走ることしか考えていないスズカのおはなし。   作:サイレンススズカ専属トレーナー

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サイレンススズカIF3

 

 それは、突然のことでした。いつも通りトレーニングを終えて、いつも通り食堂の誘惑に負けずに寮へ帰って、それから、珍しく夕方から眠っているスズカさんの、乱れた布団をかけ直してあげようとして。

 

 

「……スペちゃん?」

「あ、おはようございます、スズカさん。珍しいですね、こんな時間に寝てるなんて」

「あれ? 私、いつの間に……あ、え?」

「どうかしました?」

 

 

 それは、私の大切な先輩が、どこかへ消えてしまう、そんな事件の一日目。目覚めたスズカさんが、自分の脚を見つめて発した一言から、始まってしまいました。

 

 

「スペちゃん、私のギプス、どこ?」

 

 

 

 

 

Bad√3 『あなたをさがして』

 

 

 

 

 

 

 

「ギプス?」

 

 

 ぺたぺたと自分の脚に触れるスズカさん。ギプスって、あれですよね。骨折とかした時に使うやつ。

 

 

「スズカさん、ギプス着けてたんですか?」

「え……着けてたじゃない。脚に……あれ、全然痛くない……?」

「着けてないですよ?」

 

 

 そもそも怪我をしていないスズカさんがそんなものを着ける必要はないし、着けていたら真っ先に私が気付く。毎日同じ部屋で寝ているのだし隠せるわけがない。寝惚けてるのかな。

 

 だけど、スズカさんは心底不思議そうな顔をしながら、頭を抱えて首を捻った。

 

 

「あれ……確かに私、怪我をして、ギプスを着けていたはず……なのだけど」

「夢でも見たんじゃないですか? ちょっと、不吉ですけど……」

 

 

 ギプスが必要になるような怪我なんて、考えただけでも恐ろしい。幸い私とスズカさんにはその経験はないけど、グラスちゃんとかは長期休養もしていたみたいだし、たとえ夢でも怖くなります。

 

 

「ゆ、夢……? 怪我が……? ごめんスペちゃん、い、今何時?」

 

 

 六時です、と時計をありのままに伝えると、スズカさんは立ち上がって部屋着から制服に着替え始めました。おっとっと。一応鍵をかけないと。スズカさんは無頓着で困ります。

 

 

「どこかに行くんですか?」

「トレーナーさんの所に行ってくるわね」

「え? もうトレーナーさん決まったんですか!?」

 

 

 スズカさんがあまりにも当然のように言うので驚いて大きな声を出してしまいました。スズカさん、即決にも程がありませんか。いや、元々あんまり気にしなさそうな人だとは思ってましたけど。

 

 スズカさんが最初の、つまり一人目のトレーナーさんと契約を解除したのが去年の暮れ。まだ新年始まってすぐです。スピード感が……というか、私には言ってくれても良かったのに。

 

 

「決まっ……? え? ん? ごめんなさい、どういう質問……?」

「え、だから、新しいトレーナーさん、決まったってことですか……あ、前のトレーナーさんの引き継ぎとか?」

「前の……? ど、え……?」

 

 

 何か、混乱しているようなスズカさん。

 

 

「あの、え、私、別にトレーナーさんを変えたりはしてないわ。一昨年の話でしょう……?」

「え? 一昨年にも変えてたんですか? てっきり入学から同じ人なんだと思ってました」

「え、あの、え? スペちゃん、何を言ってるの……?」

 

 

 前のトレーナーさんが一人目だって、スズカさんから聞いたような気がするんですけど。一昨年ってことは、クラシックのどこかでってことでしょうか。前半は私も物静かでおしゃべりは好きじゃないのかな、なんて遠慮していたので、もしかしたら私が知らなかっただけ? 

