冷たい海風が、防風林の間に作られた散策路を吹き抜けていた。
さざ波の音と一緒に届いたそれは俺と雪ノ下の間を走り、少しだけ熱を奪ってどこかに行ってしまう。
暦の上では春になってしばらく経つというのに、海沿いの道を歩いていると真冬のようにすら感じてくる。そんな気候もあってか、散策路には俺たちの他に二人、老夫婦がゆっくりと歩いているだけだ。日曜日らしくない光景だと思ったが、そもそもここがどんな人出だったかすら、俺は知らない。
今日は先日の約束の通り、雪ノ下と千葉を訪れている。
昼食はサイゼリヤで摂り、午後からはららぽーとやマリンピアを巡った後、俺達が訪れたのはここ稲毛海浜公園だった。そのどれもが俺と雪ノ下にとって所縁のある場所のはずだが、今のところ何かを思い出す兆しはない。
「比企谷くん」
隣を歩いている雪ノ下は、マキシ丈のワンピースの裾を海風にはためかせながら、ふと俺の方を見て言った。コートを羽織ってはいるが、ノーカラーのそれでは首元が寒そうに見える。しかし雪ノ下は寒さに弱い訳ではないのか、その表情は穏やかだ。
「少し疲れたわ。休憩にしない?」
「ああ、そうするか」
思えば昼食を終えてからというもの、ほとんど歩きっぱなしだった。過去を思い出せる可能性がある場所を出来るだけ多く巡ろうと、前のめりになりすぎていたかも知れない。
散策路からそれると、雪ノ下は行く当てでもあるのか迷うことなく歩いていく。海沿いの道を歩いて水門を越えると、何やら洒落た建物が見えてくる。
「飲み物は任せて貰っていい?」
「ああ。じゃあ場所取っとく」
そう言って一緒に店内に入ろうとしたのだが、雪ノ下はそっと俺の前に手を出すとかぶりを振る。
「あそこのソファー席をお願い」
いいけど、と呟きオープンテラスのその席に向かう。何故こんな寒い日に、と思わないでもないが、そこまで明確に指示されてしまっては仕方ない。
ソファに座ってぼんやり建物を眺めていると、雪ノ下はドリンクのカップを両手に持ってやってくる。はい、と手渡されたそれを見ると、タピオカミルクティーであるらしかった。
「珍しいもん頼んだな」
「そうね。まだ売っているなんて、私も驚いたわ」
その口ぶりから察するに、ここもまた彼女との思い出の場所なのだろう。雪ノ下はいつもと比べてだいぶと近い位置に腰を下ろすと、そっと携帯を取り出した。しばらく画面を見ながら何か考えていたかと思うと、急に腕を絡めてくっついてくる。
そしてカシャ、と。
さっきより少しだけ遠くなった波の音に混じって、シャッター音が聞こえた。彼女らしからぬ行動とその俊敏さに、俺はきっと間の抜けた顔をしているだろう。
「⋯⋯これも、昔にやったことか?」
「ええ。あなたはもうちょっと、動揺していたかと思うけど」
雪ノ下はそう言うと、撮ったばかりの写真を俺に見せてくる。予想通りの顔をしている俺の方は置いておくとして、雪ノ下の浮かべた笑みはまるで絵画のようだった。目元も口も笑っているのに、奥に詰まった感情が滲み出している。
「俺と雪ノ下は、いつも写真撮ってたんだな」
俺は自分の携帯に保存されていた、過去の写真を思い浮かべながらそう言った。写真のライブラリには、彼女から送られてきたと
「そうかも知れないわね。特にあなたが、過去を思い出せなくなってからは」
雪ノ下はそう言うと、ストローを口に含んでタピオカを吸い上げた。
彼女が写真を俺に送っていたのは、思い出の共有だけが目的ではないのだろう。
二人で撮った写真を見る事で、何か思い出せるのではないか――。きっとそういった僅かな望みをのせた行動だったのだろうと思う。そんな彼女の想いに触れるたびに、胸の中に疼痛を覚えた。
そして過去にも恐らく、そうしていたのだろうか。雪ノ下はドリンクを飲みながら、そっと、少しだけ身体を俺の方に傾けた。風は吹き抜ける隙間を失って、俺と彼女の頬を撫でていく。
そうしていつまでもずっと、その熱を奪うように。
冷たい風が、俺たちの間を吹き続ける。
稲毛海浜公園を後にすると、あたりは薄闇に包まれていた。太陽は水平線の向こうにその身を沈ませながら、最後の力を振り絞るように海面を照らしている。
