走ることしか考えていないスズカのおはなし。 作:サイレンススズカ専属トレーナー
「……スズカ。迎えに来たぞ」
「エアグルーヴ。よくここが解ったわね」
かつて、私はサイレンススズカというウマ娘に憧れていた。
誰よりも自由で、楽しそうに走る姿に。それでいて腹立たしいほどに私より速く、強かった。どれだけ鍛えても、ついぞ私は奴に一度も勝てていない。女帝だと自他ともに称していても、逃亡者一人捕まえることが出来なかった。
彼女は私の憧れだ。私も一人のウマ娘で、決して頂点ではない。ある意味では幸運なくらいに高く立ち塞がる、終生のライバルだと、私はそう思っていた。
「たわけ。お前がここ以外にいた試しががあったか?」
「……そうだったかしら……? そうかも……」
とぼけた態度と、内に秘める闘志。誰より強い彼女に、きっと私は惹かれていたんだろうと思う。
Bad√1 『あなたをわすれないために』
チーム・エルナトの……スズカのトレーナーが死んだのは、二年前の春のことだった。スズカのシニアはこれからで、クラシック後期で見せた圧倒的な強さをまた見られるのだと、それに立ち向かうのだと私も覚悟を決めていた頃だった。
奴はあっけなく、事故で死んだ。誰が悪かったわけでもない。強いて言えば関わった人間、全員が悪かったのだろう。理事長経由でスズカに警察の見解を伝えたのは私だ。取り立てて彼女に責は無い。だが、相手方にも無い。単純に不幸だったとしか言いようがなかった。
それを聞いた時のスズカは、私が思ったより取り乱していなかった、ような気がした。
もちろん、スズカはいつだって何を考えているか解らないほどに能天気で、マイペースだった。その時も、どれだけ悲しんでいたのかは想像もできない。
だが、言いようもない不気味さを、どこか不安定な驚愕を感じたのもまた事実だった。
「いつもお前はここにいる。だから私もここに来たんだ」
「ああ……退去の話?」
「……そうだ。ここはもう、エルナトの部屋ではなくなる」
それからも、スズカは何も変わらなかった。一つも、まったく。後輩であるミホノブルボンとともに別のトレーナーに引き取られた後も、ただ淡々と練習メニューをこなしていたように見えた。
いつしかスズカが練習に来なくなったという知らせがあってもレースには出たし、そこではいつものサイレンススズカだった。ただ、ストッパーがいなくなったスズカのランニング癖は悪化したように思える。
そして、そのうちに……友人だと言っていた私も、ミホノブルボンも何もしないまま、気が付けばスズカはこの部屋に入り浸るようになっていた。誰もいない、誰も来ないこの部屋で、ぼーっとしていることが増えた。
「そう……じゃあ出ていかないとね」
「……違うだろうスズカ。出ていく必要は無い。私が何を言いたいか、解っているだろう。お前にどうして欲しいのか……私にここまで言わせて、解らないとは言わせんぞ」
「……エアグルーヴ」
ここは、もう彼女の部屋ではない。だが、彼女は最強の交渉カードを持っていた。エルナトのトレーナーが死んでもなお、出走するG1レースは例外無く勝った。トレセン学園は実力主義だ。圧倒的強者であるスズカが、この部屋を使いたいと言えば、同情も込みで間違いなくこれからもここにいることはできる。それがスズカにとって救いとなるかは解らないが。
だから、スズカは一言言えば良い。私だって、スズカを本当に退去させるために来たわけじゃない。
『引退は撤回する』、そう一言言えばすべては終わる話なのだ。
「どうしてだスズカ。まだお前は走れるだろう。力は衰えていない。お前ならドリームリーグに進めるはずだ」
「ああ……たづなさんも言ってたわ。ぜひ考えてくれって」
「だったら……」
「でも、決めちゃったから。トレーナーさんもよく言ってたわ。私は頑固なの」
今年の頭、サイレンススズカは突然に引退を表明した。怪我でもない。成績低迷もない。どのリーグに所属しても、スズカは求められている。トゥインクルで連覇しても、ドリームリーグに殴り込んでも良い。海外のレースに出たって良いはずだ。
