あっという間に二週間が経ち、退院の日がやってきた。
エレベーターの階数表示を示す液晶には十七の数字が映し出され、どこか気品のある電子音が到着を知らせると、音もなく扉は開く。雪乃が先行して歩き出すと、いくつかの扉の前を通り過ぎた後にカードキーを取り出した。ヘアライン仕上げの重厚な扉にそれをかざすと、かちゃっと解錠の音がする。
「久しぶりの我が家ね」
そう言うと雪乃は扉を開けたまま、俺が動き出すのを待っていた。どうやら先に中に入れという事らしい。
玄関に入ってその部屋の中を見渡すが、やはりそこは見覚えのない場所だった。靴を脱いで廊下を歩きながら、間取りを確かめる。3LDKというやつなのだろう。二人で住むには広すぎるし、何より二十五という俺たちの年齢に対して、明らかに豪奢すぎるように思えた。
「トイレはここ。隣は納戸になっているの」
客人に説明するかのようなトーンで話す雪乃は、以前実家は建設業だと話していた。その関係に加えてやたらと給料のいいコンサル業であれば、意外と収入に見合った生活なのかも知れない。
「こっちはバスルーム」
鍵付きの扉を開けて脱衣所を見せると、何故か雪乃はおかしそうな笑みを浮かべている。
「一緒に入りたくなったら、いつでも言ってくれていいわ」
試すような口調に、一瞬言葉を失ってしまう。そんな綺麗な顔して言っていい冗談じゃないな、それは。
「お前な⋯⋯。それ俺からしたら完全に痴女発言なんだけど」
「なっ⋯⋯。ち、じょ⋯⋯」
俺の返しに恥ずかしくなってきたのか、雪乃はそう繰り返すと顔を赤くしていく。やめろよその反応。言ってしまったこっちまで恥ずかしくなるじゃねぇか⋯⋯。
「⋯⋯やはりその意地の悪さは矯正する必要があるわね。今からあなたを躾けるのが楽しみだわ」
少しだけ早口になってそう言い切ると、雪乃はまた廊下を歩き出す。躾って言ったか、こいつ。
この一ヶ月で、雪ノ下雪乃について俺はかなり色々な事が分かってきた。というか、最初に抱いたイメージを段々と壊されてしまった。
当初俺はその見た目から、性格も見目もいい完璧美女などという、中二病の妄想に出て来そうな印象を抱いていた。性格が悪い⋯⋯とは言わないが、揶揄を交えて言うならば『いい性格をしている』のが雪ノ下雪乃だ。
「こっちが、あなたの書斎」
雪乃が扉を開くと、俺は部屋の中を見渡すのに留まらず、そのまま室内に入った。きっと多くの時間を過ごした場所だと思うのだが、やはり記憶を呼び起こすものは何もない。
「あなたの職業は、この前伝えたわね。ここがあなたの仕事場よ」
「ああ」
彼女から伝え聞いた俺の職業。それはノンフィクション作家という、なんとも珍しい職業だった。
曰く、俺が初めて上梓した本が、どこぞの有名な報道文学の賞を受賞したらしい。加えてその本の売れ行きも好調だった事から、取材をする立場から取材を受ける立場になり、忙しくしている最中に倒れた、という事らしかった。
「いつ仕事に復帰するかは、好きにしたらいいわ。しばらくは印税で生活に不自由する事はないでしょうし、いざという時は私が養ってあげる」
「いや⋯⋯、そうならないように頑張る」
俺がそう答えると、雪乃はどうした訳かポカンと口を開けてこちらを見ていた。そして何がおかしいのか、声を押し殺して笑い始める。
「おい。何がそんなに面白いんだよ」
「だって、あなたの口から養われなくていいように頑張るだなんて。あなたは学生の時から、専業主夫になりたいって言っていたのよ」
雪乃は声を出さないように堪えながら、本当におかしそうに笑っていた。専業主夫というキーワードを聞くと、確かにそんな事を言っていたような気がする。未だに誰にむけてそう言ったのかとか、それがいつの事なのかは思い出せないが。
それから我が家の内覧会という奇妙なイベントが終わると、雪乃の作ってくれた夕食に舌鼓を打ち、大人二人が入れそうなバスタブで身体を温めた。もちろん、入ったのは一人でだが。
二十畳以上はあろうかというリビングのソファで、俺は携帯に保存された写真を流し見ていた。病院ではあまり自分に刺激を与えない方がいいと主治医に言われていたから、脳がダイレクトに思い出に触れるような行為を避けていたのだ。
