大理石の廊下。
背の高い、ダークブラウンの重厚な扉。
どこからか差し込んだ陽の光を足元に受けながら、俺はその扉の前で佇んでいる。
別にその部屋も扉も、今日初めて見るものではない。中の作りだって、今朝入ったばかりだから知っている。
それでも少し緊張してしまうのは、きっとこんな白い服を着ている所為だ。真白なタキシードほど、俺に似合わない服もないだろう。さっきから鏡に映った自分の姿を見る度にそう思うのだから、よっぽどだ。
それでも、いつまでもこうしている訳にはいかない。小町から入って来ても大丈夫だと連絡を受けてから、もう五分は経っていた。
トントン──と、背の高い扉をノックする。分厚い扉は部屋の内外をはっきりと遮断し、部屋の中の様子を伝え漏らす事はない。
「どうぞ」
返ってきたそんな一言が、どこか懐かしい。記憶を探るとすぐにその所以を思いついたけれど、今は状況が違い過ぎていた。
ノブを回して見た目通りに少し重たい扉を押し開けると、部屋に踏み入れた瞬間、淡い光に包まれる。
白を基調としたブライズルームには、カーテン越しの陽光が差していた。アンティーク調の調度品はが並ぶそこは、まるで迎賓館か何かのような佇まいだ。
その厳かな室内に視線を巡らせると、すぐに一番眩しい存在に意識を吸い寄せられる。クラシックなアームチェアに腰掛けたその人は、小町に髪を
「お待たせ。これでもう、私の方もほとんど準備ができたわ」
「ああ⋯⋯」
彼女の──雪ノ下雪乃のウェディングドレス姿を見るのは、今日が初めてだった。衣装合わせの時に、まだ見てほしくないと言われてしまったからだ。
端然とした雪乃の身を包んでいるのは、純白のウエディングドレス。背中側がざっくりと開き、前も鎖骨が見えるほど開いた姿は
詰まるところ写真でしか見た事のなかったウェディングドレスは、カタログのモデルよりもずっと雪乃の方が似合っていて、俺の語彙では伝え切れないほどの絶美を彼女にもたらしていた。
「もー、お兄ちゃん。ああ、じゃなくて、もっと他に言うことあるんじゃないの?」
ブライズメイドよろしく雪乃の髪を梳かしていた小町が、頬を膨らませてそんな事を言ってくる。小町の言う事ももっともだ。しかし、これは──。
「似合ってる⋯⋯なんて言葉じゃ、足りないな。綺麗だって言葉も、陳腐過ぎる」
「はぁ⋯⋯。あなたは記憶を失っている時の方が、素直に褒めてくれていたわよ」
「まあ、これも兄らしいと言ったらそうなんですけどね⋯⋯」
俺のバカ正直なほどの感想に、雪乃と小町は微笑みを交わし合う。
しかし、そんな穏やかな空気が流れたのも束の間。
小町は櫛を動かしていた手を止めると、にわかに口元を抑えた。さっきまで優しい笑みを浮かべていた目が、みるみるうちに涙に濡れていく。
「⋯⋯っ。雪乃さん、本当に⋯⋯っ。綺麗で、うぅ⋯⋯っ。本当に、よかっ、た⋯⋯」
「いやおい、ここで泣くのかよ。フライングし過ぎだろ」
「うるさいっ。だって本当に、嬉しいんだもん⋯⋯っ!」
段々と本気で泣き出した小町を見て、俺と雪乃は密やかに笑みを交わす。
小町には家族として、人一倍心配をかけてきた。
小町も由比ヶ浜も、そして一色も、様々な方面から俺たちに心を配ってくれていた。それがどれだけありがたい事か、今の俺ならば分かる。どうやって返していけばいいか分からないぐらい、俺たちはたくさんのものを貰ってきたのだ。
「ちょっと、外出てきます」
小町はメイクが崩れないようにそっと目元を拭うと、そう言ってブライズルームを後にした。残された俺たちの間に、空白の時間が訪れる。
「小町さん、大丈夫かしら」
「まあ、大丈夫だろ。あいつだってパートナーがいるんだし、後でケアするように言っとく」
「パートナー、ね」
その言い方に思うところがあったのか、雪乃はルージュの引かれた唇でそう呟く。椅子に座ったままの彼女はどこか人形のようで、どこまでも美麗だった。
「私は一時本気で、あなたと結婚できなくてもいいと思っていたの。どんな形でも、そばに居られるのなら、それでいいって」
耳朶を撫でるその声に、俺の胸に懐かしい疼痛が戻ってくる。
あの時の雪乃の気持ちを、俺は知らない。例え言葉で伝えられたとしても、きっと全てを知る事なんてできないだろう。それはどんな場面を切り取ったって一緒で、雪乃もまた俺の気持ちを完全に知り得る事はない。