だが、彼女は個人的な理由だと言葉を切って、二度とメディアの前には出なかった。生徒会で行った面談でも、全く同じセリフを吐いた。
「決めただと……納得できるはずがない、お前は凄いウマ娘だ。走らなければならない。それに、やめるなら二年前でも良かったんじゃないか!」
「それは……まあ、そうだけど」
スズカはいつも、ソファに寝転がるように座っている。こうして話していると、スズカの話し方は何も変わらない。ずっと同じ調子で、どこか上の空に話す姿は出会った頃から何も変わらない。
「戻ってこい、スズカ。迎えに来た。ここはお前の居場所じゃないんだ。お前のトレーナーは、もう、帰ってこない」
一言ずつ、胸が痛む。しかし、これは私の使命だ。放ってはおけない、友人として、友人を、捨ててはおけない。
だが、私と対照的に、スズカは極めて普段通りに徹した。
「うん……それは解ってるわ。私、ちゃんと見たもの。トレーナーさんの最後の顔も、残った骨も」
「……すまん」
「ううん、気にしないで。私も……えっと、色々内緒にしちゃったから。そんなつもりじゃなかったの。ブルボンちゃんには解ってもらえたから、良いかなって」
「……私ではダメだったか」
「だってエアグルーヴは止めてくれるでしょう? 私に走れと言うでしょう」
「……ああ」
その通り、スズカにはずっと走っていてほしい。私が走れるうちは越えるべき壁として、走れなくなっても輝く星として。私のエゴでもあるし、日本で一番求められていることだ。どこまでスズカが逃げられるのか見てみたい。勝ち逃げなど許さない。スズカの有終は敗北によって完成すると、そう言っているものすらいる。
「でもね……もう、全部走っちゃったから。大阪杯も、宝塚も、天皇賞も、マイルチャンピオンシップも……トレーナーさんが走れると言ったレースはもう残ってないから、もう良いわ」
「……ドリームリーグだってある」
「トレーナーさんはたぶん走らせてくれないわ。負けちゃうかもしれないから。あの人は私が負けたら悲しむと思うの。だからこれでおしまいにするわ」
「違う……違うだろうスズカ……それじゃあトレーナーに縛られているだけだ……!」
「懐かしいわね。確かここでも何回か縛られたわ。くすぐったいのよね」
スズカとの会話がどこかに消えていく。ダメだ。ここでスズカを行かせてはいけない。万が一、億が一でもスズカが血迷うことがあれば。大切な友人に、そんなことをしてほしくない。
気付けば私はスズカに詰め寄って、肩を掴んでいた。
「どうしてだ、どうして走るのをやめてしまうんだ……! あんなに走るのが好きだと、言っていたじゃないか……! それとも、レースではなかったのか!? 私達では不足だったのか!? スズカ!」
「エア──」
「走らないなどと言わないでくれ……! 私と、もっと走ってくれ! もっとお前のことを見せてくれ! 頼む……!」
「違うわエアグルーヴ。みんなのせいじゃないの。これは私のせいなの」
「……は?」
スズカの落ち着き払った態度は変わらない、ずっと、一本調子だ。ずっと変わらないまま、うーんと、とスズカは呑気に考える声を発した。
「走るのは今も好きだし、走りたいし、レースも出たい。それはそう。嫌いになんてなれないわ」
「だったら……」
「でも、その……トレーナーさんのためにも、もう走っちゃダメって思ったの」
「……どういうことだ」
確かに、スズカのトレーナーはスズカが走ることを良しとしていなかった。何度もその攻防は見ることになったし、記憶にも新しい。
だが、彼女自身は、きっとスズカが走ることを望んでいたはずだ。
「お前のトレーナーが、お前が走らないことを望んでいるとでも思っているのか?」
「そうじゃないけど……でもエアグルーヴ、死んでしまった人を忘れないでいてあげるのは、必要なことじゃない?」
「それは……そうだが」
