さよなら愛しき記憶たち。   作:滝 

5 / 24
担当編集、その名は。

 比企谷八幡の朝は早い。

 

 しかし朝と夜の境界というのは、どのように定義付けるべきであろうか。俗説だが寝て起きたら朝、という見方もある。それに則って話をするならば、朝が早い訳ではなく、単に夜が深いだけなのかも知れない。

 詰まるところ、一睡も出来なかった。

 俺の左腕の中にすっぽりと収まるようにして、眠り姫は今も熟睡の最中である。こっちがようやく眠りかけたと思ったら雪乃が寝返りを打って柔らかいやらいい匂いやら色々と振りまくものだから、ちっとも眠れなかったのだ。

 

 携帯を見ると時刻は六時を少し過ぎたところだった。もうここまできたら起きてしまおうと、俺は雪乃を起こさないように左腕を引き抜く。

 

「んんっ⋯⋯」

 

 微かに開いた薄い唇から、少しだけ不機嫌そうな声が漏れた。ベッドに広がる長い髪。伏せられた長い睫毛。あまりにも安らかな寝顔に、思わず見惚れてしまう。

 そうして雪乃が起きるまで見つめ続けるのも一興なのだが、俺には試したい事があった。料理が出来るかどうかだ。一応、入院中に日常生活に必要な作業については出来る事を確認してあるが、流石に料理が出来るかまでは試していない。

 

 寝室を出てキッチンに立つと、パントリーらしき場所の扉を開いて中を見分する。食パンの袋を見つけて取り出すと、冷蔵庫からベーコンと卵を取り出しキッチンのワークトップに並べた。大丈夫だ。何をどうしたらいいかは、覚えている。⋯⋯本当に覚えておくべき事は、思い出せないけど。

 

「おはよう。早いのね」

 

 食パンをトースターに放り込んでベーコンエッグを作っていると、不意にそんな声が届く。パジャマ姿の雪乃は漆のように黒い髪を僅かに外側に跳ねさせ、まだ眠そうな顔を浮かべていた。

 

「⋯⋯誰かさんの寝返りで起こされちまってな」

「あら、それはごめんなさい。でも慣れてもらうしかないわね」

 

 どうやら今夜も眠れない事は半ば確定しているらしい。雪乃は近くまで歩いてくると、ひょいと俺の肩越しにフライパンの中を覗いてくる。朝っぱらから、とても近い。

 

「何を作っているの?」

「ベーコンエッグ」

「あなたが朝ご飯を作ると、大体そうなるわね」

 

 そういうところも変わってないわ、と付け足すと、雪乃は上機嫌に笑う。曙光の中で見る彼女の笑顔は一層神々しく、一瞬女神に微笑まれたのかと勘違いしてしまうぐらいだった。

 雪乃がスーツに着替えてキッチンに戻ってくると、ちょうど全ての料理が出来上がる。ダイニングテーブルを挟んで対面になって座ると、昨晩と同じように「いただきます」と手を合わせた。

 

「いつもこんなに早いのか?」

「いいえ。誰かさんが途中で居なくなったから、目が覚めてしまったの」

 

 当て擦りみたいな事を言うと、雪乃は悪戯っぽく笑んだ後にその小さな口でトーストを食んだ。

 

「そりゃ悪かったな」

「別にいいわよ。フレックスだから、早く出社して早く帰ってきたいし」

 

 なるほど流石外資系⋯⋯と考えたところで、俺はもっと自由なのだと思い出した。フリーランスでかつ基本自宅勤務。時間もほとんど自由だ。まあ、働かねば稼ぎがないのは同じだが。

 

「そう言えば、今日の予定は覚えているわよね?」

「ああ。大丈夫だ」

 

 今日は午後から俺の担当編集というのが来訪予定だ。退院して即行で働かせようとするとか、やはり出版業界はブラック過ぎる。

 

「彼の事も覚えていないでしょうけど⋯⋯。まあ、優しくしてあげてちょうだい」

「ん? ああ⋯⋯了解」

 

 そう言えば入院中に見舞いに来なかったのは、小町が止めていたからだとか言っていたな。何でも刺激が強すぎる人物だからとか、そんな説明を受けた気がする。

 

 朝食を摂り終えて後片付けをしていると、ちょうど身支度を整え終わった雪乃が廊下から顔を出した。

 

「では行ってくるわね」

「おう」

 

 俺はそう返事をすると、洗い物の手を止める。何となく、見送るべきのような気がしたからだ。

 雪乃について玄関まで行くと、ヒールを履いた彼女は俺を振り返る。

 

「いってきます」

「ん。いってらっしゃい」

 

 そう言って雪乃は(おとがい)を上げると、俺の方を向いたまま目を閉じた。

 ⋯⋯なんだこれ、今なんの時間だ?

