大きな部屋に大きなベッド。
理由もなく、ふと『外』が見たいと思った。
部屋を歩く。明るい部屋。
窓は高い位置にあって届かない。だからいつも椅子を踏み台にして覗く。
四角く型取られた『世界』は緑色。目に映るいっぱいの緑は重なり合い、それは大きな大きなカーテンのようで、ざわざわとゆらめく木々はヒカリを遮り少し黒い。それをちょっとこわいと感じつつ、透明なガラス越しに手で触れる。
ツメタイヒカリが手につたう。
これは通れない壁だから、『向こう側』に行くことはできない。
でも『向こう側』というのは、なんとなくしかわからなかった。
くぅ、とお腹が鳴る音が部屋に響いた。もうすぐ二回目のご飯なのだと思った。
くすくすと笑う声が聞こえた。こっちにおいでと言っていた。
部屋を歩く。静かな部屋。
お腹がすいたのかとベッドの上で身を起こしたその人は言った。だから素直に頷いた。
もうすぐ来るよ、と頭を撫でるその手はとても細かった。
もうすぐ来るのは黒い服を着た男の人と、白い服を着た女の人だと知っていた。開かない扉からやってくる人達は話しかけても何も言ってはくれなかった。もしかしてこちらが見えていないのかもしれない。
だから代わりにその人が教えてくれた。黒い方が『執事』で、白い方が『メイド』という名前なのだと。
どちらも大きい人だと言った。自分達が小さいのだと笑っていた。
頭を撫でる手は、いつしか髪を梳くように動いていた。
女の子のように綺麗で素敵だと、いつもその人は自分と違う赤い髪を褒めてくれた。
大きなベッド。寂しい部屋。
嫌ではなかった。むしろ撫でられるのも梳かされるのも好きだった。
そうして近くで話していると、どうしても耐えられなくなって腰にしがみついてしまうのも、いつもだった。
甘えん坊だとからかう優しい声が掛けられた。そうかもしれない。抱き締められるのはとても安らいだし、その人の体温を感じたいと常日頃から願っていた。
けれどこれは、それとは関係無く、自分の顔を隠したくてしていることだった。
その人の顔を見るのが、嫌だった。
何を話しても同じだった。どれだけ笑っていても同じだった。好きだと言ってくれる赤い髪に触れる時が一番そうだった。
その人は、いつもどこか、悲しげだった。
――わからない。
なぜなのか理解できなくて。
どうすればいいのかわからなくて。
もう顔も思い出せないその人が、いつだって浮かべていた表情がとにかく嫌で。
嫌で嫌で仕方なく。わからないまま意味も無く。
わからないまま――泣いてしまいそうだった。
◇
5月22日――
散りゆくライノの花と過ぎゆく春を惜しみつつ、吹き抜ける夏めいた風が心地良い今日この頃。
まだ少し肌寒く感じていた四月とはうって違い、少し汗ばむ事も増えてきた五月下旬。
忙しい学院生活はまだまだ慣れることなく忙しく、武術訓練に加え高等教育の一般授業も本格化、さらには武術訓練と同じくする士官学院特有の専門授業も開始されていた。
士官学院の名の通り共通する軍事学から始まり、男女別に分けられたクラス合同授業。女子は栄養学・調理技術。男子は導力端末の扱い方――設置されたモニターとキーボードを使うことによって文字はもちろん、映像なども離れた場所と瞬時にやり取りできる帝国でも最先端の技術――など。
名門らしく様々な分野を盛り込んだカリキュラムは、流されるままの普遍的な毎日を許しはしない。予習復習、自己鍛錬はやはり欠かすことはできないと言えるだろう。
で。
もとより毎日を普通じゃないⅦ組に所属する僕はというと。
「ぐふぇえええ……」
夕日が焦がす、人影まばらな教室内。
日当たり良好、前列一番左の窓際席。机に突っ伏す赤い影。
「ぐ、軍事学、武術訓練はまあいいとして。な、なんだ導力端末って……。ただでさえ一般授業が難しいってのに、も、もう頭パーンするよこれ……」
