい場所では溶けもせず、いつまでもそこに在り続ける。この息の詰まるような時間が連綿と続いていく事に、耐えられる気がしなかった。
はぁ、と一つ深い息を吐く。こんな調子じゃ、まともなものが書ける気がしない。請け負ったコラムは、一先ず置いておく事にする。
俺は床に置かれたままのクッションに頭をあずけて寝転ぶと、天井を見上げた。本棚に囲まれた天井は、まるでのっぺらぼうが俺を嘲笑っているように見える。
ふと本棚の方を見ると、下の段の方に見たことのない装丁の本を見つけた。タイトルのない、妙に厳かな雰囲気のある本だ。
気になってその本を手に取ると、俺はクッションに座る。ぱらりとページを開くと、どうやらそれは日記らしかった。
酷く、胸騒ぎがする。その筆致は、間違いなく俺のものだ。
日記帳の最初から、ページを開き直す。止めておけと、心の隅からそんな声が聞こえてくる。しかし読み始めたら最後、俺は時間を忘れてページを繰っていた。
途中で書く事を終えられてしまった日記帳を閉じると、立ち上がって本棚を隈なく探す。他にもタイトルのない本が、まるで隠すように仕舞われていた。先程読み終えた分を含めて三冊の日記帳を手にすると、俺は椅子に座ってそれを読み進める。
それは、愛の記録だった。
過去を思い出せなくなった俺が、いかにして雪ノ下に惹かれていったか。どれだけ彼女の気持ちが大きかったのか、どれほどまでに温かだったか――全て、あまりにも克明に記されていた。
最後にページを捲って白紙が現れた時、そこには出来たての丸い染みが広がっていた。熱い雫は留まる事を知らずに、次々に零れ落ちる。
やはり、止めておくべきだった。
読むべきではなかった。
しゃくり上げるのを止められず、身体の震えはいつまでも止まらない。
まるで何人もの自分に囲まれて、説かれているような気分だった。雪ノ下雪乃が、どれだけ俺にとって大切で必要な人なのか、俺が俺の言葉で伝えてくるのだ。
長い時間をかけて身体の震えを止めると、俺はふらふらと書斎を後にした。せめて気持ちを落ち着けようと、キッチンでコーヒーを淹れる。ブラックのそれにポーションと砂糖を適当に入れると、リビングのソファに座り込んだ。
ゆっくりとそれを飲んでいると、ポケットの中で携帯電話が震える。持ち上げて画面を見ると、テレビを見ろとリマインダーが言っていた。
そう言えば、今日だったか。そう思いながらテレビを付けると、情報番組のMCが溌剌と喋っているところだった。
『続いての話題はこちら! 国内の主要音楽配信サービス全てで一位を獲得したあのアーティストが、ついに東京ドーム単独公演です』
その言葉の後に流れ出した映像の中で、先程の日記の中でも何度か登場した彼女が、ドームの大舞台でバラードを歌い上げていた。画面の端には『一色いろは』のキャプションが映し出され、続いてペンライトを振る大観衆にカメラが向けられる。
今や押しも押されぬ人気アーティストとなった、一色いろは。彼女のデビューのきっかけになったのが、俺の出した本だったと言うのだから驚くばかりだ。
彼女とは一度だけ、雪ノ下を介して会った事がある。今では女優としても一線で活躍する身で忙しいはずなのに、俺の状況を案じて時間を作ってくれたのだ。ただその時間も、テレビでの彼女と現実の彼女のギャップに驚いているうちに終わってしまったが。
『この曲は本当にいいですよねぇ。私もカラオケで練習中です!』
『はい、今流れているこの曲なんですが、初めて一色いろはさん自身が作詞した楽曲という事でも注目を集めていますね。大切な人を想って書いたというツイートで、ファンを驚かせています』
『彼女は今までスキャンダルとかもなかったですから、これは憶測を呼びますね』
出演者たちの言葉の後に、一色の歌声がフェードインしてくる。額に汗を浮かべた彼女は観衆に向かって、あるいはその大切な人に向かって、声を振り絞る。
――思い出なんか 何もいらない
あなたが隣にいないなら いらない
わたしの世界は全部 あなただから
あなたがいない世界なんて
死んでしまってもかまわない──
その歌がフェードアウトしていっても、俺の意識はまだ映像の中に在るような気がした。テレビの出演者たちはもう次の話題に移っていて、俺だけがドームの中に取り残されている。
彼女の歌は、誰の為のものなのだろうか。
誰の為に、あの歌声を響かせたのだろうか。
──思い出なんか、いらない。
本当にその通りだと思った。知らなければ、触れなければよかった。
その大切さに気付いてしまえば、手放し難くなる。その尊さに気付けば、手放さなくてはいけなくなる。
テレビを見詰めたままの俺の頭の中では、いつまでも一色の歌が繰り返されていた。
フォークがサラダボウルの底を突く度に、かちかちと硬質な音を立てていた。いつも通り、二人きりの静かな夕食の時間だ。
食卓を囲む時、俺たちは殊更に言葉を交わさない。それは沈黙を食事という行為で埋められるから、とも言えるのかも知れなかったが、今日は少し違う。
「雪ノ下」
彼女の方も、話しかけられるとは思っていなかったのだろう。少しだけ目を見開くと、一拍置いた後に返事をする。
「なに?」
「今度の休みに、千葉に行かないか?」
「いいけれど⋯⋯。どうして?」
雪ノ下が不思議そうな顔をするのも、無理はないだろう。今まで俺からどこかに行こうと誘う事もなければ、前もって約束して出かけるなんて初めての事だった。
「そこに行けば、思い出せるかも知れないから」
そう言った瞬間、雪ノ下は全ての動きを止めて俺を見ていた。その反応も、想定の範囲内だ。
雪ノ下はフォークを置いて一瞬目を伏せた後、しかと俺を見ながら言う。
「それも昔、試したことがあるの。期待通りの結果にならない可能性の方が高いと思うけれど⋯⋯」
「それでもいい。俺の自己満足みたいなもんだからな」
言いながらパスタをくるりとフォークに巻きつけ、口に入れる。勿論そんなに上手くいくとは思っていない。しかしだからと言って何もしないままでは、俺も彼女も納得できないだろうと思う。
「⋯⋯いいわ。
薄っすらとした笑み混じりの軽口ですら、この状況では空々しくてどこか悲しい。
まるでピエロだ。
泣き笑いながら、誰もその真の顔を知る事はない。だから真似するように笑う俺も、ただのピエロだ。
「デートコースは、任せてもいいか?」
「ええ。私にしか分からないでしょうし」
少しだけその笑顔の温度を上げて、雪ノ下はそう答える。俺は頷きを返すと、もう一度サラダボウルの底を突いた。
かち、かち──と、それはまるで、カウントダウンをするように。
静謐な時間にはまた、フォークと食器が触れ合う音だけが響いていた。