ゆっくりと夜の帳が下ろされていく中を、俺たちは駅に向かって歩く。やがて稲毛海岸駅が近づいてくると、雪ノ下は俺の顔を覗き込みながら言った。
「あと一箇所だけ寄って行きたいところがあるのだけど、いい?」
「ああ」
まだそれほど遅い時間でもないし、否やを唱える由もない。高架下をくぐってといくつかの角を曲がると、やがて片側三車線の大きな道が見えてきた。それと交差して陸橋がかかり、自動車専用道の下に歩行者用の通路が通っている。規模感は違うが、構造的にはレインボーブリッジのそれに似ていた。
ゆっくりとスロープを上っていくと、タイヤノイズとエンジン音ばかりが耳につく。太陽はすっかりと水平線の向こうに消え失せ、橙色の残照が空の藍色とグラデーションを描いていた。歩道の先には、まるで此方と彼方を分けるように、陸橋を支える巨大な柱がそびえ立っている。
「ここに来るのは、凄く久しぶり」
歩道の真ん中辺りで立ち止まると、雪ノ下は振り返ってそう言った。懐かしむようなその声から、ここが目的地である事が分かる。
ここもまた、俺と雪ノ下にとって思い入れのある場所なのだろう。通学路か、それともよくここで語り合っていたのか。
しかし、俺がその答えを知る事はない。知ったとしても、仕方がないから。
だから俺は、彼女に終わりの声をかける。
「ここで、最後にしよう」
そう言った俺を、雪ノ下は真っ直ぐに見ていた。俺がここにいるというその光景すら、大切な思い出だと言わんばかりに、浮かべられた微笑みは優しい。
「そうね。今日のところはもう帰って──」
「そうじゃないんだ」
俺がかぶりを振ると、雪ノ下は分からないとでも言うように、顔に疑問符を浮かべた。彼女にとって俺の言葉は、唐突な事に思えるだろう。
しかし終わらせるなら、ここがいいと思った。彼女が最後に選んだ場所だからという訳ではなく、直感がそう言っていた。
真正面から見る雪ノ下の姿が、橋の下を通る車のライトで照らされては薄闇の中へと戻っていく。彼女はただそこに立っているだけなのに、現実離れした美しさを湛えていた。
「もう終わりにしようって、そういう意味で言ったんだ」
言った瞬間、雪ノ下ははっと息を呑んだように見えた。穏やかだった笑みは温度を失い、真意を問い質すような目だけが俺を捉え続けている。
俺にはもう、彼女の時間をこれ以上奪えない。手を尽くしても何も思い出せず、俺たちの先にもう道はなかった。
ひょっとしたら、まだ手はあるのかも知れない。もっと多くの思い出の場所を巡ったり、長い時間をかけて思い出していく可能性だってある。
それでも、何度考えても、俺の結論は変わらない。
これ以上雪ノ下に惹かれる前に離れなければ、また繰り返す事になる。それを自分に許してしまってはいけない。だから終わらせるのは、
「⋯⋯本気で、言っているのね」
「⋯⋯ああ」
雪ノ下の
こんな言葉は、言いたくなかった。
たった一ヶ月と少しの時間でも、彼女がかけがえのない人だという事を知ったから。
誰よりも俺を愛してくれる、大切な人だと知ったから。
けれど、だからこそ、俺は言わなくてはならない。
ごめんな、由比ヶ浜。
お願いをきいた結果が、こんな結論にしかならなくて。
ごめんな、一色。
歌にのせてまで伝えようとした事に、応えられなくて。
それから――。
「雪ノ下。もう別れよう」
――本当にごめんな、雪ノ下。
何度も何度も、お前の事を忘れてしまって。
いつまでも時間を奪い続けてしまって、本当にすまない。
俺の言葉を聞き届けた雪ノ下は、深く息を吐いて肩を下げる。彼女の瞳に映った空から、光が消えた。
もう俺から伝える事は、何もなかった。何を言っても、慰めになどなりはしない。余りにも身勝手な、自己弁護にしかならないだろう。
「比企谷くん」
雪ノ下は一歩、俺に向けて踏み出した。潤いを増した双眼が近くなって、隠しようもない悲しみが歩み寄ってくるようだった。
「もう十年以上になるのね。あなたと過ごした時間は」