絶賛もれなく死亡中のレイヴェル・オルランドであった。
「頭パーン? パーじゃなくて?」
「おいそこの緑の。ケンカ売ってるつもりならまとめ買いしてやるから全部持ってこい。僕の個人資産をなめるなよ。僕ですら把握してないぞ必要経費以外おこづかい制だったから!」
「だいぶ憔悴してるね、赤いの」
やれやれ、と自分の机の上に腰掛ける緑のことフィー・クラウゼル。
僕の大事な宿敵であった。
「女子は今日の専門、料理作っただけだよね。いいなあ、今更学ぶことなんてないじゃないか。血を抜いて火を入れたらいいだけじゃないか」
「サバイバル実習じゃないんだけど。レイもこっち来れば?」
「あはは、そのお誘いは嬉しいけど無理だよ。選択式じゃなくて男女別だもん」
「問題無い。スカート履いたら全然いける」
「あれ? やっぱりケンカ売られてる?」
「むしろ履かなくてもいける」
「いけてたまるか!」
上等だ。今の僕は余裕が無いぞ。
真顔でサムズアップするたわけをこらしめてやろうと闘気と青筋をビキビキ、手と指をゴキゴキさせながら立ち上がる。
が、しかし。
「また課題増やされるよ」
「…………」
その一言でみなぎらせた色々が、ぷしゅりと栓の外れた風船のように、あっけなく意気消沈してしまう僕なのだった。
「どしたの? やらないの? 好きにしていいんだよ?」
「こ、このヤロウ……! 僕が手出しできないからってそんな心にも無いセリフ吐きやがって……!」
「きて、レイ。わたし待ってる」
「やめろぉ! その真顔と棒読みで揺さぶられる僕が憎い!」
耳を塞いで髪を振り乱す僕。顔を背けプルプルと肩を震わせるフィー。
見事に遊ばれていた。
それでも抵抗することはできないのだ。
「く、くそぅ、この課題さえ無ければ授業の難しさにもまだ耐えられるのに……なんだって僕だけこんな目に……」
「自業自得」
「耳が痛い。でもキミだってちょっとは楽しかっただろ? 久しぶりだったし」
「……楽しんでない」
「なんか間があったな今!」
「気のせい。大体、楽しんだとしても悪いのがレイに変わりない」
「ぬぐっ」
そう言われると確かにそうなので、ぐうの音も出なくなる。なんだかんだ言っても自覚はあるし、立場を顧みず無理やり行為に及んだ、及ぼうとしたことに対しての申し訳無さもあるにはある。
だが僕はそれを踏まえてなお言いたい。
襟を正して声を大にして言わせてもらいたい。
「僕だけ懲罰課題一週間分なんてこんなの絶対おかしいよ!」
◇
5月16日――
事の成り行きは今日から約一週間前、先週の自由行動日にまで遡る。
かねてより自己鍛錬の場所として目を付けていた旧校舎になんとか入れないかと思案していた僕は、サラさんが定期的に探索および見回りを行なっていることを聞きつけ、毎回特に変わりばえしないらしい調査を代わりに引き受けるとさりげない提案(客観的に見ると相当に不審だったらしく、かなり懐疑的だった)によって旧校舎の鍵をゲットし、当然のように僕はフィーを伴って(意外にも不満無し。僕は懐疑的になった)かのオリエンテーリングの地へ足を運んだのだった。
それでも変化していると理解できたのは、フィーの言を除いても明らかな違いとして、ギミックの類が
とはいえそれ以外は特に面白み、もといサラさんの言った通り変わりばえもなく、湧き出る魔獣のラインナップも若干強くなっていたがまあ、やはり雑魚に変わりないまま、前述の通り、
踏み入る前から既に準備万端であった戦斧を肩に担ぎ、いつもの体勢で彼女を見つめる。
「やっぱり結構変わってきてる」
「そうだね。ところでフィー、気付いてるかい?」
「なに?」
「二人っきりだね」
「それが?」
「……ドキドキしない?」
「……?」
日頃から正しく性別を捉えられないことに慨嘆を禁じ得ないが、この時ばかりは仕方なく、否定できず、まるで恋する少女のように。
僕は言う。