だけど俺は、俺たちは知りたいと思った。それが完璧な形にならなくとも、どこか歪んでいても、一つも構わない。
いくつも、それこそ気の遠くなるぐらい何度も気持ちを重ねて、分かってくるのだろう。想いの強さが伝わった分だけ、理解出来てくるのだろうと、そう思う。
「でも今は、ちがう。あなたと結婚したいって、心の底から思っているの」
「世界一綺麗な花嫁を、上手に褒められない俺でもか?」
「ええ。そんなあなたがいいの」
雪乃は
「あなたじゃなきゃ、駄目なの」
俺を見上げてくる瞳は吸い込まれそうなほど
透き通るような白い肩に、俺は慈しむように手を置いた。俺の方に向いたまま瞼を下ろした彼女の唇に、柔らかくて熱い部分を押し当てる。たった数秒だけ彼女の熱を感じて、そっと唇を離した。
「誓いのキスまで、我慢できなかった?」
「できるかよ。⋯⋯お前のその姿を見て、できるわけがない」
急に気恥ずかしくなってきて、俺はふいと雪乃から目を逸した。そんな横顔を、雪乃が微笑みながら見詰めてくるのが分かる。
「あなた、私のこと相当好きでしょう」
視界の端に映った雪乃の顔が、からかうような笑みを作る。まったく、そんなの当たり前だろって話だ。
思い出せなくなって、また好きになって、繰り返して。その分だけ気持ちは積み重なって、大きくなる。
きっともう、二人で持ったって持ちきれない。雪乃の方だって大概重たいし、こいつ俺の事好き過ぎだろって思う事がいくらでもある。
だからもう、ただただ気持ちの大きさに圧倒されて、またこんな言い方しかできなくなってしまうのだ。
「昔、言ったことあったよな。言葉じゃ伝え切れないって」
「ええ。一生かけて聞いてあげるって、私は言った」
一生、という言葉は本来、とても長い時間を指して使うものだと思う。しかし俺に取ってみれば、余りにも短い。
どうして、一度きりしか生きられないのだろう。どうして一度きりしか、彼女と一緒に居られないのだろう。
「多分もう、一生かかっても伝えきれない」
「それでも言葉にしないと、伝わらないわ」
いつしか俺の視線は、雪乃の顔に引き戻されていた。期待するような目が、じっとこちらを見ている。
本当、こういうところ変わんねぇな。こいつも、俺も。
こうなったら逃げも隠れもできないし、言うまでしつこく追い回される。正直「好き」とか「愛してる」なんて、雪乃も聞き飽きているぐらいのはずなのに。
けれど、それでも求めるんだろう。
気持ちを象った言の葉を。仕草や表情だけでは伝えきれない、大きく育った気持ちを。
上手く伝える自信はないけれど、しかしこう言えば、少しはまともに伝わるのではないかと思う。
「お前が俺を好きでいてくれるのと同じぐらい好き、って言い方じゃ駄目か?」
「それはもし私があなたのことを思い出せなくなったら、同じことをしてくれるってことでいいのかしら」
「当たり前だろ。俺だって、何回でもやり直す。絶対にお前のことを、諦めない」
「⋯⋯ならその言い方で許してあげる」
そう言って雪乃は、そっと目を閉じる。その髪を撫でながら唇を落とすと、さっきよりも高くなった熱が伝わってきた。
「⋯⋯きっと何回でも、好きになるわ。あなたがそうだったように、私も」
雪乃は目を開けると、花が綻ぶようにふわりと微笑んだ。そんな表情を見せられたら、何度だって唇を重ねたくなってしまう。
けれど、いつまでもそんな甘やかな時間は続かない。
トントン、とノックの音が聞こえると、俺たちは顔を見合わせた。
「そろそろ時間ね」
「ああ」
頷き合うと、扉の方を振り返る。
そして未だ見ぬ扉の向こうの人物に、彼女は応えるのだ。
「どうぞ」
まるで懐かしいあの日のように。
まるで日溜まりのような、あの場所にいるみたいに。
背の高いパイプオルガンと聖歌隊の歌声が、天から降り注いでいる。
囁き一つも許されないような厳かな雰囲気の中、ステンドグラス越しの光を背負い、俺は彼女が現れるのを待っていた。
ヴァージンロードのその先に彼女が見えた時、誰もがその佳麗さに息を呑む。雪乃のウェディングドレス姿はさっき見たばかりだというのに、またも意識の全てを持っていかれてしまう。
雪乃の母親が、彼女のヴェールを下ろす。
彼女の父親が手を引き、雪乃は一歩いっぽを丁寧に送り出す。
やがて雪乃が俺の隣に立つと、彼女の父親からその手を引き継いだ。
祭壇の前に立つと賛美歌が斉唱され、牧師は聖書を朗読する。俺たちの結婚生活の安寧と幸福を、神に祈る。
