さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

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きっとあなたは好きになる。

 手術を受けてから二週間が経った。

 現実とは薄情なもので、俺の記憶が完全に戻る事はなかった。多少は昔何があったという事を思い出してきたのだが、誰が、という人物の記憶は未だ白い靄に包まれている。

 ただ記憶を取り戻せなくても分かった事は、俺はどうやら非常に周りの人に恵まれていたという事だ。毎日当番でも決まっているかのように、知人や友人を名乗る人たちが代わるがわる俺を見舞いに来てくれていた。

 

『どうしてこんな大切なことを、忘れちゃうの?』

 

 ──流石にお団子頭をしたあの子に泣かれた時は、堪えたけれど。

 

 トントン、と、ノックの音が病室に響く。近頃はその強さとリズムで、彼女だと分かる。

 

「どうぞ」

 

 俺が応えると、静かに扉を開けて雪乃が病室に入ってくる。俺と目が合うと、ふわりと微笑みながら椅子に腰掛けた。

 

「こんばんは。今日の気分はどう?」

「ん⋯⋯。まあ、いつも通りかな」

 

 今日も仕事帰りに寄ってくれたらしく、雪乃は皺一つないスーツに身を包んでいる。俺の顔色を確かめると、肩に掛けた鞄から下着の替えやら日用品やらと取り出し、ベッドサイドのチェストにしまっていく。

 その姿を見る度、献身的だと強く思う。以前彼女は外資系のコンサル企業に務めていると教えてくれたから、毎日こうやって見舞いに来てくれるだけでも大変なはずだ。

 

「今日の先生とのお話は、どんな事を話したの? そろそろ退院の日を決める、と聞いていたけど」

 

 雪乃は持って来たものを仕舞い終わると、椅子に座り直してそう問い掛ける。

 

「ああ。術後の経過は問題ないらしいけど、大事を取ってあと二週間は入院って話になった」

 

 俺の言葉にそう、と頷くと、雪乃はいつになく嬉しそうに笑った。

 医者が言うには、傷病後の経過としては記憶以外全く問題ないらしい。クモ膜下出血は死亡率も高く、感覚障害や運動障害が残る事も多いらしいから、その点では幸運だったと言えるだろう。

 

「退院後の話だけど⋯⋯あなたはどうしたい?」

「どう⋯⋯って?」

「私と一緒に住み続けるか、一度実家に帰るという選択肢もあるわ」

 

 その言葉に、俺は退院後の自分の姿を思い描く。残念ながら、俺は両親の名前ですらその顔を見ても思い出す事は出来なかった。だからいずれにせよ、俺にとって新たに出会った人たちと生活する事になる。

 

「ただ小町さんももう家を出ているし、ご両親は相変わらずお忙しいみたいだから、あなたの世話という面ではあまり変わらないかも知れないけど」

「いやまあ、世話とかは大丈夫なんだが⋯⋯」

 

 リハビリやテストを通じて、俺は意味記憶──つまり知識の記憶や、手続き記憶と言った身体で覚えたものを思い出せるのは確認してある。医者からも日常生活に支障はないだろうと言われているし、そうなると後は俺の選択次第という事になる訳だが。

 

「⋯⋯雪乃は、どう思うんだ? その⋯⋯、俺と一緒に住むって事に対して」

 

 どちらにすべきかは、なんとなく分かっていた。彼女の事を思い出せないなら、思い出せるようになる可能性が高い方を選択すべきだ。

 けれど俺は、彼女の愛した男とは違う。

 積み重ねたものを失った人間は、もう同一人物だとは言えないだろう。一方的に赤の他人になってしまった男と一緒に住む事が、彼女にとって本当にいい事なのかどうか分からなかった。

 

「もちろん、私はまたあなたと一緒に暮らしたいと思っているわ」

「⋯⋯けど俺は、雪乃の知ってる俺じゃないんだぞ」

「ええ。でも私はあなたを知っている」

 

 雪乃は澄んだ瞳で俺を捉えると、(たお)やかに口元を綻ばせた。心臓の根元をきゅっと掴まれたような気分になって、一瞬息をする事すら忘れてしまっていた。

 

「⋯⋯雪乃を好きだって気持ちまで忘れてしまっているんだぞ、俺は。本当にそれでもいいのか?」

「私は、それでも構わない。もし思い出せなくても、また好きになってもらうまでよ」

 

 穏やかな笑みに勝気を混ぜると、雪乃は試すように俺の手を握ってくる。その手の柔らかさと温かさに、また思わずどきりとしてしまう。

 

「私、片想いをするのなんて初めて。どうやって好きになって貰うか考えるの、ちょっと楽しいのよ」

 

 雪乃は笑顔のままそう言ったけれど、俺にはまた彼女が無理をしていると分かった。彼女が一番辛いだろう事も、知っている。

 それでも俺は、思い出す為に彼女の側に居たいと思った。見舞いに来てくれた知人たちの反応を見ていても、そうするべきなのだと分かる。

 俺は記憶だけじゃなくて、そこにあったはずの幸せすら失ってしまった。その幸福が、どれだけ奇跡的だったのか。俺の状況を憂いてくれたお団子頭の彼女が、その涙でもって教えてくれたから──俺はそれを取り戻したい。

 

「⋯⋯いいんだな、本当に」

「ええ。それに思い出せないのなら、あなたを矯正するチャンスだわ。そっちの方が楽しみかも」

「えぇ⋯⋯」

 

 雪乃の目の色が変わったのを見て、俺は怖気が走るのを感じた。断片的な記憶から(ろく)でもない過去や感情があるのは確かだし、自分の性格が真っ直ぐではない事は分かっちゃいるが、⋯⋯この子ちょっと怖い。

 

「安心してちょうだい。悪いようにはしないから」

 

 だからそれが、怖いんだって。

 俺は混じり気の無くなった笑顔を浮かべる彼女を見て、やはり綺麗な人だと、そう思った。

 

 

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