写真は当然のように、見覚えのないものばかりだった。取材で撮ったらしい風景や、時折現れるのは見舞いに来てくれた知人たちの姿。それよりもずっと多いのが俺と雪乃とのツーショット写真や、雪乃だけを切り取った写真だ。
猫を膝に乗せて屈託無く笑う雪乃。
どこかの牧場にいるのか、緑の世界の中でソフトクリーム片手にピースをする雪乃。
彼女を隠し撮りしたのか、後ろ姿や目線がカメラの方に来ていない写真もいくつかある。
そんな生々しい記録を見て、俺は今頃になって失った物の大きさに途方にくれていた。
きっと俺は、この上なく幸福だったのだ。
高校で付き合い始めて、八年もの間一緒に歩み続け、そして婚約して。きっとこれからもっと、幸せになれたのだろう。
けれど俺は、今の状態で雪乃と結婚すべきだとは思わない。彼女が俺を好いたままでいてくれたとしても、やはりそれはすべきではないのだ。
「あら、懐かしい写真を見ているのね」
パジャマに着替えた雪乃は、紅茶を載せたトレイを持ったままそう言った。ガラス張りのテーブルにトレイを置くと、ソーサーを俺の前に置いてくれる。
「これは横浜の中華街に行った時のね。あそこの小籠包、本当に美味しかったわ」
中華料理を前に笑顔を浮かべる雪乃の写真を見ると、彼女はそう言って紅茶を一口飲んだ。俺もカップを取って一口飲むと、淹れたてのはずなのに丁度飲み頃の温度になっていた。
「ねえ、次の写真」
「ああ」
雪乃に言われて画面をスワイプすると、彼女はソファに座り直して俺との距離を詰めた。近い。完全にパーソナルスペースに入っているし、なんなら太ももとか超くっついている。ボディソープとか同じ物を使っているはずなのにいい匂いがするし、スッピンなのに化粧としている時との違いが分からない。本当に二十五歳なんだろうか。ちょっとサバ読んでない?
「ちょっと、何を撮っているの?」
次々に現れる写真に写っていたのは、明らかに隠し撮りしたと思しき雪乃の姿だった。恐らく中華街に遊びに行った際のものなのだろう。限定のパンさんぬいぐるみを手に真剣な表情を浮かべていた。
「いや、俺に言われても⋯⋯」
「⋯⋯そうだったわね」
致し方なし、と雪乃が長く息を吐いたのを合図にして、俺は携帯のスリープボタンを押した。彼女の前で写真を見続けるのは、後々の俺の為にならない気がしたからだ。
「なあ。俺って家にいる時、何をして過ごしてたんだ?」
リビングをぼんやり見ていると、ふとそんな疑問が湧いてきた。そうね、と雪乃は頬に手をやり首を傾ける。そんな一つひとつの所作も、様になっている上に可愛らしい。
「仕事の時は書斎に篭りっきりだったけれど、それ以外はこうやってリビングで寛いでいるのが多かったわ。あとは私の帰りが遅い時は、よく料理をしてくれていたわね」
「なるほど」
だから写真の中に、時々ここのキッチンで作ったらしい料理の写真が出て来たのか。てっきり雪乃が作ってくれたものかと思っていたけれど、基本的に家が仕事場の俺が料理をするのは、それほどおかしな事ではない。
「私と暮らすようになって、ずいぶん上達したのよ。最近では色んな料理に挑戦して、私の舌を楽しませてくれていたわ」
また作ってくれる? と雪乃は小首を傾げながら俺の目を覗き込んでくる。めちゃくちゃ可愛い。俺を落とそうとわざとやっているのかも知れないが、それにしたって可愛すぎる。
「まあ、料理の仕方を覚えてたらな」
「ええ。楽しみにしてるわ」
そう言うとそっと身体を傾けて来て、彼女の体重が俺に預けられる。まるで恋人の距離だ。いや、恋人なのか? 少なくとも婚約を解消していないから、そういう事になるのだろう。
「あとはこうやって⋯⋯くっついていたわね。いつも」
雪乃はくてっと首を倒して俺の肩に頭をのせると、そっと左手を俺の膝の上に置いた。その薬指には、俺の嵌めている物と同じデザインの指輪が光っている。
彼女とのスキンシップも少しは慣れてきたはずなのに、一等近い距離にとくんと心臓が跳ねた。
「こうするのは、嫌?」
「⋯⋯全然」
「あら、意外と素直ね」
横から俺を見詰めてそう訊くと、答えを聞いた雪乃は嬉しそうに笑みを溢した。美人なのに、その笑顔は殺人級に可愛らしい。さっきから俺、可愛いしか考えてねぇな。