そして俺に向けて、牧師は尋ねるのだ。
「新郎・八幡さん、あなたはここにいる雪乃さんを、病める時も、健やかなる時も、富める時も、貧しき時も、妻として愛し、敬い──」
牧師はふと視線を、俺から雪乃に移す。
「──二度と忘れないことを誓いますか?」
俺へと戻ってきたその目線には、悪戯心のようなものが浮かんでいた。
はっとして雪乃の方を見ると、彼女もまた驚いたように目を見開いて俺を見ている。
まったく、誰の差し金なんだか。
けれど誰に、どこで訊かれたって、答えは変わらない。
だから殊更にはっきりと、どこかで見ているだろう神様に向けて。
隣に立つたった一人の人に向けて、言う。
「──はい、誓います」
誓いの全てを終えて、雪乃と共に列席者たちに向き直る。
掲げた結婚証明書を、
それぞれの心の
その手に祝福の花びらを持つ人々の間を、ゆっくりと進んでいく。
返しきれないほど温情に
「ゆきのんっ、ヒッキー⋯⋯! おめでとう⋯⋯っ!」
俺と彼女の一番の親友が、涙を堪えながら赤い花びらを撒く。
「おめでとうございまーす! 二人とも、今度コンサート来てくださいねー!」
今をときめくトップアイドルが、ファンサービスさながらに黄色い花を飛ばす。
「「せーの⋯⋯。リア充爆発しろー!」」
恩師と担当編集が、泣きながら白い花びらをぶつけてくる。
自称悪友が、世界の妹が、妹への愛情がねじ曲がった姉が、──俺たちの人生に関わったたくさんの人たちが、祝意の花を天に舞わせる。
こんなに居たんだな。
俺たちと関わりあった人たちは。
こんなに温かかったんだな。
俺たちの周りにいた人たちは。
視界いっぱいのフラワーシャワーが、胸まで満たしていくような気がした。
気遣うように雪乃へと視線を向けると、幸福を絵に描いたような笑みに迎えられる。長い髪に祝福の花びらを纏わせた雪乃の姿を、俺はまた宝物を仕舞い込むように、その記憶に刻み込む。
外に出ると雲ひとつない空から、暖かな陽光が降り注いでいた。
ぞくぞくと教会内から出てくる、略礼服姿の男性陣と、色とりどりに着飾った女性たち。その女性陣に向けて、司会の女性がブーケトスの段取りをアナウンスする。
ブライズメイドからブーケを受け取った雪乃は、その花束に顔を埋めるようにしてちらと俺を見た。たったそれだけの事なのに、思わずドキリと心臓が跳ねる。
なんだよ、こいつ。
そんなやたらと、いじらしい仕草なんかして。
ついでに言えば可愛らしすぎるし、笑顔が眩しすぎる。
それから試すような目が、本当に面倒臭い。
なんで今その表情なんだよ、空気読めよ。
みんな待ってんだから、早くしろよな。
それから。
それから――。
そんなところが全部――愛しくて愛しくて、堪らねぇんだよ。
「ねえ、八幡」
──さようなら、愛しき記憶たち。
「私、今が一番幸せよ」
──おかえり、たった一つの本物よ。
青空にアーチを描いた花束は、太陽の下できらりと強く輝いた。
Fin.
あとがき
最後までお読み頂きありがとうございました。
これにて『さよなら愛しき記憶たち。』完結です。
天啓を授かるようにこの話が降りてきた瞬間から走り初めて、ようやくゴールする事ができました。
さてこの作品を書こうと思った経緯について、少し語らせて下さい。
過去作『まちがった青春をもう一度。(https://syosetu.org/novel/257731/)』を書き終えた後、頂いた評価的にも自身の満足度的にも良い物が書けた自信はあったのですが、少しばかりの心残りがありました。
一つは超常現象ありきの物語になっていた事。
もう一つは話の展開を原作頼り切りにしてしまった事です。
この二つの心残りを解消できる話が書けないかと漠然と思い続けていたところ、この話が降りてきた、という感じです。
なのでこの作品にはもう心残りはありません。
ないのですが、実はまだ続きがあったりします。最終話詐欺ですね。
ここで読了して頂いても結構なのですが、受け取り方によっては映画『インターセプション』的な終わり方にも見えると思います。
それに対してのアンサーを、エピローグとして投稿する予定です。
本当の最後の最後まで、お付き合い頂けたら幸いです。
またよければ感想や評価でフィードバックを頂けると今後の励みになります。
最後までお読み頂き、本当にありがとうございました。