 

 

「と、トレーナーさんよ? 私の。スペちゃんも知ってるでしょ? 何回も会ってる人……」

「え? 私も知ってる人ですか? 誰だろう……あんまりトレーナーさん達のことは詳しくないんですけど……」

 

 

 知っているトレーナーさんの顔を思い浮かべます。でも、基本的には初めにちょろっと調べたチームの人達と、同期の……グラスちゃん達のトレーナーさんくらいしか解りません。私はトレーナーさんを変えてませんし、あまり他の方との関わりも無いし……

 

 と、スズカさんが私の額に手を当てて来ました。

 

 

「スペちゃん、大丈夫? 熱は無いけど……」

「いや、け、健康ですけど……」

「私のトレーナーさん、え、し、知らないの?」

 

 

 そう言ってスズカさんが挙げた名前……は、全く聞き覚えがありません。女性の方でしょうか? なおさら一人も知りません。トレセンのトレーナーさんは男性の方が多いですし、私も女として一応同性の方が楽だと思って調べはしたんですけど。

 

 知らないです、と言うと、スズカさんは目を見開いて再びベッドに戻っていきました。

 

 

「どういうこと……? 何……」

「……?」

 

 

 やはり寝惚けてしまっているんでしょうか。最近……いえ、やっぱりずっと、スズカさんはあの走り方がストレスだったんでしょう。王道の先行差し、私から見てもあんまり合っているようには思えませんでした。それとなく伝えたこともあります。

 

 スズカさんはたまに走ると解りますが、たぶんスピードはかなりのものがあると思うんです。それなのにまだデビューとオープンの二勝だけに留まっているのは、そういうことなんじゃないかって。

 

 

 だからトレーナーさんと去年の暮れでお別れしたって聞いたんですが……まさか、ボケちゃったとか……!? 

 

 

「……あの、スペちゃん。ちょっと聞きたいんだけど」

「はい?」

「チーム・エルナトは覚えてる? 私と、ブルボンさんと……」

「エルナト……? そんなチームありましたっけ?」

 

 

 チーム名も解らないし、ブルボンさん……というのは? 私達にとっての『ブルボン』はやっぱり、いくつも上の先輩、ミホノブルボンさんのことです。無敗の三冠を期待されつつも惜しくも逃し、そのまま悔やまれつつ引退してしまった人。今、何してるんでしょう。

 

 

「え……え? 何、どういうこと? スペちゃん、私のことからかってる……?」

「え? いえ、そんなことしないですけど……」

「だって、私のトレーナーさん、え……?」

 

 

 額を押さえつつ左回りを始めてしまいました。そろそろ目が覚めてきたでしょうか? スズカさん、ちょっと天然なところがあるからなあ。ふわふわした人だけど、たまによく解らないことを言うから。

 

 

「……あの、スペちゃん。今日は一月十日よね? スペちゃんは今年シニア一年目、私は二年目……で、合ってる?」

「合ってますよ」

「エイプリルフールじゃ、ないのよね?」

「違います」

「スペちゃんがこんな嘘言うはずないし……ううん……どういうこと? どうしてトレーナーさん……あ、写真、電話……」

 

 

 スズカさんは携帯を取り出し、何か探し始めました。いや、夢なんですから何も無いと思います。これは重症……ですかね。寝不足とストレスでスズカさんがおかしくなってしまいました。

 

 

「あ、あれ? あれ? なんで? 無い、無い……! どうして……!?」

 

 

 しばらく、非常に焦った様子で携帯を弄っていましたが、少しして、

 

 

「スペちゃんにも教えていたはず……スペちゃん、携帯見せて!」

「良いですけど……」

 

 

 保健室? 病院? こういう時ってどうすれば良いんでしょう。というか、何故か少し落ち着いている私は何なんでしょう。どうしてか、あんまり焦る気持ちが沸いてきません。

 

 

「無い、な、ん……あ、え……トレーナーさん……?」

 

 

 あまりにも、スズカさんが真剣な顔をしているから、でしょうか? 

 

 

 

 

 ────―

 

 

 

 

「いや……すまない。まったく覚えが無い」

「どうして……?」

 

 

 ふらつくスズカさんは、それでもどこかへ行こうとしていました。明らかにおかしな様子で校舎を進むスズカさんを追いかけて、私も学園まで来てしまいました。

 

 道すがら会う知り合いみんなに同じことを尋ねて、そして、最終的に生徒会の仕事で遅くまで残っていたらしいエアグルーヴ副会長にも聞いて……そして、ついに壁に凭れ掛かるようにへたりこんでしまいました。

 

 

「スズカ!? 大丈夫か!」

「エア……グルーヴ……スペちゃん……おかしい……おかしいわ……」

「スズカさん!」

 

 

 普段、大抵のことは困ったように笑うだけで終わらせるスズカさんが、心底絶望したように、頭を抱えてしまった。うわ言みたいに私達の名前を呼んで、荒く呼吸を繰り返す。

 