もじもじと、頬を少し赤らめて。
「ずっと、キミと、二人っきりになりたいと思ってたんだ。ほら、毎日顔を合わせられるのは嬉しいけど……ここじゃあ周りにはいつも誰かいるし、どこにだって目はあるし――好きなようにとは、いかないじゃない?」
「…………」
「こんな……こんなこと言うのはさすがに、はしたないんだけど……もう自分で慰めるのも限界なんだ。……だ、だって、僕だって男なんだよ? そりゃあフィーはそんな見た目でってバカにするかもしれないけれど、女の子にはわからないんだ、男には日々燻って溜まるモノがあることを。無理じゃないか。お預けを何回も食らってるっていうのに気になる娘が、ただでさえ魅力的なキミが目の前にいるなんてそんなの拷問に近いよ。例えるなら飢餓に近い状態で――」
「長い。つまり?」
熱に浮かされる。
猫を思わせる柔らかな銀の髪。
傷一つ残っていない白い肌。
どことなく透明感すら感じさせる自己主張控えめなその性格。
全体的に色の薄い彼女。
「つまり……」
戦斧を持つ手に力が入った。
ギリギリと柄を締め上げた。
足はとっくに動き出していた。
――そのすべてを
「――さあ、
頭上目掛けて
――躱される。
間髪入れずに
――躱される。
独楽のようにぐるんと身を翻し右は顔面、少し遅れて左は足を狙いにかかり、さらに自身の頭上で束ねた二刀を叩き付ける。
――すべて躱される。
「っあああ!」
ならば上下左右。
一息で放つ四撃に逃げ場など有りはしない――!
「ひゅっ……!」
――だが、それすらも鮮やかに。
目の前の少女は斧風に乗って、その身を掠るどころか刃すら合わすことなく軽やかに距離を取った。
「――あはははは! さすがだよシルフィード! さすが西風の妖精! これくらいじゃあ捕まえられないか!」
「レイ……約束忘れたの?」
「んー? ちゃんと覚えてるよ。その証拠に刃を立てず寝かせてるでしょ。まったく、風圧でスピードがちょっと落ちちゃってるじゃないか」
「何回か立ってたけど。まあ、加減を考えられるくらいには理性が残ってるか」
「もちろんさ。欲求不満とはいえ、今の立場を無視して昔みたいにやるつもりはない。だから安心してよシルフィード。安心して――僕にキミを感じさせてくれ」
「めんどい」
「やめるとでも?」
「イジワルだね」
「すぐに良くしてあげるよ」
「やれやれ……ま、いいか」
彼女と向かい合う度していた微熱。
火照る身体はどうしようもなくうずき、燻る熱はここに至ってさらに強くなる。
それを少し逃そうと口を開くも、ただ両端が引きつるようにまくれ上がって歯が剥き出しになるだけだった。
互いに制約付き。装備は不十分。フルとは程遠いこの状況。
過去の肩書きも今はない。ここにあるのは未熟な学生。鬼と妖精。力と
ありのままのレイヴェル・オルランド。
ありのままのフィー・クラウゼル。
――なんだ、最高じゃないか。
「いくよ――」
剣と斧が交差する。
銃剣による一閃を戦斧を以って受け止める。
衝突を重ねる度に散った火花が、薄暗い地下をその都度仄かに照らし出す。
「しっ!」
そのままこちらへ一歩踏み込み、叩き落とされる左の銃剣を
「はあっ……!」
さらにもう一歩。
眉間と脇腹。急所を同時に薙ぎ払ってくる双銃剣の一撃を、
「っ――ああっ!」
即座に柄の中腹まで滑らせ持った双戦斧で受け流す――!
「…………くっ」
至近距離で繰り出される剣を防ぎ続ける。
この距離はまずい。これでは双戦斧を十全には扱えない。
全身に打ち付ける突風の如く荒れ狂う双銃剣。間合いを取ろうにも逆にそのまま押し潰されそうな剣戟。先程の僕と同じく剣が退路を断っている。自分の距離から僕を逃さないつもりだ。
……僕を、逃さないつもりだ?
「くく、くっくっくっ……!」
脳が痺れたように
心臓が一際強く鼓動を刻み、ぞくぞくと背筋が震え出す。
ああ――逃さないでくれ!