 

「⋯⋯行かないのか?」

 

 俺がそう言うと雪乃ははっとして目を開き、途端に頬を赤く染め始める。いや、なんなのその反応⋯⋯。

 

「い、行ってきます⋯⋯」

 

 か細い声でもう一度だけそう言うと、今度こそ雪乃は玄関から出て行った。よく分からないが、どうやら俺が彼女を恥ずかしがらせてしまったらしい。その理由は皆目見当もつかなかったが。

 さてではゆっくり睡眠時間を取り返そう⋯⋯と思ったのだが、残念ながら眠気は全くと言っていい程感じていなかった。朝から活動的に動き過ぎたらしい。

 どうしようかと少し考えて、俺はいつもそうしていたと聞いたように、自分の書斎に入った。昨日ちらっとその中を覗いただけで、しっかりと見るのは初めてだった。

 部屋に入ると真向かいの壁に机がくっつけられており、あとの壁という壁は本棚で覆い隠されていた。ピアノの鍵盤のように敷き詰められた本たちに、取材メモと思われる紙束がファイルからはみ出すぐらいに詰め込まれている。

 ノンフィクション作家、か。

 今思い出そうとしても、やはり俺がどうしてその職業を選んだのかが分からない。雪乃が教えてくれた話では、どうやら大学生時代から出版社に出入りし、作家のアシスタント的なものをしていたらしい。

 何気なく椅子に腰掛けて机の上を見ると、一冊の本が目に飛び込んでくる。

 

『太陽の子どもたち』 比企谷八幡

 

 そのタイトルを見た瞬間、なんてしゃらくせぇ題名なんだと鼻で笑ってしまった。たしか童謡にも同じ題名の曲があったような気がするが、それにしたって俺らしくない。いや俺らしさとは何かという話にもなってしまうが、少なくとも俺が捕捉できているこの身の中の人物は、とてもそんな前向きなタイトルを考えつくとは思えなかった。

 俺が薄ぼんやりと思い出せる記憶は中学生時代までの事がほとんどで、まさに暗黒時代とも呼べる代物だ。更に誰が言ったのかを全く覚えてないものだから、悪感情だけしか掘り返す事が出来ない。そんな人間がこんなタイトルを思い付くとは、一体どんな心変わりがあったというのか。

 まあ、ちょうどいい。午後からは担当編集が来る予定だから、自らの過去作を読んでおくに越した事はない。

 目次をざっと流し読みすると、一枚いちまいページを繰り、執筆の時の気持ちを思い出せないか、丁寧にそのセンテンスを追っていく。

 

 本の題材として扱われた人たちは、多種多様だった。

 ワーキングプアと呼ばれる青年に、底辺ギリギリを生きるシングルマザー。自殺未遂の会社経営者に、(ろく)にご飯も食べられない幼少期を送った少女。その過去の話は思わず鼻白んでしまうぐらいに劣悪で、そして生への渇望に満ちていた。

 一気に最後まで読み終えると、酷い疲れが押し寄せて来る。随分と捻くれた物の見方をしている割に、最後は一縷(いちる)の希望を感じさせるように書いているのだけが、書籍としてはまともだったと言えた。

 読者をこれを読み終えて何を感じたのだろう。自分よりも酷い状況にある人を知る救いの無い安心感か、それとも憐憫(れんびん)、あるいは心を引き裂かれるような共感だろうか。

 そして俺は実際にこの登場人物たちに会い、そして文章と向き合い、何を感じていたのだろう。想像するだに恐ろしいほどの精神的重労働だ。医者が原因の可能性の一つと言っていたストレスというのは、実は執筆に纏わる事だったのかも知れない。

 俺はふらふらと書斎を出ると、リビングのソファに身体を投げ出した。これ以上あの本について考えたくない。目を閉じてから泥のような眠りに落ちるまで、それほど時間はかからなかった。

 

 

       *       *       *

 

 

 俺を眠りの世界から現実に引き戻したのは、インターホンの呼び出し音だった。

 気怠い身体を引きずってインターホンのモニターの前まで歩くと、液晶の中でスラックスにYシャツ、ニットのセーターと言った出立ちの男が映っていた。二月だというのにコートも無しに寒くはないのだろうか。まあその体躯が回答なのだろうと思いながらポチポチとタッチモニターを操作していると、通話する方法が分からないままマンションのエントランスの扉が開く。