 

「トレーナーさん……私のトレーナーさんはどこ……?」

「いや……待て、解った。スズカ。たづなさんの所に行こう。トレーナー名簿があるはずだ」

「……副会長さん?」

 

 

 肩を貸し、スズカさんを二人で立ち上がらせます。副会長さんに聞くと、目を細めて小さく呟きました。

 

 

「それは夢だと言うのは簡単だ。だが流石に真に迫り過ぎている。それに、スズカは抜けている奴だが人を困らせるほど夢の話を推したりはしない。まだ少し、断ずるには速い……気がする」

 

 

 もちろん、私も全く覚えが無いし、訳が解らないが、と副会長は言った。私も、それは少し解る。スズカさんは穏やかで、いつも誰かに引っ張られて、自己主張の少ない人だ。だからこそ、合わない走り方でも従っていたし、しばらくそれに甘んじていた。

 

 もしもっと強かったならばトレーナーさんとぶつかってでも解決を図っただろうし、もう少し忍耐強くなければ密かに逃げていただろうし。

 

 

「トレーナーさん……」

 

 

 静かに呟くスズカさんからは、弱さというより執念じみた何かを感じないでもないけれど。

 

 スズカさんを連れてたづなさんを探す。トレセン中を動いている彼女を探すのは結構難しかったけど、そのぶん目撃情報も多い。ちゃんと見つかって、変わらず息を切らしているスズカさんが彼女に詰め寄る。

 

 

「た、たづなさんっ」

「は、はい? サイレンススズカさん」

「トレーナーさん、を……私のトレーナーさんがいないんです……!」

「え?」

「たづなさん。突然申し訳ありません。トレーナー名簿を見せていただきたく」

「はあ……もちろん、すぐにお見せします。とりあえず、こちらでも中距離やマイルの育成ができる方をリストアップしていますので、スズカさん用に……」

「違います……! 全員です……!」

「え?」

 

 

 たづなさんもどうやら、スズカさんのことを気にかけていてくれたらしい。戸惑いからすぐにいつもの笑顔に戻って、荷物も無いのにどこかからファイルを取り出していた。それを、柄にもなくスズカさんは掴んで止めた。

 

 

「トレセンにいるトレーナーさん全て、できれば辞めてしまった人や、就職予定の方まで、全員です!」

 

 

 

 

 ────―

 

 

 

「いない……これも……!」

「……ダメだ。こっちにはいないな」

「こちらにもいませんね」

 

 

 図書室にて。たづなさんも巻き込み、私達は大量のトレーナー名簿を並べて探していた。スズカさんはその「トレーナーさん」について、名前も誕生日も淀みなく話してくれた。夢の話にしては、住所まで細かく。

 

 でも、私の担当する範囲にも、そんな女性はいない。

 

 

「私のところにもいないです」

「……っ、そんな……どうして……? トレーナーさん……」

 

 

 口元を押さえ、どこかあらぬところを見つめるスズカさん。いないものは仕方がありません。でも副会長の言う通り、スズカさんは夢の話で周りを困らせるような人ではないし、冗談なんてもっとしません。嘘もつけない人です。

 

 本気で、心の底から、「トレーナーさん」がいると思っている。私も、たづなさんも、遅ればせながらそれに気が付きました。

 

 

 ……だったら、私も、何かしなければならない。大切な先輩のためです。

 

 

「スズカさ──」

「……行かなきゃ……」

 

 

 スズカさんの知っている住所に行ってみましょう、と言う前に、スズカさんがふらふらと歩き出しました。私達には目もくれず、まっすぐに出ていこうとします。慌てて副会長が止めますが、気にも留めず進んでいきます。絶対に放ってはいけない、と、心のどこかに強烈に訴えてくるみたいに寂しそうで、私も咄嗟に走り出しました。

 

 

「スズカさん! どこに行くんですか!?」

「……」

「スズカさん!」

「……行かなきゃ……」

「スズカ! 落ち着け!」

 

 

 副会長がドン、と体を捻り、スズカさんを壁際に追い詰めました。様子がさらに、おかしくなっています。あのスズカさんが、副会長さんの胸に、やり返すみたいに手を当てました。

 

 