「あっはははは! 楽しんでるかいシルフィードォ!?」
「前より防御、うまくなった……!」
「キミはさらに、手数が増えたかなあシルフィードォ!」
「左の動きが以前より、洗練、されてるっ……!」
「キミは以前より、力がっ、上がったかなあ!? シルフィードォォ!!」
徐々に視覚が意味を為さなくなる。
加速を続ける双銃剣。捉えきれない変幻自在の剣筋を、視るより速く感じ取る。
……聞こえてくるのは剣の響きだけじゃない。
千の言葉を交わすより。万の言葉を交わすより。
刃が触れ合う度にもっと深く。
互いの変化を肌で感じ合う。
深い場所で直接心を交わし合う。
――僕は彼女と、とても深く話をしている気分だった。
「……さっきからシルフィードシルフィードって、うる、さい!」
彼女は大きく双銃剣を振り上げ、十字に交差するよう僕の脳天目掛けて振り下ろした。
「――あまいね!」
こちらも合わせて双戦斧で防ぐ、のではなく。逆に力を込めて弾き返す。
腕力の差は歴然だ。鍔迫り合いにすらならず、勝ち目は万に一つも有りはしない。
自身の距離を取り戻し、その隙を横殴りに一閃する――!
「――あまいのは」
「な――」
手応えがない。それどころか姿すら見失う。
距離。タイミング。
すべてが完璧の必中不可避だった一撃を。
「そっちだと思う」
「っ……!」
宙へ
伸びきった腕。がら空きの身体。
逆に致命的な隙を晒した僕に防ぐ手立ては――
「ぬ――りゃああああ!」
ギチギチと骨と筋肉が軋む音。
慣性を無視し、力づくで引き戻された腕に最大となってかかる負荷を気合いで誤魔化し、重力を足して再び脳天へ振り下ろされた一撃を防ぎきった――!
「――だから、あまい」
「え――おぶっ!」
しかし鼻先に受けた衝撃で首が仰け反り、数歩後ろへたたらを踏む。
最後に見えたのは。
シューズのつま先。
黒いソックスを履いた足。
撫で回したい白い太もも。
その奥にある緑の――
「……いやシルフィード。キミ、パンツまでミリタリー仕様ってどうなのさ」
どうやら着地する前に蹴りを入れられたらしかった。
「色気が無さすぎる。もっと赤いスケスケのヤツとか履いてよ。僕が興奮するから」
「勝手に見といて注文までつける普通? というか、よく一瞬でそこまで見れるね」
「常に広く視野を持てとは叔父さんのありがたい教えだよ。おかげで柄だって把握できたさ」
「
微妙に違和感を感じる鼻を指でこする。
とは言うものの、割と興奮が高まったのだが。
「相変わらずむちゃくちゃ。なんであんなのできるの。腕、壊れるよ」
「あはは、慣れだよ慣れ。キミこそなんでいつもあんな動きできるの? 完全に体勢崩したじゃん」
「慣れ」
「慣れでできるか」
「先に言った方が何か言ってる」
鼻の違和感は血のせいだったらしく、思い切り吹き出して対処する。折れていないなら問題ないし、血は既に止まっている。
――そういえば自分の血を見るのも久しぶりだと、指についた血痕を舐め取りながらふと気付いた。
「――まだやるつもり?」
「あはは、割と発散できたけど、キミがくれた痛みが思いのほか良くてね――ちょっと、別腹で興奮してきちゃったなあ。あとパンツ」
「このドM」
「あははは、キミのせいだよシルフィード! キミだけだこんなに嬉しくて楽しくて仕方がないのは! なんなんだこの気持ち! キミはなんで昔からこんなにも僕を揺さぶるのか、いい加減教えてよ!」
「何もしてないし、知るわけない」
「くふふふ、知らないのにこんな夢中にさせてくれるのかい。キミは本当にすごい娘なんだなあ。
――ありがとう、フィー・クラウゼル。猟兵王に拾われてくれて。
ありがとう、フィー・クラウゼル。僕と出会ってくれて。
ありがとう、フィー・クラウゼル――この世界に生まれてきてくれて。
僕は心の底から、キミの存在に感謝してる」
「…………うっさい、ばか」
だからこそ、だめなんだ。
もっと明確に僕にキミを刻み込んで欲しいし、もっとキミに僕を感じてもらいたいと願ってしまう。
欲が出てしまう。
自分の意思で、はっきりと――刃を立ててしまう。
「――レイ」
「わかってる。わかってるけど、少しだけ物足りない。何も殺し合おうってワケじゃあない。頭は理解できている。身体はキミを求めてる。我慢はできるだろう。でもしたくない。見なよ、ほら――」
湧き上がる興奮はじわじわと全身から滲み出し、赤い闘気となって静かに髪を揺らめかせる。
レイヴェル・オルランドは、どうしようもなくフィー・クラウゼルに焦がれている。
「やめたほうがいいよ」
「めんどくさいからやめてくれ。じゃなくて?」
「きっと後悔すると思う」
「僕は今まで後悔したことがない」
「前向きすぎて記憶喪失してる」
腕を戦斧ごと身体の前で交差させ、意識を集中。
イメージするのは鎖。がんじがらめに僕を縛る冷たい鋼の拘束具。
首の掻き合い無しの子供だましの闘争だとしても、力の開放は何もかもをすっ飛ばして歓喜をもたらしてくれる。
「少しだけ、ちょっとだけ、さきっちょだけ、ギアを
暴れ出す身体を僕はもう止めない。
そのさらに奥の厳重な封にだけ気を付けて、引き千切られる鎖を良しとする。
「はああああ……!」
さあ、とことん楽しませてもらおうじゃあないか――!