昔を懐かしむ声は、必死に震えを止めようとしているように思えた。
雪ノ下の唇が、ゆっくりと言の葉を紡いでいく。鼓膜からしとしとと、胸の中へと悲哀が落ちていく。
「今まで、ありがとう。私と一緒にいてくれて。私にたくさんの、幸せをくれて」
まるで詩でも読み上げるみたいな、穏やかで優しい声だった。けれど思い出を慈しむその言葉は、俺が受け取っていいものじゃない。俺に感謝される資格なんて、ないのだから。
「けれど初めて、嘘をついてしまったわ。またあなたに好きになってもらうって、名前で呼んでもらえるようになるって言ったのに」
「⋯⋯すまない。雪ノ下の気持ちに、応えられなくて」
「⋯⋯いいえ。あなたは謝らなくていいの」
どうして彼女は、こうも優しく、強くあれるのだろう。どうしてこれほどまでに、胸は締め付けられるのだろう。
雪ノ下がまた一歩、こちらに近づく。冷たい風が吹き抜けて、その通り道を塞ぐように彼女は俺の胸に額を押し当てた。溶々とした悲しみが、触れ合った部分から伝わってくる。
「あなたを愛してる。きっと、これからもずっと」
その気持ちに、その哀情に、胸の内側はこれ以上なく狭くなって、声が出なかった。彼女にかけるべき言葉もまた、浮かんでくる事はない。もしもあるのだとしたら、それはきっと最後の言葉だ。
雪ノ下は俺の方を向いたまま、一歩後ろに下がる。そこに在るのは諦念であり、執念でもあり、憶念だった。そんな何もかもを込めて、──彼女は俺に言う。
「さようなら、比企谷くん」
「⋯⋯じゃあな、雪ノ下」
小さくなっていく背中を見送る必要なんて、もう無いはずだった。それでも、彼女の後ろ姿から目が離せない。
──駄目だ。
そんな言葉が、不意に頭に浮かんできた。
──ちがう。
これで合っているはずなのに、こうするべきだとずっと考えてきたのに。
――このままでいいはずがない。
その衝動に突き動かされるように、脚は勝手に前へと送られていく。
──こんなのは、まちがっている。
ただ強く、そんな想いだけが、俺の身体を支配していた。
だから──。
「雪ノ下!」
──その手を、掴む。
瞬間、世界が反転するような、そんな錯覚を覚えた。
脳が痺れ、全身を電流が駆け巡る。どくどくと心臓の音がうるさい。頭に鋭い痛みが走り、思わず俺は雪ノ下の手を握ったまましゃがみ込んだ。
「比企谷、くん⋯⋯?」
存在そのものを忘れ去られ、悲しみにくれる雪乃。
一緒に暮らす事で、綻んでくるその表情。
何度も、本当に何度も思い出せなくなって、その度にかけられた言葉。
その悲壮も、傾慕も、慈眼を濡らした涙の意味も、全部。
──全てが今なら、分かる。
いつかの日に聞いた医者の言葉が、頭の中に呼び起こされた。記憶とは、神経同士の結びつきなのだと。絡め取られ詰まりに詰まっていたものが押し流されるように、次から次へと雪乃との思い出が、愛の記憶が胸の奥に落ちてくる。
「ねえ、大丈夫? ひょっとして、あなたまた⋯⋯」
「いや、違うんだ⋯⋯。
彼女が息を呑む音が、聞こえた気がした。驚きに見開かされた目ですら愛しくて、堪らなくなる。
ずっと、ずっと彼女は俺のそばにいてくれた。
どれだけその胸を痛めようとも、何度思い出せなくなっても諦めずに、ただ俺と共にあろうとしてくれていた。
それがどれほどの事なのか理解をすればするほど、その想いの大きさの前に視界が淡く滲んでいく。今は、今だけはちゃんと雪乃の顔を見ていたいのに、止めどなく溢れた熱いものでそれも叶わない。
「言ったばっかだけど⋯⋯さっきの言葉は取り消させてくれ」
雪乃の手を引くと、くずおれるように彼女は膝をついた。俺はその細く頼りない身体が折れないように、しかし強く抱き締める。
彼女に見せたいのは、涙なんかじゃなかった。
俺が見たいのは、彼女の涙なんかじゃない。
触れた場所から伝わってその温もりと、その源泉たる熱を、俺は知っている。ずっと昔にこの場所で知ったその熱さを、その名前を俺は知っている。
「⋯⋯思い、出したの?」
「ああ。全部⋯⋯全部思い出した」