「……邪魔しないで」

「断る。何をしようとしているんだ」

「……トレーナーさんの家に行くの。迎えに行かなきゃ。こんなの変だもの。トレーナーさんはいるの。絶対にいる。私は覚えてる。みんながおかしいんだわ。トレーナーさんに会いに行かなきゃ」

「……ダメだ。どんな理由があろうと、本当に『トレーナーさん』がそこにいようと、今は一般人だろう。突然行ってどうする」

「……そんなことないわ。私に会えばトレーナーさんだって思い出してくれる。もう一度私を選んでくれる。絶対に」

 

 

 淡々と言い放つスズカさん。初めて、スズカさんをこんなに怖いと思ってしまいました。でも副会長は怯むことなく、腕を掴んで睨みつけます。キックができない以上、こうしてしまえば無理矢理抜け出すことはできません。

 

 

「放して」

「ダメだ。今のお前を行かせることはできない」

「……邪魔するならエアグルーヴでも許さないんだから。トレーナーさんに会いたいだけなの」

「……せめて私が行く。お前はトレセンで待っていろ。頼む」

「嫌」

「……スズカ」

 

 

 針で刺すみたいな空気が流れ、しばらく二人とも黙ってしまいました。触れたらどちらかが叫びそうなくらいに、まっすぐ向き合っています。おかしいのは、スズカさんの、はずですけれど。でも、スズカさんの気が違ってでもいない限り、ここまでして強く出るなんてことをするとも思えません。確かめる価値は、あるのかも。

 

 

「これ以上やるなら生徒会から上に報告する。寮で謹慎するか?」

「……すればいいわ」

「外出は完全に禁止、スズカを病院に連れていく。逃げられると思うな。私が監視につく」

「……エアグルーヴが私に追いつけるはずないわ。トレーナーさんはそう言っていたもの。私が一番速いの」

「……やってみるか? スズカ。私が勝ったら謹慎だ」

「私が勝ったら行っても良いの? 話してもムダならそれで決める?」

「……それは呑めない。今のスズカでは逮捕される可能性もある。責任をもって私が会いに行ってくるから、それで何とかならないか」

「私も行きます! スズカさん、だから、少し休んでください!」

 

 

 スズカさんが、副会長さんを挑発までしている。自分が勝つと本気で信じて疑っていない。こんなこと、今まで無かったのに。明らかに昨日までと違います。本当に、別の世界から来ているみたいに。まだ重賞の一つも勝っていないスズカさんから、私や副会長さんの押しのけるほどの気迫が発されています。

 

 

「……今日行って。それ以上は待たない。今からレースで決めるなら」

「……それで良い。距離はどうする」

「マイルか、中距離か。トレーナーさんはそれなら私が絶対に勝つと言ったわ。好きに決めて、エアグルーヴ」

「……2000でやろう。スペシャルウィーク、スズカを見ていてくれ。コース申請を今から通してくる」

「は、はい!」

 

 

 両手を完全に掴んだまま、スズカさんが引き渡されました。スズカさんは抵抗しません。やっぱり勝ちを確信しているようで。オープンウマ娘のスズカさんが、G1ウマ娘の副会長さんに。ウマ娘の強さは実績では計れません、が、それでも、誰しもが無謀な戦いだと解るはずです。

 

 だというのに、スズカさんは何も言わず、トレーナーさん、トレーナーさん、と呟いて、私の誘導通りに着替えを済ませ、コースに出ていきました。

 

 

「……スズカさん、その」

「……スぺちゃんは」

 

 

 副会長さんを待っている間、スズカさんがぽつりと口を開きました。

 

 

「スぺちゃんは、クラシックの成績はどうだったの?」

「え……えっと……重賞はきさらぎ賞と、ダービーを……」

「皐月賞と菊花賞はセイウンスカイさんに負けた……合ってる?」

「……はい」

 

 

 それは、私がスズカさんに……いえ、スズカさんが直接見に来ていたはずです。慰めても貰いました。知っていて当然です。でも、今のスズカさんに言われると、もしかして、と。

 

 

「スズカさんの中では、私はダービーに勝てなかったんですか」

「いいえ……勝ったわ。エルコンドルパサーさんとの直線勝負で、トレーナーさんも褒めてた」

「エルちゃん……?」

 

 

 エルちゃんは確か、ダービーには出なかったはず。NHKマイルカップに出たから休むと、そう言って。彼女がダービーに出た? そして、私が最後まで競っていた? エルちゃんと? ジャパンカップでは三バ身離されたのに? 