「――まあ、その気持ちはわからなくもないんだけどね」
「ああああ…………あ?」
「……あーあ、しーらないっと」
かつん、かつんと響く足音。
ここにいるはずのない人物の声。
ぎぎぎ、と物凄い勢いで警告を告げる遅すぎる脳内アラートを聞きながら、入り口へと目を向ける。
「いくら聞き分けがいいと言っても持って生まれた本能、趣味、嗜好。まして唯一と言っていい執着心に育まれた
馴染み深いブレードに導力銃。
それも両刃仕様の強化カスタムモデルと、どう見ても片手で扱うには向いていない凶悪な大型式。
いっそ毒々しいと言っていい赤紫のデザインカラーは、見る物が見れば震えあがることだろう。
……そうか、そういうことか。
「フィー。これからの僕に向けて何か一言頼むよ」
「おーまいごっど」
「ホーリーシット!」
ハメやがったなコイツ!!
僕達の硬い宿敵の絆はそんなものだったのかと反射的にフィーを睨む。フィーはピースしていた。
なんでさ。
「だから溜まったら言いなさいって言ったのよ。アタシも代替無しで禁酒しろなんて言われて我慢できる気がしないもの。ビールは命の水よ――そう思わないレイヴェル?」
「あの……いつから……」
「アンタが眼を血走らせて鍵をねだりにきたとこから」
「……いや、誤解です。僕は約束を破る気なんてなくて、手合わせだけですみやかに終わろうと」
「あ、そう。手合わせだけならアタシがでしゃばることはなかったわね」
「でしょう!?」
「今のでそのままさらに暴走する可能性は?」
「…………」
目の前にまでやってきたサラさんがいつもより大きく見える。笑顔がこわい。なぜか上機嫌にも見えてなお恐ろしい。
「座りなさいレイヴェル」
「もう座りました」
「正座!」
「はい!」
急いで正座に切り替える。
しかしあまり慣れていないので、数秒もしないうちにつらくなってくる。
痛みより気付かないうちに感覚が無くなって、気付いた時には感度3000倍になってるこの座り方が、僕は大嫌いだった。
◇
「レイがこんな目にあってるのは何もおかしくない」
「そうだった」
提出日が明日の課題を抱えて頭も抱える。
四苦八苦の末、あとは数学などの理系問題だけなのだが、それが一番難しい。
「これなら学院内の便所掃除一週間の方が遥かにマシだよ……」
「どんな気持ち? ねえ、今どんな気持ち?」
「後悔してる気持ち……」
つーか、僕を売ったキミを僕は許さないからな。
互いの素行の監視で日頃から僕が口うるさかったからとか、ホントふざけんなとしか言いようがないからな。
宿敵も解消だ。
僕は二度とキミと連れ合わない。
「ふうん。じゃ、そろそろわたしはエマとの勉強があるから」
「フィ、フィーさま! わたくしめも参加させていただいてよろしいでしょうか!?」
逆恨みを一瞬でやめてへりくだる僕。
我ながら浅ましさの権化である。
「だめ」
「なんで!」
「この前レイはエマの胸を見てばっかだった」
「いやそれは仕方ない。机に乗った胸とか驚愕で見ざるをえない」
「まあ、それには同意する」
「僕の周りはキミを筆頭につるぺたすってんとんだったしねえ」
「やっぱり胸が大きいと動きにくいのかな」
「わからないけど僕が胸に集中するのは無理もないよね。で、行っていい?」
「だめ」
「なんで!」
「勉強しろ」
正論だった。
正論過ぎて何も言い返せないくらいに。
「はあ……わかったよ。確か図書館でだよね? ちゃんと遅れないようにね? 約束までちょっと時間あるからって寝たりしたらだめだよ? 仮に仮眠を取るとしても館内でいるようにね? あ、もしかして人気の無い旧校舎あたりで寝ようとか考えてないよね?」
「……レイってほんとうるさい」
他人の注意を耳をふさいで全無視するフィーにイラつきながら、いつのまにやら誰もいなくなった教室を出て校舎前で夕飯の約束、一旦それぞれの目的地へ二手に別れ、僕は重い足取りで帰路につく。本屋を横目に参考書とか買った方がいいのかと少し思案。ちょっと前までは考えられない自分の学生っぷりに妙な気分。