「ねえ、私のことが好きになったら、すぐに言ってね」
「すげぇ自信だな⋯⋯」
「当たり前じゃない。だって思い出せなく前のあなたは、私のこと相当好きだったはずよ」
「⋯⋯そりゃ、結婚したくなるぐらいだもんな」
「ええ。⋯⋯それから私も、あなたのことがとても好き」
唐突で直裁な言葉が、平穏を取り戻そうと必死な心に強烈な一撃を叩き込んだ。こんなの一発ノックアウトだ。──けれど微かに残った冷静さが、俺をリングに立ち上がらせる。
「けど俺は、雪乃が知ってる俺じゃない」
「⋯⋯いいえ。あなたはあなたよ。良いところも悪いところも、あなたのまま」
それは恋の
「⋯⋯早いけど、そろそろ寝るかな」
そう言うとソファを立ち上がり、脱衣所に備え付けられた洗面台へ向かう。──何故か雪乃も、ピッタリと寄り添って。
「別に一緒の時間に寝なくてもいいんじゃねぇの」
「いいえ、駄目よ」
雪乃はいつになく強い口調でそう言うと、俺の隣で歯を磨き始める。⋯⋯一体何をお考えなのだ、このお方。
歯磨きを終えて、リビングの照明も消して、そして向かうのは当然ベッドルームだ。キングサイズのベッドが中央にドドンと鎮座する、主寝室である。
「⋯⋯なあ、来客用の布団とか」
「あるけど、駄目よ。あなたはお客さんじゃないもの」
雪乃はベッドに腰掛けると、ぽんぽんとその隣を叩く。仕方なく、俺は雪乃の隣に座った。ほんの少しだけ、間を空けて。
しかしその僅かな
「あなたには、私の抱き枕になってもらいます」
「⋯⋯マジで?」
「はい」
そう厳かに言われたところで、その言葉の指す意味は変わらない。こんな女優ばりの美人ちゃんの抱き枕になるとか、童貞の妄想臭すぎてまるで現実感がない。
「一ヶ月も我慢していたのよ。焦らさないでちょうだい」
ともすると性的な意味を含んでいてもおかしくない言い回しだと感じてしまう俺は頭お花畑ですかそうですか。しかし俺と彼女は婚約者だった訳だから、当然そういう関係にあってもおかしくはない訳だが。
「さあ、寝ましょうか」
雪乃はそう言うとろくすっぽ反応を返せなくなった俺をそのままに、リモコンで照明を落とした。茶色の薄闇の中で雪乃はベッドの中央に身を置くと、また俺を呼ぶようにぽんぽんとシーツを叩いた。
どうやらここいらが年貢の納め時らしい。覚悟を決めて彼女の待つベッドの真ん中まで到達すると、ごろんとベッドに仰向けになった。
「左腕を広げて」
雪乃の言う通りに左手を伸ばすと、腕を枕にして雪乃もベッドに寝転んだ。彼女が掛け布団を引き寄せると、二人分の熱がその中に籠っていく。
「はぁ⋯⋯」
本当に待ち侘びていたのだろう。満足そうに息を吐くと、至福とでも言い出しそうな目で俺を見てくる。
「八幡、緊張してる」
「するだろうよ、そりゃ⋯⋯」
俺の答えに、雪乃はくすくすと笑い出して、その細い身体を揺らした。どうにもさっきから、彼女に心も調子も乱されっぱなしだ。
「なんだか、可愛いわね」
そう言いながら俺の頬を撫でてくる雪乃は、それがどれほどの意味を持つのか分かっているのだろうか。薄闇の中で見る彼女の顔は一層美しく、絵画の中から飛び出してきたかのようにすら感じる。
「あなたには悪いけれど、今夜はぐっすり眠れそうよ」
「⋯⋯そりゃ何よりだな」
こっちはもう、ちっとも眠れそうにない。微かな吐息も、首に回された腕も、脇のあたりに押しつけられたささやかだが確かな柔らかさも、俺から眠気を吹き飛ばすのに充分過ぎた。
「おやすみなさい」
「ああ、⋯⋯おやすみ」
そう言って雪乃は、そっと瞼を閉じる。彼女がそうしてからも、俺はじっとその顔を見ていた。
薄暗闇の中でもよくわかる、透き通るほど白い頬。すっと通った
一体何がどうして、これほどまでに見目麗しい女性と婚約というところまで進めたのだろう。自分の顔に自信がない訳でもないが、それにしても彼女の
俺は頭の中で何度も繰り返したその疑問を、改めて自分に向ける。けれどもちろん分からない。頭の中にあるはずなのに、手を伸ばしても掴めない。
そんなもどかしさを胸に俺は、寝息が聞こえてくるまでずっと彼女の顔を眺めていたのだった。