 彼が雪乃の言っていた、俺の担当編集なのか。そう思いながらぼけっとモニターの前で寝ぼけ眼を擦っていると、今度はドアホンの方のモニターが反応した。早く出ろ、と言わんばかりに、男はモニター越しに俺を見詰めている。

 何となく会話が億劫になって、俺はそのまま玄関に向かうと扉の鍵を開錠した。その途端に、担当編集はバーンと効果音でもついていそうな勢いで扉を開ける。

 

「遅いぞ八幡! 貴様がこの扉を開けるまで、世界を二度滅ぼす程の時間が経ったぞ!」

「お引き取り下さい」

 

 俺はそう言ってその巨躯を押し返すと、バーンと実際に音を立てて扉を閉めた。全く、俺の思い出せない間に日本はどうしてしまったのだろう。やはり俺の担当が厨二病なのはまちがっている。

 

「おーい、八幡? 我、見舞いも断られて久し振りに会える事を楽しみにしてたんですが? いかん思わずデレてしまったではないか照れるから早く開けろ。貴様の担当編集を締め出すとは何事か」

 

 分厚い扉越しに届く言葉に、俺は戦慄を覚えた。俺の担当編集、キャラ濃過ぎるだろ⋯⋯。

 

「⋯⋯どうぞ」

「うむ。最初からそうしていれば良かったものを」

 

 渋々扉を開けると、恰幅のいい男は鷹揚に頷きながら玄関へと入ってくる。この堂々として慣れ切った態度からして、本当に俺の担当編集で間違いないらしい。

 

「あの⋯⋯。悪いんだけど、俺なにも覚えて⋯⋯」

「良い。雪乃女史から聞いておる。邪魔するぞ」

 

 勝手知ったるなんとやらと言った調子で担当編集は家に上がり込むと、脇目も振らずに書斎へと向かった。あの本を出すまでの間、ひょっとしたら何度もあの部屋で打ち合わせをしていたのかも知れない。

 担当編集は書斎の隅にあったクッションを持ってきてどっかと床に座ると、うおっほんと大きく咳払いをした。

 

「しかし何とも薄情なものよ。貴様とは輪廻転生の度に命運を共にする中だと言うのに、生を新たにする以外で我の事を忘れるとはな。今世など高校の時からの付き合いなのだぞ?」

「あ、はい、すいません⋯⋯」

「⋯⋯おい。素で謝るな悲しくなるだろう⋯⋯」

 

 俺が詫びると担当編集は急に素になって肩を落とした。よかった。デフォルトであのキャラなら大分しんどいところだった。

 どうやら彼とは学生時代からの付き合いで、だからこそ通じるノリもあったのだろう。主に厨二なテンションとか。⋯⋯ひょっとして俺もこいつと同じ口調で喋ってたりしたのか? もしそうなら痛過ぎる。

 

「まあいい。自己紹介をやり直せばいいだけだ」

 

 担当編集は胸ポケットから名刺入れを取り出すと、その中から一枚取って俺に渡してくる。

 

「えーっと⋯⋯。材木座さん?」

「他人行儀だな。我の事は剣豪将軍で良い」

「分かった。剣豪将軍」

「⋯⋯すまん、やっぱ今の無しで」

 

 さっきからなんだこいつ⋯⋯。キャラブレブレじゃねぇか。

 つい先ほどまで寝ていたというのに、どっと疲れが押し寄せてくる。そう言えば俺、まだ飯も食ってねぇなぁ⋯⋯。

 

「我の事は材木座でいい。敬語も要らん。旧知の仲だからな」

「ああ。じゃあそうさせて貰う」

 

 俺が答えると、材木座はうむと大袈裟に頷いた。クッションにその巨躯を下ろし直すと、材木座は俺を正視する。

 

「して八幡。貴様、すぐに働く気概はあるか?」

「え? ああ⋯⋯。ぶっちゃけ何が出来るか分からんけど、仕事があるなら」

 

 雪乃は仕事への復帰は好きにしたらいいと言っていたが、恐らく一刻も早く再開すべきなのだろう。そうする事で、思い出す事だってあるかも知れない。

 

「あい分かった。では仕事だ。この記憶喪失の体験を元に、自伝を書くのはどうだ?」

「自伝って⋯⋯。俺、ほとんど過去の事を覚えてないんだぞ?」

「分かっておる。だからこれから起こる事を書き起こしていくのだ」

 

 我が担当編集は相当に商魂逞しいらしく、また遠慮も何も無い。きっと昔からこんな風にざっくばらんに話せる間柄だったのだろう。

 俺のこれからを原稿に起こしていく事は、人生を切り売りする事に他ならない。だがそれを言い出したら俺の取材に対し、心根を明かしてくれたあの登場人物たちはどうなるという話だ。