今の僕を家族が見たらどう思うだろうか。
兄さんならそんな問題もわからないのかと、カラカラ悪意ゼロで快活に笑ってから助けてくれるだろう。うんうん悩みながら課題を必死にこなす僕をいつものように導いてくれるのだ。さらっと答えを教えてくれるのだ。そして頭を撫でてくれるのだ。ありがとう兄さん、僕はあなたに一生ついてゆきます。
なんだか首と手を必死に横に振る兄さんの顔が浮かんだが、それはきっと謙遜だろう。さすがです兄さん頼りたい。
ただしシャーリィ、てめーはだめだ。
「……あれ?」
イメージでさえ僕を翻弄する従姉に辟易としつつ、前方カフェテリア、オープンテラスに座りカップを傾ける人物をふと視界に捉え、声を漏らす。
緑、眼鏡、次席、理知的、副委員長の――
「すいませんたすけてくださいなんでもしますからああああああ!!」
「ななな、なんだね一体!?」
とりあえず店内に引っ張って事情説明。
「なるほど、つまり君は勉強を教えてほしいんだな。まったく……いきなり物凄い勢いで縋りついてくるから、何事かと思ったぞ」
「あはは、切羽詰った状況で頭の良い暇そうな人が見当たらなかったモノでして」
「間違ってはいないが色々釈然としないな……」
それでも引き受けてくれるあたりマキアスさんも人がいい。ありがたい話である。
空いているテーブルを一つ占領して、残りの課題を広げてみせた。
「……なんだ。難しいと言うからどんなモノかと思ったが、むしろ優しいじゃないか」
「え、そうなんですか?」
「確かに高等科の問題だが、これは中等科のおさらいと言ってもいい。僕達から言えば、いわば基礎だな」
「へえ~、そうなんですか~」
「……君な、『僕達』というのはレイヴェルも入ってるんだぞ? これが解けるからここにいるんだろう。中等教育、つまり日曜学校レベルじゃないか。……ちゃんと通ったのか?」
「もちろん中等教育までは一応教わってますけど、日曜学校は通ったことないですねえ。うちは家庭教師? でしたから」
教会で毎週子供を集め、神父やシスターが教壇に立つ日曜学校。僕がそれに通うのは時間と場所の他にも色々と問題がある。最悪、僕ごと教会が爆破されても不思議じゃないとのこと。
かと言って正規の家庭教師ではなく、教えるのは主に団の誰かだったり、たまにどこからか雇われる教師というには明らかにカタギじゃない何者かだったりした。
「……まあいい。では、わからないところを言ってみたまえ」
「はい、お願いします。えーと、ここまではなんとか自分でやったんですけど……」
「ああ、ここはこっちの式を当てはめてやると……」
「おお、そんな手が。ふふ、まさに式の裏技ですね……!」
「公式だ」
といった感じに一人で机に向かうより何倍も早く、それでいてわかりやすく頭に沁み入るように、サクサクと進め終わらせていき、
「ぷはー! ようやく終わったぜー!」
キッチリと仕上げ切って快哉を叫んだのだった。
「くっくっくっくっ……どうせこの誠実で高潔な僕がベソかきながら土下座するのを酒の肴にしようと思ってるんだろうサラ・バレスタイン……! そうはいかない。この一週間分の課題と怨みを直接そのデカい胸に突っ込んでやるからな……!」
「……そもそもこれ、何の課題なんだ? こんなもの、出された覚えはないぞ? 僕が忘れてるのか?」
「あ、大丈夫ですよ。ただの懲罰用のモノですから」
「何したんだ君……」
自業自得じゃないか、とフィーに続いてマキアスさんにも呆れ返られる。
逆恨みがやめられない僕なのであった。
「ともあれ、ありがとうございました。さすが眼鏡は伊達じゃないですね。ではどうぞ、なんなりと」
「確かに度は入ってるが……なんなりとって、何の話だ?」
「いやいや対価の話ですよ。とても助かってしまったので、何かあればお引き受けしますよ。まあ僕ができる範囲でですけどね」
つい勢い余って何でもと言ってしまっていたが、そこはかとなく修正する。何でもするとは言っていない。
それでも僕を無料で雇えるチャンスですよ! 使い所めっちゃ限られるけど!