雪乃の震える声が、肩が、俺の胸の内まで震わせて、涙が止まらなくなる。嗚咽が二つ重なって、泣き濡れた声が俺の名前を呼ぶ。
やはり雪ノ下雪乃に、嘘はつけなかった。
そんな想いを込めて、彼女の名前を呼び返す。胸に灯った熱を彼女に伝えるように、何度も何度もその名前を呼ぶ。
一体どれぐらい、そんな事を繰り返していただろう。
身体の震えが止まると、どちらからともなく立ち上がり、お互いの顔を見る。
なんて美しいのだろうと、心の底からそう思う。
なんて愛しいのだろうと、また溢れそうな涙が言う。
交わす言葉も何もないまま、俺は彼女の肩に手を置いた。そっと伏せられた睫毛の先は、まだ濡れている。その唇もまだ震えているように見えて、俺はそれを止めたかった。
「──」
触れ合った柔らかい部分が、またお互いの熱を伝え合う。抱きしめた身体は、どこまでも温かい。吹き抜けた風は冷たくとも、少しも寒さを感じなかった。
「ねえ、八幡」
唇を離すと、雪乃は俺の腕の中でようやく笑顔を見せてくれる。どこか
「一度、私たちは別れたわけよね? やり直すのなら、それなりの言葉が必要じゃないかしら」
「あー⋯⋯。そう、だな⋯⋯」
言葉は責めるようなのに、どこまでも優しい眼差しが妙にこそばゆい。
ここで言えというのか、彼女は。
けれどここしかないのだろう、きっと。
「どうしたの? 昔あなたがここで言ったこと、忘れてしまった?」
「いや、覚えてるけど⋯⋯」
くすくすと笑みを零す雪乃が余りにも愛らしくて、まだ口づけしたくなる気持ちを必死に抑え込む。
本当にもう、どうしようもない。
どこまでも愛しくて、そんな言葉じゃ収まらなくて。やはりそれを言葉で伝えるなんて、今だって無理だ。
けれどこう言えば、きっと雪乃は分かってくれる。伝えきれない分も全部、彼女の中には既にあるのだろうから。
「大概面倒臭いし、こんな風に回りくどい言い方しかできないけど」
「知ってる」
「たぶん、これからもお前に迷惑をかけると思う」
「それはお互い様ね」
「斜めに構えるのは変わんねぇだろうし、気の利いたことも言えない」
「まあ、いつものことね」
「そこは否定して欲しかったんだよなぁ」
「無茶を言わないでちょうだい」
そこまで言うと、雪乃はふっと吹き出した。堪えきれずに、俺もまた笑う。
ああ、やっとここまで戻ってこられた。こんな風に言葉を、笑みを、気持ち交わして、通わせて。
それがどれだけ幸福な事なのか、俺はもう知っている。全部をかけて、彼女が教えてくれたから。だから俺はもう、決して手放さない。
「俺はお前のいない人生なんて考えられないし、想像もしたくない。俺の残りの人生、全部やる。だからお前の人生も、全部俺にくれ」
「⋯⋯全然、昔言ったことと違うじゃない。本当に記憶が戻ったのかしら」
また
まるであの日のように、国道を行き交う車のライトが彼女の姿を照らす。陸橋を照らす橙色の街灯が、目に染みる。
「けれどあなたの質問が変わったのなら、私も答えを変えないといけないわね」
雪乃は俺の腕の中から抜け出すと、一歩後ろに下がった。
俺の姿を視界いっぱいに捉えるようもう一歩だけ下がると、彼女は言う。
「あなたの人生を、全部貰うわ。けれど代わりに、あなたの欲しいものを全部あげる」
勢いをつけた大きな一歩で、雪乃は俺の胸に飛び込んでくる。
あの日のように猫が甘えるような仕草ではなく、全身で雪乃は俺を抱き締め、俺もまた彼女を抱き返す。
「――だからもう、離さないで」
何度も抱いた背中を引き寄せて、一ミリの隙間も許さないように彼女の身体を抱く。
慈しむように彼女の艷やかな髪を撫でて、風に攫われないようにと押さえつけた。
「離すもんかよ、絶対に」
そうやってずっと、ずっと。
それこそ永遠を誓い合うように。
俺たちはいつまでも互いの存在を、記憶に刻みつけ続けていた──。
ここまでお読み頂きありがとうございました。
この作品のプロットが出来上がってからかれこれ二ヶ月以上書き続けて、ようやくクライマックスと言えるこのシーンまで書くことが出来ました。
次回が最終話となります。是非最後までお付き合いの程を、よろしくお願いします。