 

「⋯⋯ネタになりそうなら、そういうのも有りかもな。書きたくない事は書かなきゃいいんだし」

「まあその件はすぐに決断しなくとも良い。とりあえずは、温めていた例の仕事で再出発と行こうではないか」

 

 そう言うと材木座は鞄の中から薄い冊子のような物を取り出し、俺に渡してくる。どうやら企画書のような物らしい。

 

「⋯⋯地下アイドル?」

「左様」

 

 ざっと目を通すと、俺は疑問符を浮かべながらそう言った。アイドルとノンフィクション、確かに相性は悪く無さそうだが。

 

「でもこんなの、誰かがもうやってるだろ」

「確かにな。しかし貴様は賞作家だ。世間の見る目が違う。ついで言うと貴様の穿ったものの見方はもっと違う」

 

 さらっと俺が非常識人扱いされた気がするが、自らの本を読んだ後なので否定も出来なかった。何はともあれ、フリーランスは働かねば食えない。いくら賞を取ったからと言って、仕事を選んでいる場合じゃないだろう。

 

「分かった。やろう」

「良き返事だ」

 

 俺がそう言って手を差し出すと、材木座はがっしりと力強く握手を返す。

 ひょっとしたらこんな風に、学生時代から彼とは協力関係にあったのかも知れない。俺も握手に力を込め返すと、あったかも知れない過去に想いを馳せた。

 

 

 

 

「彼とはどんな話をしたの?」

 

 雪乃は俺の作ったポトフを嚥下すると、フォークにパスタを巻きつかせながらそう訊いた。

 時刻はもう夜の八時。あまりの空腹から自らの手料理にがっついていたいた俺は、口に残ったミートソースを水で流し込んだ。

 

「なんか、地下アイドルを題材に書く事になった」

「アイドル⋯⋯。生身の?」

「どうやったら二次元に取材できるんだよ⋯⋯」

 

 あらやだ雪乃さんったら俺の事をどう思っているのかしら。⋯⋯まあ、動画アプリの履歴に残っていたアニメタイトルを見ると、何も否定出来ないんですが。

 

「近頃はVTuberとか言うのもあるじゃない」

「あー⋯⋯なるほど。中の人に取材するのもありだな」

 

 忘れない内に、と携帯のメモアプリに打ち込んでいると、目の前から大仰な溜め息が届く。

 

「食事の時は携帯を仕舞いなさい。⋯⋯仕事になると、すぐそうなるんだから。やっぱりあなたはあなたのままね」

 

 俺を諌めると、言いながら雪乃は徐々に表情を緩ませた。食事のマナーを指摘されるなんて、まるで子どもだ。

 

「仕事に精を出すのはいいけど、あまりのめり込まないでね。まだ病み上がりと言ってもいいぐらいの時期なんだから」

「あぁ⋯⋯。分かった」

 

 雪乃にそう言われてしまうと、俺は何も言い返せなかった。確かにまた無理をして倒れたのでは、本気で笑えない。

 

「担当編集が無茶をさせようとしていたら言いなさい。あらゆる手を尽くして担当を変えさせるわ」

「怖ぇよ⋯⋯」

 

 君、今朝は彼に優しくするようにって言ってたよね? と疑問の目を向けつつ、雪乃が買ってきてくれたサラダをもしゃもしゃと頬張る。

 それっきり会話が途切れると、回想ついでに今朝の雪乃の姿を思い出した。彼女が玄関に立ち尽くしてしまった時の事だ。

 

「そういや今朝、家を出る時に何を待ってたんだ?」

「⋯⋯」

 

 雪乃はパスタを口に入れようと唇を開けたまま固まると、また今朝のように頬を朱に染め出した。⋯⋯だからなんなの、その反応。

 

「⋯⋯全部思い出したら、分かるわ」

 

 雪乃はパスタを口に入れると、この話は終わりとばかりにそっぽを向いた。

 まあよく分からんけど、可愛いからいいか。

 俺はそんな事を考えながら、ポトフのスープを啜るのだった。

 

 




 はい、という訳であとがき何も書かないのも味気ないので、ここからあとがきを書いてみます。

 今回は材木座さん登場と何かを待っているいる雪乃さんでした。
 材木座は編集者になれるほど優秀なのか? という考察でいくと、やたらと読んでいる作品は多そうなので目は肥えているだろうと思います。なおかつ八幡の捻くれっぷりに理解があるので、八幡の持つ能力を最大限に引き出すんだろうなぁ、と。

 今週はあと一話は投稿しますので、のんびり待って頂けたらと思います。それでは。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。