 

 

「それは……私の記憶とは違います」

「そう……なの……そう……」

 

 

 そんなことがあるんでしょうか。スズカさんが別世界から来た、そんなことが。気をおかしくしてしまったのと、どちらが現実的なんでしょう。毎日思い悩んでいたのは知っています。でも、それだけでここまで? 自分のトレーナーさんを頭の中で作り出すほど、一晩で? 昨日までは、新しいトレーナーさんを決めないと、と憂鬱にため息をついていたのに。

 

 

「その、スズカさん」

「なに?」

「……スズカさんの中では、スズカさんは勝っていたんですか」

「……そうね。トレーナーさんがいるから。何度も勝ったと思う」

「でも、今はトレーナーさんはいません」

「勝ち方は覚えてる。それに、トレーナーさんは私を勝たせてくれたけど、トレーナーさんはいつも言っているもの。スズカが勝てるのはスズカが速いからで、私の力なんてほとんど無いって。そんなことないのに」

 

 

 良いトレーナーさん、だったのかな。スズカさんの力を見抜いて、勝たせてあげた人。いるなら会ってみたい。でも、いない。トレセンにはそんな人はいない。違うところにいるのはスズカさんで、「トレーナーさん」がついてきているかは解らない。

 

 

「……待たせたな、スズカ」

「……エアグルーヴ」

 

 

 副会長さんが来てしまい……しょ、勝負服……? どうして、そんな……いえ、これは、それだけ本気ということで……。

 

 

「勝負服、私の知っているのと同じね。やっぱりトレーナーさんはあの人? 奥さんとエアグルーヴに頭の上がらない人」

「……御託は良い。始めるぞ。スズカ。約束は守れ」

「もちろん。負けたらトレーナーさんは諦めても良いわ」

 

 

 でも、とスズカさんは微笑みます。目に光が、炎が灯ったように、副会長さんに向きます。

 

 

「絶対に私が勝つ。エアグルーヴには負けない。トレーナーさんがそう言ってくれたから」

 

 

 舐めたような発言にも、副会長さんは反応せずスタート位置に着きました。

 

 

 

 

 ────―

 

 

 

 

「……そんな」

「はあ……うん、やっぱり……最高……」

 

 

 勝負は、いとも簡単に、あっけなく付きました。

 

 結果は、スズカさんの圧勝。スタートから飛ばしてリードを作り、それを守ってそのままゴール。信じられません。スズカさんが逃げるとここまで強いんでしょうか。先行差しが合っていなかったのは何となく解ります。だけど、それが全くできないウマ娘はレースでは厳しい。だけど、それを捨てて振り切ると、こうなるなんて。

 

 逃げていながらにしてスパートをかけ、最終コーナーからぐんぐんと伸びていく。差しの副会長さんがそれでも追いつけないような早仕掛けと、最終直線でもう一度伸びた。明らかにおかしな伸び方をして、本来のレースであれば大差と判定されるような着差をつけていた。

 

 

「……じゃあ、エアグルーヴ。約束通り、トレーナーさんを迎えに行って。きっと解ってくれるから」

「……スズカ。お前は……今まで、こんな力を隠していたのか」

「トレーナーさんが教えてくれたの。私が一番速いから、好きに走れば良いって。それだけで誰にも負けないし、負けさせないって。何人か私に勝てるなんて言うのは、ちょっとむっとしちゃうけど」

 

 

 それは、あなたじゃない。そうとでも続きそうなところでスズカさんは言葉を切りました。レース中からして、後ろを全く振り向かず。自分だけで走っているかのような、でも、それがおかしいとは思えない感覚。本来のスズカさんは、そう走るのが正解とでも言わんばかりの堂々とした走り方。

 

 

「電車で行ける距離のはずだから。私は行ったこと無いけど、そう言ってたし。少し解りにくいらしいから気を付けてね。急いで行って、ちゃんと思い出させてあげてね」

 

 

 あとは、昏い目をしていなければ。完全なスズカさんが、私の目の前に突然現れた、そんな感じがしました。

 

 

 

 

 

 ────―

 

 

 

 

 

 その日、副会長さんがスズカさんに容易く蹴散らされてから、全てが変わってしまいました。それは私も例外ではありません。

 