「いや、構わないさ別に。……僕も気分転換にはなったし、誰かに教えるのもいい復習になったからな」
「なんと。なんて無欲な方なのでしょうか。むむ、そうなるとどうすればいいのか……」
「そんな本気で悩まなくともいいだろう……。ああ、じゃあそうだな。コーヒーの一杯でも奢ってくれないか?」
「そんなもので良ければ一杯どころか百杯は奢らせていただきますが」
「僕を殺す気か?」
すみませーん、と店員を呼ぶ。
ここの看板娘ドリーさんは元気溌剌かわいい。
「でもコーヒーかあ。本当にそれでいいんですか? あんな苦いモノ、逆に罰ゲームになりませんか?」
「む、コーヒー党の僕を前にして、それはいささか聞き捨てならないな。例えば苦味、酸味、コクのバランスが取れていてさらに旨味をギュッと凝縮させたエスプレッソ。完璧なエスプレッソは最上層の泡の《クレマ》。キャラメル色の中層である《ボディ》。最下層ダークブラウンの《アロマ》の三層がキレイに分かれることが理想とされ、三層を保てる時間は十秒もない。淹れたてでしか味わえない最高の贅沢品なんだぞ?」
「おっと語りますねえ。苦味を進んで味わおうと思うのはやはり、あくまで嗜好品の類だからでしょうか」
「コーヒーの魅力は苦味だけじゃない。砂糖やミルクを足したマイルドな味わいで一息つくこともできる。なんなら君もカフェオレでも頼みたまえ。ここのコーヒーはなかなかだ」
「……うーん」
注文を聞きに来たドリーさんに軽く挨拶してから、僕もマキアスさんに続いてお願いする。
「僕はカフェオレでミルクと砂糖たっぷり入れてよく練ったコーヒー抜きください」
「はーい、かしこまりましたー。……はい?」
「あはははは」
「君な……店員を困らせるんじゃない」
「ほら、気になる娘にはちょっかいかけたくなるって言うアレみたいな」
「年齢的に誠実とは程遠い退廃的な愛情表現だなっ」
ちゃんと持ってこられたミルクに謝罪と称賛を贈る。笑って許してくれた。
「生憎となぜかコーヒーは好きになれないんですよね。甘くしてもなんとなく口に合わないっていうか。なんでだろ。どうせ茶を飲むならコーヒーより紅茶の方が好きですねえ僕は。苦くないし」
「…………」
「? マキアスさん?」
どこか楽しげだった雰囲気は消え去り、急に無言になる。カップがソーサーと触れ合いカチャリと音を立て、
「……君も、身分を偽っているのか?」
と言った。
「……はい?」
「君も実は貴族なんじゃないかと聞いているのだ。レイヴェル・オルランド」
真剣な面持ちで、むしろ睨んでいると言う方が近い表情で、いきなりそんなことを言い出した。
……突っ込み待ちなのだろうか?
