鍋の中には昆布が一枚、張られた水の中で
昨晩から仕込んでおいたそれを七十度まで上げると、三十分キープ。それから昆布だけを取り出すと、鰹節を入れてコンロの火を強くする。
由比ヶ浜に背中を押して貰ってから幾ばくかの時間が流れ、もう夏の足音が聞こえてくる時分になった。今日も今日とて家で仕事をしていた俺は、もう間も無く帰ってくる雪乃の為に夕食を作っている。
今日のメニューは蕎麦だ。何も出汁から取らなくても、つゆの素を使って美味しく出来るのは分かっていた。しかし料理に没頭している時間も嫌いではないから、こうして敢えて時間をかけて作る事がある。
あれから俺も、色々と考えてきた。彼女と正しく向き合うとは、どういう事か。本当にすべき事は、何なのか。
こうして手間暇をかけて料理する事も、その答えの一つだ。丁寧に、時間をかけた分だけ料理は美味しくなってくれる。気持ちを込めた分だけ彼女の舌を楽しませ、癒しを与えられるのだと信じている。
「ただいま」
ちょうど蕎麦を茹でているところに、スーツ姿の雪乃が帰ってくる。帰る時間はラインで聞いていたから、タイミングはばっちりだ。
「おかえり。もうすぐ出来るぞ」
「ええ、ありがとう」
雪乃は肩越しにすんすんと匂いを嗅ぐと、いい香りねと呟いてから自室に向かった。彼女が私服に着替えて席に着くと同時に、鮎の甘露煮と錦糸卵、ねぎののった蕎麦が着丼する。
「本当にいい香りね。美味しそう」
「出汁取るところから作ったからな。美味いぞ」
そう言って二人で手を合わせ、いただきますと声を揃える。
食事の最中は、あまり喋らない。料理の感想ぐらいは言うが、基本的には静かな食卓だ。余程特別な事がない限り多くは語らないが、そんな沈黙も悪くないし、気詰まりだと感じる事もない。
しかし今日ばかりは、俺はいい加減言い出さなくてはならない事がある。それが蕎麦を啜りながらなのが正しいのか、それとも風呂に入ってゆっくりした後の方がいいのかは分からない。ただちょっと気まずい感じになったりおかしな空気になったとしても、食事をしているという事実が多少は緩和してくれるのではないだろうか。そう考えて俺は、雪乃が蕎麦を嚥下したのを見計らって声をかけた。
「今度の休みなんだが」
「ええ」
ちらり、と碧玉を思わせる
「その、⋯⋯デート、しないか?」
俺の言葉に雪乃はその大きなお目目を更に大きくさせると、しかし次の瞬間には優しく細められる。とても綺麗な笑みが、湯気の向こうから俺に向けられていた。
「もちろんいいわよ。⋯⋯あなたとのデートを断る訳がないわ」
てっきりデートという言葉を揶揄されるかと思ったが、雪乃はただ真正面からその言葉を受け止めてくれていた。それに少しだけ安心する。
「それで行き先なんだが」
「ええ」
俺の言葉の続きを促すと言うよりは食い気味に、雪乃は返事を挟む。その顔にはわくわくを隠せないとでも言うように、無邪気な微笑みが浮かんでいた。
「分かっているわ。もし違っていても、行き先を訂正したらいいのよ」
雪乃はそう言うとちゅるっと蕎麦を一口食べた後に、妙に得意げな顔になった。あまり見ない表情に、思わずドキッとしてしまう。俺も彼女に合わせて口に含んだ蕎麦を嚥下すると、それを待っていたように雪乃は告げる。
「私たち元千葉県民のデートの行き先は、決まっているもの」
デート、というのはそれすなわち、一般的には男女で行くものであり、その親睦を目的とするのが共通認識でいいだろう。稀に女同士、親子、はたまた男同士でも使う可能性もあるが、やはり目的が変わる事はない。
電車を乗り継ぎおよそ一時間。
故郷である千葉の地を踏んだ俺たちは、そのファンシーでメルヘンでドリーミンな世界の中に居た。千葉県民のデートと言えばそう、ディスティニーランドである。当然ながら入場して即行で『パンさんのバンブーファイト』のファストパスは取得済みだ。
しかし、それにしてもである。
白亜の城の裾野。タペストリーの旗めく広場は、人でごった返していた。過ごし易い季節の上に日曜日なのだから当然と言えばそうなのだが、東京の人ごみに慣れた俺でもこれには辟易してしまう。