だが、スズカが彼女のことを忘れるわけがない。あれだけ関わっておいて、今更いなくなって。
スズカに促され、向かいに座る。いや、スズカはどこかおかしくなっている……いくらなんでも私と対面して話すのに転がったままでいることなどなかったはずだ。
「じゃあ走っちゃダメでしょ? 走れないんだったらトレセンにいても仕方無いから」
「覚えておくのと走らないのと何の関係があるんだ」
「うーん……まあ、エアグルーヴにも話しておくわね。ブルボンちゃんにも言ったんだけど」
「どうしたんだ」
「私ね……走るの大好きなの」
知っている。
「今更だな」
「うん。走るのは楽しくて、気持ち良くて、できることならずっと走っていたいの。それでね。走るときはこう、一人で、誰もいない中を流れていって、自由で……そうじゃなきゃいけないと思うわ」
「……そうか」
やはり変わっていないのか……? 走ることになると口数が増えるのもサイレンススズカじゃないか。口元を少し緩めて話す姿に少し安心する。少なくとも走ることを嫌悪しているわけではない。とにかくそれだけでも十分だ。
つまりそれは、まだ説得の余地があるということだから。
そう、思っていた。
「でもね。それっておかしいの、エアグルーヴ」
しかし、私は甘かった。
「私は走っていると一人でしょう? でも、私はトレーナーさんのことを忘れちゃダメなの。じゃあもう走っちゃダメじゃない?」
「……何を言ってるんだ」
「走るとね、嫌なことは全部忘れられちゃう。悩んでても辛くても、気持ち良く走れたらそれだけで、
「不思議よね、エアグルーヴ。私はとても辛いわ。今にも死んでしまいたいくらい苦しいの。でも、それだってトレーナーさんのことを覚えているために必要なことなの」
「だって、走ったら全部飛んでいってしまうのよ。こんなに悲しい気持ちも、辛い気持ちも、全部無くなっちゃう。そんな酷いことはないじゃない」
「……スズカ」
「それにね」
まだ、スズカは止まらない。
「ほんのちょっとでも、たった一瞬でも。『こんなに気持ち良く走れるなんて』」
スズカは止まれない。
「『トレーナーさんがいなくなって良かった』なんて思ってしまったら。いったい私達の時間は何だったの?」
止まったら。ありのままにいたら死んでしまう生き物だ。
「ス、ズカ……」
「大丈夫よ。我慢には慣れたから。何度もトレーナーさんと練習したもの。きっとこれからも大丈夫」
「いや……それは……そうではない……だろう……」
私は何を言うべきなんだ。何を言ったらスズカは踏み留まってくれる? 何を言えば、スズカにこんな諦めた顔をさせずに済むんだ?
「そうなのよ」
「しかし──」
「本当は、こんなことすぐに気付いてたの。最初に走った時点で、解っていたの」
「……だったらなぜ」
「トレーナーさんはね、私が勝てるレースは何でも出て良いって言ったわ。もちろん、私は何でも良いから任せてたけど……でも、ちゃんとお話は聞いてたから。これと、これと、このレースが候補だって。それが無くなるまでは走ろうかなって」
「まだ……まだだぞスズカ。一度勝って終わりじゃない」
「私にとっては終わりで良いのよ。勝ったから。だからこれでおしまい。トレーナーさんの言うことはちゃんと聞かないといけないから。ちゃんとできたってトレーナーさんに言いに行くの」
「……! おい、まさか貴様死──」
「自分で死んだりしないわ。そんなことしたら同じところに行けないでしょ? ちゃんと同じところに行って、これまで走ってきたお仕置きをたくさんしてもらって、それで、その後いっぱい褒めてもらうの」
それじゃあ退去するわね、とスズカが立ち上がる。私なんていないかのように、出口に向かって歩いていく。止めなければならない。だが、言葉が出てこない。
「じゃあね、エアグルーヴ。また今度」
扉が閉まった。
そして私は二度と、サイレンススズカと会うことはなかった。
ルート分岐は全てランダムで、好感度や周囲の対応は関係無いです。