「全然違いますけど……何がどうなるとそうなるんですか?」
「別に。どこかの平民を偽った貴族に気付かなかった時に、貴族らしく紅茶党だったことを聞いてね。日曜学校にも行かず、家庭教師をつける君もどうかと思っただけさ」
「…………」
そういえば、と貴族であることをカミングアウトしたせいで、前よりさらにギスギス感が増していた最近のⅦ組事情を思い出す。
あ、先月に引き続いてまたリィンさん絡みで絡まれてるのかこれ。
「紅茶は好みだし、裕福な家庭なら家庭教師も珍しくないでしょう。それに日曜学校に通うのは貴族も平民も自由なはずです。教師つけてるなら教会も何も言いに来ませんから」
「どうだか……」
「大体マキアスさん。落ち着いて考えてみてくださいよ。僕みたいなやつが、本当に、貴族に見えるんですか? 一体どのあたりを指せばそんな――ってああ、髪ですね。なるほど、それなら勘違いしても仕方ありません。ふふん、誰もが羨む髪。貴族さえ嫉妬する髪。確かにこの赤毛は控え目に言って皇族並みと言っ――」
「そうだな。すまないレイヴェル、今のは僕の完全な言いがかりだった」
「撤回するの早すぎません!?」
サラリと髪をかきあげたところでぶった切られた。
納得いかない。
知らない人からいきなり髪を嗅がせてくれとミラを渡されたこともある美しさだと言うのに。
「……まあ、人には色々ありますし、無理に仲良くする必要はないと僕は思いますけど、せめて上部だけは合わせるくらいしてくださいよ」
「ふん、できるわけないだろう。合わせてやろうとしても向こうがこっちを見下しているんだからな」
「ユーシスさんはそんなテンプレ貴族じゃあないと思いますが」
一見クールでハンサムな一匹狼で、常に自信満々な感じで、口を開けば傲岸不遜、堂々と肩で風を切るように歩く人――と、なんかもう貴族感溢れまくりなのだけれど、だからと言って悪い人でもないのだ。
今日だって導力端末の授業でリィンさんがⅠ組の……なんだっけ、なんか幅を利かせてる……ハイ、ハイ……ハーイアムズ? というユーシスさん並みに偉い貴族の人に絡まれているのを助けていたし、先月の実習で実家が迷惑をかけたと謝罪のようなモノ(決して謝罪ではなかった)を僕もされた。あとその際に何気なくわからなかった箇所を教えてくれた。
「貴族なんてみんな同じだ。息をするように弱者を踏みにじる……虐げられる者の痛みを何一つわかっちゃいないんだ……!」
「そ、そうですか……。でもリィンさんは違うでしょう」
「貴族云々の前に嘘をつく人間は信用できない」
「…………」
め、めんどくさい……。
絶対貴族がネックになってるよねそれ……。
はあ、とため息を一つ。
マキアスさんの貴族嫌いはなかなかに根が深いようだった。
正直、この二人の対立は既に見過ごせないレベルになっている。
先月の特別実習すら協力できず、破綻しかかっていたらしいのだから、フィー達としては、たまったものではなかっただろう(二日ぶりに会った彼女は明確な苛立ちすら見せた。珍しかった)。
そこにリィンさんも巻き込まれる形になっているのが現状である。気にせず不干渉を貫いていた僕としてもいい加減、口を挟みたくなってくるというモノだ。サラさんの性格的に次の特別実習がどうなるのかという意味で。
しかしまあ。
マキアスさんがここまで頑なに協調性を無にするとは思わなかった。
僕ですら上辺を取り繕うことはできるというのに、真面目さで言えば僕の上を行くであろう副委員長が、周りを振り回す事すら厭わないとは思いもよらなかった。規律は守るべきと僕と同じ考えだろうに。
なんだろう、貴族に兄でも殺されたのだろうか。それなら気持ちはわかる。皆殺しだ。
「はあああ~~……」
「おい君。行儀が悪いぞ」
間延びした大きなため息を一つ。テーブルに突っ伏す僕を見てマキアスさんが眉をひそめる。
なあんでこんなに他人の事考えてんだろ僕。
特別でもないのに。
いやそりゃ僕と特別なフィーに降りかかる火の粉を事前に払うためと考えれば何もおかしくはないのだけれど――
「隊の不和は生存率に直結するからなあ……」
「ん? 何か言ったか?」
「なんでもありません……」
一蓮托生(大袈裟にあらず)のⅦ組という隊でなければ、とっくに匙を投げている。それどころか斧を投げている。
頭を悩ませるのは結局のところ、僕が僕であるからだった。