「人多い⋯⋯帰りたくなってきた⋯⋯」
「はぁ⋯⋯。そういう部分も本当に昔から変わらないから安心はするのだけど⋯⋯。流石に次言ったら、怒るわよ」
冷ややかな視線を向けられ、俺は小声早口で「あ、はい、さーせん」と態度を正した。いけないわ八幡。すぐ本音が
「デートなんだから、人が多いぐらい我慢なさい。私だって得意じゃないんだから」
「うい⋯⋯」
何故かフランス語で返してしまったが、しかしこれはそう、デートなのだ。馬鹿な事を言っている場合ではない。
雪乃と買い物に出かけたりとか、食事に行く事は今までもあった。けれどデートと称し、エンターテインメントを楽しむのを目的に出かけるのは今回が初めてだ。今の俺にとって、雪乃との初デートだと言ってもいいだろう。
「さて、じゃあまずはショップに行きましょうか」
「え⋯⋯なんでショップ?」
ショップなんていう物は、大半は土産物を買う為に立ち寄るところだ。まだランド内に入ったばかりだから、向かうには早過ぎる。
「だって前に買った物は、くたびれて捨ててしまったし」
そうとだけ言うと、雪乃は一切の迷いもなくショップへと歩き始める。理由はよく分からないが、雪乃も元千葉県民として一家言あるのだろう。目的のショップまで歩いて行くと、まだ開場直後という事もあってガラガラと言っていいぐらいの店内に入った。
「はい、あなたの分」
「⋯⋯はい?」
そう言って雪乃が渡して来たのは、パンさん耳のカチューシャである。彼女はもう一つパンさん耳を手に取ると、すちゃっと自らの頭に装着する。クソ可愛い。英語で言えばファッキンキュートだ。しかしこれ、俺がつけたら絶対残念な事になるに決まっている。
「つけてみて」
「いやでございます」
「なぜ。前もつけていたでしょう」
「記憶にございません」
だって八幡思い出せないんだもーんと事実を元に完全拒否モードに入っていると、雪乃は短く溜め息をついて携帯をシュシュっと軽やかにスワイプした。程なくして目的のものを見つけたのか、表示された写真を俺に見せてくる。
「ほら。高校の時からこうしていたんだし、別にいいでしょう?」
雪乃がそう言って見せてくれたのは、制服に身を包んだ俺たちの自撮り写真だった。雪乃の頭にはもちろん、俺の頭にもしっかりとパンさん耳が装着されている。
しかし、え、これ、マジか。マジなのか。
高校生の雪乃さん、激マブ超可愛スーパーキュートなんですが? 残念な俺の姿などどうでもいい。天使だ。天使が携帯に閉じ込められているぞ助けなきゃ!
「⋯⋯今、高校の時の私の方が可愛いと思ったでしょう」
思わず雪乃だけ拡大して画面を凝視していると、呆れたような声が届いた。しかし、それは事実と違う。
「いやはちゃめちゃに可愛いとは思ったけど、今の雪乃も可愛いしとんでもなく綺麗だぞ。美人過ぎてドン引きするまである」
若干早口になりながらそう言うと、段々と雪乃の頬が朱に染まってくる。えぇ⋯⋯なにその反応。絶対間違った事は言ってないはずなのに。
「そ、そう⋯⋯。ありがとう⋯⋯」
ぽしょぽしょとそう呟くと、雪乃さん改め照れノ下さんは頭につけたパンさん耳を外す。瞬間、しまったと思った。まだ写真を撮っていないではないか。
「ほら、買うわよ」
ああでも、そうですか。
二つ買うのは、確定なんですね。
二人してパンさん耳をつけて、ランド内をゆるゆると歩いていく。
すでに『パンさんのバンブーファイト』は乗り終え、二度目のファストパスも取得してある。それにしても雪乃さん、本当にパンさん好きですね。
激込みのレストランやら長蛇の列に疲弊して時折り休みながら楽しんでいると、もう辺りは暗くなり始めていた。深遠な青と燃えるような赤の境界を背景に、白亜の城はライトアップされ燦然と輝いている。
「次はあれに乗りましょう」
そう言って雪乃が指さしたのは、スプライドマウンテンだ。相変わらずそこそこ待たされそうだが、次のバンブーファイトまでの待ち時間を考えると丁度いい。