 

 まず、スズカさんが言った住所に、「トレーナーさん」は住んでいませんでした。同じ苗字の方はいましたが、そんな名前の方はいらっしゃらなくて。何とか調べて同姓同名の方も何人か見つけましたが、そのどれも「トレーナーさん」ではなくて。それを伝えた時のスズカさんの荒れようと言ったら、たぶん、あれほど取り乱したスズカさんを……いえ、ウマ娘をこれから見ることは無いでしょう。スズカさんのそれが力に訴えるようなものでなくて良かったと思います。

 

 

「……スズカさん」

「……スぺちゃん。応援に来てくれたの? ありがとう」

 

 

 それから、スズカさんは狂ったようにレースを走り出しました。名前だけを貸しているようなチームに所属して、出られるレースにはぜんぶ出るような無茶を繰り返しました。そして、全てに勝った。スズカさんは、あれから一度も負けずに、オープンレースだろうとG1レースだろうと構わず勝って回りました。私も、グラスちゃんも、エルちゃんも、誰も勝てませんでした。宣言通り、マイルと中距離以外には出ませんでしたが、その全てで蹂躙と言っても良い走りを見せつけられました。

 

 

「……はい。応援と言って入れてもらいました。でも、応援はしたくないです」

「どうして? これで三連覇よ。凄いことじゃない? これならトレーナーさんだってきっと迎えに」

「それです、それですよスズカさん……」

 

 

 負けたことについては何かを言うつもりもありません。スズカさんの方が速かった、それだけ。スズカさんは何も卑怯なことはしていません。二世代でも三世代でも、後輩の壁として君臨してしまうのはスズカさんが悪いのではなく、勝てない私達が悪いのです。

 

 そんなこと、みんな解っていて。いまやスターウマ娘……いえ、レジェンドウマ娘まで登り詰めたスズカさんは、走ることを望まれている。私達、事情を知る一部のウマ娘以外には。

 

 

「もうこんなことやめましょう、スズカさん……! もう走らなくて良いんです!」

「どうして? まだトレーナーさんは来てくれてないわ」

「いないんです、スズカさんの言うトレーナーさんはいないんですよッ! 来てくれないんです! これからもずっと!」

「……スペちゃんはトレーナーさんを覚えてないから解らないのね。トレーナーさんは絶対に来てくれるわ」

 

 

 脚に何重にも巻いたテーピング。過剰なほど積み上がった通院記録。まだ、異常は出ていません。まだ。でも、どのウマ娘だってそんなことはしない、それほどにスズカさんは走っている。

 

 あの時から変わらない光の無い目で、先頭を走り続けている。とびきりのファンサービスを繰り返して、おしゃれやメイクにも気を遣って、満面の笑みでライブをこなしているのに、感情だけが淀んでいる。見ているだけの人達には解らない。URAの人達も、スズカさんをこのまま利用するつもりだってエアグルーヴさんが言っていた。トレセン……理事長さんやたづなさんは事情を知って抵抗しているけど、当のスズカさんが走りたいというのだから大したことはできない。

 

 

 どんなに歪んで見えても、スズカさんはたくさんレースで走って、もっと走りたい、もっと速くなりたい、と言う他のウマ娘と変わらないことをしているのだから。走ることしか考えなくなっても、トレセンはそれを咎めることができない。少なくとも、怪我をしない限りは。

 

 

「トレーナーさんは私のことが大好きなの。速くて可愛い私に惚れて、捕まえてくれたの。だから私がもっと速くなればきっとまた探しに来てくれる。そうだ、もしかしたらトレーナーさんが海外にいるかもってURAが教えてくれたの。ヨーロッパで走れば見つかるかもって。凱旋門? っていうレースを走れば、絶対に目につくはずだって。だからね、このレースが終わったら早速」

「いい加減にしてくださいスズカさんッ!」

 

 

 見ていられない。見たくない。いもしないトレーナーさんに取りつかれて、何も思わないんですか。もし本当にそんなに大切にしてくれる方がいるのなら、スズカさんがこんなになる前に迎えに来てくれているんじゃないですか。もうやめましょう、スズカさん。

 

 そんなことを、勢いのままに叫んでしまったはずです。でも、スズカさんは何も言わなくて。最初の頃は、そんなことない、と言い返してくれたのに。

 