列に並んで暫くすると、隣に立つ雪乃はちょいちょいと俺の袖を引いてくる。
「私たち、ここに来るといつも最後の方にここに並ぶのよ」
「ほう⋯⋯」
なるほど、これが俺と彼女の鉄板コースというやつらしい。千葉県民はやたらとランドやシーの巡り方にこだわりがあるから、特別な話ではなくむしろ当然と言えるだろう。
一定のペースで列が進んでいくと、表示されていた待ち時間よりも十分ほど早く乗り場である最前列までやってくる。ライドは人々と興奮を乗せて帰って来ると、名残惜しむ暇も与えず乗客を吐き出した。入れ替わりでライドの座席に座ってセーフティーバーが下されると、がたこんと僅かに揺れながらライドは発進する。
「懐かしいわ」
しみじみと、遥か遠くの昔を思い出すような声が、ライドと同じ速度で紡がれる。そんな感傷なんてお構いなしに、キャラクターたちは水飛沫を上げながら登場と退場を繰り返す。
「初めてあなたとこれに乗った時に、私はあなたに言ったの」
水上を滑るライドの上で、雪乃は俺を真っ直ぐに見ていた。バーを握る手は、少しだけ力が入っているように見える。
「いつか、私を助けてねって。⋯⋯それからたくさん、助けてもらったわ」
バーを握り込んだ左手の指輪が、その華奢な耳につけられたフープ形のイヤリングが、明滅する光に照らされてキラリと光った。雪乃は左手をバーから離して俺に伸ばすと、早く、と言わんばかりに目で語る。
まったく、情けない。こうまでして貰わないと、俺は彼女の手すら握れないのか。
「だから今度は、私があなたを助ける番ね」
俺が雪乃の手を握ると、彼女は気高く、しかし儚げな微笑みを浮かべた。ライドはトンネルの中に入り、途端に辺りは薄暗くなる。その人口の洞窟の先には、さっきよりも煌々と照らされた白亜の城と、どこかノスタルジックな暖色の光たち。
「あなたの事が好きだから。絶対に手を離したりなんてしないわ」
ライドは頂点に達すると、僅かにその速度を速めた。
結局俺は、言葉も何も返す事が出来ないまま。
眩い光に照らされて、どこまでもどこまでも落ち続ける。
「お待たせ」
スプライドマウンテンの外に出て柵に身体をもたれさせていると、細長いビニール袋を手に雪乃が戻って来た。先に出ていてと言われて待っていたのだが、何か買い物でもしていたらしい。
「おう」
そう答えると、柵から身体を離して歩き始める。ちらほらとパレードの場所取りに向かう人たちも見えるが、とりあえずはパンさんだ。ファストパスも取ってあるし、本日二度目だったが雪乃の希望とあらば迷う余地もない。
並んで歩いていると、街灯にちらちらと照らされる度に、雪乃の顔が横目に入ってくる。
本当に、綺麗な子だと思う。今日だって、何人彼女を振り返って見ていたか分からない。
だから少しだけ、緊張する。
そうする事を暗に許されていると知っていても、俺からそうするのはきっと持つ意味が違うから。
「⋯⋯」
そっとチノパンで手のひらの汗を拭うと、雪乃の左手を取った。今度は、俺から。
雪乃は一瞬はっとして目を開いたが、次の瞬間には嬉しそうに目尻を下げていた。
「大きな進歩ね」
「⋯⋯やっぱ手、離していいか」
「だめ」
妙に
「さっき、離さないって言ったばかりじゃない」
「でしたね⋯⋯」
いいのだろうかと、未だに思う。
触れる事を許されてしまって、彼女の気持ちをそのまま受け取ってしまって、それが本当に正しいのか、分からない。
それでも俺は、一歩踏み出した。自らの意思でそうする事が出来たのは、彼女の言う通り進歩だと思う。
俺はそっと、繋がれた手に力を込めた。
雪乃は前を向いたまま、同じ強さで握り返す。
その手の熱さはしっかり俺の胸の真ん中まで届いて、冷めないカイロみたいに心を温め続けていた。
以上、ディスティニーデートの回でした。
あんまり関係無いのですが、俺ガイル原作では「ディスティニー」と書かれていたり「ディスティニィー」とも書かれたりするんですが、どっちが正解なんでしょうね。
結衣に後押しされて、一歩を踏み出せた八幡の今後の展開にご注目下さい。