 

「私がまだ足りないからよ。トレーナーさんは最強無敵のサイレンススズカが好きなの。絶対に勝ってくれて、トレーナーさんをちょっぴり困らせるサイレンススズカが好きなんだから。まだトレーナーさんに届いてないのよ。もっと走れば届くわ。届けばすぐに来てくれる。ちゃんと教えてあげなきゃ。また惚れてくれなきゃ困っちゃうんだから」

「スズカさん、違います、もう良いんです。トレーナーさんはいないんです。迎えには来てくれないんです。スズカさんはもう十分強いし、日本でスズカさんを知らない人なんていません。海外だってそうです。それでも届かないのは」

「トレーナーさんは別にウマ娘レースが好きな人じゃなかったから。知らない人まで伝えるのにはまだ足りないのね。スぺちゃんはどう思う? もしかしたら、出走回数は減るけど、ドリームリーグに進んだ方が気付いてもらいやすくなるのかなって」

「トレーナーさんが、いないからなんですよッ!!」

 

 

 スズカさんを遮って、叫んで。それでも、何でもないようにスズカさんは座ったままです。私を怒らせてしまったと、少し申し訳なさそうにするだけで、言い返すこともなく。レースの招集がかかり、行ってくるわね、と部屋を出てしまいました。

 

 

「おかしいですよ、スズカさん……」

 

 

 何も聞いてくれなくなった私の先輩。彼女の信じるものを壊すことはできません。誰が何を言っても変わらない。病院に連れて行っても何も無い。本当に、トレーナーさんを信じている、その一点以外全てただのスズカさんなんです。

 

 

 その日も、スズカさんは大差で勝ちました。

 

 

 

 

 ────―

 

 

 

 

「……スぺちゃん? スぺちゃーん」

「え……ん……ごめん、寝ちゃってた」

 

 

 一緒に来ていたグラスちゃんに起こされました。空港って待ち時間が長いから退屈で眠くなりますね。何か食べようかな。

 

 

「もうすぐ搭乗だから食べちゃダメですよ?」

「え、そんな時間? 本当だ……」

「機内食を楽しみましょう。美味しいですよ」

 

 

 あの日からたくさん時間が経ちました。ウマ娘が現役で走っていられる時間はそう長くありません。私やグラスちゃんも、ドリームリーグからも引退し、ただのウマ娘になりました。ほぼ全てのウマ娘はそういう道を辿ります。グラスちゃんがトレーナーさんと結婚しそうって言うのはびっくりしましたけど、専属ならこういうこともあるのかな。

 

 しかし、スズカさんはまだ走っています。会いに行くために、私達は今からアメリカに飛びます。

 

 

 ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア、香港、ドバイ……世界の芝のレースはスズカさんが全て踏み潰していきました。誰もいないかのように走り、その通りに決着してしまう。世界中を蹂躙して回って。初めは称賛していた人達も、もう何も言っていません。むしろ、ウマ娘レースの暗黒期だなんて言い出して、サイレンススズカを引退させろ、という運動さえ起こっています。そんな声も、スズカさんには届かないのでしょうけど。

 

 時々日本からも海外遠征をするウマ娘がいます。そのどれも、スズカさんを避けた方が良いと言われて、いや、挑みたいと言って挑んで、大差で負かされて。『サイレンススズカの二着』は既に諺同然に使われるようになってしまいました。実質一着、という不名誉なものですが。

 

 

 当然、トレーナーさんは追いかけてくることなく。不思議なほど長く、速く走り続けて、いまだ一人で、誰かに言われた「ここならトレーナーさんが見つかるかも」という誘導に踊らされているのでしょう。レースは好きですが、すっかりURAなんかの偉い人達は嫌いになりました。スズカさんの事情を知ってなお、騙して走らせるようなことをして。

 

 

「スぺちゃん。顔が怖いですよ」

「……ごめん」

 

 

 しっかりしなくちゃ。スズカさんを何とか解放してあげたい。このまま脚が折れるまで走り続けるのがスズカさんにとって良いこととは思えない。私のエゴだとしても、スズカさんには自分を大事にしてほしい。だから、言いに行かなくちゃ。スズカさんに会って、結局一度も勝てなかった先輩に伝えなくちゃ。

 

 

 

 この世界にはトレーナーさんはいないんだって、教えなくちゃ。


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